2020年6月20日土曜日

松脂を炙る


 ちゃんとした弦楽四重奏だとチェロが、ズンパッパ、というリズムを刻んでくれるのだが、いつものアンサンブルはヴァイオリン2本とヴィオラ。渡された曲はメヌエット。ヴィオラが「ズンパッパ」とリズムを取らないといけない。ところが、特にG線やC線になると、弓を動かしてから音が出始めるまでに、わずかに「フシュッ」と滑る感じがある。当然、頭の中で描いている通りのリズムにならない。同じような問題が、速いパッセージを弾くときにもあって、2音ずつのスラーなんかだと、最初の音が鳴らないうちに2音目だけが大きく響いてしまう。
 まだ弓毛も弦も交換したばかりだ。この交換でかなり良くはなったのだが、馴れというのはすごいのか、もう1ヶ月以上もこれで弾いていると、まるで前からこうだったように思えてきて、なおかつそれを道具の所為にしようという「何とかバイアス」というのが働く。といっても、弓を変えたり楽器を変えたりというのはたいへんだ。数千円以内で変えられるものといえば松脂ぐらいしかない。
 そういえば思い当たる節がないわけでもない。以前は、練習し終わったら駒の周りは松脂だらけだったし、丹念に松脂を塗ったあと弓をトントンと叩くと弓毛から粉が落ちたりしたものだが、最近はそういうことがない。しかし、松脂というのはいちど買えばなかなか減らない。落として割れたりということでもなければ買い替えるチャンスというのはそうは巡ってこない。当てにならないことの方が多いネット情報に当たってもみたが、松脂を変えて音が変わった、なんて記事もない。このコロナ禍の中ですっかり出不精となってしまった身には、隣町の楽器店までいって松脂を買うことがすっかり億劫になってしまっている。
 それでこんな仮説を立ててみた。

 松脂の表面が
 乾燥だとか酸化だとかによって
 劣化しているのではないか

 だとすれば、わざわざ新しい松脂を買わなくても、表面を何とかして、まだ劣化していない内側を使えばよい。
 例えば、真っ二つに割る、とか、表面を削る、とか。
 お出掛けするのはそれを試してからでもいい。
 実際にやったのは、松脂をライターで炙ること。ネットの情報によると、松脂の融点は摂氏70度。少し炙れば数秒で溶ける。このまま炙り続けると、溶けた松脂がぽたぽたと滴りそうなのだが、そこまではやらない。表面は、何度も弓毛にこすりつけているので、細かい傷がついてざらざらした状態だったのだが、いちど溶けて固まれば、ツルツルになって、琥珀色の半透明になる。この状態で少し冷ます。

 そしていよいよ使ってみる。
 いちど弓毛で表面をこすると、1時間ほど前のようにざらざらの状態に。いつもより丹念に塗って弾いてみる。
を!
弓と弦の接するところから粉が出ている。駒の周りが粉だらけだ。以前には良くあったのだが、最近はこういうことはなかった。
 では音は?
 圧倒的に弾きやすくなった、とは思えない。こんなに松脂を塗っているのに、やっぱり滑ることは滑る。
やはり道具の所為ではなかったのか(←そりゃそうだろ)

 しかし、このあと衝撃の出来事が起こる。

 1時間ほど練習をして、階下に降りると、娘がテレビを観ていた。練習で少し疲れたのでコーヒーでも飲もうかとお湯を沸かし始めると、娘がわざわざ「おとうさん、今日はいい音がしていた」という。おそらく「いつもの変な音と違って」という部分が省略されているのだが、それにしても、娘にヴィオラを褒められたのはこれが初めただ。

 みなさん。やはり道具はだいじですよ。道具は。
 道具の所為にするのは恥ずかしいことではありません。
 


2020年6月13日土曜日

レッスン再開後の第1回

 2ヵ月ぶりにレッスンがあった。玄関や事務室の扉が換気のために開け放たれていること、会場に消毒液が置いてあること、先生も私もマスクをしていることなどを除けば、いつものレッスンと同じ。オンラインレッスンとかじゃなくて、リアルレッスンだ。やはり、これはいい。
 ただ、今年、予定されていた発表会はことごとく中止か、延期という名の事実上の中止。先生が複数の教室で面倒をみられている生徒の発表会は、3月に予定されていたものが7月に延期され、結局7月もできずに来年3月に。これは毎年3月にされているそうなので、延期というより中止。しかし、今年3月には発表会代替の弾き合い会があったので、中止ではなく規模縮小と言えなくはない。スタジオの発表会は、子供は毎年、大人は2年に1回だったのだが、今年は中止。いつも8月なのだが、来年の3月とかにするかもしれない。子どもの生徒が減っているらしく、次は大人と子供をいっしょにしようと考えておられるようだ。発表の場がなくなるのは、大人でもモチベーションが下がってしまうのだが、子供ならなおさらだろう。夏の甲子園が中止になってガックリしながらも「ぼくたちは決められたことに従うだけです」なってことを言わされている球児も多いことだろうけど、それと同じ。衝撃の大きさや強さは主観なので比べようがないが。

 それで今日のレッスンの内容だが、新しく課題になったメヌエットを初めて見ていただく。これを発表会で弾くということではなく、アンサンブルの練習のために選曲されたようだ。私のパートはもともとチェロなのだが、チェロらしく"ズゥンズゥンズゥン"という音を出そうとして、メヌエットになっていなかった。先生が弾くと、ヴァイオリンでも"ズゥンタッタッ"というベースラインになる。それもちゃんとメヌエットだとわかるようなベースラインだ。そりゃそうだ。メヌエットなんだから。これはもう一度、練習のやりなおしだ。
 ヘンデルのヴィオラコンチェルトは、この間の練習の成果で「だいぶ練習されましたねぇ」と褒められた。それでも、高いポジションになると音程が乱れがち、移弦の忙しいところで他の弦を鳴らしがち、フレーズの変わり目で準備を怠りがち、弓を返したり移弦したりするところで滑りがち、とまあ、いろいろ問題はあるのだが。速く弾く練習ではなく、ゆっくりと弾いて、「がち」「がち」となっているところを丁寧に改善していくこと。曲を通すのではなく、特にできていないところを繰り返し練習すること。嗚呼、これいつも言われることだよな。「新しい生活スタイル」どころか、すっかりコロナ前に戻ってしまっている。これはいいのだかいけないのだか。

2020年6月6日土曜日

コロナと音大生

 緊急事態宣言が解除になって、学校も少しづつ始まった。教科書の2割は「授業外」で、なんてことも言われているが、子供が学校に通えるようになったことは明るいニュースだ。いま、この病気の特効薬やら検査薬やらワクチンやら、あるいは治療法やらを研究している人が世界中にいる。そういう人たちも以前は小学生だったわけで、運動会や遠足も経験していることだろうし、そこでうまくいったりいかなかったりしたことがその人の人格を作っていって、それがその人の「矜持」というか、いま自分はこれをしなければいけないといった使命感のようなものとか、それに対する誇りとか、そういうものを作り出していっているのだと思う。学校閉鎖によって教育を受ける機会が奪われることは、普段なら経験できることを経験できずに、普段なら得られる知見や能力を得られずに、子供たちが大人になるということなので、その分、将来の社会が劣化してしまう。将来、私たちの社会がどんな問題に直面するのか分からないが、いまの子供たちにはそれを乗り越える力を身に着けてもらわないといけない。それはただ単に知識や能力だけの問題ではなく、大人になっても勉強していこうという意欲であったり、自分がどうしなければいけないのかを自分で判断できる素養であったり、他人への思いやりや社会性であったりするのだが、そのうちの少なくない部分が学校という集団の中で友達を作ったり人と交わることによって育まれる。それが制約されることは大きな社会的損失だ。

 小学校や中学校とは対照的に、大学の授業は早々とオンライン化が進み、多くの大学で9月まではオンラインで授業するという方針になっているようだ。今年、大学に入学した若者の多くが、入学式もなく、サークルの勧誘もなく、新入生歓迎企画もなく、本当なら一生の友人になるかもしれない人と出会うこともなく、このまま数ヶ月を過ごすことになる。大学に入ったらオケに入ろうなんて思っていた人はどうしているのだろうか。

 自分には縁はないが、音大生なんかはどうしているのだろう。有名音大に入るには、それはもう幼少の頃からの努力が幾重にも積み重なっていることだろうと思うのだが、そういう人にとって音大に入学した最初の数ヶ月が奪われることはどういうことだろう。来年、音大に入ろうと思ってレッスンに励んでいる人にとっては、オンラインレッスンっていったいどんなものなんだろう。海外に留学する人も多いが、海外の著名な指導者もオンラインレッスンなんてしているのだろうか。海を越えて居ながらにレッスンを受けられるのは良いことなのだろうか。いやそんなことで音楽家としての素養は身に付くのだろうか。間近で感じる相手の存在感だとか、そのレッスンを受ける場所だとか、留学先の街の空気だとか、そういうもの全体がその人の音楽性を育むのではないのだろうか。私たちが音楽を聴いて感動するときに、もしかすると、その演奏者が経験したことを間接的に経験しているのではないか。そう思うと、いま演奏会が聞けない以上に、将来、本当なら聴けたはずのもっと深く感動できる音楽が聴けなくなってしまっているのではないか。なんてことを思ったりする。

 どうもいまの社会では、教育とか芸術とかが軽く扱われているように思う。コロナだから仕方がないのかもしれないけれど、コロナでもご飯は食べるしテレビは見るでしょ。電気や水道、医療や介護、物流と同じように、教育や芸術も社会インフラなんだと思うのだけれど。