2020年12月27日日曜日

弾き合い会 終了

 きのう、今年最後のレッスンがあった。

 今年最後ということは自動的に弾き合い会前の最後ということにもなるのだが、そこでスタジオの奥さんからお花をいただいた。弾き合い会に来てくださる予定だったらしいのだが、それが行けなくなったので、ということだった。ありがたいことだ。実際に会場で聴いてくださるよりも、聴きに行こうというお気持ちがあって、心の耳で聴いてくだされば、きっと素晴らしい演奏が聴けると思う。

 会場は公民館。「大会議室」という部屋でステージはない。凝った照明もなく、ピアノはアップライト。こじんまりとした会場だ。参加者も9人だし、いつもの発表会のように肩に力が入ることもない…はず。だから、

いや、はっぱり本番は緊張するから、
いつもは出来ているんだけど上手くいかなかったよ。

なんていう言い訳は通じるはずもなく、上手くいかないのは日頃の精進のせいと認めざるを得ない。

 ソロの演奏をされる方は少なく、アンサンブルが中心。本番は30分ほどだけだったが、リハーサルにはずいぶん長い時間をとっていただいている。私の場合は、ピアノ合わせが初めてなので、何回か繰り返し30分ほど練習をさせていただいた。たぶん、その時の演奏がいちばん良かったのではないかと思う。リハーサルといっても、既にほかの方もお越しになって聴いておられるので、本番と変わりはない。本番は、リハーサルの時の演奏を覚えておいていただいて、心の耳で……

 全体的に、いつもの発表会よりも和気あいあいとした雰囲気だった。春の時は超絶上手な子供たちもいたが、今回は、

そこそこに楽しんでいます

というレイトスターターばかり。客観的に見て自分の演奏のレベルはそれほど高くは評価できないけれど、いつものレッスンとは違う「ハレ」の一日を楽しく過ごせた。

2020年12月19日土曜日

確率2分の1

 弾きあい会前のレッスンが終わっていく。
 ソロのレッスンはこれが最後。
 アンサンブルは前日が最後で、当日はリハ。
 それと当日にピアノ合わせがみっちり40分。ただ、このピアノ合わせの時間は他の方のリハがあるので先生はおられない。

およよ

ということは、ソロの曲はすっかり出来上がっていないといけないのだが、ちゃんと弾けるのは2回に1回ぐらい。確率1/2。いままでの経験で言うと、本番前のリハーサルが最高の演奏で、本番はうまく弾けたためしがない。リハーサルはいいから、本番に最高なのを取っておきたいところなのだが。

 この期に及んでも、いつもだいたい失敗するところが克服できていない。なんとか誤魔化せればいちおう「成功」の方にカウントしているのだが、それも2回に1回。そのうえ、今日のレッスンでは、普段は間違わないようなところまで魔が差してしまう。

 先生曰く。
 2回弾いてみて、1回目より2回目の方が良く弾けた、と実感できるとよいんですが。

 うむ。これはなかなか的を射ている。もしそうなら、練習すればするほどレベルが上がっていく。1回目50点、2回目60点、3回目65点とかだったら、次の練習の時は、1回目55点、2回目65点、3回目70点…と少しずつでも良い方向に進んでいくはずだ。ところが、このところ繰り返し練習すればするほど雑になる癖がついてしまっている。1回目50点だと、2回目は35点ぐらい。35点ではさすがにもう一度弾こうとも思わないので、しばらく別のことをして、1時間ぐらいしてから思い出したように弾いたり、弾かなかったり。

 いや、これじゃ上達しないよね。

 上手くいかないときは音階練習でもなんでもやって気分転換…できるといいのだが。


2020年12月10日木曜日

思案中

 弾きあい会に向けて、弦を換えるかどうか思案中。ついでに弓毛も。

 発表会とか演奏会とか、「本番」といえるようなイベントがある年は、その本番の1ヶ月ぐらい前に弦を換えたり弓毛を換えたりしている。素人の個人的な感覚だが、弦も弓毛も、使いだしてから1ヶ月ぐらいしたところがピークのような気がする。最初のうちはまだなんだか馴染んでいないような感じがするものだ。それを思うとそろそろ換え時なのだが、というか換えるならいまが最後ぐらいの時期なのだが。

 このブログの熱心な読者(がいたとしての話だが)はご存知の通り、今年の4月から8月にかけては、とにかく弦が切れたの交換したの、弦を買うのに金欠になっているだのといった記事ばかりをアップしていたが、これはPASSINEという弦が切れやすいのに違いないから、もう次に切れたら全換えしようと、EvahPirazziを4本買って、いつでも換えられるようにケースに入れておくようにしてから切れることはなくなった。
えっ❕ なんだろう❓
いままであんなに頻繁に切れていたのに。なにか魔力のようなものが作用しているのか。そういえばケースの模様はどこか呪術的だ。いやま、雨ばっかり降っていた梅雨の所為かもしれないのだが。

 そんなわけで、交換するとすれば既に弦はあるのだが、しかし、交換直後にまた数ヶ月前のような切れ切れ地獄が始まってしまったらどうしよう、なんて思うと躊躇してしまう。
さぁ、きょうは弾きあい会💛
とか思ってケースを開けたら
切れてるじゃん💦
なんてのは勘弁してほしいからな~。

2020年11月23日月曜日

弾きあい会

 来月に弾きあい会をすることになった。

 レッスンを見ていただいている先生はご自宅でもレッスンをされているようで、大勢のお弟子さんがおられる。そして割と軽く「弾きあい会」をされるようだ。前回は今年3月。そして今回は12月だから、1年も経っていない。前回は小学校の行動ぐらいの広さの場所で舞台もあったが、今回は公民館でやるようだ。スポットライトとかそういうのはなさそうな感じ。参加する方としても「発表会」より軽い感じなのだが、果たしてそういう気持ちで良いのかどうか…。

 ともあれ、あと1ヶ月ほど、レッスンもあと3回で「本番」になる。

 ソロで弾くのは、ずっとこれまで見ていただいていた曲だ。ピアノ伴奏が付く。最近は2回に1回ぐらいはちゃんと通せるようになって、通せない場合でも誤魔化せるようになってきた。ま、止まってしまうことはないだろう。退屈させることとか、よくこれで人前で弾くなぁと思われるとか、そういうことは大いにあると思うが。これって、いちおうここで弾いたら「完成」ということになるのだろうか。それとも、いまこういう曲をやっていてとりあえずこれぐらい弾けるようになりました、っていうことで、まだ続きがあるのだろうか。

 アンサンブルの方は、ひとつは前回3月にも弾いた2曲。ドボルザークとバッハ。バッハの「主よ」はもうお馴染みなのだが、3人で弾いているとたまに拍が合わなくなる。事故が起こらなければよいか。ドボルザークは音程に苦しむ。イ長調で3指のうちC,G,Dの3弦が半音高くなっているうえに、セカンドポジションが多用されていて、とにかく音程が取りにくい。一人で練習しているときはチューナー見ながら、半音もずれたらちょっと戻ってやり直しとかができるのだが、いくら弾きあい会でも本番はそういう訳にはいくまい。

 それと、これもアンサンブルレッスンでこの数ヶ月ずっと見ていただいている、メヌエットの小曲ばかり24曲もあるやつだが、その中から2曲ほど選んで弾くことになった。クリスマスも終わり年末も押し迫った時期なのだが、弾いてみるとなんとなくクリスマスっぽく聞こえなくもないのが不思議なものだ。

 そんなわけで、しばらくは本番前モードだな。

2020年11月8日日曜日

半音は狭く

  ヴァイオリンを弾いている人には当たり前のことかもしれないが、半音を大きくとりすぎると音程が崩れる。今回のレッスンはだいぶそこをいじられた。

 いつもいつも同じ曲ばかり弾いていると、何となくそれらしくは弾けてくる。テンポもそこそこ。ま、YouTubeにアップされている演奏みたいな剛速球ではないが、そこそこの快速で、たまにミスっても何とか戻れたりもする。だけど中身は結構グタグタだったりする。それで今回はゆっくり弾いたところを見てもらった。そこで言われたのが
半音はもっと狭く
ヴィオラだからヴァイオリンよりは広いので、私の武骨な指でも普通に押さえればいいか、と思っていたのだが、ファーストポジションから「もっと2指と3指をくっつけて」というご指導が入る。ハイポジションになればなおさらで、当然ながら指を入れ替えないといけない。半音のところでポジション移動するようなところもあるのだが、そこも移動しすぎ。ほんの少し移動するだけでよい。特に下降音階のときに例えばニ長調のソと#ファが離れすぎる。反対に、C線3指の#ファとか、D線3指の#ドとかはもっと2指と離して。いや、これは前から意識はしているのだが、なにせヴィオラは竿も広いしその分C線は遠い。その3指をもっと遠くへ、というのはフィジカルがなかなかついてこない。しかしプログラムにそんな言い訳を書くわけにもいかないので、これは仕方がない。
 ただ、何度も何度も繰り返し、その指が届ききらない#ファの音を聴いていると、自分の中でその音が正しい#ファのように思えてくる。純正律でも平均律でもないオレオレ律が出来上がってしまって、それがハイポジションのところでも、なんとなくその音が合っているように思って#ファだか♮ファなのか判然としない音を弾いているのかもしれない。

そっか。指ではなくて耳の問題か。

それって結構、深刻かも。

2020年10月25日日曜日

ヘ長調は水色

  アンサンブルのレッスンでは、ここしばらく、Friedrich Schwindlという作曲家(じつは発音もよくわからないのだけれど)のメヌエットを見ていただいている。16小節ほどの短い曲24曲から構成されているものだ。ト長調やニ長調が多いのだが、たまにイ長調やヘ長調もでてくる。

 もともとは、ヴァイオリン2声とベースなのだが、ベースのところをヴィオラに代えて弾いている。だからヴィオラは通奏低音で、四分音符が延々と続くフレーズが多い。ト長調だと、ソやレが多くて、ソソソソシレソレソみたな…、ニ長調だったらレとかラとかで、レレレレ#ファラレみたいな…、だいたいそんなフレーズが多くて、ちゃんと楽譜が読めなくても、その辺の音を出しておけばだいたい大丈夫。ところが、それ以外の調になるとよく出てくる音が変わってちょっと戸惑う。

 ヴィオラだけを弾いていると分からないのだが、実際にアンサンブルで合わせてみると、不思議なことに、調性が変わると曲想も変わる。ヘ長調の曲が出てきたときに、
わ~、なんか柔らかい
なんてことを思った。先生によると、ヘ長調は水色なんだそうだ。ト長調は赤、ニ長調はオレンジ、と次々に色のイメージを仰る。ト長調の明るいイメージが赤という感じで、ニ長調のキラキラした感じがオレンジなんだそうだ。

 確かにト長調は明るい感じがする。時には崇高なイメージのときもある。ニ長調は確かにキラキラした感じ。ハ長調は元気な感じ。短調でも、イ短調は悲しい、ニ短調は何だか深刻な感じがする。

 しかし、正直に言うと色のイメージはなかった。うちの先生だけでなく、音楽をやっている人は音から色が見えてくるようなのだが、私の場合、明るいのが赤でキラキラしているのがオレンジ、柔らかいのが水色、というのはいまひとつピンとこない。強いて曲想を色で表そうとすると、クラスの人気者でリーダー的なのが赤、スポーツ系のクラブに入って元気なのがオレンジ、おっとりしているのが黄色、生徒会長が水色で図書委員が緑、などという、ひと昔前のプリキュアのイメージしか出てこないのだが。

 

  たぶんだけど、それぞれの調性で、主音のひとつ上が上主音、その上が中音、そのあと下属音,属音,下中音,導音ときて、また主音というのがそれぞれあるのだけど、弦楽器だと、よく響く音とあまり響かない音があって、この7つの音のうちどれがより響きやすいかによって、その調性の曲想が決まるんだと思う。なんかこれ、深みにはまって行きそうだし、何処まで行っても理解不能のような気がするので、先生が仰る通り、ト長調は赤ということにしておこう。

2020年10月14日水曜日

本物の情熱大陸

 葉加瀬太郎のライブに行ってきた。ちょっと興奮気味。

 いやきっと情熱大陸だけは別格なんだ。みんなそれを聴きに来ている。これがなかったら、最後まで変身しないプリキュアみたいな、チャンバラの後で印籠を見せるシーンのない水戸黄門みたいな、いやとにかく最後はこうなるってわかっていても、それを見ないと気が済まない。そしてそれを見るために毎週見てしまうみたいな、そんな感じがする。

 それまでは座って聴いていた観客が一斉に立ち上がって手拍子をしたり手を振ったりする。どうやらいつもはここで「はかセンス」というセンスを振るらしいのだが、今回はそれはなしだった。それにしても、みんなが立ち上がり手拍子を打つというその集団行動が、気持ちを興奮させ、非日常の世界への誘う。これこそライブというものだろう。

 情熱大陸の前まではみんな座って聴いている。演出は派手だ。いきものがかりとかゆずとか、もしかしたら米津玄師とかのライブもこんな感じなのかもしれない。それを座って聴く感じ。そういうポップスの「ライブ感」のうち半分は、集団行動を通じて得られる会場の一体感だと思うのだが、そういう意味では、最初のうちはちょっと物足りない。確かに目の前で生身の人間が演奏している、という「ライブ感」はあるのだが。それに、オーケストラのコンサートだとかヴァイオリンのリサイタルだと、アコースティックの楽器が目の前で演奏され、それをマイクを通さずに生で聴くという「ライブ感」もあるが、伴奏の音がキーボードなんかで作られていると、なんとなく機械で再生されているような感じで、しかも演出的にも派手にしようとすると、どうしてもマイクを通して音量を大きくしないといけないので、そこの「ライブ感」も薄れてしまう。

 それが終盤になって「冷静と情熱のあいだ」が演奏されると、急にステージが近くなったように感じられる。みんながそう思ったがどうか分からないが、その曲を境に急に臨場感が増してきた。次の曲は洋楽の名曲のディスコアレンジ。ここで初めて手拍子が促され、その手拍子が打ち鳴らされているままに情熱大陸へと流れ込む(たしかにあの曲が「冷静と情熱のあいだ」だったんだ)。

 客を飽きさせない軽妙なトークはさすが関西人。会場のフェスティバルホールは、葉加瀬太郎が初めてお小遣いでチケットをかってコンサートを聴きに来たホールらしい。改築前のホールだけれど、「いちばん前のこの席です」なんてことも言っていた。オフィシャルYouTubeチャンネルの再生数をどうのこうのという話もあったので、ここに貼り付けておく。

 なんでも、同じアカウントから何度アクセスしても、アクセス数にはカウントされないらしい。ここに貼り付けている新しい動画は、ライブが始まる前は4,000回しか再生されていなかったのだが、ライブに来た人がみんな見れば千とか二千とか増えるので、どれだけ増えたかチェックするということだった。このページからのアクセスが多いと良いのだが。

2020年10月10日土曜日

GoToライブ

 葉加瀬太郎を聴きに行く!

 いままでは、興味はあるんだけど、結構、値も張るしなぁ、って感じだったし、どうしようかなぁ、なんて思っているうちに売り切れてしまうのが常だったのだが、コロナの所為なのだろうか、4日前でもまだチケットがある。新聞にも何度も広告が掲載されているみたいだし、そうだ、そうだ、このコロナ禍の中でコンサートをするんだから、これは行かなければ、なんて使命感みたいなものもあって、ネットで
ポチッ
と。

 あ、まだ会社、休み取っていなかった。

 ともあれ、なんでも初めての経験は結構ドキドキする。

 このコロナ禍で音楽家と言われる人はそうとう苦労しているに違いない。葉加瀬太郎のチケットが4日前に購入できるぐらいなのだ。GoToライブとか、GoToレッスンとかで、半額ポイント還元してくれたら、もっといろんな人が助かると思うんだけど。。
こういう類いの話は冗談半分で書いていたら実際に実現してしまいかねないので、いちおう「冗談です」と断っておきます。


2020年9月21日月曜日

いつもの曲に味付けを

  ヴィオラのために書かれた曲というのはとにかく少なくて、発表会のネタには困ってしまう。ヴァイオリンやチェロのための曲をアレンジしたりとか、いろいろとはやってみるのだが、純粋にヴィオラのために書かれたクラシック音楽で発表会向けの曲と言えば、前回やったテレマンか、曰く付きのこの曲ぐらいしかない。

 
 それで、次回の発表会はこの曲と決めて練習してきたのだが、果たしてこれが発表会映えするのかというと、なかなか心許ない。この動画で演奏している人は相当上手だし、ハイスピードで「聴かせる」演奏だと思うけれど、みんなを退屈させないとか、素人受けするとか、そういう観点で見た時にどうだろう。うちのスタジオの発表会で、たとえばみんなの発表が終わったあとの「お手本演奏」で先生がこれを弾いたとして、そりゃ私はただただ「わー」と憧憬の眼差しを送ることだろうけれど、他の楽器をされている方が最後まで退屈せずに聴けるものだろうか、などと思ってしまう。ただただ奏者の技巧を見せびらかすための曲になってしまっていないか。ヴィオラを弾いていて楽しいという気持ちだとか、満たされている思いのようなものが伝わっていくのか。いまさらながらそんなことを考えて、いまさらながら強弱だとかなんだとか、ちょっと悪足搔きをしてみる。
 それもただ単に強弱をつけるだけだったら、やっぱり技巧の披露にしかならない。
 それで、ちょっとお話を考えてみた。

 ヨーロッパのとある国。
 長年この地域を治めてきた領主の世継ぎが流行り病で早逝し、隣国から王子を招いて姫の婿養子とし、王家を継ぐこととなった。ここまでがイントロのピアノ演奏。
 王となった隣国の王子が臣民の前で演説をする。これが最初のソロの部分。ここは朗々とデタッシェで。35秒ぐらいからのソロは、その演説を聞いた人々のささやき。不安を感じる者は小さな声で、期待をする者は大きな声で、口々に自分の思うところを言う。

 とまあ、こんな調子で最後までお話を作って、まるでそのお話を聞かせるように弾いてみたい。うまくいけばいいのだが、話の細部にこだわりすぎでも、別に歌詞が付いているものではないので、やはり聴いている人には伝わらない。王子様が「流行り病対策の名目でお前たち全員に10万円を配ってやるから、次の選挙のときにどうしたらいいかわかっているだろうな」といっているのか、「この国を豊かにするために、旅費の半分は国が出すから、お前たちは旅に出ろ。流行り病なんて気にするな。」といっているのか、それに対して人々が何を口々に言っているのか、演奏を聴いて「そうか」と思う人はいないと思う。
 それでもいいんだ。
 自分で「この曲はこんなお話の曲」って思って弾いてみることが、聴いている人を退屈から救い出すかもしれない。ユーモレスクに歌詞を付けて演奏させる先生もいるそうだから、大きく間違ってはいないと思うのだが。

 

2020年9月6日日曜日

コロナ禍の中でも

  レッスンがしばらく中断になったり、発表会開催の目途が立たなかったりと、バヨライフには風当たりの強い昨今だが、ちょっといい話もあった。いぜん、ステージに載せていただいたこともあるアマチュア弦楽アンサンブルの定期演奏会が今年も行われるそうだ。いつもより少し遅い時期で、定員100人の予約制とのことだが、こんな状況の中でも練習を続けてこられたことが素晴らしいと思う。早速FACEBOOKで「行きます」宣言。これでいちおう予約になるのかな。

 不要不急の外出は控えましょう、なんてことをいう一方で、不要不急の旅行を促すキャンペーンをやってみたり、7月から8月にかけての状況が第二波なのかどうかなんて判断が政治的に曲げられたり、テレビはいつも恐怖を煽って視聴率を稼いでいるようにしか見えないし、いったい何を信じればいいの? そもそも「不要か」「不急か」って誰が決めるの?

 思えば、ここのアンサンブルの練習に通えなくなったのも、くだんの「働き方改革法」の所為。練習のある木曜日に毎週1時間の時間休をもらって早帰りしていたのに、「働き方改革法」ができて有給休暇を一日単位か半日単位で5日間取得することが(正確には「取得させること」が)「義務」になったから、1時間単位の休暇が取りにくくなってしまった。どうも「おかみ」の決めることには振り回されっぱなしだ。

 そんな中で、たぶん、保健所だとかいろんなところと調整して、こうして定期演奏会の開催にまで漕ぎつけられたここのアンサンブルの努力は尊敬と称賛に値する。私のように、ダメと言われれば「はいそうですか」と家に閉じこもってただ大人しくしているように見せかけて、長いものに巻かれていることは、自分もその長いものの一部になって他の人を巻き込んでいることと変わりない。

2020年8月23日日曜日

コロナがなければ

 そうそう。今年はコロナで何もかもがいつもと違う。

 確かに感染者(というか検査をして陽性になる人)は増えているのだけれど、病気にかかることが恐ろしい、というより、病気にかかったときの世間からの風当たりが怖くて何もできない。軽い気持ちで検査なんて受けて、もし陽性になったら、周りの人間がみんな検査を受けなくてはならないようになって、たぶん検査を受けたら結構な人数の陽性者がでて、実際は誰がいちばん最初に感染したかなんてわからないのだけれど、最初に検査を受けて陽性になった人が悪者扱いされて、体調はどこもわるくないのにどっかに隔離され、社会から断絶されている間に根拠のない噂を流され、ネットでは個人情報を晒されて、たぶんこのブログなんかも憎悪のターゲットとなり、退院しても社会復帰ができなくなってしまう。おそらく余程注意していても感染するリスクからは逃れられないのに、マスコミからも政府からも、ぜったいに感染しないようにしましょう、なんてメッセージが垂れ流されているから、まるで感染したら注意が足りなかったような扱いになってしまう。いや、確かに恐ろしい病気だ。

 と、つい前置きが長くなってしまったが、もしこんな騒ぎがなければ、この週末は2年に一度の発表会があっただろう。今年は、毎年やっている子供の発表会もなくなって、来年の春にできるかどうか、なんて話になっている。スタジオで気にされているのも、たぶん、受講生が感染しないように、などということよりも、受講生の中に陽性者が出た時の風評とか、そういうことではないかと思う。それを思うと、無理なお願いもできない。レッスンをしていただくだけでもありがたいことだ。

 ところで、発表会で弾く予定だった曲の完成度はどうか。

 これが、まだとても人前で弾けるようなレベルにはなっていない。3回弾けば、1回は間違いなく通せるといったレベル。レッスンでは、表現に関するような課題もちょっと言われたりするのだけれど、いや、この演奏を延々と聞かされたら興ざめるだろうなぁ、と思う。正直に言って、あまり面白みもない曲だ。

 このまま、あるかないか分からない来年春の発表会を目指して、この曲の練習を続けるべきか。ちょっと迷い中。

2020年8月9日日曜日

さよならPassine

  写真を見て、ブログのネタ作りのためにわざと弦を切っているのではないかと思われた御仁もいるかもしれないが(いや、いないか)、けっしてそういう訳ではない。しかし、もうここまでくると、おなじPassineの替え弦を買おうという気にはなれない。

 そんなわけで、また以前のEvah Pirazziに回帰。こっちは、なにせ、弦がへたりきって「ため」と「こぶし」だらけになってしまっても切れなかったという実績がある。切れないからと言って2年も使っちゃダメだということはよくわかったが、1ヶ月もしないうちに切れる弦は、もう使わないかな。音は良かったので残念だけど。

 いちおう、Evah Pirazziを全弦買っておいて、次に切れたら全弦交換する。それまでは、まだPassineとお付き合いだ。


2020年8月1日土曜日

だいぶ弾けるようになったので

 いつもいつも同じ曲ばかり弾いていたら、そりゃそこそこには弾けるようになってくる。思えばいままでずっとこれでやってきた。そして発表会が終わってしばらくその曲を弾かないとまた弾けなくなってしまう。これの繰り返し。

 ま、いいさ。

 しかしまあ、そこそこには弾けるようになってきたので、表現にちょっと注文が付く。例えば、16分音符が並んでいる中に8分音符が出てきたら、テヌートスタッカートで弾むように、とか、下降音階や上昇音階が同じパターンで続くところは、途中で息が切れないように、むしろ最後の方でクレッシェンドを掛けて、パターンが変わったところの最初の音にその前のフレーズを全部つないでいくようなつもりで、だとか。

とにかく左手の指をくるくる回して音階をとるのが精一杯で、全体的に
ベターーッ
とした感じになりがちなのだが、もっと何かこう、どう聴かせたい、とかそういうことを意識して弾け、ということなのだと思う。

 別の曲も見てもらったのだけれど、聞き覚えで弾くのではなくて、ちゃんと楽譜を読んで弾く、なんてこともいわれた。楽譜を見れば、そこにどう弾けばいいかが書いてある。楽譜入力ソフトに入力して、MIDIで音を出せば同じように聞こえる旋律でも、記譜が違えば意図も違う。8分音符の旗が3つ繋がっていれば、その3つを3連符のように、分かれていればひとつづつ分けて、なんてことなんだと思う。

 こういうのはもともと好きな方なので、スイッチが入るととことん追求してしまうのだが、はたしてスイッチは入るのか。

2020年7月24日金曜日

弦楽器のメンテナンス いろいろ

  この数ヶ月の間に、弓毛の交換、数回にわたる弦の交換、松脂のメンテなど、楽器のメンテナンスに随分、手間と費用を掛けてきた。どれも必要に迫られてやっているのだが、やってみていろいろ分かったことがある。
 ひとことでいうと
 メンテナンスはだいじ
ということに尽きるのだが、どう大事なのかが身をもって分かった。素人が勝手にそう思っているだけなので、実は違うぞ! ということもあるかもしれないが、きちんとメンテナンスしていない楽器だと、たぶん変な癖がついてしまうと思う。

 もともと弾いていて、なんか弾き難さを感じていたのだが、実際に弾いた音を録音してみると、演歌のような「ため」と「こぶし」が気になる。先生曰く、「長い音を、最初から最後まで同じ音量、同じ音色で弾くのはなかなか難しい。」 改めてロングトーンの練習なんかをしてみるのだが、弓を返す時にグッと圧を掛けないと最初の音が出ない感じ。それを何とかしようと松脂を塗りたくっているせいか、常にギロギロとした音になる。

 弓毛を換えて、弦を換えて、まったく別の楽器のように軽快に音が出るようになったのだが、まだ何となく弦の上で弓が滑るような感じがする。あとは松脂か、とおもって、使い込んで表面がざらざらになった松脂をライターで炙り、新品のような琥珀色半透明の滑らかな表面にして塗ってみると、最初はあまり違いが分からなかったけれど、そのうちに、いい感じに引っ掛かるようになってきた。

 そして何度も弦が切れて、何度も交換すると、なんとなく交換前と交換直後の弾き心地の違いが分かってくる。交換してすぐのときは弦の上で弓が滑る。松脂をしっかり塗って弾き続けているうちに、だんだんと引っ掛かりがよくなってきた。

 それでたぶんこうなんじゃないかなと思ったのだけど、弓毛に塗った松脂は、弾いているうちに弦の表面に擦りつけられて、それが摩擦の熱でいい感じに変質して、上手い具合に弦をコーティングし、そこにまだキューティクルが鱗のようにしっかりついている馬の尻尾に、琥珀色の松脂を塗って擦ることで、いい具合に音が出るのではないか。この弦の表面のコーティングの具合がポイントのような気がする。弾いた後でどれだけ丁寧に松脂を拭き取っても、弾き込んでいるうちにだんだんコーティングが厚くなり、本来の弦と弓毛が接しなくなってしまう。だけどコーティングがないのも駄目で、この塩梅がちょうどいいときが最高の音になるのではないか。

 弦は、交換した直後はチューニングが難しく、いっかい合わせてもすぐに伸びてしって音程が下がる。交換から1週間ほどが経って、やっとそれもマシになってきて、練習の初めにチューニングすればその日はあまり目立って下がらないようになった。それでいつものようにロングトーンの練習をしてみるのだが、これが殊の外いい感じに弓を返すことができる。
これ、これ、この感じ
たぶん、弦は交換してから1週間とか10日目ぐらいが最高にいいような気がする。2日に1回ぐらいのペースで、1回1時間とかの練習時間だったら、という前提だけど。毎日何時間も弾く人なら、最初の日のうちに弦の表面に上手く松脂がコーティングされるのかもしれない。弓毛も最初は松脂の乗りがわるいというから、もし発表会とかのためにメンテするんだったら、1ヶ月前に弓毛の交換、その1週間後に弦の交換、その後1週間はチューニングとかに苦労して、そのあと2週間はベストコンディションで最後の仕上げ、なんて感じかな、なんてことを思った。
 もちろん、メンテナンスのわるい楽器で練習すると変な癖が付くので、そうなる前に弓毛も弦も交換しないといけない。発表会が2年に1回だからといって、2年に1回、発表会前にメンテナンスするというのはちょっと駄目かも。

2020年7月16日木曜日

ぜったい、なにかおかしい。

 A線が切れてしまって、仕方なくG線上のアリアとか、本当なら1ポジだけで弾けるはずの簡単な曲をD線でポジション上げてとか、なんだか消化不良なレッスンを受けて、注文していた替え弦が来るのを待つ。水曜日に黒猫さんが届けてくれた。
相変わらず早い💖。
 さっそく~、と言いたいところだが、水曜日はリアル出勤&残業で張り替えもできず、本日木曜日に。今日は在宅勤務なのだが、はやる気持ちを抑え、お昼ご飯を食べた後に弦を張り替え、定時までは仕事に勤しむ。
 すると突然


 バン💥


 と、独特の爆発音。普通の爆発音はいろんな周波数の音が混じり合った不協和音なのだが、いま聞いた音はどこか和声を感じさせる。「ファーン」と余韻を残すような、いままで聞いたことのない、いやどこかで聞いたことのあるような、とにかく独特の音だった。驚いて音がした方を見てみると、そこにはさっき弦を替えたばかりのヴィオラが。
 
一瞬、いま張り替えたばかりの弦がいちども音を出さないうちにまた切れたのかと思ったが、いやいやよく見ると、テールピースに嵌めているポールが外れている。さっき張り替えた時にちゃんと嵌まっていなかったのか。まぁでもよかった。あとでもう一度張り替えればいいさ、と思って仕事を続ける。

 するともう一度、

 バン💥

 やれやれ、張り替えのときにテールピースをどうかしてしまったのだろうか。気にはなるのだが今は仕事中。在宅勤務だからといって勤務時間中に私事を挟むことは出来ない。

 仕事が終わったので、やれやれもう一度張り直しか、とヴィオラを見てみると、ポールが外れたのはお昼に張り替えたA線ではなく、C線とG線だ。反対側から見ていたので勘違いしていた。いったい何故外れたんだろう。よく見ると糸巻き箱の中で弦が緩んでいる。それをみて、ペグが回ったのかと思ったのだが、さらよく見ると弦の一部が伸びている。要するに切れたのだ。

 なぜ1時間のうちに2本も。
 それも切れにくいはずの太い弦が。
 そして値段の高い方の弦が。
 
 ネットで弦の張り方を調べてみると、ナットと駒についている溝のところに鉛筆で色を塗って弦を滑りやすくする、なんてことが書いてあった。いままでそんなことはしたことがない。それが原因か。それとも長引く梅雨の湿気の所為か。梅雨はどうしようもないが、とにかくできることはやっておこう。芯の柔らかい鉛筆を持ってきて溝の上に芯を擦りつける。これで滑りやすくなるのか。

 それにしてもこれはおかしい。
 先週切れたA線は2本買ったので、あと1本予備がある。D線も切れていないので1本予備がある。G線とD線は予備に張り替えたので、次に切れると予備はない。

 こうなったら、弦の種類を変えてみようか。
 ちょっと思案のしどころか。
 

2020年7月10日金曜日

3カ月連続の悲劇

 熱心な読者諸兄(そんな人がいるのかどうか知らないが)には既視感のある画像だと思うが、また弦を切ってしまった。

 4月に、それまで2年以上使っていた弦が、さすがに劣化してしまって、ちゃんとした音が鳴らなくなったので交換。良く鳴るようになった。たまたまコロナ騒ぎと重なって、職場は閉鎖。在宅勤務で通勤時間がなくなった分、練習時間が確保できた。人生上り坂ふふふーん♪
 ところが1ヶ月もしないうちにA線が切れる。これ、もしかして下り坂? しかしそんなこともある。やっぱり予備の弦は常に持っておかないと、と前月に張り替えたのと同じ弦を1セット買い増し。そのときA線だけは2本買っておいた。
 ところが、また1ヶ月ほどでA線が切れてしまった。やはり予備の弦は持っておくべきだ。2本買っておいてよかった。前月は切れてから注文したので、3日ほど(それでもよくぞこんなにすぐに届けてもらったものだが)A線なしの練習を強いられたが、今回は予備の弦があるのですぐに交換。練習時間のロスを最小限にできた。
 ところが、前回の交換からまだ半年ほどしかたっていないのに、また弦が切れてしまった。
♪そーおーね人生は・・・まさか~♪
 ↑ 伝わる人には伝わるんじゃないですか?

 明日はレッスン。
 仕方がないのでG線上のアリアを診てもらおうか。

2020年6月20日土曜日

松脂を炙る


 ちゃんとした弦楽四重奏だとチェロが、ズンパッパ、というリズムを刻んでくれるのだが、いつものアンサンブルはヴァイオリン2本とヴィオラ。渡された曲はメヌエット。ヴィオラが「ズンパッパ」とリズムを取らないといけない。ところが、特にG線やC線になると、弓を動かしてから音が出始めるまでに、わずかに「フシュッ」と滑る感じがある。当然、頭の中で描いている通りのリズムにならない。同じような問題が、速いパッセージを弾くときにもあって、2音ずつのスラーなんかだと、最初の音が鳴らないうちに2音目だけが大きく響いてしまう。
 まだ弓毛も弦も交換したばかりだ。この交換でかなり良くはなったのだが、馴れというのはすごいのか、もう1ヶ月以上もこれで弾いていると、まるで前からこうだったように思えてきて、なおかつそれを道具の所為にしようという「何とかバイアス」というのが働く。といっても、弓を変えたり楽器を変えたりというのはたいへんだ。数千円以内で変えられるものといえば松脂ぐらいしかない。
 そういえば思い当たる節がないわけでもない。以前は、練習し終わったら駒の周りは松脂だらけだったし、丹念に松脂を塗ったあと弓をトントンと叩くと弓毛から粉が落ちたりしたものだが、最近はそういうことがない。しかし、松脂というのはいちど買えばなかなか減らない。落として割れたりということでもなければ買い替えるチャンスというのはそうは巡ってこない。当てにならないことの方が多いネット情報に当たってもみたが、松脂を変えて音が変わった、なんて記事もない。このコロナ禍の中ですっかり出不精となってしまった身には、隣町の楽器店までいって松脂を買うことがすっかり億劫になってしまっている。
 それでこんな仮説を立ててみた。

 松脂の表面が
 乾燥だとか酸化だとかによって
 劣化しているのではないか

 だとすれば、わざわざ新しい松脂を買わなくても、表面を何とかして、まだ劣化していない内側を使えばよい。
 例えば、真っ二つに割る、とか、表面を削る、とか。
 お出掛けするのはそれを試してからでもいい。
 実際にやったのは、松脂をライターで炙ること。ネットの情報によると、松脂の融点は摂氏70度。少し炙れば数秒で溶ける。このまま炙り続けると、溶けた松脂がぽたぽたと滴りそうなのだが、そこまではやらない。表面は、何度も弓毛にこすりつけているので、細かい傷がついてざらざらした状態だったのだが、いちど溶けて固まれば、ツルツルになって、琥珀色の半透明になる。この状態で少し冷ます。

 そしていよいよ使ってみる。
 いちど弓毛で表面をこすると、1時間ほど前のようにざらざらの状態に。いつもより丹念に塗って弾いてみる。
を!
弓と弦の接するところから粉が出ている。駒の周りが粉だらけだ。以前には良くあったのだが、最近はこういうことはなかった。
 では音は?
 圧倒的に弾きやすくなった、とは思えない。こんなに松脂を塗っているのに、やっぱり滑ることは滑る。
やはり道具の所為ではなかったのか(←そりゃそうだろ)

 しかし、このあと衝撃の出来事が起こる。

 1時間ほど練習をして、階下に降りると、娘がテレビを観ていた。練習で少し疲れたのでコーヒーでも飲もうかとお湯を沸かし始めると、娘がわざわざ「おとうさん、今日はいい音がしていた」という。おそらく「いつもの変な音と違って」という部分が省略されているのだが、それにしても、娘にヴィオラを褒められたのはこれが初めただ。

 みなさん。やはり道具はだいじですよ。道具は。
 道具の所為にするのは恥ずかしいことではありません。
 


2020年6月13日土曜日

レッスン再開後の第1回

 2ヵ月ぶりにレッスンがあった。玄関や事務室の扉が換気のために開け放たれていること、会場に消毒液が置いてあること、先生も私もマスクをしていることなどを除けば、いつものレッスンと同じ。オンラインレッスンとかじゃなくて、リアルレッスンだ。やはり、これはいい。
 ただ、今年、予定されていた発表会はことごとく中止か、延期という名の事実上の中止。先生が複数の教室で面倒をみられている生徒の発表会は、3月に予定されていたものが7月に延期され、結局7月もできずに来年3月に。これは毎年3月にされているそうなので、延期というより中止。しかし、今年3月には発表会代替の弾き合い会があったので、中止ではなく規模縮小と言えなくはない。スタジオの発表会は、子供は毎年、大人は2年に1回だったのだが、今年は中止。いつも8月なのだが、来年の3月とかにするかもしれない。子どもの生徒が減っているらしく、次は大人と子供をいっしょにしようと考えておられるようだ。発表の場がなくなるのは、大人でもモチベーションが下がってしまうのだが、子供ならなおさらだろう。夏の甲子園が中止になってガックリしながらも「ぼくたちは決められたことに従うだけです」なってことを言わされている球児も多いことだろうけど、それと同じ。衝撃の大きさや強さは主観なので比べようがないが。

 それで今日のレッスンの内容だが、新しく課題になったメヌエットを初めて見ていただく。これを発表会で弾くということではなく、アンサンブルの練習のために選曲されたようだ。私のパートはもともとチェロなのだが、チェロらしく"ズゥンズゥンズゥン"という音を出そうとして、メヌエットになっていなかった。先生が弾くと、ヴァイオリンでも"ズゥンタッタッ"というベースラインになる。それもちゃんとメヌエットだとわかるようなベースラインだ。そりゃそうだ。メヌエットなんだから。これはもう一度、練習のやりなおしだ。
 ヘンデルのヴィオラコンチェルトは、この間の練習の成果で「だいぶ練習されましたねぇ」と褒められた。それでも、高いポジションになると音程が乱れがち、移弦の忙しいところで他の弦を鳴らしがち、フレーズの変わり目で準備を怠りがち、弓を返したり移弦したりするところで滑りがち、とまあ、いろいろ問題はあるのだが。速く弾く練習ではなく、ゆっくりと弾いて、「がち」「がち」となっているところを丁寧に改善していくこと。曲を通すのではなく、特にできていないところを繰り返し練習すること。嗚呼、これいつも言われることだよな。「新しい生活スタイル」どころか、すっかりコロナ前に戻ってしまっている。これはいいのだかいけないのだか。

2020年6月6日土曜日

コロナと音大生

 緊急事態宣言が解除になって、学校も少しづつ始まった。教科書の2割は「授業外」で、なんてことも言われているが、子供が学校に通えるようになったことは明るいニュースだ。いま、この病気の特効薬やら検査薬やらワクチンやら、あるいは治療法やらを研究している人が世界中にいる。そういう人たちも以前は小学生だったわけで、運動会や遠足も経験していることだろうし、そこでうまくいったりいかなかったりしたことがその人の人格を作っていって、それがその人の「矜持」というか、いま自分はこれをしなければいけないといった使命感のようなものとか、それに対する誇りとか、そういうものを作り出していっているのだと思う。学校閉鎖によって教育を受ける機会が奪われることは、普段なら経験できることを経験できずに、普段なら得られる知見や能力を得られずに、子供たちが大人になるということなので、その分、将来の社会が劣化してしまう。将来、私たちの社会がどんな問題に直面するのか分からないが、いまの子供たちにはそれを乗り越える力を身に着けてもらわないといけない。それはただ単に知識や能力だけの問題ではなく、大人になっても勉強していこうという意欲であったり、自分がどうしなければいけないのかを自分で判断できる素養であったり、他人への思いやりや社会性であったりするのだが、そのうちの少なくない部分が学校という集団の中で友達を作ったり人と交わることによって育まれる。それが制約されることは大きな社会的損失だ。

 小学校や中学校とは対照的に、大学の授業は早々とオンライン化が進み、多くの大学で9月まではオンラインで授業するという方針になっているようだ。今年、大学に入学した若者の多くが、入学式もなく、サークルの勧誘もなく、新入生歓迎企画もなく、本当なら一生の友人になるかもしれない人と出会うこともなく、このまま数ヶ月を過ごすことになる。大学に入ったらオケに入ろうなんて思っていた人はどうしているのだろうか。

 自分には縁はないが、音大生なんかはどうしているのだろう。有名音大に入るには、それはもう幼少の頃からの努力が幾重にも積み重なっていることだろうと思うのだが、そういう人にとって音大に入学した最初の数ヶ月が奪われることはどういうことだろう。来年、音大に入ろうと思ってレッスンに励んでいる人にとっては、オンラインレッスンっていったいどんなものなんだろう。海外に留学する人も多いが、海外の著名な指導者もオンラインレッスンなんてしているのだろうか。海を越えて居ながらにレッスンを受けられるのは良いことなのだろうか。いやそんなことで音楽家としての素養は身に付くのだろうか。間近で感じる相手の存在感だとか、そのレッスンを受ける場所だとか、留学先の街の空気だとか、そういうもの全体がその人の音楽性を育むのではないのだろうか。私たちが音楽を聴いて感動するときに、もしかすると、その演奏者が経験したことを間接的に経験しているのではないか。そう思うと、いま演奏会が聞けない以上に、将来、本当なら聴けたはずのもっと深く感動できる音楽が聴けなくなってしまっているのではないか。なんてことを思ったりする。

 どうもいまの社会では、教育とか芸術とかが軽く扱われているように思う。コロナだから仕方がないのかもしれないけれど、コロナでもご飯は食べるしテレビは見るでしょ。電気や水道、医療や介護、物流と同じように、教育や芸術も社会インフラなんだと思うのだけれど。

2020年5月29日金曜日

レッスン再開

 鳴り物入りだったマスクはまだ届かないが、緊急事態宣言も解除になり、そろそろいろんな活動が再開されている。6月からレッスンも再開。オンラインレッスンなんてのをされておられる方もおられるようだが、うちのスタジオの場合はそういうのもなくて、6月から普通にレッスンが再開されるようだ。
 先生から連絡があり、新しいアンサンブルの課題曲をいただいた。Friedrich Schwindlという作曲家の小さいメヌエットばかり24曲集めた曲集だ。1曲は全部16小節。まるで教本みたいだが、たぶんそれぐらいのつもりで選曲されたのだと思う。これは結構いい練習になりそうだ。ちなみに1曲目はこんな感じ↓。
 IMSLPにパート譜だけがあって、それがメールで送られ来たのだが、ヴァイオリン2台とチェロの楽譜なので、ヴィオラはお呼びではなかった。それで、いただいたパート譜をMeseScoreに入力し、チェロ譜からヴィオラ譜をアレンジ。音源を探したのだが、みつからない。
 Friedrich Schwindlという名前も、手元の『音楽中辞典』(音楽之友社, 1979)にはなく、ネットで検索しても、ドイツ語のWikipediaに記事を見つけて、ハイドンやモーツアルトと同年代なのか、ということが分ったぐらい。
 ともあれ、新しい曲で気分も一新。塞ぎ込みがちだった気持ちも少し上向きにしていかなければ。

2020年5月20日水曜日

弦、切れた!

 まだ交換して1ヶ月も経っていないのに、弦が切れてしまった。
ショック!
奮発して買ったガット弦なのに!

 別に何の心当たりもなく、さぁ練習しよう、と思ってケースを開けると、あれ、弦が1本外れている、なんて間抜けたことを思ってしまったぐらい、何の心当たりもなく、切れてしまった。
 仕方がない。
 もう一度発注。
 リアル店舗はお休みだけど、通販は受け付けてくれるみたいだ。有難い。こんなときに出勤して、私の不要不急の道楽のために仕事をしてくださっているのだから、感謝しなければ。

 ヴィオラの弦って、チェロほどじゃないけど、ヴァイオリンより高いのよね~、長いから、と思っていたけど、切れた弦と同じA線のヴァイオリン弦の価格をみたら、あら、ヴァイオリン弦の方がお高いのね。ヴィオラの方が長いのに。ただ、ヴァイオリンの場合、他の弦と比べて桁違いにリーズナブルなE線(よく切れるけど)があるので、4本セットだとヴィオラの方が数割高い。だからといって、ここにE線を張るわけにはいかないので仕方ないか…

 いつもこういう時に備えて、交換前の弦を残しておくのだが、今回はさすがに2年も使っていた弦なので捨てた。その前の弦はあるが、気分的に交換する気にならず、新しい弦が来るまでA線なしで練習。例えば音階とか、例えばロングトーンとか、例えばポジション移動とか。そうだ、「G線上のアリア」ならA線はいらない。
 でもやっぱり、いつも弦があるところに弦がないというのは、なんとなく調子が狂う。不要不急と言いながら、早く来ないかなと鶴首して待つところは、やっぱり人間って自分本位なんだなぁ、とつくづく思う。

2020年5月16日土曜日

そろそろ正常モードに

 緊急事態宣言が出される前は、出された県と出されていない県があって、出されていない県のなかには「うちの県にも出せ」なんていう知事もいたりして、なにか緊急事態宣言がなければ大変なことになって、緊急事態宣言が出ればすべて解決するかのような異常な空気があったのだけれど、緊急事態宣言が出てみると、今度は「出口戦略」だとかなんとかいって、各県で自粛の縮小を目指して発言する知事が称賛を得たりする。仕事も趣味もそのほかの生活も、そういういい加減な世論というか空気の中で振り回されているのだが、そろそろ正常モードになっていこうという風向きも出てきた。

 仕事の方は相変わらず在宅勤務なのだが、今月中には分散出勤で、平日の半分ぐらい出勤なんてことになってくるかもしれない。しばらくは、気持ちをもとに戻すのが大変そうだ。けっこう多くの仕事が「余計なこと」に分類されている。公式にそういう分類がある訳ではないが、自分の気持ちのうえでもそうだし、だれかと協力して新しい仕事を始めよう、なんてことになるとかなりハードルが高い。
 ともあれ、出勤となると、この間のように夕方のあまり遅くない時間のうちに家で練習するということができなくなる。しかし、この間に、夕方のまだ明るいうちならば、消音器を付けて家で練習しても良い、ということが暗黙の了解になった。これはコロナ前とコロナ後の大きな変化だ。そのうちカラオケボックスの営業も再開するだろうし、しばらくは人目を気にしながらでないと行けなさそうだけれど、消音器を付けない練習もそこで思いっきりできる。

 この間、毎日とはいかないけれど、結構な頻度で練習をしていたので、そこそこに弾けるようになってきた。やはり同じ曲を繰り返し練習するというのは効果抜群。ただし他の曲は弾けないけれど。ともあれ、YouTubeで再生速度を0.5倍にしても着いていけなかったものが、0.75倍でもなんとか着いていけるようになってきた。これも何かの戦略に倣って数値化し、例えば0.5倍で3回続けて落ちずに弾けるとか、0.75倍で着いていけるとか、それが1週間続いたら青信号、1日でも出来れば黄信号とか、それで部屋の照明でも変えればやる気も出てくるだろうか。

 レッスンの方はまだ復活の連絡がない。
 世間ではオンラインレッスンなっていうのもやっているようなのだが、うちのスタジオはそういうのもなく、しばらく止まったままだ。しかし小さなスタジオなので復活となれば話は早いはず。待ち遠しい限りだ。

2020年4月28日火曜日

弦替え-交換編-

 弦を換えたり、弓毛を換えたりしたら、いちおう記録している。その記録が抜けていなければ、1年8か月ぶりの交換。いくら何でもこれは使いすぎだ。そして交換作業も1年8か月ぶり。「手慣れたもの」とは言い難いものの、さすがに10年以上もやっていると自分でできるようになるものだ。

 今回はガット弦に換えたので、音程が落ち着くのに時間が掛かる。事前の情報では、Oliveなどに比べると安定しやすいということだが、やはり換えたその日は、20分も弾いていると「あれっ」と素人が気づくレベルで音程が変わっている。しばらくは我慢だ。弾き終わったときに半音高めに調弦して仕舞う。それでも次に弾くときには半音低かったりするのだが、3日ほどするとかなり落ち着いてきた。練習前に調弦したら、1時間ほどは途中で調弦することなく弾けるようになった。

 さて、ここまで使い込んでいると、前のナイロン弦と、今回のガット弦を比較するなどということは不可能で、たぶん、古い弦と新しい弦の違いの方が大きいのだろうが、やはり、弓が弦の上にすっと乗ってくる感じがする。いままでは、弓を返すたびに無意識に弦を押さえつけて「ごりっ」と鳴らしていたのだが、そんなことをしなくてもちゃんと鳴り始める。弓毛を換えた時と同じように、同じアクションをしていても楽器からの反応が違うので、ちょっと調子が外れる。しかし、当然なのだが慣れてくれば新しい弦の方が断然弾きやすい。いちばん違うな、と感じたのは、静かな音が出しやすいこと。「ごりっ」としなくても反応してくれるので、ピアニッシモが出しやすい。音の強弱が際立つ。それと、理由は分からないが、速いパッセージでも音程の違いも際立つような気がする。いままでは「ごりっ」とやっているうちに次の音に行っていたから、音程がしっかり出ていなかったのかもしれない。
 録音してみると音色も全然違う。同じ人が同じ楽器を弾いているとは思えない。膨らみのある音、というか、弦だけがビリビリ鳴る感じではなくて、ちゃんと楽器の響きを連れてきている感じがする。

 やっぱり楽器はちゃんとメンテナンスしないとダメだな。
 メンテナンスが不十分な楽器で弾いていると、変な癖がついてしまう。先日の弓毛替えといい、今回の弦替えといい、いままで如何に変な弾き方をしていたのかがよく分かった。

2020年4月25日土曜日

弦替え-注文編-

 弓毛を換えて松脂が安定してくると、素人でも、あるいは並べて弾いたのではなくても、明らかに音色が変わっているのが分かる。弾き合い会の録音で聴かされた「ため」と「こぶし」のうち、「こぶし」についてはかなり改善された。いままでは、
なんでこんなに弦を捏ね繰り返すんだろう
というような音がしていたが、明らかにそれは改善された。
 弾いていても、その感覚が明らかに変わっていて、いままで掴みのわるい弓で弾いた感覚で慣れていたからだが順応しなかったりもする。何度も何度も繰り返し弾いていると、身体がメロディを覚えているものだが、楽器からの反応がいままでと違うので、思うように身体が動かなかったりする。

 それぐらい酷い状態の弓で弾いていた、ということだ。

 それで気が付いたのだが、弓毛にしても弦にしても、そのほか楽器のいろいろな状態にしても、ベストとまではいわなくても、そこそこの状態にして練習しなければ、変な癖がついてしまう。
弘法は筆を選ばず
とはいうが、それは何と言っても弘法大師さまのような、それはそれは偉い、誠に立派な、それも日本の歴史上で数えるほどしか輩出されていない方のお話しで、ふつうは筆がわるければ字も汚くなるものだ。この前、毛替えをしたところだし、お財布は確かに厳しいが、しかし、このところ出掛けることもできず、普段なら自販機のコーヒーやコンビニのスイーツやスタバのバタースコッチコーヒージェリーフラペチーノ、嘘、スタバのコーヒーに消えてしまうおカネが財布に残っているはず。このおカネを使うことは、こんな状況の中で、たとえオンラインだけであっても営業を続けている人へのリスペクトだ。
え~ぃ! 弦もかっちゃぇ
ということで、ガット弦を購入。
写真の説明はありません。
Passione(ぱっしーね)という、いままで使ったことのない弦だ。

そんなわけで到着。
なぜかマスクが1枚、付いてきた。
ま、ありがたいけど。

はたしてどんな音なのか。

(つづく)

2020年4月19日日曜日

弓毛替え

 発表会前には弓毛と弦を交換しようと思っていたのだが、雲行きが怪しくなってきて、発表会がいつなのか見通しもつかなくなってきた。弓毛についていえば、たぶん2年ぐらい換えていない。このところ素人でも
こりゃだめだ
ということが分る程度に劣化している。工房に電話をしたら「やっていますよ」ということだったので、すぐに交換してもらうことにした。午前中に持って行ったら、3時ぐらいには出来ていますよ、とのこと。助かった。今日も練習できる。

 毛替えしてもらって弾いてみてびっくり。同じ楽器を弾いているとは思えない。いままでのギコギコがなんと滑らかな音色になることか。松脂がまだ十分に馴染んでいないので、気になっていた音の立ち上がりまでは検証できなかったが、明らかに昨日までの音色とは違う。やっぱり道具は大事なんだと実感。次は弦も、と思ったのだが、為替レートの所為なのか、ちと財布に厳しい。いやしかし、これも手に入るうちに買っておかないと、いつ店仕舞いされてしまうか分かったものではないのだが。

2020年4月17日金曜日

とうとうコロナ禍に

 こういう「緊急事態」になると、大切なものとそのほかのどうでもいいものの峻別が始まる。ふだんは偉そうに「職業に貴賎はない」なっていっている口から、「こういう仕事は頑張ってください」「こういう仕事は自粛してください」などといった区別が出てくる。歌舞音曲なんてのは真っ先に「どうでもいい」方に区別されてしまう。それでも、うちの先生もスタジオも随分頑張っていたとおもうのだが、ついに力尽きたようだ。
レッスンの無期限中止
いろいろと言いたいことはある。
だけど、いまは言っても唇が寒い。

 私の仕事も「どうでもいい」方に区別されて、先週から「自宅勤務」。
 経費の支払いとか、そういうのは、もし止めてしまうと困る人も出てくるから「必要な仕事」に区別されたのだけれど、それもなかなかすんなりとは理解してもらえなかった。感染症拡大防止という「社会的要請」に応えることがいま何よりも大切なんだそうだ。おカネ払うことだって「社会的要請」なんだけど、そんなことを言うと、この病気がいかに恐ろしいかとか、どれだけ深刻な状況になっているかとか、もしうちの会社で患者が出たらどうなるかとか、延々と説教された末に、支払いのための出勤は「許可する」ときた。普段は、個性だとか多様性だとかダイバーシティなんて言っているのに、まるで、国家総動員令でも出されたようだ。
 この異論を認めない雰囲気。
 むしろこんな雰囲気の中でよくぞいままでレッスンを続けてくださったと、そちらに感謝するべきところだろう。

 わるいことばかりではない。
 出勤の必要はないが、いちおう定時の間は勤務していなければならない。パソコンの前に座って、「どうでもよい」とレッテルを貼られた仕事を黙々と続ける。しかし、定時になれば「終わりました」とメールを打って、あとは電車に乗ることもなく、すぐに自分の時間になる。通勤に費やしてきた往復3時間以上の時間が自分のために解放されたわけだ。あまり遅い時間になると近所迷惑でもあるのだが、夕方、毎日1時間だけでも練習ができる。いまはそういう時間に当てよう。もっと若かったら、この間に勉強をして…なんて思うのかもしれないが、歳も歳だ。それにいままでそうやって勉強して報われたこともない。子どもたちの学校を閉鎖して、勉強の機会を奪っておきながら、そのことにはあまり関心がなく、家にずっと子供どもいるから困る、なんて心配ばっかりしている世の中だ。勉強なんて、この際「どうでもいい」方に分類されているんだよ。

2020年4月5日日曜日

「ため」と「こぶし」

 バヨ練でカラオケボックスを使うことはあっても、そこで歌うことは滅多にないのだが、どうしても練習が思うように進まないときに魔が差して、自分のうたを採点してみた。余計なお世話というか、点数だけでなく、全国で何位なんていう順位まで出てくる。10人中6位などという中途半端な順位だと、なんとかベストスリーに入ろうと何度も同じ曲を歌う羽目になってしまう。10人中6位でよかったらそこで名前とかを入れて登録できるようになっているみたいだ。結局、最後まで登録しなかったので幻の順位になってしまった。順位に満足しなければ登録しない人も多いことだろうし、ベストスリーに入れば登録しようという人もいることだろうから、10人中6位は結構いい線いっているはず。

 この採点は、音程やリズムの正確さだけではなく、「ため」「こぶし」「ビブラート」を効果的に使っているかも採点項目になっているようだ。カラオケボックスでそんなことをしたこととは関係ないが、最近、ヴィオラを弾いていても「ため」「こぶし」「ビブラート」が気になる。ビブラートは良しとして、「ため」と「こぶし」はどう考えても良くない。

 先日の「弾き合い会」の演奏が録画されていたようで、きのうのアンサンブルレッスンは、それを見るところから始まった。自分のパートを聴いていて、この「ため」と「こぶし」がやたら気になる。先生曰く、音の出だしのところで迷いがあるから中膨らみができてしまってそういうように聞こえる、とのこと。確かに他のパートをよく聞こうと思うと、それを聴いてからそれに合わせて音を出そうというバイアスがかかり、最初から音が出せていないのかもしれない。いやしかし、それだけではない。いつも練習の初めに指慣らしで弾いているG線上のアリアだって、録音して聞いてみたら「ため」「こぶし」だらけだ。なにか演奏技術に根本的な問題があるように思う。
 アンサンブルレッスンが終わって、ソロのレッスンでは、G線上のアリアを見ていただくことにした。「ため」と「こぶし」、それと伸ばす音の「息切れ」。まるでカラオケレッスンだ。ただ、「ため」と「こぶし」を効果的に使うのではなくて、如何にそれが出ないようにするか、という点が課題になっているのはカラオケとは違う。

 結論
 弓の使い方がわるい
 長い音を、最初から最後まで同じ音量、同じ音色で弾くのはなかなか難しい。その練習ができていない。それも、元弓、先弓、全弓といろいろな弓の場所で、弓を動かす速さもそれぞれの場面に適した速さで弾いて、それでなおかつ同じ音量、同じ音色で弾く。
 特に仰ったのは「速い弓」の使い方。例えば付点二分音符で弾いた分を八分音符ふたつで戻さないといけないようなフレーズだったら、当然、最初の3倍の速さで弓を動かさないと元の位置にまで戻ってこない。そういうことを意識すれば、もっと安定的な音量と音色で弾けるはず。楽譜のあちこちに、「元」とか「F」(fastの意味)だとか、いろいろ書いて練習することになった。
 はたしてその効果は?
 

2020年3月28日土曜日

弾き合い会

 弾き合い会というのに出てきた。
 初めてで要領を得なかったのだが、普段着でやる発表会、客席を明るくしてスポットライトを当てない発表会、ってところだろうか。いつもお世話になっているスタジオではなくて、いつもお世話になっている先生が、ご自身のヴァイオリン教室で面倒を見ておられる生徒さんの発表会で、小学校に入るかどうかの子供から、定年後の道楽でやっている大人まで、15人ぐらいが入れ代わり立ち代わり演奏するのを聴いた。

 上手いなぁ、と思ったのは高校生ぐらいの女の子。他の生徒さんとデュオをしたり、ちょっと超絶技巧っぽいのを無伴奏で弾いたり、ヘンデルのソナタ4番をフルで弾いたりと、大活躍で、どれも聴かせる。音色が違う。
 小学校に入るかどうかぐらいの女の子は、父親と思しき男性のピアノ伴奏で、これも結構難しそうな曲を堂々と演奏。
 大人の演奏は、和気あいあいとして楽しそう。アンサンブルで弾かれる方が多く、女性二人で、シュターミッツとかいうモーツアルトに似た曲想の二重奏を弾いておられたのは、曲も良かったし、ちょっと羨ましいぐらいに楽しそうだった。
 最後は、その二重奏の一人と、さっきの小学生かどうかという女の子が、二人でバッハのドッペル。どうやら二人は母子のようだ。超絶機構の女子高生を含む数人が伴奏をする中で、二人のソロが掛け合う。これも何だか羨ましくて、微笑ましくて、しかも上手くて、見ているのが嬉しくてたまらないという気分。

 自分の演奏は、というと、今回はそんなに難易度の高い曲ではなかったが、とりあえずこの1週間はこればっかり練習して、無事に終了。上手かったかどうかは分からないけれど、そこそこ楽しそうには弾けたと思う。

 それにしても、こんな時期によくやっていただけたものだ。
 本当は発表会の予定だったのだが、会場からキャンセルを入れられたらしく、その代わりに、ちょっと大きめの会場が借りて、窓を開けて、客席も隣まで2mぐらいの間隔をあけて、入口には消毒液を置いて、とまあ、いつもならやらなくていいことをいろいろやって開催していた。こういうことに批判的なことを言う人もいるが、人間、パンを食っていれば生きていられるというものではない。あれもダメ、これもダメ、とまるで戦争中のような息苦しさの中で、こういうこともないと生きていることが実感できない。しかし、しばらくは手洗いうがい励行で、ややこしい病気にかからないようにしないと、ややこしいことになってしまいそうだ。

 ともあれ、いい弾き合い会だった。

2020年3月22日日曜日

映画「星屑の町」

 このブログにはバヨネタしか書かないことにしているのだが、今日は映画評を書きたい。ヴァイオリンだとかクラシック音楽だとかには何も関係のない映画だけれど、自分の中ではこのブログのテーマと通じるところがあったから、その接点を探しながら書いていきたい。

 まずはどんな映画なのかの説明なのだが、いったいこの映画の主演は誰なんだろう。歌手を夢見る田舎娘役ののん(能年玲奈)なのか、売れないコーラスグループを続けている大平サブロー、ラサール石井ほかのおじさんたちなのか。それを考えると「寅さん」に辿り着く。「寅さん」シリーズにはそれぞれ必ずマドンナと呼ばれる女優がいて、寅さんとマドンナが互いの人生を映しながらストーリーが進んでいく。主演は寅さんだけれど、より注目をあつめるのはマドンナ。この映画もそんな感じだ。
 詳しい紹介は公式ホームページで

 と、説明もそこそこに感想なのだが、終始くすくすと笑えて、でも少し泣けて、いい映画だった。ホームページによると、25年も続けている舞台がベースになっているそうだ。映画を観ていても、舞台を思わせるシーンが多い。学校の体育館での公演で、控室になっている教室に、代わる代わる人が入ってきて、おじさんコーラスグループの6人と掛け合っていく展開は、まるで吉本興業の喜劇を見ているようだ。
 大阪生野区限定で6位になったことのあるコーラスグループのメンバーを演じるのは、生野区限定とは言わないが、おそらく始めたころは関西限定で6位ぐらいを目指していた役者さん、芸人さんだったのだと思う。いい歳をして夢を追いかけ続ける姿は自虐的でもあるが、それをすべて否定したりはしない。

おもろいやろ。でもな…

という余白が残されている。そこがいい。

 マドンナ役ののんもずいぶん苦労している人のようだ。歌手を夢見て都会に出るも、大人たちのいいカモにされて田舎に帰ってくる。それでも歌手を夢見続けるという役どころは、どこか彼女自身に重なるのかもしれない。
「都会に行けば、あんたみたいな娘、いくらでもいるよ」
けれど、東北を舞台に歌手を夢見る田舎娘を演じたら、だれにも文句を言わせない。彼女自身は関西の出身だそうだが、朝ドラ以来、東北地方での彼女の存在は絶大で、そこが彼女の居場所のように思える。

 映画の中では、彼女はおじさんコーラスグループの中に自分の居場所を求めていく。おじさんたちはおじさんたちで、彼女がメンバーに入ることで夢を叶えていく。夢を追う姿を滑稽に描きながらも、それを全部否定しきらない残されたところに、おじさんたちと田舎娘の「居場所」が描き出されていく。そうか、夢とは居場所なんだ。夢のないところに居場所はない。それがどんな小さな夢でも。

 書いているうちに何を書きたかったのかよく分からなくなってきたが、とにかくいい映画だった。
 

2020年3月1日日曜日

新型コロナ 影響じわり

 世間は新型コロナで大騒ぎ。普段からこの季節は花粉症でマスクをしているので、あまり影響はないと思っていたのだが、ここへきて影響がじわりと押し寄せてきた。会社では、不要・不急の出張はやめるように、とのお達しが出ているのだが、もともと年度末に予算を消化するために行くような出張があった訳ではなく、何かの必要があって、しかもその日に行く必要があるから行く出張ばかりなので、これは誰に対するお達しなのだろうか、と訝しる意見多数。ただ、これも「○○協議会年次総会」みたいなのが中止になったりしていく必要がなくなったりといったことは起こっている。

 それがここにきて、バヨライフにも影響が出てきた。

 まず3月4日に予定されていたヴィヴァルディ祭が中止。「調和の霊感」6番と、「冬」のラルゴを練習して、「これなら行ける」というとこらへんまで来ていたので、これは残念。

 そして、3月に予定されていたアンサンブルの発表会が延期の公算大。

 日本では毎年3,000人ぐらいの人がインフルエンザで亡くなっているので、感染病対策というのは新型コロナがどうのという問題ではなく、普段からやっておくべきことなのだが、どうも権力者というのは危機感を煽って人々を不安にさせることによって自らの地位を守ろうとする人種のようだ。報道によれば、例のクルーズ船でも、同じ部屋にいながら、夫婦の片方が陽性、もう片方は陰性というようなこともあったようなので、感染力もその程度、つまり同じ部屋にずっといても必ず感染るというほどのものではないと思っていれば良いと思う。もともと冬場は風邪をこじらせて肺炎になる人の多い季節。桜が咲くころにはこんな騒ぎも収まって、各地で「桜を見る会」が催されるようになればよいのだが。

2020年2月15日土曜日

アンサンブル自主トレ

 昨年から、いつもお世話になっているスタジオで、アンサンブルレッスンが始まった。最初に比べると、だんだんとアンサンブルらしくなってはいるのだが、いったいどれぐらいのレベルで弾けているのだろうか。いつもは個人レッスンとアンサンブルレッスンの組み合わせなのだが、今回は先生の都合で個人レッスンはなく、アンサンブルレッスンのみ。そして、そのあとスタジオは空いている。ということで、初の自主トレとなった。

 開始早々、
 録音してみましょう
 ということになった。実は、前回のレッスンでいちど録音している。その結果…
 本当なら、個人練習のためにメールで共有して、それを聴きながら練習するつもりだったのだが、共有するまでにお蔵入り。そして迎えた今回のレッスンと自主トレだった。

 実際に録音したものを聴いてみると、自分たちで思っているほどには合っていない。というか、他人の演奏なら聴くに堪えないレベルかも、ということが分かった。
 しばし沈黙
 めっさ頑張って弾いているのだが、その「頑張っている感」がハンパなく伝わってくる。先生がよく「力を抜いて」と仰るのを聞くが、こういうことなのか、という感じだ。音程があっていないとか、そういうことではなくて、この音色ではたとえぴったり音程が合っていても重ならないのでは、なんてことを言い合いながら、まずはこれを何とかしようということになった。いろいろあれこれ言い合って、何度か録音しているうちに、だいぶ改善されたような気はするのだが。

 これ、ひとりで弾いているときも同じような音色なのだが、ハモらせてみると「合っていない感」が際立ってくる。他の楽器と違って、音程を合わせるのが難しい楽器なので、つい、フィンガリングばかりの練習になってしまって、フィンガリングが出来れば「終わり」みたいな感じになりがち。ロングトーンの練習とか、しばらく疎かにしていたのだが、やっぱり、そういう基礎は疎かにできない。

2020年2月11日火曜日

ヴィヴァルディ祭

 アントニオ・ヴィヴァルディ。1678年3月4日 イタリアのヴェネツィア生まれ。
 小学校の教科書にも載っている「四季」でお馴染みの作曲家なのだが、来月がお誕生日だ。そのお誕生日をみんなでお祝いしようというイベントが毎年あるらしい。ネットで散々調べたり、人伝に聞いたりして、いろいろ調べてみると、どうやらプロの演奏を聴いたあと、
それじゃ、みんなで弾きましょう
コーナーみたいなのがあるらしい。今年はこの2曲ということだ。





もうすっかりお馴染みの曲なのだが、侮るなかれ、めっさ速弾きらしい。そんなわけで、この音源を聴きながら、この速さについていく練習。

 うむむ… なんとか行けるか?

 ぜんぜん関係ないが、歳をとるにつけ、それまでは正月に集まっていた親戚が疎遠になり、最近では葬式か法事のときにしか会わなくなってしまった。だからいつも黒いネクタイをしている。自分が死んだら、命日には集まらなくていいから、誕生日に集まるように遺言しておこうと思う。生きていたら米寿だよね、とか100歳だよね、なんて集まりだったら、何も黒い服である必要はないし、なんなら温泉とかで美味しいものを食べて誕生日を祝ってもらえる。ヴィヴァルディのように何かをこの世に残せるわけではないが。

2020年1月19日日曜日

ボウイングとフレーズ感

 発表会目指して練習中の、ヘンデルのヴィオラコンチェルト。完成するとこうなる。
 YouTube画面の右下にある歯車ボタンを押すと再生速度がコントロールできる。最近、それを0.5倍にして、それに合わせて弾くという練習をしてみたのだが、
あかん 弾けへん 
しかし、これも何回かやっているうちに弾けるようになるか。いや、それでも随分ゆっくりだぞ。この速さだと発表で10分以上舞台に載っていないといけない。自分はいいのだが、これを10分も聴かされる聴衆のことを思うと心が痛む。
 こんな調子で大丈夫なのか…。

 先日のレッスンでは、ボウイングを大きく変更した。いままで適当だったわけではないが、先生から見ると適当に見えたみたいだ。譜面通りという訳ではないが、こことここはボウイングの形が違うから、その趣旨を活かして、こっちはこれでこっちはこう、みたいな感じ。フィンガリングの変更と違って、ボウイングを変えるとフレージングが変わる。いままでは16分音符を小節ごとに区切って練習し、それをくっつけていってひとつのフレーズにしていたのだが、実際には次の小説の頭で終わるようなフレーズもある。「ここで切ったら解決しないですよね」。「解決」というのはフレーズが何となく終わった、落ち着いたといった感じになること。確かにそういうことを意識しないで弾いていると、楽譜を楽譜通りに弾いているようにしかならない。実際には楽譜を楽譜通りに弾くことすらできていないのだが。

 発表会の日程がまだ決まっていないようなのだが、はたしてそれまでに一応の完成までたどり着けるのか。発表会だから、得意のトリアージが使えない。
 とにかく練習だな。練習。

2020年1月4日土曜日

3日サボると…



練習を一日休むと自分にわかる。
二日休むと批評家にわかる。
三日休むと聴衆にわかる。
といったのは、どこぞの国のピアニストだそうだが、素人ヴァイオリンの場合は、1日や2日練習を休んだところで自分では何も気づかず、しかし先生にはバレてしまう。それも、さすがに1週間休むと、自分でも劣化を感じずにはいられない。
そういえば、前回弾いたのは1週間前だったよな~
年末年始を挟むともっと遠い昔のようにさえ思える。嗚呼、思うように弾けない。
ま、1週間前もそんな弾けていたわけではないから、もしかするとこんなものだったのかもしれない。

 しばらくサボると劣化するのは、技芸だけではなく、身体能力全般に言えることで、普段は通勤で1万5千歩ほど歩くところ、この休みの間は、少ない日は千歩も歩かないという具合。体重がどうのこうのというのではなく、少し歩いても身体が重く感じられる。これはいけない。週明けから社会復帰するために、いまからリハビリだ。
 そんなわけで、このブログのテーマとは全然関係がないけれど、久しぶりに通勤定期で電車に乗って途中の駅で降り、そこから約13キロを歩いてきた。関係がないついでに、毎年、阪神大震災が起きた1月17日の前後に、会社から家まで歩いて帰る「ひとり避難訓練」というイベントをやっている。だいたい25キロほどある。計算のうえでは6時間ほどで歩けるのだが、往々にして計算通りにはいかず、とくに中間地点から後は、その前よりも5割り増しぐらい時間が掛かってしまう。それも、12月ぐらいから少しずつ歩く距離を伸ばしていって、長距離を歩くことに身体を慣れさせておいてのことなのだが、こちらの方は1日歩かないだけで、自分でも身体の重さを感じる。批評家や聴衆に分かるかどうかは知らないが。
画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、空、屋外、自然
 それで、そのリハビリウォーキングの途中にこんな石柱を見つけた。おっと、これはいままで何度も通っているのに気付かなかった。見た瞬間に、今年はまだ4日しか過ぎていないのに、もう
練習よりも神頼
というモードになっている。
 あまりメジャーな神社ではないようで、いつかの台風か何かで傷んだ茅葺にブルーシートが掛けられたままになっていたし、社務所のようなところは閉められた雨戸の隙間から青空が見えていた。しかし、神の力はそういう外見で判断するわけにはいかない。二礼二拍一礼でしっかりお詣りし、技芸の上達を祈ってきた。