2022年11月25日金曜日

「パヴァーヌ」の蘊蓄

  『カプリオル組曲』とその原典である『オルケゾグラフィ』についての蘊蓄をつらつら書き記すシリーズ記事。前回の「バス=ダンス」に続いて、今回は「パヴァーヌ」についての蘊蓄です。


アルボー

…パヴァーヌは廃れてしまったわけでも、まったく踊られていないわけでもありません。昔ほど頻繁に踊られていないことは事実ですが、私は、決して廃れることはないと思っています。パヴァーヌは、一般的にバス=ダンスの前に踊られていたものです。今の楽士は、良家の娘が結婚式を挙げるために教会に向かうとき、また何某かの名士の信徒会の司祭たちや旗手や会員たちを先導するときにパヴァーヌを演奏します。

p.28v


カプリオル

このパヴァーヌとバス=ダンスは、優雅で荘重なものであって、高貴な方、とくにご婦人方や令嬢方にふさわしいと思います。

アルボー

貴族の男性が踊るときはケープや剣をつけたままでよいのですが、あなたのようなそれ以外の人たちの場合は、長い上衣をまとって礼儀正しく落ち着き払って足を運びます。そして令嬢方はつつましやかな物腰で目を伏せ、時おり、処女のような恥じらいをもって列席の人々を見ます。とくにパヴァーヌは、厳かな祝祭の日に、王や王子や大貴族たちが、立派なマントや儀式用の服に身を包んで姿を見せるときに用いられます。もちろんそのとき、王妃や王女や貴婦人たちも服の裾を長く引いて、時には令嬢方に裾を持たせて共に進みます。

pp.29r-29v


 踊りというよりも、舞踏会の会場に高貴な方が入場されてくるときの入場行進曲のような体のようです。『カプリオル組曲』では2曲目に配されていますが、1曲目にした方がよいのかもしれません。インパクトは確かにバス=ダンスに敵いませんが。

 『オルケゾグラフィ』には「4声のパヴァーヌ」という譜表が掲載されていて、歌詞も書かれています。太鼓をバックにした合唱曲のようです。再現してみました。


 なかなかいい感じです。歌詞は再現できませんでした。初音ミクを連れてくれば再現できるかもしれないのですが…

 『オルケゾグラフィ』も『カプリオル組曲』もまだまだ続くのですが、『オルケゾグラフィ』で通読して面白いのはここまで。実は、この2曲は比較的、ダンスのステップが単純で、『オルケゾグラフィ』を読むのにそれほど苦労はありませんでした。この先はステップが格段に難しくなります。ひとつひとつのステップについては、挿絵を見て、文章を読んで、自分でやってみて、というようなことをしながらでないと理解ができません。そして、ひとつひとつのステップを理解したうえで、そのステップをどの順番で踊っていくのかが説明されています。『カプリオル組曲』に収録されている舞曲だけでなく、ガボットとかクーラントとか、わりとお馴染みの曲についても解説されているのですが、ステップの解説を、辞書を引くように見ながら読まないと、どんな踊りなのかよくわかりません。

 それで、図書館で借りた本はいったん返却して、本屋さんに取り寄せてもらうことにしました。暇なときに真剣に読もうと思っています。

 演奏の方もちょっと難しくなって、踊りの練習をしている場合ではないのですが…。

 そんなことで、再開がいつになるかはわかりませんが、奮発して本も買ったので、たぶん、いつかこの続きの記事を書くと思います。お暇な人だけ見てください。

2022年11月24日木曜日

「バス=ダンス」の蘊蓄

 16世紀にフランスで著された音楽と舞踏の指南書、『オルケゾグラフィ』(トワノ・アルボー著)について紹介来年の定期演奏会で『カプリオル組曲』を弾くかもしれないので、その原典の『オルケゾグラフィ』を読んでいるという話兵隊の行進で音楽の基礎理論が解説されている話とやってきて、今回はやっと、『カプリオル組曲』についての記事になります。

 『カプリオル組曲』は6つの舞曲で構成されていますが、1曲目は「バス=ダンス」です。やっとご婦人の手をとってダンスが始まるのですが、ずいぶん暗くて重たい曲です。この曲もニ短調、『オルケゾグラフィ』が著された当時の言い方だと「第3旋法」あるいは「フリギア旋法」と呼ばれていた調性で、自然に怒りの感情を呼び起こし、アレクサンドロス大王を猛り狂わせたという調性です。なぜ「娯楽の踊り」の最初にこんな暗い舞曲をもってくるのか。それには理由がありそうです。

カプリオル

さて、私たちは今、広間の端に立っています。楽士たちはバス=ダンスを奏し始めます。どのような動きで、私たちは進み始めればよいでしょうか。

アルボー

最初の動きはレヴェランスreverence(挨拶)です。それは大文字Rで表されます。2番目の動きはブランルbranleでb、3番目の動きは2つのサンプルsimples(シングル)でss、4番目の動きはドゥブルdouble(ダブル)でd、5番目の動きはルプリーズrepriseで小文字rで表されます。

カプリオル

標準的な普通のバス=ダンスを踊るのに必要なものはこれですべてですか。

アルボー

バス=ダンスにも、バス=ダンスのルトゥール(折り返し)にも、他の種類の動きはありません。いま述べた種類の動きを何回も繰り返すのです。

バス=ダンスの動きに関する覚え書き

R b ss d r d r b ss ddd r d

r b ss d r b c.

カプリオル

最後に置かれたcという文字は、どんな意味ですか。

アルボー

それは相手のご婦人に対して行うコンジェcongé(別れの挨拶)のことで、ご婦人の手をとったまま軽くお辞儀をします。

pp.25v-26r

 つまり、5つの動きと最後の挨拶さえマスターすれば踊れる簡単な踊りだから、最初にもってきたのです。踊り方については長くなるので引用しませんが、跳んだり跳ねたりの複雑なステップはなく、『オルケゾグラフィ』を読めば私でも踊れそうです。当時の踊りを書き記すことで後世に残そうとした著者トワノ・アルボーの面目躍如です。

 それにしても暗くて重い。先生に訊くと、現代の楽器で演奏するから必要以上に重くなっているのかもしない、とのこと。前の記事で紹介した兵隊の行進のように、当時から一般に用いられていたであろう笛や太鼓で演奏すると、それほど暗い感じにはならないのかもしれません。

 ちょっと試してみました。


 どうですか。わりと牧歌的ですね。まだ練習し始めたばかりなので、どんなふうに仕上がっていくのかわかりませんが、個人的にはあんまり重い感じにはしたくないように思います。

アルボー

実はバス=ダンス全体は3つの部分から成るのですが、最初の部分が今言ったバス=ダンスで、2番目の部分がそのバス=ダンスのルトゥール、3番目すなわち最後の部分がトルディオンと呼ばれます。…

p.26r

 『カプリオル組曲』では、2曲目がパヴァーヌ、3曲目がトルディオンです。パヴァーヌはバス=ダンス以上に荘重な雰囲気の曲ですが、トルディオンは軽やかで生き生きとした拍どりになります。

 次回の記事は、パヴァーヌについての蘊蓄の予定です。


2022年11月23日水曜日

拍取りと太鼓のバトマン

 来年の定期演奏会で『カプリオル組曲』を弾くかもしれないので、その原典の『オルケゾグラフィ』を読んでいるという記事の続き。

 『カプリオル組曲』は、「Basse Danse」という舞曲から始まるのですが、『オルケゾグラフィ』は、踊る前にいろいろ音楽の基礎についての講釈があります。邦訳版から引用します。

アルボー

ではご要望に応えて、それについて私が知っていることをお話しましょう。こうした題材を扱ったり実際に踊ったりするのは、いま69歳でもある私にはふさわしくないかもしれませんが。

最初に戦いの踊り、その後で娯楽の踊りについて話しましょう。戦いの行進の際に使われる楽器としては、ブッキーナとトランペット、リテゥウスとクレロン、ホルンとコルネット、ティビア、フイフル、アリゴ、太鼓、それにこれらの楽器に類似したもの、同じく今言った太鼓に類似したものがあります。

p.6v

 アルボーの講釈は、まず兵士の行進の拍取りと太鼓のバトマン、つまり太鼓の打ち方の話から始まります。ここで、いまの四分音符(形は二分音符に似ていますが)にあたる「ミニマ」、八分音符(これも形は四分音符に似ています)にあたる「セミミニマ」、16分音符(くどいようですが、形は八部音符に似ています)にあたる「フーサ」の説明があります。下がその説明なのですが、四分音符は「タン」、八分音符2つのところは「テレ」、16分音符4つのところは「フレー」とかフリガナがついています。

The Library of Congress (https://memory.loc.gov/cgi-bin/ampage) より

 『オルケゾグラフィ』には原典としては、4つの版があることが知られていて、ヨーロッパの名立たる図書館などに所蔵されています。そして、この原典を複製した版がいくつか作製され、さらにそれらを写真に撮って複製した「ファクシミリ版」というのが20世紀後半から作られるようになりました。ここで紹介している画像は、米国議会図書館のデジタルアーカイブで公開されているもので、1589年に刊行された原典を撮影して作製されたファクシミリ版がもとになっていると思われます。原典に近いものがこんなに簡単に世界中から閲覧できるのはありがたいことです。

 邦訳版を読み進めていくと、兵士の行進や戦闘の際の太鼓のリズムについての説明が続き、そのリズムに合わせた笛の吹き方の説明が始まります。

カプリオル

これで私も多分、[太鼓の]バトマンと拍取りに合わせて、軍隊の歩調でうまく行進したり踊ったりできそうです。しかし、どうして鼓手には笛吹きがひとりふたり付いているのですか。

アルボー

私たちがフイフルと呼んでいるものは、6つの孔のあいた小さな横笛のことです。…このフイフルの代わりに、アリゴと呼ばれるいわゆるフラジョルとかフリュトが使われることがあります。…

カプリオル

フイフルやアリゴを吹くのに、何か特定の方法があるのですか。

アルボー

太鼓の音に合わせて区切りを付けさえすれば、奏者は好きなように吹いてよいです。でも、音楽家が第3旋法と呼んでいるフリギア旋法は自然に怒りの感情を呼び起こすので、リディア人が戦闘に赴くときに使ったと言われています。歴史が記すところによれば、ティモテオスがティビアをこの旋法で演奏すると、アレクサンドロス大王は戦闘に赴くために猛り狂ったように立ち上がりました。…彼はこの方法でインド人を征服したのです。インド人たちは、わめき散らしながら無秩序な群集の状態で前進してきたので、簡単に蹴散らされて負けてしまったのです。

pp.17v-18r 

 この対話の後で旋律のある譜表が示されます。「音楽家が第3旋法と呼んでいるフリギア旋法」というのは、注釈や解説をいろいろ読んで、たぶん、いまのニ短調ではないかと思われます。そう思って、書かれている譜表から旋律を再現してみました。


 いろいろわからないことを適当にやっているので、本当にこれで合っているかどうかは疑わしいのですが、アレクサンドロス大王を猛り狂わせた旋律としては、なんだか牧歌的というか…。まぁ刺激の少ない時代だったのでしょう。

 次回はいよいよ『カプリオル組曲』について書きます。

2022年11月22日火曜日

『オルケゾグラフィ』と『カプリオル組曲』

  前回の記事で、16世紀にフランスで著された音楽と舞踏の指南書、『オルケゾグラフィ』(トワノ・アルボー著)について紹介しましたが、今回はその続き。

 『オルケゾグラフィ』について知ったのは『カプリオル組曲』※がきっかけ。『カプリオル組曲』は、イギリスの作曲家ピーター・ウォーロック(1894-1930)によって作曲された組曲なのですが、そのオリジナルは、この『オルケゾグラフィ』に載っている楽譜です。『オルケゾグラフィ』には、いくつかの舞曲の例が掲載されていて、それぞれの曲に合わせてどのように踊るのかが解説されています。その多くは、太鼓のような打楽器が拍をとりながら、笛のような楽器で単旋律のメロディを奏でるようなものです。その舞曲がウォーロックによってアレンジされ、組曲になったのが『カプリオル組曲』です。

 ピーター・ウォーロックについては、いまのところ手元には、wikipediaのほかに情報がないのですが、イギリスの音楽評論家で、「音楽は主に独学で、自身が好んだ作曲家、特にフレデリック・ディーリアスやロジャー・クィルター、ベルナルド・ファン・ディーレンなどの作品から、独力で作曲を学んだ。またエリザベス朝時代の音楽や詩、ケルト文化などからも強く影響を受けている」と解説されています。アンサンブルのご指導をいただいている先生によると、イギリスの作曲家は、古典音楽をアレンジしてその音楽に新しい命を吹き込むことに長けた人が多く、ウォーロックもその一人だということでした。

 今年の1月に初めて、この曲が演奏されるのを聴いたのですが、最近、先生がご指導されている別のアンサンブルでも演奏したらしく、うちのアンサンブルでも、来年の定期演奏会に向けた選曲候補になっています。前回の記事でもご紹介しましたが、2020年に著者トワノ・アルボーの生誕500年を記念して『オルケゾグラフィ』の邦訳版が出版されたのも、この曲が演奏されるようになるきっかけになったのかもしれません。

 そんなことで、図書館で『オルケゾグラフィ』を借りてきて読んでいるのですが、これがなかなか面白い。というか、ぜんぜん面白くないのですが、じっくり読むと面白くなってきそうな内容だったので、少々値が張るのを奮発して、本屋さんに取り寄せてもらうことにしました。

 初めて聴いたときの記事でも紹介していますが、『カプリオル組曲』はこんな曲です。

 ご婦人を舞踏に誘うにはずいぶん深刻な旋律ですが、それについては次回かその次ぐらいの記事で私見を述べようと思います。


※ 『カプリオール組曲』と「オ」を伸ばして表記するのが一般的なようですが、『オルケゾグラフィ』の邦訳版で、「Capriol」を「カプリオル」と表記しているので、それに倣って表記します。

2022年11月20日日曜日

『オルケゾグラフィ』について


  『オルケゾグラフィ』は16世紀にフランスで著された音楽と舞踏の指南書。作者のトワノ・アルボーと堅物で処世術に劣るカプリオルとの対話形式で書かれています。表紙には「トワノ・アルボー著」と記されているのですが、これはこの本の中で講師役としてカプリオルにダンスを指南する人の名前。今日でいうところの「中の人」がいて、それがジャン・タブロ(1520~1595)。2020年にこの著者の生誕500年を記念して、道和書院から邦訳版が刊行されました。


アルボー

古代の踊りについては、たいした説明はできません。というのは、年月の経過でわからなくなったり、人々が伝えることをなおざりにしたり、記述することが難しかったりしたために、知識として残っていないのです。…われわれの父の時代の踊りでさえ今とは違っていたのですし、いまの踊りについても同じことが起こるでしょう。…

カプリオル

そうすると、先人たちの踊りが知識として残っていないのと同じように、今おっしゃった新しい踊りが、後世の人々にはまったくわからなくなってしまうことも考えられますね。…そうならないようにお力を貸していただけませんか。そういったことについて書き記してくだされば…先生がいらっしゃらない時でも、その理論と規範にのっとって生徒が自分の部屋で独習できるのは確かなのですから。

pp.4v-5r

 ここにこの本が著された動機が端的に示されています。

 やや毛色の異なる私事をもちこんで恐縮ですが、私の勤める会社はそこそこの人数の従業員がいて、数年に一度は人事異動があります。実にいろいろな部署があって、その部署によってやっていることは全く違うので、齢四十を過ぎていても、異動先の部署ではまったくの新人のようなもの。引継資料などはほとんどなく、OJTという名の場当たり的口述伝授によって業務が引き継がれます。新しいことに対応する力は身につきますが、これでは人が変わるたびに同じ苦労をすることになり、前任者と同じ失敗を重ねたり、前任者の事例を引き継げずに業務が劣化していったりしてしまいます。異動のたびに「これはいかん」と思って、時には百ページを超えるような引継書類を用意するのですが、これがまったく読んでもらえない。業務内容はA4用紙2ページほどに簡潔にまとめなければならず、くどくどと長い文章を書くのは能力のない社員のやることだと思われているのです。なにも百頁をすべて暗唱せよといっているわけではなく、業務を進める中で何かがあったときに「あ、そういえば前任者が何か書いていてくれていたな」と思い出して読んでくれればいいのですが、そうなると「前任者から引き継がれていません」という言い訳ができないので「簡潔に」などというのだろう、と穿って見てしまいます。引き継ぐ側にしてみれば、それまでこの百頁分ぐらいの仕事をやってきたのだし、それを遂行できるぐらいの能力のある人に対して、必要な知見を伝授するつもりで書いているのですが。

 いや、何が言いたいかと言えば、著者ジャン・タブロは、おそらく社交界でいろいろな経験を積み、『オルケゾグラフィ』が刊行された時には推定69歳。もう社交の第一線から退くほかない年齢になって、自分が積み上げてきたノウハウを人に伝え、後世に残すことを考えたのではないだろうか、と思うのです。私のように、自分のもっている知見を書き記すことによって人に伝えようとした人が500年前にもいたのだと思うと、愛おしく思えます。

 『オルケゾグラフィ』のもうひとつの魅力は、聞き手となるカプリオルの純真さです。

アルボー

まず、踊りの会場に入ったら、あなたが良いと思うしとやかなご婦人を誰か選びます。そして左手で帽子をとり、踊りに誘うために右手をそのご婦人に差しのべます。賢明で育ちの良いご婦人なら、左手をあなたに差し出し、あなたの誘いに応えて立ち上がるでしょう。…

カプリオル

もしそのご婦人に断られたら、私はたいへんな恥をかくことになりますが。

アルボー

育ちがよいご婦人なら、光栄にも踊りに誘ってくれる人を拒むことは、決してありません。そんなことをしたら、愚かな人だと思われます。踊るつもりがなければ、皆の中にいるべきではないからです。

カプリオル

そうは思いますが、それでも断られたら恥ずかしさにおそわれるでしょう。

pp.25r-25v

 舞踏の指南書なのか恋愛の指南書なのかよくわかりませんが、この本が著された時代は、音楽、舞踏、恋愛、社交といったものが渾然一体となっていたのでしょう。ただ恋愛指南のような記述はここだけで、あとは音楽と舞踏に関する記述が続きます。音楽については楽譜によって、舞踏については、解説と図示によって、そして楽譜の中に舞踏の型を書き込むような図によって、恋愛や社交に必要な音楽と舞踏の伝授がなされていきます。

 邦訳されているとはいえ、簡単にすらすら読める本ではありません。じっくりと読んで、また思うところをこのブログに書いていこうと思います。もしご関心があれば、「簡潔に書け」などとおっしゃらず、気長に読んでください。

2022年11月12日土曜日

スランプを克服するには

 どうもヴィオラの練習が行き詰っている。

 アンサンブルの方は定期演奏会も終わって、ぼちぼちという感じなので、それほど行き詰っている感じではないのだが、スタジオで受けているレッスンの方がなかなか進まない。来年の春の発表会に間に合うような気がしない。アンサンブルの場合は、弾けないところは練習せずに、弾けそうなところだけを練習すればよいのだが、発表会はそうはいかない。曲は少ないとはいえ、その曲はひととおり最初から最後まで弾けないといけないのだがら、まずは弾けないところから練習することになる。

 ところが、そのフレーズばかりなんど練習しても、そう簡単に弾けるようになるものではない。そのうちに指が吊りそうにさえなってくる始末。そうなると、他のフレーズも含めて練習が出来なくなってしまう。そんなことで、だんだん練習が嫌になってくると、家でやっていればお菓子に手が伸びる。お湯を沸かしてコーヒーを飲む。ちょっと休憩のつもりが、練習している時間よりも長い休憩になってしまう。

 とりあえず弾けているフレーズもなんだか雑な感じ。
あぁもぅ、とやっぱり練習する気が殺がれていく。

 今日はレッスンがあった。正直に、このところ練習がしっかりできていないことを言うと、「そんなこともありますね」と破顔一笑。「何を言っているの。しっかり練習しなきゃ発表会に出られませんよ」とお𠮟りを受けるのか、さすがに大人相手だからそんなことも仰らないまでも、心の中ではそう思いつつ「それは困りましたね」と困った顔をされるのか、いろいろ想像していたのだが、救われた感じ。

 嫌になるまで練習しても上達はしないから、嫌になる前に止めて、別の日に練習するとか、別のところを練習するとかすればいいですよ、とのこと。

 具体的なご助言としてはふたつ。

 ひとつは曲想をより具体的に思い浮かべながら弾いてみること。

 なるほど、理屈でなんとか弾こうとするのではなく、情景を思い浮かべてみたり、こんなふうに弾きたいということを考えてみたりすると、練習する意欲も沸いてくる。レッスンで先生に弾いていただくと、いつも何かそういう発見がある。

あ、ここで風が吹いてくる とか

あ、鳥が鳴いている とか

そういうのを感じながら練習すれば、それで弾けないところが弾けるようになるわけではないけれど、雑な感じがするところが、どうすれば雑な感じでなくなるかを考えることが出来るし、完成形をより高いレベルでイメージすることが出来る。

 もうひとつは、何か音源と一緒に弾いてみること。

 これは、前の先生には固く禁じられていたのだが、それは速弾きの癖がついてしまうからで、ゆっくりでいいので音源と一緒に弾いてみれば、弾けないところも弾けているような気がして楽しく練習できるし、それに曲想もつかみやすい。いっしょに弾きながら、

あ、ここはクレシェンドか とか

あ、ここはもっとやさしくだな とか

ただ聴いているだけよりも、よりイメージしやすいだろう。

 そんなわけで、今日、聞いたばかりなので、これでスランプが克服できたわけではないのだが、とっかかりは出来たので、明日から頑張ろう。

2022年11月1日火曜日

ふりがな

 楽譜を見て、初見でパッと弾けてしまう人は羨ましい。たとえば、「今度のコンサートのアンコール曲です」とか言われて配られた楽譜を見て、その曲を知っていても知らなくても弾けてしまう人。ゆっくりでも何でもいい。弾いてみて「あぁこの曲かぁ」なんて言ってみたいものだ。

 自分はというと、楽譜を渡されたら、まずYouTubeとかで音源を探して、あぁこういう曲か、とだいたいの全体像を掴んで、それから楽譜にフリガナを振っていく。最近はイタリア語で振ることが多い(つまり「ドレミ」ね)。その時にマイルールがあって、A線を弾くときは五線の上、D線を弾くときは五線の第3線と第5線の間、G線の時は第1線と第3線の間、C線の時は五線の下に書くと決めている。ドレミの書いてある位置でどの弦を弾くのかが直感的にわかるし、移弦するところがわかりやすい。ドレミを書くときは色のペンを使うのだが、その色も決まっている。スズキ教本でキラキラ星を弾くときの指の形を基本形として、この指の形で押さえるところは橙色。その半音下の場合は緑色、半音上の時は赤色。楽譜を読んで弾くというよりは、こうやって自分で書いたフリガナを読んでいる。五線の第3線と第5線の間に橙色で「ファ」と書かれていれば、それは「#ファ」でD線ファーストポジション2指。そんな変換を頭の中で直感的に行いながら弾いているのだが、ときどきその変換が追いつかないようなところが出てくると、「ドレミ」に加えて。あるいは「ドレミ」に代わって、指番号を書くようにする。これをアラビア語のフリガナと呼んでいる。書く位置や使うペンの色に関するルールはイタリア語の場合と同じ。

 さらに、休符明けの出るタイミングをとるために、他のパートの音型を書いたり、歌のある曲なら歌詞を書いたり、なんてことは青色のペンを使う。

 ハイレベルな楽団と違って、楽譜は一人ずつ譜面台を立てて見るようになっているので、どれだけ楽譜に書き込みをしようと、他人に迷惑がかかるわけではない。先日の定期演奏会では、アンコール曲の「カントリーロード」の楽譜が、何かの手違いでエキストラの方に渡っていなかったので、急遽、自分の楽譜をコピーして渡したのだが、なんともカラフルだ。アンコール曲は決まるのが遅いので、急いで練習しなければならないから、とにかくフリガナをすぐに書く。「ドレミ」と指番号の両方が書かれているところもあるし、カントリーロードの場合は歌詞まで書かれていた。もちろんカラーコピーして渡した。

 そんなことをやっておかないと、わりと簡単な曲さえも弾けない。自分で「情けないなぁ」といつも思うのだが、仕方がない。いつか、ある程度、上手な人と同じように、何もフリガナのないきれいな楽譜で弾けるようになりたいものだ、なんて思っているのだが、先般の定期演奏会で客演してくださったプロの先生のコメントがなかなかのご慧眼だった。

初心者の方々の指番号入りの譜面を拝見、ものすごい努力であの場に座っておられることにも、驚きました。

 自分が「情けないなぁ」と思って、いつか先生みたいにこんなことしなくても弾けるようになりたいと思いながらやっていることを、とてもポジティブに、それが何かとても尊いことのように捉えてコメントされていることに、ものすごく励まされた。プロの先生が仰るからこそ励みになる言葉なのだと思うが、これからはこのコメントをお守り代わりにして、エキストラの方にフリガナだらけの楽譜のコピーを渡すときも、堂々と、誇りをもって渡そうと思う。