今日はレッスンがあった。
スタジオに着いてまず事務室に行くと、「発表会の曲です」といって楽譜をもらった。ヴィオラ譜だ。このところずっとヴィオラばかり見ていただいているので、発表会のアンサンブルでも当然、ヴィオラ係。それもどうも私一人だけのようなので責任は重大だ。
そんなことを思いつつ楽譜を見ると、お、なんと、いつも脇役のヴィオラが、いきなりイントロから主旋律じゃないか。同じ レミファーミファーラーミー でも、ヴァイオリンにはないヴィオラの渋みで、しっぽりと始まる・・・。これはなかなかヴィオラ冥利に尽きるアレンジだ。
そのしっぽりが終わると、ヴィオラの定めともいえる刻み。刻み。刻み。ま、これはしゃあないわね。ヴィオラなんだし。
そして後半。
これはびっくりだった。
怒涛の重音攻撃。5度以下の、つまりアーチを作らないといけない重音も炸裂。しかも小指をアーチにして薬指でポイントするなんて無理だし。ヴィオラ一人だから同じパートの人と分担することもできないし。
むむむ・・・
これ、本当に弾けるのだろうか。
2014年5月20日火曜日
フレーズはストーリーで覚える
レッスンではバッハ無伴奏チェロ組曲1番プレリュードをヴィオラで弾くところを見ていただいている。前にもこのブログの記事に張り付けたが、ヴィオラで弾くとこんな感じになる。
この動画でいうと、1分23秒ぐらいのところでフェルマーがかかって、いったん曲が終わった雰囲気になってから、それまでとは異なる展開になっていく。そこのところが、なんとなく音をひとつひとつ拾っていっているようで、フレーズとしてのつながりがない。
それは自分でもわかっていたのだが、今回のレッスンではヒントをもらえた。
そこから1分56秒ぐらいまでは、上昇音階と下降音階が交互に繰り返されるのだが、上昇音階は男性によるバリトン、下降音階は女性によるソプラノで、お互いが対話するように弾きなさい、ということだ。 この動画ではちょっとわかりにくい。たぶん、そういうイメージではないのだろう。
だけど、先生のこのアドバイスはなかなか斬新だった。
男性と女性が言い争いをしているような感じで、男性の方はあくまでも理を唱え、女性の方は感情に訴えて時には涙も流す。そういうシーンが目に浮かんでくるようではないか。
前半のところはどこか牧歌的な曲想だが、後半のこの部分はかなり様相が違う。そして、2分目ぐらいからはさらに様相が異なってくる。
これはたぶん、この曲のあとに始まる本編のプレリュードとして、映画の予告編か、火曜サスペンス劇場の冒頭の、テーマ曲が流れる前の、ドラマのハイライトをちょっとずつ映して「今日は見ようかな、どうしようかな」と思っている視聴者をテレビの前に座らせるあれみたいな効果を狙ているのだと思う。
前半は、ドラマの主人公二人が出会った田園風景だと思う。あるいは海かもしれない。クレッシェンド、デクレッシェンドを繰り返しながら弾いていると、なんとなく渚に波が寄せては引いていくような感じがする。1分12秒ぐらいから、その牧歌的な風景にやや変調が現れる。それまでの単調で貧しい生活から何か変化を求めるようなフレーズになっている。
1分23秒からは、さきほども言ったように、男性と女性が言い争うような感じ。「あの貧しい生活は嫌だといったじゃないか」「いま自分たちの生活はこんなに豊かになっている」と男性が主張するのに、「だけど、何か大事なものを失ったようにおもう」と女性がいう。そしてハラハラと涙を流す。
1分55秒から2分15秒までのフレーズは、ずいぶん都会的だ。なにか工場で次々に製品が作られているような、あるいは石畳の上を忙しなく人々が行きかっているような感じだ。きっと男はそんな都会の生活に夢を描いていたに違いない。
さあこのドラマ、果たしてどんな展開になるのか。
2分15秒からの最後のフレーズは、そのあとに続く本編への導入部分。「さあ、これから始まりますよ」という感じだ。
お、なかなかいい感じのストーリーが出来た。ちょっとそんなふうに聞えるように頑張ってみよ。
この動画でいうと、1分23秒ぐらいのところでフェルマーがかかって、いったん曲が終わった雰囲気になってから、それまでとは異なる展開になっていく。そこのところが、なんとなく音をひとつひとつ拾っていっているようで、フレーズとしてのつながりがない。
それは自分でもわかっていたのだが、今回のレッスンではヒントをもらえた。
そこから1分56秒ぐらいまでは、上昇音階と下降音階が交互に繰り返されるのだが、上昇音階は男性によるバリトン、下降音階は女性によるソプラノで、お互いが対話するように弾きなさい、ということだ。 この動画ではちょっとわかりにくい。たぶん、そういうイメージではないのだろう。
だけど、先生のこのアドバイスはなかなか斬新だった。
男性と女性が言い争いをしているような感じで、男性の方はあくまでも理を唱え、女性の方は感情に訴えて時には涙も流す。そういうシーンが目に浮かんでくるようではないか。
前半のところはどこか牧歌的な曲想だが、後半のこの部分はかなり様相が違う。そして、2分目ぐらいからはさらに様相が異なってくる。
これはたぶん、この曲のあとに始まる本編のプレリュードとして、映画の予告編か、火曜サスペンス劇場の冒頭の、テーマ曲が流れる前の、ドラマのハイライトをちょっとずつ映して「今日は見ようかな、どうしようかな」と思っている視聴者をテレビの前に座らせるあれみたいな効果を狙ているのだと思う。
前半は、ドラマの主人公二人が出会った田園風景だと思う。あるいは海かもしれない。クレッシェンド、デクレッシェンドを繰り返しながら弾いていると、なんとなく渚に波が寄せては引いていくような感じがする。1分12秒ぐらいから、その牧歌的な風景にやや変調が現れる。それまでの単調で貧しい生活から何か変化を求めるようなフレーズになっている。
1分23秒からは、さきほども言ったように、男性と女性が言い争うような感じ。「あの貧しい生活は嫌だといったじゃないか」「いま自分たちの生活はこんなに豊かになっている」と男性が主張するのに、「だけど、何か大事なものを失ったようにおもう」と女性がいう。そしてハラハラと涙を流す。
1分55秒から2分15秒までのフレーズは、ずいぶん都会的だ。なにか工場で次々に製品が作られているような、あるいは石畳の上を忙しなく人々が行きかっているような感じだ。きっと男はそんな都会の生活に夢を描いていたに違いない。
さあこのドラマ、果たしてどんな展開になるのか。
2分15秒からの最後のフレーズは、そのあとに続く本編への導入部分。「さあ、これから始まりますよ」という感じだ。
お、なかなかいい感じのストーリーが出来た。ちょっとそんなふうに聞えるように頑張ってみよ。
2014年5月6日火曜日
ヴィヴァルディの生涯を推理小説風に
アントニオ・ヴィヴァルディの生涯に、やや斜め方向から光を当てた「ピエタ」という小説を読んだ。著者の大島真寿美さんという方の本は初めて読む。タイトルにも書いた通り、まるで推理小説のような仕立てで、本当に面白かった。1日も掛けずに読み終えてしまった。
タイトルの「ピエタ」は、ヴィヴァルディが司祭を務めていた修道院の名前で、ピエタ修道院には大勢の孤児たちがいて、ヴィヴァルディはその孤児たちのためにいろんな曲を書いた。この辺りまでは、私も、自分の好きなバロック音楽やヴァイオリンの周辺知識として持っていたのだが、その史実をもとに、孤児やヴィヴァルディにヴァイオリンを習った富豪の娘など、彼を取り巻く様々な人の言葉から、ヴィヴァルディの生涯が語られていく。どこまでが史実でどこからが創作なのかはよく分からないが、本のページからまるでヴィヴァルディの曲が聴こえてくるような臨場感のある文章だった。
物語は、アントニオ・ヴィヴァルディがウィーンで亡くなったところから始まる。孤児といっても、45年間、ピエタ修道院に仕えるアンナとエミーリアは、富豪の娘(といっても、昔は娘だったという年齢だが)でヴィヴァルディにヴァイオリンを習ったヴェロニカに、1枚の楽譜を探してほしいと頼まれる。その楽譜を見つけるために、生前のヴィヴァルディと親交のあったさまざまな人を訪ね歩く。その人たちの言葉で語られるヴィヴァルディの生涯。司祭という職業が大方似合わない、奔放で、優しく、そして気骨のある人間像が描かれている。そしてそれがヴィヴァルディの音楽と結び付けられている。
ヴィヴァルディという、すでにこの世にいない人物を通じて結びついていくさまざまな身分、さまざまな立場、さまざまな考えの人たち。果たして、探していた楽譜は見つかるのか。
終盤に、ヴィヴァルディの妹、ザネータと、ヴィヴァルディが彼女のためにいくつもの歌曲を作った歌姫、パオリーナとの間に、こんな会話がある。
もちろん、この会話は史実ではなく創作なのだが、まるでこの二人が250年後の未来を知っていたかのような会話ではないか。
物語の最初と最後に、L'Estro Armonicoを合奏するシーンがある。「調和の霊感」と邦訳されているヴィヴァルディの初期の作品集だ。私が初めての発表会で弾いた6番。バヨ会で何度も弾いた1番、7番、11番。11番は私がヴィオラを始める切っ掛けにもなった曲だ。ピエタの孤児たちと同じように、私の周りにもいつもこの曲があった、思い出深い曲だ。
小説を読んで、またこの曲を弾きたくなった。
タイトルの「ピエタ」は、ヴィヴァルディが司祭を務めていた修道院の名前で、ピエタ修道院には大勢の孤児たちがいて、ヴィヴァルディはその孤児たちのためにいろんな曲を書いた。この辺りまでは、私も、自分の好きなバロック音楽やヴァイオリンの周辺知識として持っていたのだが、その史実をもとに、孤児やヴィヴァルディにヴァイオリンを習った富豪の娘など、彼を取り巻く様々な人の言葉から、ヴィヴァルディの生涯が語られていく。どこまでが史実でどこからが創作なのかはよく分からないが、本のページからまるでヴィヴァルディの曲が聴こえてくるような臨場感のある文章だった。
物語は、アントニオ・ヴィヴァルディがウィーンで亡くなったところから始まる。孤児といっても、45年間、ピエタ修道院に仕えるアンナとエミーリアは、富豪の娘(といっても、昔は娘だったという年齢だが)でヴィヴァルディにヴァイオリンを習ったヴェロニカに、1枚の楽譜を探してほしいと頼まれる。その楽譜を見つけるために、生前のヴィヴァルディと親交のあったさまざまな人を訪ね歩く。その人たちの言葉で語られるヴィヴァルディの生涯。司祭という職業が大方似合わない、奔放で、優しく、そして気骨のある人間像が描かれている。そしてそれがヴィヴァルディの音楽と結び付けられている。
ヴィヴァルディという、すでにこの世にいない人物を通じて結びついていくさまざまな身分、さまざまな立場、さまざまな考えの人たち。果たして、探していた楽譜は見つかるのか。
終盤に、ヴィヴァルディの妹、ザネータと、ヴィヴァルディが彼女のためにいくつもの歌曲を作った歌姫、パオリーナとの間に、こんな会話がある。
ザネータ : | 兄の音楽はもう、人々には求められてはいないんですね。兄の音楽を愉しんだ人が昔はあんなに大勢いたのに。栄光の時代は終わったということですか。 |
パオリーナ : | 何を仰るんですか、ザネータさん。大丈夫ですよ、先生の音楽は、たとえいっとき、そのような扱いを受けたとしても、必ず、蘇ってきますから。いつかまたヴェネツィア中に先生の音楽が響きわたりますよ!・・・また必ず、人々が聴きたくてたまらなくなります。 |
もちろん、この会話は史実ではなく創作なのだが、まるでこの二人が250年後の未来を知っていたかのような会話ではないか。
物語の最初と最後に、L'Estro Armonicoを合奏するシーンがある。「調和の霊感」と邦訳されているヴィヴァルディの初期の作品集だ。私が初めての発表会で弾いた6番。バヨ会で何度も弾いた1番、7番、11番。11番は私がヴィオラを始める切っ掛けにもなった曲だ。ピエタの孤児たちと同じように、私の周りにもいつもこの曲があった、思い出深い曲だ。
小説を読んで、またこの曲を弾きたくなった。
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