2022年8月28日日曜日

アンナ・マクダレーナ・バッハの音楽帳

 スタジオのアンサンブル・レッスンではバッハの曲を見ていただいているのだが、これがどうもバッハの曲ではないらしい。

 1720年、35歳のバッハは妻と死別。翌1921年に16歳年下のソプラノ歌手と再婚する。1725年、この若い妻のために鍵盤楽器用の小作品を筆写した楽譜を贈った。妻の名前から『アンナ・マクダレーナ・バッハの音楽帳』と呼ばれるこの作品集に掲載されている曲は、長い間、J.S.バッハ自身が作曲したものと思われていたが、現在では、他の作曲家の作ったものということが定説になっているそうだ。

 この音楽帳には45の作品(詩や楽典を含む)が載せられているが、J.S.バッハの曲として有名な曲もたくさんある。平易で短めの曲が多いが、まとめるとひとつのステージになりそうだ。

 動画はできるだけ弦楽器で演奏しているものを集めたが、もともとは鍵盤楽器(当時は主にチェンバロだっただろう)用の曲なので、アレンジはレッスンで見ていただいているものとは違う。どの動画もJ.S.バッハの曲として弾いておられるが、教則本にもJ.S.バッハの曲と書かれているのだから、弾いておられる方や動画をアップされた方の間違いではない。

 クリスティアン・ペツォールトは、J.S.バッハよりも12歳年上で、ドレスデンの宮廷楽団で奏者をしていた。鍵盤楽器のためにさまざまな小品を残しているが、この音楽帳に載せられている2曲がもっとも有名ではないだろうか。

 カール・フィリップ・エマヌエル・バッハというのは、J.S.バッハが最初の妻との間に設けた息子で、当時はまだ11歳。家庭の事情まではよくわからないが、新しい母親のために父親の指南を受けながら作曲したと思うと微笑ましい。


(参考文献)

2022年8月16日火曜日

夏休みの自由研究~ロッシーニ編~

 夏休みの自由研究の最後はロッシーニ。しかしこの曲に関しては、先週、曲の同定ができたという記事をアップして以来、たいした進展がない。彼のオペラ作品について詳しく説明する資料は図書館でいくつか見つけたが、この曲を作曲した少年期については詳しい説明はされていない。出典のはっきりしないインターネット上の記事を繋ぎ合わせただけで、信憑性に欠いた紹介文になってしまっている。

 そんなわけで、いろいろ差し引いて読んでいただきたい。


 米国議会図書館にあるこの曲の筆写譜には、「12歳のジョアキーノ・ロッシーニ氏が1804年にラヴェンナで作曲した六つのソナタ作品」と記され、パート譜の余白にロッシーニ自身による書き込みもあるとか。

 ロッシーニ一家は、1802年ごろから、イタリア北部ボローニャ近郊のルーゴという街に住み、一家のパトロンでコントラバス奏者だった実業家アゴスティーノ・トリオッシの別荘にたびたび招かれたようです。彼の楽譜への書き込み信じるならば、この曲は、その別荘に集まった仲間内で演奏するために作曲したもの。コントラバスの聴かせどころはアゴスティーノのために書かれた旋律と言えるかもしれません。

 ただ、米国議会図書館に残されている楽譜の用紙はロッシーニが1808年から1812年にかけて使っていたものと一致するとか、とこどろころに修正の痕跡が残っているなどの指摘があり、ロッシーニが16歳になった1808年頃の作品ではないかともいわれています。真偽のほどはわかりませんが、まだ少年だったロッシーニが周囲の「遊び相手」ともいえる人たちと演奏するために書いた曲であることは間違いないようです。その遊び相手にヴィオラがいなかったからか、ロッシーニ自身のオリジナルにはヴィオラパートがありません。定期演奏会での演奏は、ロッシーニ自身のオリジナルではなく、のちに弦楽四重奏に編曲されたものです。


参考文献


練習用音源

夏休みの自由研究~ヴィヴァルディの四季編~

 有名な『ヴィヴァルディの四季』から「秋」。これも私家蔵書にスコアがあって、その冒頭に解説文が書かれている。それによると、当時のイタリアでは、作曲された曲が2,3シーズンを越えて再演されることは稀で、聴衆の嗜好に応えて次々に作品を仕上げていくために、手稿譜は「覚え書き」ぐらいに扱われていたらしい。しかし、外国ではヴィヴァルディの名声は高く、パリやアムステルダムで多くのソナタや協奏曲が出版されたそうだ。

 『四季』はマルツィン伯爵に献呈されたものがアムステルダムで出版されたもののようだ。マルツィン伯爵を調べていくと、おそらくハイドンが仕えていた「モルツィン伯爵」のことではないか、というところまで行き着いたのだが、それじゃこの曲はモルツィン伯爵に捧げたのかというとそうではなさそうだ。やはりピエタ修道院の娘たちのために書いたのだろうということで、無難に紹介文をまとめた。


 ヴィヴァルディは、1703年9月、ベネチアにあった孤児院兼音楽学校オスペダーレ・デッラ・ピエタ(ピエタ養育院)のバイオリン教師となり、その後、逝去前年の1740年まで「ピエタ」との関係は断続的に続きました。そしてピエタの娘たちのために数多くの協奏曲、室内楽曲を作曲し、上演しました。『ヴィヴァルディの四季』として有名なこの曲は、1727年にアムステルダムで出版されたヴァイオリン協奏曲集『和声と創意への試み』に収録されたもので、楽譜に四季折々の情景を描写するソネット(イタリア民謡を原形とする14行の定型詩)が書き添えられています。演奏する「秋」には次のように書き添えられています(日本楽譜出版社の楽譜より)。

第1楽章
冒頭: 村の若者達の踊りと歌: 村人は踊りと歌で
実りの秋を祝う
32小節目: 酔っ払い: バッカスの飲み物に紅潮し
89小節目: 酔っ払い男が眠る: 若者は喜びの果てに、眠りにつく
第2楽章
冒頭: 眠る酔っ払い達: 安らかで心地よい大気は
人々の歌と踊りを
終わりにさせる
皆を快い眠りの楽しみに
誘うのがこの季節
第3楽章
冒頭: 狩: 夜明けに狩人が
手に角笛と猟銃を持ち
犬をお供に狩に出る
76小節目 逃げる獣: 逃げる獣
狩人は追う
82小節目: 猟銃と犬: 大きな猟銃の音と犬の追う声に
獣は驚き疲れ
傷つき怯え
逃げ惑い
129小節目: 逃げる獣は息絶える: 追い詰められて息絶える


参考文献

  • 田島容子「ヴァイオリン協奏曲《四季》」. 日本楽譜出版社.『Kleine Partitur: Vivaldi: LE QUATTRO STAGIONI: Il Cimento dell!Armonia e dell'Ivenzione Op.8 No.1-4』
  • "ビバルディ", 日本大百科全書(ニッポニカ), JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2022-08-16)
  • "ソネット", 日本大百科全書(ニッポニカ), JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2022-08-16)


練習用音源

夏休みの自由研究~ブランデンブルク協奏曲編~

 個人的には定期演奏会のハイライトだと思っているバッハのブランデンブルク協奏曲3番。スコア譜を買ってきて私家蔵書にするぐらいの気持ちの入れ様。スコアを買ってきたから弾けるわけではないのだが。
 自由研究としては、このスコアの巻頭にある解説文が役に立つ。百科事典にも載っているぐらいの有名な曲なので、ネタには困りません。


 バッハが活躍した時代の音楽家の多くは、宮廷や貴族または教会に仕えていました。バッハもまた、1717年から1723年までアンハルト=ケーテン侯レオポルトの下で宮廷楽長として仕えました。1721年3月、バッハは、ケーテン侯と親交のあったブランデンブルク辺境伯クリスティアン・ルートウィヒに6つの協奏曲を献呈しました。その後、プロイセン王女アマ―リアの蔵書となり、1914年にベルリンのドイツ国立図書館の蔵書となったバッハの直筆譜によれば、これらの協奏曲はフランス語で「Concerts avec plusieurs instruments (種々の楽器を伴う協奏曲)」と題されているのですが、ブランデンブルク辺境伯に献呈された曲であることから、一般に「ブランデンブルク協奏曲」と呼ばれています。演奏される3番は、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロがそれぞれ3パートと通奏低音の合計10パートからなる大曲で、当時わずか6名のメンバーしかいなかった辺境伯の宮廷楽団では演奏できません。他の曲も同様で、そうした事情からこれら6曲は辺境伯のための書下ろしではなく、それ以前に作曲された協奏曲のなかから6曲を選んで浄書・献呈したものとみられています。バッハが仕えていたケーテン侯の楽団が縮小される中で、新天地を求めたバッハがいわゆる就職活動を有利にするために献呈した、いまでいえば学生がお目当ての企業に提出する「ポートフォリオ」のようなものだったのかもしれません。


参考文献

  • 角倉一朗「バッハ ブランデンブルク協奏曲」(全音楽譜出版社[編].『Zen-On Score Bach Brandenburgische Konzerte』. 1966.巻頭解説) 試読はこちら
  • "ブランデンブルク協奏曲", 日本大百科全書(ニッポニカ), JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2022-08-16)
  • "ブランデンブルク協奏曲", 世界大百科事典, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2022-08-16)
  • Wikipedia ケーテン, ブランデンブルク協奏曲 


練習用音源

2022年8月15日月曜日

夏休みの自由研究~パリ協奏曲編~

  定期演奏会では、ヴィヴァルディの曲を2曲弾く予定です。ひとつは有名な『四季』の『秋』。もうひとつはいままで知らなかった曲です。この、いままで知らなかった曲について調べました。

 まず曲の同定。ハ長調の弦楽協奏曲だというところから、無料楽譜サイトIMSLPを探し回り、リオム番号114であることがわかった。

https://imslp.org/wiki/Concerto_for_Strings_in_C_major%2C_RV_114_(Vivaldi%2C_Antonio)

 お手本演奏はこちら。

 ヴィヴァルディは生涯に600を超える協奏曲を作っています。そのなかにはいつどこで作曲されたのかが明らかではない曲も少なくありません。この曲は、おそらくヴィヴァルディがその晩年に作曲した曲で、浄書された楽譜がパリのフランス国立図書館にあるため「パリ協奏曲」と呼ばれています。パリにこの楽譜がある経緯は明らかでなく、フランスの啓蒙思想家、シャルル・ド・ブロスがイタリアを旅行した際、1740年頃にヴィヴァルディから購入したと言う協奏曲の中にあったという説や、ハプスブルク家の女主マリア・テレジアの夫であったロレーヌ公フランソワ3世エティエンヌ(後の神聖ローマ皇帝フランツ1世)が買い上げたとする説などが、CDの曲紹介やインターネット上の記事に見られます。音楽の本場、ヴェネツィアでは流行の変化が激しく、ヴィヴァルディの飛ぶ鳥を落とす勢いも衰え、忘れ去られた作曲家となってしまったあとも、外国での彼の名声は高く、彼の楽譜は名君や財を成した人たちの垂涎の的だったのかもしれません。


参考文献


練習用音源

2022年8月12日金曜日

夏休みの自由研究~ヘンデル編~

 夏休みは、図書館で、定期演奏会で弾く予定の曲紹介のネタを探す。手始めに、ジョージ・フレデリック・ヘンデルの「Alcina」。本で調べると英語読みで「アルチーナ」と書かれているが、オケのみなさんはイタリア語っぽく「アルキーナ」と発音される。

 フルで聴くとこんな感じになる(いや、これは聴かなくてもいい。3時間以上あるんだぁと思っていただければ十分。もちろん、こんなのフルではやりません)。

 弾くのはその中のいくつかの舞曲。上手な演奏を聴きたい方は以下のYouTubeへのリンクでお楽しみください。

Entree
Gavotto(1)
Sarabande
Menuet
Gavotto(2) Tamburino

 この曲は、1735年4月にロンドンのコヴェント・ガーデン劇場で初演されたオペラです。

 ジョージ・フレデリック・ヘンデルは、ドイツ オーデル河上流の街、ハレに生まれ、ロンドンを中心にイギリスで長く活躍しました。当時のロンドンでは、オペラの上演が興行的におこなわれるようになり、多くの劇場が競うようにオペラ作品を世に送り出していました。ヘンデルは、そのような劇場のひとつだったコヴェント・ガーデン劇場のオーナーだったジョン・リッチと契約を交わし、1734~35年のシーズンに「ダンス・オペラ」と呼ばれる軽快なオペラを次々に発表しました。「Alcina」もそのひとつです。客のお目当てのひとつは、この劇場の専属ダンサーだったマリー・サレ嬢のバレー。そしてカストラート・ソプラノ歌手のジョヴァンニ・カレスティーニの歌声。「Alcina」には多くのバレーが組み込まれ、アンコールではきまってアリア「Verdi Prati」が歌われたといいます。「Alcina」は、この劇場とサレ、カレスティーニに捧げられた曲と言ってもいいでしょう。

 「Verdi Prati」は歌曲なので、今回は演奏されませんが、こんな曲です。


(参考文献)
  • 渡部恵一郎. 『ヘンデル』(大音楽家と作品 15). 音楽之友社. 1966. 巻末作品表 p.103, 「「貴族オペラ」とコヴェント・ガーデン劇場」
  • クリストファー・フォグウッド 著, 三澤寿喜 訳. 『ヘンデル:GEORGE FRIDERIC HANDEL』. 東京書籍. 1991. pp.217-222

2022年8月10日水曜日

Rossini, Gioacchino "Sonates for Strings No.1"

 定期演奏会で弾く曲の同定ができた。

 楽譜には「Gioacchino Rossini hrsg und eingerichtet von Rudolf Malarie」と書かれているだけで、第一楽章はト長調ということぐらいしかわからない。重要なヒントは、練習の時に先生が仰っておられたこと。

「この曲は、ロッシーニが12歳の時に作曲した」

 ロッシーニの生没年はウィキペディアでわかる。1792年生まれ。ということは1804年ごろに作曲されたもの。どこのどなたが書かれたページかわからないが、こちらのページにロッシーニの生涯と主な作品が紹介されていて、その中に

『弦楽のためのソナタ』(6 sonate a Quattro, G. A, C, B♭, E♭, D, 2 vn, vc, db)(1804年):全6曲。ヴァイオリン2、チェロ、コントラバスのための楽曲。

という記述が。(いや実はウィキペディアででも「弦楽のためのソナタ(ヴァイオリン2、チェロ、コントラバスのための・全6曲)、1804年」って書かれていたのだが気が付かなかった)。をぅお~、これだ。ここまでわかったら、YouTubeで音源を探す。あった。間違いない。この曲だ。


 さっきのページにも、こんなことが書かれている。
1802年頃、ロッシーニ一家はルーゴ(Lugo)に移り、父は少年ロッシーニにホルンを教授するようになると同時に、ロッシーニは、地方の司教座聖堂参事会員2)ジュゼッペ・マレルビ(Giuseppe Malerbi)のもとで声楽と作曲法を習うようになる。この時期に、ロッシーニは、ラヴェンナの豊かな実業家アゴスティーノ・トリオッシ(Agostino Triossi)と出会い、コンヴェンテッロの別荘に招かれる仲となる。この経験をもとに、若き作曲家ロッシーニは、『弦楽のためのソナタ』(sonate a Quattro)を作曲し、後にこの友人のために 『シンフォニア・アル・コンヴェンテッロ』(the Sinfonia ‘al Conventello’ )と『コントラバスのための大序曲』(the Grand’overtura obbligata a contrabbasso) も創作することとなる。
容姿はやや太り気味だが、天使のような姿と言われ、かなりのハンサムだったので、多くの女性と浮き名を流した。
ということも書かれているので、だいぶ様子がわかってきた。あとは図書館で本を漁れば、曲が書かれた経緯とか、そういうこともわかってくると思う。
 ちょっとこれで練習のギアを入れられるかも(いやギア入れろよ、ってか)
 もうひとつ、さっきのページに重要なことが書かれている。
ロッシーニは音楽家として活動する両親と共に舞台に立つようになり、ヴィオラ奏者として1801年のカーニバルシーズンのファノにおけるオーケストラに参加したことが確認されている。
 を、そうか。9歳にしてヴィオラを弾いていたのか。さぞやヴィオラが好きだったに違いないと思いきや、IMSLPでダウンロードした楽譜にはヴィオラパートがない。よく見ると、さっき引用したところにも「ヴァイオリン2、チェロ、コントラバスのための楽曲」と書かれているではないか。動画にもヴィオラが映っていない。
 こりゃ余程ヴィオラ弾かされたのが辛かったんだな。父親はホルンだかトランペットだかを吹いていて、母親はヴォーカル。その同じ舞台で主旋律のないヴィオラを弾かされることに疎外感を感じたのか。
 そういえば楽譜に「Gioacchino Rossini hrsg und eingerichtet von Rudolf Malarie」って書かれているじゃないか。Rudolf Malarieって人が編曲しているんだ。この編曲版がなければ、ヴィオラは休んでいてよかったんだステージの上でずっと休んでいないとだめだったんだ。これはだいぶ疎外感があるな。
 そんなことでRudolf Malarieって人についても調べないといけなくなった。
 つづく…たぶん。