定期演奏会で弾く曲の同定ができた。
楽譜には「Gioacchino Rossini hrsg und eingerichtet von Rudolf Malarie」と書かれているだけで、第一楽章はト長調ということぐらいしかわからない。重要なヒントは、練習の時に先生が仰っておられたこと。
「この曲は、ロッシーニが12歳の時に作曲した」
ロッシーニの生没年はウィキペディアでわかる。1792年生まれ。ということは1804年ごろに作曲されたもの。どこのどなたが書かれたページかわからないが、こちらのページにロッシーニの生涯と主な作品が紹介されていて、その中に
『弦楽のためのソナタ』(6 sonate a Quattro, G. A, C, B♭, E♭, D, 2 vn, vc, db)(1804年):全6曲。ヴァイオリン2、チェロ、コントラバスのための楽曲。
という記述が。(いや実はウィキペディアででも「弦楽のためのソナタ(ヴァイオリン2、チェロ、コントラバスのための・全6曲)、1804年」って書かれていたのだが気が付かなかった)。をぅお~、これだ。ここまでわかったら、YouTubeで音源を探す。あった。間違いない。この曲だ。
さっきのページにも、こんなことが書かれている。
1802年頃、ロッシーニ一家はルーゴ(Lugo)に移り、父は少年ロッシーニにホルンを教授するようになると同時に、ロッシーニは、地方の司教座聖堂参事会員2)ジュゼッペ・マレルビ(Giuseppe Malerbi)のもとで声楽と作曲法を習うようになる。この時期に、ロッシーニは、ラヴェンナの豊かな実業家アゴスティーノ・トリオッシ(Agostino Triossi)と出会い、コンヴェンテッロの別荘に招かれる仲となる。この経験をもとに、若き作曲家ロッシーニは、『弦楽のためのソナタ』(sonate a Quattro)を作曲し、後にこの友人のために 『シンフォニア・アル・コンヴェンテッロ』(the Sinfonia ‘al Conventello’ )と『コントラバスのための大序曲』(the Grand’overtura obbligata a contrabbasso) も創作することとなる。
ウィキペディアには
容姿はやや太り気味だが、天使のような姿と言われ、かなりのハンサムだったので、多くの女性と浮き名を流した。
ということも書かれているので、だいぶ様子がわかってきた。あとは図書館で本を漁れば、曲が書かれた経緯とか、そういうこともわかってくると思う。
ちょっとこれで練習のギアを入れられるかも(いやギア入れろよ、ってか)。
もうひとつ、さっきのページに重要なことが書かれている。
ロッシーニは音楽家として活動する両親と共に舞台に立つようになり、ヴィオラ奏者として1801年のカーニバルシーズンのファノにおけるオーケストラに参加したことが確認されている。
を、そうか。9歳にしてヴィオラを弾いていたのか。さぞやヴィオラが好きだったに違いないと思いきや、IMSLPでダウンロードした楽譜にはヴィオラパートがない。よく見ると、さっき引用したところにも「ヴァイオリン2、チェロ、コントラバスのための楽曲」と書かれているではないか。動画にもヴィオラが映っていない。
こりゃ余程ヴィオラ弾かされたのが辛かったんだな。父親はホルンだかトランペットだかを吹いていて、母親はヴォーカル。その同じ舞台で主旋律のないヴィオラを弾かされることに疎外感を感じたのか。
そういえば楽譜に「Gioacchino Rossini hrsg und eingerichtet von Rudolf Malarie」って書かれているじゃないか。Rudolf Malarieって人が編曲しているんだ。この編曲版がなければ、ヴィオラは休んでいてよかったんだステージの上でずっと休んでいないとだめだったんだ。これはだいぶ疎外感があるな。
そんなことでRudolf Malarieって人についても調べないといけなくなった。
つづく…たぶん。
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