2019年12月30日月曜日

チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲

 今年の演奏会収めはハイレベルのアマオケ。チャイコフスキーとシベリウスという組み合わせ。この辺りになると1曲が長い。そして難しそう。なかでもチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲というのは難曲という定評があるらしい。ソロはプロの方だった。
 引用した映像では五嶋みどりさんが弾いているが、聴きに行った演奏会では、若手の男性奏者だった。いや、もう、すごい超絶技法。どこを見ていたらいいのかわからないぐらいすごかった。というか、そういう目で見る必要もないのだけれど。

 シベリウスの演奏の前に団員の方が仰るには、楽譜をそのままなぞると音楽になるというのではなくて、作曲者の意図だとか時代背景だとかを考えて弾いていかないと音楽にはならない」とのこと。これは特にシベリウスがそうだという意味で仰っておられたのだが、バッハやモーツアルトばかりを弾いている身からすると、チャイコフスキーもドボルザークもプロコフィエフも、総じてベートーヴェン以降のものは全部そういうもののように思える。「鳥が歌う」「風が枝を揺らす」といった音ではなく、「喜」「怒」「哀」「楽」といった単純な心理描写じゃなく、目に見える情景描写でもない、なにかもっと複雑なものが音楽で描かれているように思う。村上春樹の小説を読むような、そんな感覚だ。きっと、演奏技法が先にあるのではなく、音楽家が表現したいものが先にあって、それを表現するために技法があとからついてくるのだと思う。チャイコフスキーの場合、表現したいものが、当時の技法からするとずいぶん先の方にあったのに違いない。だから「難曲」のレッテルが張られたのだろう。それが次第にまわりがチャイコフスキーに追いついてきて、「そうだ、それを弾いてみたい」という気持ちが演奏家と共有されて、そこに技法が追いついてきて、それでいまにこの曲が残ったのだと思う。

 いろいろ忙しい一年で、コンサートはあまり行けなかったが、行ったコンサートに「はずれ」はなかった。来年も、いいコンサートにいくつも行ける年にしたい。

2019年12月22日日曜日

やはり「慣れ」か

 前回は、楽器は弾いているうちに音の響きが良くなるのは、実は自分が弾いている音に慣れてくるだけなのでは、という仮説を立てたのだが、今回はもっと本質を
ズバッ
と突くかもしれない。

同じ曲ばっかり弾いているうちに、その曲が弾けるようになるのは、技芸が上達しているからではなく、たんにその曲に慣れてきたからではないのか。

 このところ、新世界だとか白鳥湖だとかGアリだとか、目の前にある面白そうなものばかりを弾いていて、レッスンもそれらの曲になってしまっていたので、発表会で弾く予定のヘンデルのヴィオラソナタ(じつは贋作)はすっかり放置状態になっていた。そうすると、弾けていたはずのフレーズがまったく弾けなくなっている。
まずい
心を入れ替えて精進しなければ。
↑ これはかなり真剣にそう思った。

 それで、レッスンのはじめにそれを言ってみる。

私 : 先生、これから心を入れ替えて真剣に練習します。
先生: いままで真剣じゃなかったのですか。
私 : 真剣は真剣でも、その真剣さがこの曲に向かっていなくて。
    この曲ばっかり練習したら弾けるんですけど、
    しばらく弾かないと弾けなくなるんです。
先生: それは奥の深い悩みですね。
    基礎から積み上げていけば、初見は無理でも、
    ある程度は弾けるんですけど。
私 : (セヴシックを差し出す)

 ただ、基礎練習にはなかなか身が入らないのもお見通しで、「それじゃセヴシックからもう一度しましょうか」とも仰らない。これまでも何度か仰っておられるのだが、曲の中のフレーズを基礎練習だと思ってやる。例えば、ポジション移動のところで音が取らないのなら、そのフレーズをポジション移動の練習だと思って何度もやるとか、音階やアルペジオになっているフレーズも、音階練習やアルペジオの練習のつもりでやるとか、そういうことだ。
 そこに今回はもうひとつスパイスが。
 そのフレーズを戻る
 つまり、上昇音階のフレーズで、例えばその途中にポジション移動なんかがあってうまく音程が取れないとしたら、そのフレーズを練習した後で、次は下降音階を練習する。すると、だんぜん基礎練習ぽくなる。それでいて、今度の発表会で弾くこの曲のこのフレーズだ、という意識はあるので、基礎練習だからといってモチベーションも削がれない。実際にやってみると、これが思いのほか上手くいかない。こういうところで基礎を疎かにしていることが露呈してしまう。

 やっぱり、同じ曲ばっかり練習してそれが弾けるようになるのは、ヴィオラが弾けるようになるのとは別物なんだな。



2019年12月15日日曜日

久しぶりにヴァイオリンを弾くと

 ここ数年、ヴィオラばかり弾いているのでヴァイオリンケースを開いたことがない。このブログの記事を読み返してみると、2年前にヴァイオリンの弓毛を交換している。それも、弾いて摩耗したからではなく、カツオブシムシとかいう虫の幼虫に毛を食べられたからだ。そのときの記事でも「しばらく弾いていない」と書いているが、その後、弓毛を変えたヴァイオリン弦には松脂も塗っていない。音を出せないときにそれでヴィオラを弾いたりするのに使っているだけだから、もう少なくとも2年は弾いていない。4年半ほど前の記事にはバッハのドッペルを弾いていることが書いてあるので、そのころはまだヴァイオリンを弾いていたはずなのだが。

 それで久しぶりに弾いてみたのだが、
 なんて小さいのだ!
 そして
 軽い!
 指が届きやすい!
 なのだけれど、なんか音が変。このヴァイオリン、こんな音だったっけ?、という音しか出ない。はたして、その原因は?
 ということで、いくつか仮説を立ててみた。
  1. ヴィオラとヴァイオリンの違い説
    ヴィオラの方が筐体が大きい分、響きはふくよかだし、たっぷりと豊かなおとがする。それに慣れているから、同じ曲をヴァイオリンで弾くと、どっか響きの貧弱な音のように聞こえたのではないか。
  2. 価格の違い説
    ヴァイオリンのことを知らない人に値段の説明をするときは、クルマの値段の1/10ぐらいと説明するのだが、その例で行くと、ヴァイオリンはホンダのフィットとかスズキのソリオとか、いわゆるコンパクトカークラス。ヴィオラの方はホンダのフリードとかスバルレヴォーグとか、そんな高級車じゃないけれどコンパクトカーよりはワンランク上。やはり、ドライブの楽しさも値段に比例するのか。
  3. 長期間放置が原因説
    ヴァイオリンもヴィオラも、ピアノに比べると構造は至って簡単。複雑な機構を調律して音を調整するというよりも、何度も弾いているうちに材料の木が変化して、その人の癖に合わせて響くようになっていく。放っておけば、やはり木が変化して響かなくなるのか。
  4. 単なる慣れ説
    ヴィオラでもヴァイオリンでも、高いものでも安いものでも、しばらく放ったらかしていたものでも、ちゃんと弾けばちゃんと響く。ヴァイオリンもヴィオラも、もともと全然響いていなかったし、いまも響いていないのだけれど、普段その響いていないヴィオラの音を聴いているから、それに慣れて響いていると勘違いしているだけ。
うむ。どれも説得力があるような、ないような。でも4だけは反証できない。

 もしかすると、よく弾いていた時もこんな音だったのかもしれない。ただ弾いているうちに慣れてしまっていて、それがいい音だと思うようになっていたのが、ヴィオラばっかり弾くようになってヴィオラの音に慣れてしまうとこんなふうに聞こえてしまうのか。
 




2019年12月8日日曜日

流行りのグループレッスン

 この夏からアンサンブルレッスンが始まった。いつもの45分レッスンを30分に切り詰めて、3人が15分を持ち寄って45分のアンサンブルレッスンをする、というパターン。なので、いつもアンサンブルレッスンと個人レッスンのダブルヘッダーになる。

 この秋のドラマで、ヴァイオリンのグループレッスンで知り合った3人を主人公にしたのがあって、素人ヴァイオリンに風が吹いている。微風だけど。あのドラマを見れば、「あ、大人からでも始められるんだ」とか「カラオケボックスで練習すればいいんだ」とか「大学生でも買えるぐらいの値段なんだ」とかいったことがわかる。スタジオの奥さんとの話では、先生役の桜井ユキの演奏は吹替だけれど、生徒役の演奏は吹替なしではないか、ということになった。俳優さんで才能に恵まれていることは差し引かないといけないけれど、少し練習すればこれぐらいは弾けるようになる、というのも割とリアリティがあるようにも思う。このチャンスに生徒さん増やしましょうよ、などと事務所で軽口を叩きながらスタジオに入る。

 前回から、バッハの「主よ」が練習曲に加わった。最初に合わせた時は「最後まで通せたよ」というレベルで満足していたのだが、今回はかなりレベルが上がっている。先生の声に合わせてリズムを取るのではなく、お互いの音を聞きながら弾くレベルまできた。先生のご指導も、「そこは○○の音を聞いて」とか「○○の旋律をいっしょに弾いているつもりで」というような内容になっているし、弾いていても、「いまのところはハモっていなかった」「タイミングが合わなかった」といったことが気になるようになってきた。個人レッスンをいっしょにグループでやるのではなくて、アンサンブルになるためにどうすればいいかという内容の濃いものになっている。
 3人で合わせるので、ひとりひとりが例えば10ポイント上達したとすれば、全体で30ポイントの上達になる。その差が割とはっきりとわかるので、レッスンも楽しい。練習にもモチベーションが湧く。時間がたつのも早い。スタジオにはいろいろとお手間をかけているけれど、やってもらって良かったと思う。
 ちなみにメンバーは年配の男性ばかりなので、ドラマのような恋のドキドキ感はない。

 他の方の個人レッスンの間、また事務室で、3人の中では松下由樹がいちばん上手そうだ、などとどうでもいい雑談をしながら時間を待つ。あ、3人ってそっちの3人ね。

 個人レッスンは30分に切り詰められているだが、今日はちょっと「G線上のアリア」を見てほしいとお願いした。ドラマでは、素人でも数ヶ月でこれが弾けるという設定になっている。そこのリアリティは人によって意見が分かれるが、私はそこそこリアリティはあると思う。ただ、「ほらG線上のアリアが弾けますよ」という演奏から「聴かせられる」演奏に持って行くところはたいへんだ。最初の音なんて、「ミーーーーーーーー」て伸ばしているだけだから、難易度としてはそれほど高くないように思えるかもしれないが、これを音色とか表現力とかでちゃんと聴かせられるようになるということは、そう簡単なことではない、というかめっさ難易度が高い。先生が本気でご指導をされれば、「ミーーーーーーーー」だけで30分かかってしまうだろう。なかなか奥の深い楽器だ。




2019年12月1日日曜日

「G線上のアリア」書誌学的考察

 テレビドラマで注目の曲。こういう流行りを押さえておけば、例えば、忘年会で「なんか弾け」と言われたときに困らない。ちょっとまとまった練習時間があるときには、「指慣らし」にちょうどいいかも。

 ふつうのヴァイオリンブログなら、ここで「弾いてみた」音源とか動画とかをアップするのだけれど、残念ながらそのご期待にはあまり応えることが出来なので、ここは別の角度から薀蓄を述べることにしたい。

 ドラマでは「バッハのG線上のアリア」と言って憚らないのだが、実はこの言い方は正確ではない。『音楽中辞典』(音楽之友社,1979)によると、「G線上のアリア」は、「バッハの管弦楽組曲第3番の第2曲《アリア》をヴィルヘルミ(1845~1908)がヴァイオリンのG線だけで演奏するように編曲した曲」だそうだ。「編曲」というのは創作の一形態なので、「G線上のアリア」を創作したのは誰か、となると、ドイツのヴァイオリニスト、アウグスト・ヴィルヘルミということになる。バッハが作曲した「管弦楽組曲第3番」とは別の著作物と言える。
 写真の楽譜は、パブリックドメインとなっているバッハの管弦楽組曲第3番第2曲の楽譜をネットからダウンロードしてきて、ハ長調に移調し、1オクターブ下げたうえに、ネット上にあるこの曲の音源から一部を手直しし、さらに自分が弾きやすいようにアレンジをしたオリジナルの楽譜だ。確かに自分で「編曲」らしきことをしているが、この創作のなかのもっとも重要な部分、つまりハ長調に移調して1オクターブ下げるというアイデアは、100年以上も前に既にヴィルヘルミが行っているので、これをヴィルヘルミとは別の新しい著作物ということはできない。ヴィルヘルミの著作である「G線上のアリア」を記譜という形で新たに表現したもののひとつにすぎない。ただし、ヴィオラでの演奏のためにハ音譜で書かれている点は、かなり特異な点と言えるが、それとて世界で初めてのものではあるまい。
 この楽譜を作成するためにダウンロードしてきたバッハの管弦楽組曲第3番の第2曲の楽譜には、英語で「Air from Orchestral Suite No.3/J.S.Bach」と書かれていたので、標題には「from J.S.Bach Orchestral Suite No.3」と英語で副題をつけている。しかし、もともとドイツ人であるヴィルヘルミの著作物なので、標題はドイツ語で「Air auf der G-Saite」とした。しかし、この判断はかなり怪しい。
 ヴィルヘルミのこの著作物は、おそらく最初はヴィルヘルミ自身の「演奏」という「表現」の方法で人々の前に公開されたのに違いない。もちろん、そのころに録音や動画を残せる技術はなかったので、この表現形は現存しない。次にそれをヴィルヘルミ自身かあるいはその演奏を聴いた人が記譜することによって、「楽譜」という表現形で人々に公開された。おそらくこれがこの著作物の原型といえそうだが、果たしてそこに「Air auf der G-Saite」と書かれていたのかどうかは怪しい。「G線上のアリア」は、もっと後になって、誰かが、あるいは特定の誰かではなく人々が、この曲を呼称するのに用いるようになった標題で、最初の楽譜には、たとえば「Air」とか、そんなふうに書かれていたのではないかと思う。そうだとすると、例えばドイツのどこかの図書館の貴重書庫にこの曲の初期の楽譜があったとしても、「Air auf der G-Saite」というキーワードでそれを探し出してくることは難しそうだ。
 仮にそれが探し出せたとして、そこに「バッハの管弦楽組曲第3番の第2曲をもとにアウグスト・ヴィルヘルミが編曲した」ということが書かれてあれば(おそらく書かれていると思うが)、それでやっとこの曲とヨハン・セバスティアン・バッハとを結びつけることが出来る。
 ということで、私の楽譜では、創作者は「August Wilhelmj」として副題に「J.S.Bach」を入れている。

 そこにこだわるよりも、演奏の上手い下手にこだわれよ。

 いや、ごもっとも。