2013年10月20日日曜日

ヴァイオリンのメンテナンス

 しばらくヴァイオリンを弾かないので、この機会にメンテナンスに出そうと思った。実は製造されて23年になるのだが、メンテナンスらしいメンテナンスは一度も受けていない。先生から弦高が高すぎると言われて駒を調整していただいたのと、バヨ会のメンバーに「調弦がしやすくなる」といわれてペグの調整をしていただいたぐらい。もちろん、弓の毛替えは何度かしているし、今年の正月には弓を折ってしまって修理もしていただいている。そのたびに、工房の職人さんには本当に丁寧に見ていただいているので、まったくメンテナンスをしていないという訳ではないのだが、最近は表面に細かいひび割れがあったりして、ちょっと気になってきたところだった。

 工房は、ある県の県庁がある街の、私鉄のターミナル駅が面する交差点に、駅の向かい側で面する3階建の雑居ビルの中にある。職人さんがひとりで切り盛りされている小さな工房だ。

 訪ねて行ったときには他のお客さんがおられて、ヴィオラのメンテナンスをお願いされていた。どうやらン百万円もするクレモナ製のヴィオラらしい。お話しを横で聞きながらしばらく待つ。私のヴァイオリンは、カールヘフナーの初級モデル。2丁並べたら、ホンダFitとイタリア製スーパーカー ランボルギーニアヴェンタドールが並んでいるようなものだ。いや、Fitいいですよ。大好きです。いや、でもこんなクルマ、いっかい乗ってみてーよなぁ。それはさておき、ン百万円もするクレモナ製のヴィオラもいっかい弾いてみたいものです。

 話を私のヴァイオリンに戻して、このクラスのヴァイオリンだと、接合は、膠ではなくボンドが使われていて、滅多なことでバラバラになったりはしないそうだ。ただ、接合が剥がれてしまうと、部材の奥まで浸透しているボンドを取り除くのはものすごく困難で、それを取り除かないまま膠で着けようとしても、その膠が部材に浸透しないので付けられない。ま、直接そうは仰いませんでしたが、そうなったら終わりです、ということのようだ。
 ヴァイオリンの部材は、どの部材を木材のどの部分からどのように切り出すかがだいたい決まっていて、竿の部分は、糸巻の方が木の上側、筐体と接合するネックの部分が根側になるらしい。木材は、横方向よりも縦方向に水分を吸収しやすく、こうすることで、いちばん力が加わるネックの部分を接合する膠が部材の奥深くまで浸透して、接合の強度を保てるようにしているという。

 さて、気になっていたひびだが、本体が割れるようなひびではないとのことだった。本体が少しずつ乾燥して僅かに小さくなることで、表面に塗ったニスに歪みが出来てひびが入っているらしい。もしかすると、何かの弾みでニスが割れて剥がれるかもしれないが、その時は「ん~」。その時はその時に考えよう。

 前にも言われていたかもしれないが、コマに歪みがあって、左右の足が表板にちゃんと接していない。右足をぺったりと表板に付けると左足が浮いてしまう、という状態になっている。ぺったりとついていないと、弦の振動を表板にしっかり伝えることが出来ない。そうか、思うような音が出ないのはやっぱり楽器の所為だったのか、楽器に責任転嫁。
 弦が駒に食い込んでしまうと、これも音に影響するので、駒の上の面を少し削っていただいた。

 入院するつもりで持ってきたのだけれど、目の前で見ていただけたので、そのまま持ち帰ることができた。

2013年8月18日日曜日

逆境を乗り越えて

 娘たちが大きくなって、いっしょにプールに行くこともなくなったが、まだ小さいうちはよくプールに連れて行ったものだ。まだ小さいうちは、自転車の前と後ろに子供たちを乗せて行くこともあったし、子供たちが自分で自転車に乗れるようになると、後ろから子供たちを見守りながら自転車をこいで行くこともあった。その頃はちゃんと自転車に乗れていたのに、最近、ちょっとした坂道になるとどうしていいか分からなくなってしまった。以前、出来ていたことが出来なくなっている。こういうのは少なからずショックだし、寂しい気持ちになる。
 ヴァイオリンを弾いている時間は、自分がこれまでは出来なかったことが出来るようになるのを実感できる、おそらく唯一と言っていい時間だ。3年前の発表会の先生のお手本演奏でバッハのドッペルを聴いて、いつか自分も弾けるようになったらいいなと思ったものだが、いまそのドッペルが手に届くところまで来ている。あともう少しで弾けるのだ。その「あともう少し」がなかなかゴール出来ない苦しみはあるが、3年前に出来なかったことがいまは出来ると思えるのは心地のいいものだ。しかし、それも少し練習を怠ると目に見えて弾けなくなる。最近、その3年前の発表会で弾いた曲を弾いてみたり、バヨ会の定番だったパッヘルベルのカノンを弾いたりしてみると、弾けなさ加減にびっくりする。それでも、そこそこの頻度でヴァイオリンに触れていれば、少し練習すればまた弾けるようにはなるのだが。

 さて、今日は158回目のレッスン。上の娘がピアノを習い始めたのをきっかけにヴァイオリンを再開したのが2003年11月なので、もうすぐ10年になる。最近でこそ月2回のペースでレッスンを受けているが、最初のうちは月に1度受けるかどうかというペースだった。よくぞここまで続けたものだと思う。仕事で時間が取れない。家族の理解が得られない。四十路の手習いはそんなこととの闘いだった。それは何も合理的に解決できることばかりではない。パチンコに興じる父親が子供の給食費にまで手を出して家族を顧みないことに比べれば、夜な夜なカラオケボックスでヴァイオリンを弾いたり、レッスンやバヨ会で休みの日に家族を放ったらかして出掛けることなど、そんな大した罪にはならないように思えるのだが、家族からの、特に妻からの風当たりの強さがどちらが強いかといえば、一概に前者が強いとも言えない。

 そんな暴風が吹き荒れる中で迎えたレッスン。とにかく悔いのないようにしておきたい。今日はヴァイオリンだけでなく、ヴィオラも持って行って、これまでの集大成のような気持ちでレッスンをしていただく。
 音楽的センスのない私にとっては、どんな曲でも初見で弾けるようなものはない。合奏などしようものなら、CDを買ってきたりネットで音源を探したりして何度も聴き、楽譜を見ながら自分のパートの音を追って、ある程度聞き覚えが出来てから何度もその曲を弾いて、やっとみんなと同じレベル、いや、みんなの足を引っ張らない、というか、みんなに「ま、しようがないよね」と勘弁してもらえるレベルだ。それだけに、これまでに弾いた曲のひとつひとつに、まわりのみんな以上に強い思い入れが湧いてくる。その中でも、特にこれはといえば、やはりこの曲だと思う。



昨年の発表会で先生と弾いた曲。1年以上、ほとんど2年近く、レッスンでこの曲ばかりをご指導いただいた曲。ファーストヴァイオリンとセカンドヴァイオリンが交互に主役になって、まるで初々しいカップルが初めてデートをして会話をするような曲。発表会のときはファーストだったが、そのあとはファーストもセカンドも弾けるように練習をしていた。今日はこれを先生とハモらせたい。
先生は、ここのスタジオばかりではなく、いろんなところでいろんな生徒さんをご指導されているはずなのだが、ひとりひとりの生徒のことを本当によく見てくださっている。月に2度ぐらいのレッスンなのだが、前回のレッスンでどんな指導をしてどこが課題になっていたのか、すべて頭の中にメモをされているようだ。「今日はこれを弾きたいです」と楽譜を出したときに、「あ、懐かしいですね」と仰る。そう仰るだけでも嬉しい。
 まずは発表会のときのように、先生にセカンドを弾いていただいて、ファーストを弾く。この1年ほど、ドッペルをやりながら、ボウイングや移弦などの基本的なところをいろいろ見ていただいた成果があって、発表会のときよりも上手く弾けたように思う。いま思えば発表会のときは「上手く弾かなきゃ」と緊張もしていた。初めてのデートで「手つながな~」と変に力が入っているみたいな感じだ。それに比べると今日は本当に自然体で弾けた。
次はセカンド。先生にファーストを弾いていただく。練習は時々していたが、合わせる練習はあまりしていないのでちょっとぎこちない。いちおう発表会の前には何度も先生とハモらせているので、始めて聴くメロディではないし、どこにどう被さってくるのかとか、そういうところは一応はわかっている。バヨ会で弾いたこともある。今回は先生に上手くリードしていただいて何とか最後まで弾けた。
最後にチェロパート。ファーストヴァイオリンが女の子でセカンドヴァイオリンが男の子とすると、チェロは二人が幼いころから親しくしている近所のおばさんだろうか。ヘ音記号だと弾けないので、先日、ハ音譜を起こしてヴィオラでも弾けるようにして練習し始めたところだった。先生にその楽譜を見せると「じゃ弾いてみましょうか」とハモらせてもらえることになった。でも、これはやっぱり上手くいかない。何度かやってみたが今日は出来なかった。
 しばらくヴァイオリンから離れて、いつか久しぶりにヴァイオリンを弾く時が来たら、この曲から弾いてみようと決めた。今日、この曲は弾けなかった。だから、久しぶりに弾いてみて弾けなかったとしても、それは出来たことが出来なくなったわけではない。もともと出来なかったものだから、その練習の続きだ。そう思えばブランクも乗り越えられるはずだ。いつか、四十路テナライストのいろいろな逆境を乗り越えて、この曲を弾いてみたいと思う。

2013年8月11日日曜日

月の光

 子供の発表会が終わって、スタジオはしばらく夏休みモード。子供たちのほうは本当に夏休みで、発表会前のように二人でピアノを取り合うようなこともない。私の方は指弓練習に余念がない。1回3分×1日3回 という目標はなかなか実現できないが、1回3分×週3回 ぐらいなら・・・・ これじゃ全然ダメなんだが。

 発表会で上の娘が弾いたのはこの曲(動画は他の方の演奏)。
   

 動画は電子ピアノで演奏されているが、娘の演奏も普段は電子ピアノで聴かされていた。その時から、これを発表会会場のホールにあるコンサートピアノで弾いたらどんなになるのだろうかと楽しみにしていたが、期待に違わぬ演奏だった。親ばかフィルターを外してもそこそこの演奏だったはずだ。
 それはさておき、なぜこの曲を出したかというと、この曲の随所に桜の散る音が織り込まれているのを聴いてほしかったからだ。ちょっと季節外れの話題だが、毎年、至るところに桜が咲くのが日本の春。普段は雑木林の景色に埋もれる桜が、地面の底から命が吹きあがってくるかのように芽吹き、花を咲かせ、春の陽光の中を吹くまだ肌寒い風に花びらを舞わせる。毎年見ている風景なのだが、そのときの音をこれまで聞いたことがない。「ヒラヒラ」とか「ハラハラ」などと表現されるが、それはあくまでも擬態語であって、どれだけ耳を澄ませてもそんな音は聞えない。
 それが、この曲の中では確かに桜の舞い散る音がしている。最初は1枚2枚・・ そして花吹雪のように。

 発表会では講師の先生のお手本演奏も聴かせていただけるのだが、バヨ先生が弾かれたのはモーツアルトの「キラキラ星変奏曲」。もともとピアノのための曲だが、小バヨ先生と二人で弾いてくださった。ヴァイオリンで弾いている動画は見つからなかったが、こんな曲だ。


 ここでも確かに星がキラキラ光っている音がする。星が光る音もいままで聴いたことがない。田舎とはいえそこそこに街の灯りもあるので、こんな星空を見ることもないのだが、おそらく北海道かどこかの原野に行って夜空を見上げて耳を澄ませても、こんな音は聞こえてこないと思う。
 いちど心の耳を研ぎ澄ませて聞いてみたいとは思うのだが・・・。

 極めつけはドビュッシーの「月の光」だと思う。西洋ではどうだか知らないが、私が使う日本語の中には月の光を表現する擬音語も擬態語もない。月は夜空に静かに浮かぶもので、キラキラという星の囁きも月が現れると静かになる印象がある。月は「輝く」ものではなく、ぼんやりと浮かんでいるものなのだが、この曲を聴くと、確かに月から光が降りそそいで、夜の暗闇を包み込んでいるような気がする。



2013年8月4日日曜日

子供の発表会

 いつもヴァイオリンを習いに通っているスタジオの発表会があった。スタジオの生徒はもちろん大人だけではない。子供もたくさんいて、子供の発表会は毎年ある。うちの娘たちは二人とも3歳からピアノを習っているので、毎年、この発表会には家族総出で出掛けることになる。
 先生も仰っておられたが、今年はなかなかレベルの高い演奏だった。演奏もそうなのだが、聴いている行儀がいい。ピアノを習い始めた頃の娘が発表会に出るときに約束させたのは、1)失敗しないように練習しよう 2)失敗しても最後まで弾こう 3)他の人の演奏もちゃんと聴こう の3つだった。この3つ目が出来る子供と出来ない子供がいるのだが、そういうことが出来るか出来ないかで演奏も「あと一歩」っというところが変わってくると思う。大人も、自分のこどものところだけ聴けばいいとばかりに途中で出入りしたり、ビデオや写真を撮るのに必死になっていたりなどといったことには気を付けないといけないと思う。そういう心掛けで発表会の雰囲気は大きく変わると思うし、それは舞台の子供たちにも、聴いている子供たちにも伝わるものだ。

 ヴァイオリンの子供たちは、私と同じ先生を師と仰ぐ兄弟弟子。レベルからいうと子供たちの方が兄弟子だろう。年齢ははっきりとは知らないが、小学校3年生ぐらいの男の子は毎年このステージに立っていて、いつもどんな演奏をするのか楽しみにしているのだが、堂々の立ち振る舞いで立派な演奏だった。思わずスタンディングオベーションしたくなるような素晴らしい演奏だった。バッハ無伴奏パルティータ3番のプレリュードを弾いた子は中学生ぐらいだろうか。難易度も高いのだが、無伴奏で休みなしにあれだけの長い曲を演奏するという集中力がすごいと思った。

 うちの娘はピアノだったが、これも堂々の演奏。二人ともこれまでにない新しいレベルの難易度の曲に挑戦した。最初の発表会のときはまだ右手だけの曲だったり、ほんの数小節だけの曲だったりしたもので、その頃、中学生の子の演奏などを聴くと圧巻だった。いまうちの娘たちがそんなふうに小さな子供たちを圧巻するような演奏をしている。10年とはかくも長きかくも長き歳月なのかと、自分の成長の遅さはさておいて感心してしまった。

2013年7月28日日曜日

指弓練習 1日3回×3分

ヴァイオリンに関してはこのところスランプだ。いくら弾いても満たされない。練習しても何かが出来るようになったとか、この曲が弾けるようになったとか、そういう実感がないのだ。ま、この歳になるとすべてにおいてそうなのだが……。人生80年だからピークはその中間の40歳。それまでは出来なかったことが出来るようになる過程だが、そこから先は、それまで出来ていたことが出来なくなる過程だ。最近、いままで出来ていたことがどんどん出来なくなっている。先週、自転車で投票所に行こうと思ったのだが、上半身の筋肉がすっかり退化していて、ちょっとした坂道を登ることが出来ない。こうして自分は土に帰っていくのだということを実感した選挙だった。

ちょっと話が逸れてしまったが、ヴァイオリンもそういう退化との戦いだ。始めたのが40歳ちょっと手前だから、本来ならそこからの成長なんてないはずなのに、よくぞここまで弾けるようになったものだと思う。しかし、最近はその成長の実感がない。そればかりか、前は弾けていた曲がどんどん弾けなくなっている。それも付け焼刃でその曲ばっかり弾き込んで何とか弾けるようにしたレパートリーだから、失われるのが速いのも道理なのだが、それはそれで寂しいものだ。

さてさて、今日は3週間ぶりのレッスン。少し間が空いているのだが、前回の課題はボウイングの基礎。こういう練習はなかなかモチベーションが上がらないものだ。

レッスンではまず、指弓を見ていただいた。
前回のレッスンで、弓を縦に持って指を曲げたり伸ばしたりすることで弓をスッと上げ下げするのを見ていただいたのだが、理屈の上ではそれと同じはず。弓が弦の上に置かれているかどうかだけの違いだ。この練習は、手首を動かさずに指の伸縮だけで弓を動かす練習なのだが、弓を返す時にどれだけ柔軟に関節を動かすことが出来るかに関わってくる。下げ弓で腕を伸ばし切るときは、小指を伸ばし、人差し指で弓が流れないようにコントロールする。そこから弓を返して手首で吊るように手前に持ってくるときは、小指で押し上げるようにしながら弓を運ぶ。その柔らかい動きが自然とできるようにするために、腕や手首を使わずに指だけで弓を運ぶ練習をする。
人差し指の役割は弓が駒から離れないようにすること。先生によると、残りの3本で手前に手繰り寄せるとのことだったが、私の場合、意識できたのは小指だけだった。ま、それでも一応、指弓らしい動きにはなっている。これを毎日3分×3回練習、というのが今回の課題になった。

下げ弓のときに、親指の付け根を一番前の列のお客さんに見せるつもりで弓を運ぶというのはこれまでにも言われていたが、今回はそこに小指の動きと右肘の動きが加わる。右肘については何回か言われている記憶があるが、最後はしっかりと内側に入れる。そのとき、指弓の原理で小指を伸ばして弓を前に突き出す。すべてが一連の動作だ。

そしてそこから移弦するときなのだが、ここが大きな課題。
これまで、弦を下からえぐるようなイメージを持っていたので、そこで手首を返してしまっていた。手首を返すと弓は向こう側に倒れる。これも癖で、弦がギロギロ言ったら、弦と弓の設置部分を減らそうと無意識に弦を向こう側に倒していたのだが、これを意識的に手前に倒すように練習してきた。どうやらそれは正解に近いようだ。手前に倒そうとすると、自然と親指の付け根がお客さんの方に向く。そうやって向いたままの状態で脇を締めて弦の角度を変える。手首は使わない。

上げ弓は手首を吊るようにして弓を運ぶのだが、それは完全に移弦が済んでから。
これまでは移弦をしながら手首の角度を変えていたので、結果的に手首だけで移弦するような感じになってしまっていた。

こうして、先生の前でやってみれば、なんとなくいままで出来ていなかったことが出来たように思える。これを定着させるには、本当に1日3回、3分間ずつ、指弓の練習をしないといけないところなのだが…



2013年7月9日火曜日

スッと・・・

 前回のレッスン以来、間を瞑って弾く練習をしている。目を閉じることで、いままで聴いていなかった音の機微が良く聴こえてくるようになった。・・・ような気がする。

 などと思っていたのだが、レッスンはそんなに易しくはなかった。
 相変わらずつっかえ気味ではあるが、先生の前でドッペルを通した。今回は、

目瞑っても弾ける

というところをご披露。いままであまり気にしていなかったフレーズのつながりとか、そんなところにも気を遣って弾いてみて、

ま、1週間しか練習していないわりには成長したなぁ、

と自己陶酔していたのだが・・・・

 目を瞑ることによって、いままで見えていなかったものが見えるようになった半面、見えていたものが見えなくなっている。例えば弓が駒からどれだけ離れているかだとか、下げ弓の時に手首を前に出せているかとか、上げ弓の時に手首で釣るように弓を引きよせているかとか、

 いや失礼

 これは目を開けていても見えていたわけではないから、目を瞑って見えなくなったというのは当てはまらないのだが、ま、とにかく出来ていない。
 とくに移弦の時に手首を使ってしまうという致命的な癖はそう簡単に直るものではないのか、今回もそこを重点的に見ていただく。
 今日やったのは、ヴァイオリンの習い始めた子供がよくやっているような、弓を縦に持って、指を曲げたり伸ばしたりすることで、弓をスッと上げ下げするやつ。これが出来ない。先生によると、コツは

スッと

ということなのだ。
親指をしっかり曲げて、その親指で引っかけるようにスッと・・・、
小指を丸くして弓の上に載せて、その小指で押し上げるようにスッと・・・、
人差し指は曲げて関節のところで弓を引っかけてスッと・・・、
全部の指が弓のどこかに接するようにして、それをスッと・・・、
とまあ、何度、スッとといわれたことか。

最近、暑くて扇子を持ち歩いているので、この扇子で練習しようかな。

2013年6月30日日曜日

瞳を閉じて

 今日は夕方からレッスン。前回のレッスンから2週間あったのだが、「どんな練習をしてきましたか」と言われると口を噤んでしまうしかない。とりあえず、言われたようにボウイングに気を付けて練習をしてはきた。例えば、E線に移弦するときに手首で移弦しないように、意識的に親指の付け根を遠くへ送り出すようにしてみたり、左手の指先を見ないで目線を弦と弓の接するところに持って行ったりといったことだ。子供がよくやるように、弓を逆さまに持って、重たい元弓を先にもって行って敢えて持ちにくい状態で練習するといったこともしてみた。

 結果は・・・・

 弓を逆さまに持つのは練習としてはいいかもしれない。確かにそのあとで普通に持って弾いてみると全然音色が違うのがわかる。移弦の時に意識的に親指の付け根を出して、弓を手前に倒しながら移弦をするというのも、それぐらい意識的にやってちょうどいい加減、という感じだから、それも良かったのかもしれない。そして、弦と弓の接点を見ていれば、それらの効果がどうかということもを確認しながら弾くこともできる。
 しかし、目線というのはどうしても自分がいま一番気になっているところに向いてしまう。パソコンのブラインドタッチが出来るかどうか、といった頃を思い出してみるといい。目線はどうしてもキーボードの上のアルファベットを追いかけてしまう。それと同じで、ちょっとフィンガリングが複雑なフレーズになると、どうしても目は指板の上に向いて、次に押さえるべき場所を確認し、そこを正確に指が捉えるかどうかを目で確認してしまう。

そこで今日出された課題は
目を閉じて弾くこと
けっして、目を閉じた状態で如何にパールマンのような表情を作るかといった課題ではない。もうすでに数ヵ月間も同じ曲ばかりをやっていて、楽譜はすっかり覚えているので(けっして暗譜とは言えないが)、目瞑っていても弾けるはず。指が次にどこをポイントするかは頭の中に入っているはずなのだから、いちいち見なくてもいいはずなのだ。そういう意味では、パソコンのブラインドタッチの練習と同じなのかもしれない。

 ボウイングは頭の中でイメージするしかない。
 音符をひとつずつ追って、というか、音符の上に書かれている数字を追うのではなく、フレーズを脳裏に描いて、そういうイメージで音が出るように弾いていく。

 そうするとどうだろうか。
 いままでは、目で「次はここをポイントする」という場所を追いかけてポイントしていたので、見た感じでそこを押さえていれば、頭の中では
よし、予定していた場所を押さえられた。
と判断していたように思う。しかし、これだと押さえた場所が正しいかどうかは耳で検証するしかない。いままでは、目から入ってきた情報を処理するために、あまり処理能力の高くない頭をフルに動かしていたのだが、その情報がなくなったために、これまで以上に音程や音色に注意が向けられるようになった。
目が見えないからこそいろんなものが見えてくる
そんな感じだ。

 しばらくこれで練習してみよう。

2013年6月23日日曜日

しばらくはボウイング

 いろんなことがあって迎えたレッスン。

 まずテンションはアゲアゲ。なぜなら、つい先日聴いたアンサンブルの演奏が頭の中にあり、ソリストのアマチュアとは思えないボウイングが脳裏に焼き付いているからだ。あんなふうにボウイングしてみたい。このところレッスンのたびにボウイングについてのご指摘をいただくのに、なかなか仰るようにはできない。ヴァイオリンを弾いているのを見るとボウイングが気になる。アンサンブルを見た時に、これだ、これだ、と目に焼き付けてきた。
あんなふうにやってみるぞ
今日は先生にマルをもらって
テンション最高潮だぁぁぁぁぁ
という他愛のない、というか大人げないことでひとり盛り上がっている。朝からカラオケボックスでばっちり練習して準備は万全。自分ではばっちり仕上がっている・・・ はずだった。

 一方で娘は歯の矯正を理由にレッスンはお休み。娘の分の時間も使って、1時間以上のレッスンになる。うん、今日はこのところの積もり積もった課題を片付けて、次のステージに行けそうな気がする。

じゃ、最初から弾いてみましょうか
キターーーーーーーーーーーーーー、と勝手に盛り上がる。途中何箇所か詰まりながらも、バッハのドッペルの第1楽章ファーストを最後まで弾いたぞ~~~。これは快挙だ。ヴァイオリンを始めて10年。ついに自分もこの域に来たのか。先生もいちおう褒めてくださった。

いちおうね。

 ここから真面目なレッスン。
 考えてみたらまだ娘のレッスンの時間だ。いつも娘が受けているようなボウイングのご指導が始まる。何度言われても、移弦の時に手首で移弦してしまう。すっかり癖がついてしまっているのだ。最初のレッスンの時に娘のボウイングを見た先生が
お父さんの癖がついてますねぇ
と仰っていたので、それぐらい深刻な癖なのだろう。
 右脇を締める感じ、下げ弓は親指の付け根を前に出すように、上げ弓は親指の付け根にチュゥするつもりで手首を吊るように、右手の甲は平らに、手首を上下に動かすのではなく左右に柔らかく動くように・・・・ ま、いつも言われているのだが、やっぱりできない。何か根本的に身体の構造が違うのだろうか。違わないようでもあり、違うようでもあり・・・・。
 フィンガリングなしでやると時々「そうそう、いまのやつ」と仰るのだが、そのいまやったことが再現できない。フィンガリングが入ると、目がどうしても左手の指を追ってしまう。先生によると、
弦と弓の接点を常に見るように
とのこと。これは小さい時からずっとやっているからこその慣れなのだろうか。私の場合、曲を弾く時には、楽譜をどんなふうに読んでも、頭の中では指番号に変換され、次はどの指でどの弦のどこを押さえるのかというアクションとしてフィンガリングが行われている。人は情報の8割を目から得ると言われているが、そのアクションが正しく行われているかどうかは、常に目で指先を追って検証している。耳で聞く音の高低は残り2割の情報なのだ。もちろん、情報の重要性は耳の方なのだが、耳で聞いた音が思っていたものと違う時に、その原因を突き止めて動きを補正するためには目から得られる情報が必須なのだ。それで必然的に目は左手の指さきを追うことになる。これがどうもいけないらしい。

 いちおう紛いなりにもドッペルが通せたことだし、しばらくはボウイングの練習に専念するべきか。


2013年6月22日土曜日

アマチュアアンサンブルの演奏会

 先日、バヨ会にいつも来てくださる方が所属されているアンサンブルの定期演奏会を聴いてきた。その町で随分むかしから続く伝統あるアンサンブルらしい。アマオケというのはよく聞くが、20人ほどの小さな編成で、バロックを中心に演奏されているアマチュアのアンサンブルというのは珍しいのではないだろうか。少人数であれば一人ひとりの演奏技術がそのまま全体のクオリティを左右するから、ある程度の技術を持った人ばかりを集めないといけない。そういうのはなかなか難しいのではないかと思う。

 今回ご案内いただいたアンサンブルもそういう制約の中で運営されているものなので、たいへん失礼ながらそんな期待はしていなかった。アマオケか、どっかの大学のオーケストラぐらいのレベルを想像していたのだが、最初の音を聴いた瞬間にその想像は見事に覆された。そうだ、最近こういう音に飢えていたのだ。一つひとつの楽器の音が溶け込み、会場全体が一つの楽器のように響きだす。
これだ、これだ、
知らず知らずのうちに演奏に惹きこまれていく感じ。たぶん私だけでなく、会場の大部分の聴衆がそうだったに違いない。軽い躁状態。テンションが上がり、自分でも興奮しているのがわかる。

 きっとそういう客席の興奮状態というのは弾いている人にも伝わるのだと思う。プログラムが進んで行くに従って、おそらく演奏されている方のテンションもどんどん上がっていっているはずだ。それが客席にも伝わってさらに興奮を煽る。小さな会場は、会場全体がひとつの楽器となって響くとともに、会場全体がひとりの演奏者になっている。
ものすごいライブ感
思わずスタンディングオベーションで拍手したくなる。

 学校のクラブ活動などであれば、そういう演奏会の機会が必ずあるものだが、大人になってそういう機会があるというのは、ほんとうに得難いことだと思う。まず、人に聴かせるだけの技術、同じ分野に興味を持っておられる方とのつながり、「やろう」と声をかけてくれる人、練習場所の確保、演奏会の準備、そういった諸々をやってくれる人、そして聴いてくれる人。そういうことがすべて満たされて、初めてステージに立てるのだと思う。

 それだけでなく、少人数とはいってもこれだけの人が一堂に会して練習するというのは、それぞれ仕事を持っておられることを考えると大変なことだと思う。けれど、その大変さを押して、多くの時間を共にし、どんな演奏をしたいのか、何を目指すのかといういろんな思いをシェアしているからこそ、こんなレベルの演奏が出来るのだと思う。見ていて、ステージの上の人はみんな羨ましかったし、こうしていつまでも続けてほしいと心から思った。

2013年6月18日火曜日

歯の矯正とヴァイオリン

 いつか親子でバイクのツーリングならぬヴァイオリンの二重奏をと思ってレッスンに通わす娘なのだが、先日から歯の矯正を始めた。私自身に経験がないので良く知らなかったのだが、これが相当痛いらしい。しばらくすれば慣れるのかもしれないが、いまは食事もままならない様子だ。

 中学校に入ったら吹奏楽部に入部させようと目論む妻は、口の中に金具を入れていることで笛やラッパの類が吹けないことを気にしているようなのだが、歯医者さんによるとそれは全く問題がないらしい。
でも、ヴァイオリンだけは止めてください
って仰ったそうだ。またまた、ヴァイオリンを習わすことを良く思わない妻の陰謀か、と思いきや、本当にそうらしい。頬で楽器を押さえるので、下顎に横向けの力がかかり、器具がずれたりするらしい。そりゃ、1日何時間も練習すればの話しなんだろうけど・・・

 それはともかく、いまはとにかく痛くて楽器が持てない様子だ。直前までは、
「今日は休んでお父さんのレッスン見学する」
と言っていたのだが、クルマが使えなくて炎天下を15分ほど歩かないといけないのが苦痛に思えたのか、結局は私がひとりで行って二人分のレッスンを受けることになった。
 ま、普段、あっというまに時間になってしまうので、こういうのも偶にはいいのだが。

2013年6月17日月曜日

バイクの免許とヴァイオリン

 全然脈略のないような話だが、ヴァイオリンを習うというのはバイクの免許教習に似ていると思う。
 我が家の娘たちは3歳からピアノを習っているのだが、それはピアノが弾きたいという動機ではない。ピアノを弾かせたいという親の思いもどれほど強かっただろうか。
ピアノぐらい弾けた方がいいんじゃないか
ピアノでも習わせようか
そんな感じだったと思う。

 履歴書の資格欄に「普通自動車運転免許証」と書く人は多いのだが、世の中、そんなクルマを運転しなければいけない仕事ばかりではない。おおかたクルマを運転する必要のない事務の仕事でも、資格欄には必ずと言っていいほど「普通自動車運転免許証」と書かれる。長年ペーパードライバーを続けてきた妻に言わせると、「当たり前のことは普通にできますよ」という証明として書くものらしい。その基準でいうと、私のように、入社式の2日前に慌てて原付免許を取りに行って、会社に入ってから数年後に、夜な夜な教習所に通っていたような者は、当たり前のことが当たり前に出来るようになるのに随分歳を重ねないといけなかったということになるのだろうか。
 話が脇道に入って長くなってしまったが、我が家で子供にピアノを習わせるという動機はこれとよく似ていたように思う。

 それと比べると、いま娘にヴァイオリンを習わせているのは、まさにバイクの免許のよう。
 私の周りでも、クルマの免許は「猫も杓子も」とまでは言わないが、持っていない人の方が珍しい。しかし、バイクの免許を持っている人は稀だ。私の場合、バイクの免許も随分歳をとってから取ったのだが、クルマの免許の教習と違って、教習そのものがホントに楽しかった。明確な目的があるからだ。履歴書の資格欄に「普通自動二輪運転免許証」と書きたいがために教習所に通う人はいるまい。たいていはツーリングがしたい、とか、バイクというメカへの憧れだとか、そういう動機がある。

 ヴァイオリンを習うというのはこれと同じで、履歴書の趣味欄に「ヴァイオリン」って書くためにとか、お見合いのときに趣味を聞かれて答えられないから「ヴァイオリンでも習おうか」などといった動機で習っている人はあまりいないと思う。

 娘にヴァイオリンを習わせているのを妻はあまり快く思っていない。私が自分の趣味に娘を巻き込んでいる、と思っているからだ。それは全く否定しない。その通りなのだ。けれど、ピアノを習わせるのとは動機が違う。履歴書の趣味欄に「ピアノ」と書くためではなく、いつか娘とツーリングが出来れば、いや、それは叶わなくても、きっとヴァイオリンが弾けるということが本当に人生を豊かにしてくれる日が来るはずだからという思いを持って習わせている。
 ま、私がバイクの免許を取りに行くときも随分反対されたし、娘にバイクの免許を取らせるなどといった日には、お小遣いももらえなくなってしまうぐらい反対されるだろうから、快くは思わないまでもちゃんとレッスンに通わせられるだけいいと思わないといけないのだが。

2013年6月8日土曜日

バヨ不足

 ブログをやっていると、やはり誰かに読んでほしい、と思う。読んでもらうためには、偶に記事も更新しないといけないのだが、このブログにはヴァイオリンのこと以外は書くまいと決めているから、バヨ会に行くとか、コンサートを聴きに行くとか、ヴァイオリンに関係する小物を買うとかヴァイオリンを買うとか以外に記事を更新しようと思ったら、ヴァイオリンの練習をするほかない。ところが、このところ、寝不足、練習不足、バヨ不足で、まったく記事が更新できない。そしてほとんど練習しないままレッスンを迎えるというマズいパターンになっている。

 レッスン前の昨日。ちょっと無理してでも練習をしたかったのだが、夕食を終えると倒れるように寝込んでしまった。何時に寝たのかも定かでない。朝起きたら5時半だった。シャワーも浴びていないので、まずはシャワーを浴び、家族が寝ている間に朝食を済ませてカラバヨへ。こういうときに24時間営業のカラオケボックスは有難い。2時間半ほど練習出来た。
 レッスンは朝の10時過ぎから。

 短い練習時間だったけれど、先週ご指摘のあった、楽譜を見ながら弾く、という課題には特に注力してきた。そして、ずっと言われている移弦の時の右肘の動き。ま、でも、今日も同じことを言われるんだろうな、と思いながら、ドッペルを最初から弾いてみる。
 いままでは、弾けないところを弾けるように、弾けないところから弾いていたのだが、今回は弾けるところをちゃんと楽譜を見ながら弾くというのが課題なので、最初から弾く。意外と褒められた。気持ちだけは伝わったのだろうか。

 今日はいつもと違って、スタッカートの弾き方が中心だった。

  •  スッと引いてピタッと止める。
  •  弓はたっぷり使う。
  •  止めた後で右肘を動かして移弦する。

 スッと引くというのがなかなか難しくて、最初に「溜め」を作ってしまう。そうじゃなくてスッと引く。そうそう、スッとね。止めることばっかり考えていると弓が動かない。たっぷり使う。上げ弓のときも下げ弓のときと同じように。
 じゃ、先生の手拍子に合わせて、とりあえず開放弦で・・・ ということになったのだけれど、こんなことがなかなか出来ない。これって、この前、ヴァイオリンを始めたばかりのうちの娘と同じことやってるぢゃん、と思うのだが、

先生、なんかその手拍子、意地わるしてません?

と、冗談でいってみたら、笑い出して

あはは、ごめんなさいね。
なんか途中から上手く拍が取れなくなって・・・

なんて仰る。やっぱり意地悪されていたのか。
 気を取り直してメトロノームでやってみるのだが、これもなんか意地わるされているみたいだ。なんか仕掛けがあるのか? 弓をたっぷり使い過ぎると拍が取れない、ということなのだが、なんだ、それなら早く言ってよ・・・  いや、でも、まてよ。下げ弓は上手い具合に弓を運んでいるのだけれど、上げ弓が良くない。弓を引く前に「溜め」が入るのも上げ弓の時、スッと大きく運ぶことが出来ず、次のタイミングが遅れてしまうのも上げ弓の時。先生が仰るのは、下げ弓の時の右手の動きは、日常生活の中でもよく似たものがあるけれど、上げ弓のときと同じような腕の動きは日常生活にはあり得ないとのこと。なるほど。それなら日常的に
エア上げ弓
の練習でもしないと、バランスが取れないわけだ。

 いままで、音をとるのに必死だったので、フレーズの表現とかをあまり考えてこなかった。移弦が拙いので、いったんそのときに弓が弦から離れて、そこで音が途切れてしまったり、運指の都合で勝手にプツッと切っていたり、ま、とにかく弾くのが精一杯だった。そこを指摘されて、先生にお手本を見せていただく。ちょうど曲の後半のちょっと憂いのあるフレーズだったのだけれど、その時の先生の表情が、どこか憂いのある曲の感じにぴったりの表情だったので、
先生、そこ、顔で弾きます
と言って、先生を真似て弾いてみることにした。
 憂いのあるフレーズを、憂いのある表情で弾いているのに、視界の隅に必死に笑いをこらえている先生が見える。おかしい。この顔じゃ駄目なのか、と思っていたのだが、弾き終わると「顔はとても良かったです」とお褒めいただいた。「気持ちは伝わってきました」ということだったので、いやそれが総てではないのか、とも思ったが、やはりその気持ちに技術がついて行っていないようだ。

 そんなことで、今日もあまり大した進歩はなかったが、楽しいレッスンだった。私がこのところ忙しかったのをスタジオの奥さんから聞いて、先生も心配してくださっていたようだ。元気そうで良かったです、と言ってくださったのが嬉しかった。
 次のレッスンも、めげずに元気に頑張ろ。


2013年5月28日火曜日

レッスン近況 ~楽譜を見て~

 しばらくバヨ会を意識した練習ばかりをしていたが、レッスンも月に2回程度は受けている。目下、バッハのドッペルを見ていただいているのだが、身の丈に合わない曲なので、牛の歩みのような進捗。もうこの曲を始めて9か月になる。

 しかし、さすがに9か月も同じ曲を見ていただいていると、楽譜を見て弾くぐらいの余裕は出てきた。あれっ、と思われるかもしれないが、私の場合、余裕がないと楽譜が見られない。まず暗譜ありき。無意識に指が動くところまで弾き込まないと曲が弾けないのだ。そりゃ、ドッペル9か月続けても卒業できないはずだ。

 ご指導いただくことは相変わらずで、とにかく移弦が下手。右肘が使えていなくて、右手首で捏ねるように移弦している。だから移弦の時に余計な音が出るし、アップボウとダウンボウの音色が一定にならない。リズムも軽快さに欠いている。移弦を繰り返しながら、スタッカート気味にリズムを刻むところで、いちいち弓が弦から離れるのだが、それは肘が使えていないから。全ての原因は右肘にあるようだ。

 曲を弾く練習をしていると、いちおう弾けるところよりも弾けないところをなんとかすることに傾注しがちなのだが、ちょっと方針を変えて、なんとなく弾けているところをちゃんと弾けるようにすることにもっと傾倒しないといけないように思う。

 特に前半はもうすっかり暗譜できているのだが、楽譜を見ないで弾いていたら、レッスンのたびに先生が楽譜に書き込まれる注意が活かされない。いや、そもそも楽譜を見ないで弾けるというのと、暗譜するというのは違うのだろう。いまの状態は、カラオケで歌詞をみなくても歌えるようになったのと同じ。「聞き覚え」ならぬ「弾き覚え」状態ではないのか。

 そんなわけで、当面の練習課題は「楽譜を見る」ということかな。

2013年5月26日日曜日

ドビュッシーとブラームス

 先週のことだが、久しぶりにコンサートを聴いてきた。本格的なものは何年振りだろうか。子供がいるとなかなか聴きに行けないものなのだが、そろそろこういうのも再開したいところだ。これまでは、バロックが中心だったのだが、今回は、モーツアルト、ドビュッシー、ブラームスというプログラム。半世紀近く続けて活動されてきた弦楽四重奏団の引退公演ということで、いつもバヨ会に来てくださる方からお誘いいただいた。
 日本の弦楽四重奏団としては「老舗」ともいえる伝統ある楽団で、お誘いいただいた方も含めて、「追っかけ」みたいなファンも多いようなのだが、恥ずかしながら、私はこれまで存じ上げなかった。お誘いをいただいてから、YouTubeで予習をしたりしていたのだが、普段バロックばかり聴いている私としては聴き慣れない曲目ばかりで、不慣れから肩肘に力が入りそうな感じがしていたのだが。

 実際に聴いてみるととても楽しかった。音楽を聴くといつも思うのだけれど、生で聴くと弾いている人の気持ちが伝わってくるように思う。例えば、弾いている人が「どうだ、こんなに難しいんだぞ」という気持ちで弾けば肩肘が力むし、緊張していれば聴く人も緊張する。この日の演奏は、きっと、これまでの演奏活動に悔いなし、という晴れ晴れとした気持ちで、ひとつひとつの音を噛みしめるように、愛おしむように、何かを懐かしむように弾いておられたのではないかと思う。

ヴィオラがとてもいいよ
と訊いていたのだけれど、これもその言葉に違わぬ演奏だった。ヴァイオリンにもチェロにも出せない深い音が、こじんまりとした、けれど響きのいいホールに、染み込んでいくように鳴る。まるで、ホールが鳴っているようだった。

 曲目は、最初に申しあげたとおり、普段あまり聴かないジャンルで、まるで現代音楽のような感じさえしたのだけれど、いままでとは違う世界のようで、そういう意味で新鮮だった。いっしょに聴きにいった方の中には、こういうのをよく聴かれる方もおられ、
いかにもドビュッシーって感じですね
と仰っておられたので、たぶん、ドビュッシーはドビュッシーらしく、ブラームスはブラームスらしい曲だったのだろう。
 表現されているものが、バロック音楽よりも複雑で、情景を思い浮かべながら聴く、というものではないのだが、聴きなれない私でも、展開の面白さとか、格好良さとか、そういうのは分かったし、最後まで楽しかった。

 演奏が終わってロビーに出ると、大勢の人がCDやプログラムへのサインを求めて列を作っていた。ご多分に漏れず、私もCDを購入してその列に加わり、最後はヴィオラを弾いておられた方に握手をしていただいた。
 これで、ちょっとヴィオラが上手になった気がするのは気の所為だろうか。

2013年5月19日日曜日

アンサンブル

 私のように大人になってからヴァイオリンを始めるような者はかなり奇特だろうと思っていたのだが、実は結構大勢いらっしゃるということが、こうしてネットをしていてわかった。数年前からそういう方たちと「バヨ会」と称してはアンサンブルごっこをするようになった。今日は、私の住んでいる街に、九州を除く3大陸7府県から9人の方にお集まりいただき、朝早くから夜まで、途中、食事会や茶話会を交えながらヴァイオリンを弾き続けた。 

 弦楽器というのは、もちろん無伴奏のソロの曲もあるのだけれど、合奏してこそ楽しい楽器だと思う。いつかどこかのステージで弾くとか、そういう目標は何もないのだけれど(というか、私がいる限りはそのレベルに達するのは大変だと思う)、ヴィオラだけ弾いていたら「なんのこっちゃ」というような奇怪なメロディが、ハモらせてみてきれいに調和したときは
ぞくっ 
とくるもの。これを味わって以来、病み付きになってしまっている。
 というよりも、これを味わいたいがためにヴィオラを始めたようなものだ。
 最初の頃は歌謡曲だとかそういったものを簡単にアレンジしたものばかりだったけれど、最近ではバロック音楽のちょいと難しい曲も合わせられるようになった。こういう会があると、ちゃんと弾けるようにしなきゃ、と練習にも熱が入るし、実際に練習して上手くハモるとまた楽しいから、また練習しようと思う。

 今日はホントに楽しかった。

2013年5月5日日曜日

J.S.バッハの魅力

 クラシック音楽と言っても数百年の歴史があるもので、例えば、モーツアルトとチャイコフスキーがそれぞれ活躍した時代には約100年の違いがある。キャンディーズとAKB48より年代が開いているのだ。チャイコフスキーの時代には、モーツアルトの音楽を「古典」と読んで、そこから普遍的な音楽の価値を学びつつも、それとは違う新しい音楽の世界を創ろうとしてきたのに違いない。そうやって新しい価値が生み出されたからこそ、その人たちの名前が歴史に刻まれ、いまに残っているのだと思う。

 さてさて、最初の発表会とその次が続けてヴィヴァルディで、バヨ会でもヴィヴァルディの「調和の霊感」をやったりしているので、ヴィヴァルディさんの気心は随分分かるようになってきた。最初の発表会で弾いた「調和の霊感」6番イ短調第一楽章(ヴァイオリンの教本によく出てくる「ヴィヴァルディのイ短調」ってやつです)を弾き始めるときに、その時の先生から

この曲が弾けると、ヴィヴァルディが作曲した数百曲のコンチェルトの半分は弾けたも同然です。

といわれた意味が何となく分かる。パターンがなんとなく似ているのだ。小室哲也のようなものなのだろうか。
 それが最近では、レッスンで見ていただいているのはバッハのドッペル。それが終わったら見ていただこうと思っているのが、ヴィオラで弾くバッハ無伴奏チェロ組曲1番のプレリュード。バヨ会の課題曲にも、バッハの「フーガの技法」が出てきて、なんだかバッハさんと急にご縁が出来てきた。このバッハさんが、肖像画のイメージ通り、また気難しい人なのだ。楽譜だけ見ると簡単そうに見える曲でさえ簡単には弾かせてくれない。
 バッハの作品にみられる特徴は
その様式は、通奏低音による和声の充填を基礎とした対位法的音楽という、バロック音楽に共通して見られるものであるが、特に対位法的要素を重んじる傾向は強く、当時までに存在した音楽語法を集大成し、さらにそれを極限まで洗練進化させたものである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ 「ヨハン セバスチャン バッハ」
それって、こういうことかしら?
 

ヴァイオリンの教本にもある曲で、子供が真面目に数年レッスンを受けて弾くぐらいのレベルだから、難易度もかなり高い。楽譜を見てもすぐに弾ける気にはなれないのだが、それに比べると、最近、バヨ会の課題曲になった「フーガの技法」は、楽譜は簡単そう。ところが、弾いてみるとこれが結構、難易度が高い。そもそもフーガというのは、

最初に一つの声部が旋律(フーガでは最初の声部のそれを主唱という)を提示する(そのあと、結句と呼ばれる短い自由な経過句が挿入されるのが普通である)。
主唱が終わったら、別の声部で主唱を繰り返す。これを応唱という。このとき、基本的に全体を5度上げるないし4度下げる(正応)。ただし、その中で、属音は、原則として5度上げずに4度上げて(ないし5度下げて)主音にする(変応(へんのう))。これは、主音と属音を入れ替えることが求められるためである。
バロック初期にはリチェルカーレ、ファンタジアなど様々な対位法的な器楽曲が存在したが、後にそれらは一括してフーガと呼ばれるようになった。また前奏曲やトッカータなど即興的作品の一部として挿入されていた対位法的な部分が次第に拡大され、1つの楽章として確立したものもフーガと呼ばれるようになった。

ということらしいのだが、具体的にいうとこうなる。

二分音符ばかり並んでいて楽そうに見えるのだが、実際この動画に合わせて歌うことすら難しい。
あれ、あれ、
と思っているうちにどこ弾いているのかわからなくなってしまう。肖像画の気難しい顔で、
お前には10年早い
と言われているように思えるのだが・・・。

2013年4月30日火曜日

大移弦を弾く

 ちょうど1か月前にも仕事が忙しくて練習時間が取れないという、愚痴とも言い訳ともとれる記事を書いたのだが、そのときは年度末で忙しいものだと思っていた。しかし、忙しいのはどうやら年度末だけではなさそうだ。今月もほぼエンドレスで忙しい。もはや年中繁忙期となっている。うちの会社は週休2日制なのだが、いちばん最近、土日続けて休んだのはいつだろうか。土日とも仕事なんて週もあって、久しぶりに迎えた週末。それも3連休。
大週末
といってもいい。いつもは会社は休みでも家族サービスに忙しく、かえって疲れを溜める週末が多いのだが、この週末は休むぞ、と心に決めていた。

 さてさて、ヴァイオリンを弾くのは2週間ぶり。弾きたい曲はいっぱいある。前の記事で紹介したゲーム音楽もその一つなのだが、3連休最終日にはレッスンもあるので、課題曲になっているバッハのドッペルも、先生が仰ったことを思い出しながらさらえておかないといけない。

 前回のレッスンから苦労しているのは移弦。



 例えばこのフレーズだと、A線を飛び越えて、D線とE線で移弦を繰り返すのだが、隣同士の弦で移弦をするのとは難易度が違う。おんなじように「移弦」と言わず、
大移弦
とか超移弦とかといってほしいところだ。
 ともあれ、前回のレッスンでは

  • 弓の先の方を側頭部で感じながら弾くと、自然と手首が前に出る
  • 手首を捏ねて移弦しない。肘を下げるのではなく、脇を締めることを意識すると、自然と肘が動くようになる
  • 弦はしっかり動かして早目に止める。止めるときは押さえつけない。自然と止めた後で肘を動かす

などといったアドバスをもらっているのだが、どれも理屈では分かっていても、なかなかその通りにはできない。
 今回は新しいアドバイスをいただいた。
高い弦に移弦しああとのアップボウを
底からえぐるように弾く
これで意識しなくても肘が下がるようになった、のではないかと、思えたりした・・・・

 そんなわけで、今月も牛のような歩みではあったけれど、前にはいちおう進んでいる。


2013年4月29日月曜日

ゲーム音楽

 私自身はコンピューターゲームというものをほとんどやらない。たまに子供の相手ですることはあるのだが、力の差は歴然。一日にする時間は少なくても毎日続けてやれば上達するのは、ヴァイオリンでもゲームでも同じ。どのボタンを押せばキャラクターがどう動くのかなどということを考える間もなく、瞬間的にキー操作をする子供に、画面で操作方法を確かめてから操作する大人が敵う訳がない。そこで負けん気が強くプライドの高い私の選択肢はふたつにひとつ。ひとつは子供が寝た後で必死に練習して「どうだ」とドヤ顔を見せられるまでゲームにハマること。もうひとつはゲームをしないことだ。私の場合、迷わず後者を選択している。
忙しいねん
ゲームなんかしてる時間ないねん
ということなのだが、妻に言わせると、ヴァイオリンばっかりしてないでちょっとは子供の相手をしてやればいいのに、ということらしく、近所のお父さんがゲームにハマっているのを我が家では肯定的に見らてている。

ただし、肯定的な理由は三者三様
妻 : 放ったらかしといたら旦那がゲームで子供の相手をしてくれる
子供 : ずっとゲームをしていても、お父さんといっしょだということで免責される
私 : 子供を出汁にして自分の好きなことが出来る

 私が子供の頃には「テレビゲーム」というのがあって、テレビの画面上を規則的に動く白い点を、ダイヤルを操作して動かす白い線で追う機械があった。線の形によって「サッカー」とか「テニス」とかというタイトルがついていたが、いまのように、アニメーションでキャラクターが本当にテニスやサッカーをしているようにみえるというのは隔世の感がある。
 そしてこのゲームをしているときに流れる音楽というのが、また凝っている。昔は「ブッ、ピッ、ブッ、ピッ、ブブー」というビープ音だけだったが、いまのは映画音楽並。サントラが出てもいいぐらいなのだが、そこはまた時代が違っていて、いまはネット上にそういう音楽が溢れている。
 先日、バヨ会メンバーからこの曲の楽譜がまわってきた。



こんな哀愁のある曲がゲームのどんな場面で流れているのかと想像しながら弾いてみる。

 これも随分前になるが、「冬のソナタ」という韓国ドラマが流行ったときに、そのテーマ曲のイントロのピアノがきれいだというだけでピアノに挑戦する人がいるというのを聞いたことがある。そういう人にとっては、イントロの2小節が20話近いドラマの全ストーリーを彷彿させる記憶の扉なのだろう。 スターウォーズ、インディージョーンズ、ジブリ、ディズニー・・ 映画音楽もまた、その映画のストーリーやその映画を見た頃の思い出の扉を開けるもの。
 いま毎日ゲームをしている子供や若者が何十年かしてからこのゲーム音楽を聞いたときに開く扉から出てくるのはどんな思い出なのだろうか。

 などと理屈で考えていて弾けないのはゲームと同じ。もっと感覚的に弾けるようにしなければ。後半でヴィオラにも主旋律がまわってくるアレンジになっている。せめてここだけは頑張う。

2013年4月18日木曜日

娘ヴァイオリンの弦替え

 娘のヴァイオリンの弦をドミナントに替えてみた。
 それまでは、買った時のままの、何かわからないけど、多分、安物のスチール弦が貼ってあって、ま、どうせヴァイオリンもそんな高価なものじゃないしと思っていたのだけれど、普通に弾いていてG線の音がどうしても定まらない。レッスンのときは先生が調弦してくださるのだが、いつもG線には苦労されている様子。
 娘のレッスンの方はまだA線ばっかりで、次までの宿題でやっとD線が出てきたかな、ってところなんだけど、G線の音程があっていないと他の弦もちゃんと発音しないし、音程があった時の「あっ、いまこれ合ってる」って感覚が得られないから、G線を弾かないからといって放っておくわけにはいかない。出番は少ないけど、G線はいちばん値段も高い。それなりに見えないところで仕事をしているのだ。
 そんなわけで弦替え。G線だけ替える訳にはいかないので、全替えする。最初は全弦半音高めに調弦して弦を馴染ませる。朝晩の2回。調弦をし直す。月曜日に替えて3日目。もうそんなに音が下がらなくなったので、半音高く調弦するのをやめて、普通に調弦するようにした。
 娘は弾いているかもしれないけど、私はまだ弾いていない。
 さて、G線もちゃんと弾けるようになっているのか?
 あのとき、ちゃんと弾けなかったのは弦の所為なのか?

2013年3月31日日曜日

娘の養育

 今日はレッスン。昨日の記事で紹介したとおり、娘のレッスンについては準備万全だ。のはずだった。

 父親としては出来うる限りの準備をしている。普段、平日に練習に付き合ってやるわけにはいかないので、休みの日に少しでも時間があれば、いっしょに練習をしてやりたい。そこで、朝6時に起きて、24時間営業のカラオケボックスで練習。それもほとんど、ラとシとドとレしかない曲と、その曲の伴奏の練習に費やした。帰ったら、家族はまだ寝ていたのでクルマの掃除。掃除をし終わったころには既に妻も起きていて、何やら子供を叱りつけている。歯医者の予約をしたのに子供が出掛ける準備をしないというのだが、いや、あなたもついさっきまで寝ていたでしょ。昼からは友達が遊びに来る。といっても子供自身が余り乗り気ではなさそうで、歯医者が遅くなったのを理由に断る。それで練習時間が確保できたと思ったら、天気がいいから公園に連れて行けということになり、4時ぐらいまで公園で過ごす。帰ってきたらなぜか百人一首をしたいと言い出し、それが終わって、さてそろそろヴァイオリンの練習をしないと暗くなってしまうと思っているところに、妻が、録りだめている面白いビデオがあるから見ようと言い出す。さすがにそれは夜でもいいだろうといって練習に誘うのだが、子供のテンションはダダ下がり。公園で遊んだ疲れもあって、10分も弾かずに
弾けへん
と癇癪を起して不貞寝してしまう。

 ピアノのことについては、練習しろ、練習しろとうるさい妻も、ヴァイオリンのことは何も言わず、むしろ、天気がいいのだから外で遊べとか、学校で百人一首やっているから付き合ってやれとか、せっかく練習していても、うるさいから時間を決めてやれだとか、上の娘が試験勉強始めたからやめろとか、とにかく気持ちを殺ぐことに心を砕いてくる。
そんなところに、
ちゃんと練習しとかな先生に叱られるえ
と言っても、ヴァイオリンを嫌いになるだけだし、現に先生もそんなことで叱ったりはされない。

 娘に自分と同じ楽器を弾かせたいという父親のエゴだといえばそうなのかもしれないが、何かにつけて妻に主導権を握る妻から、子供の養育という父親の権利を回復していくには、こういう娘と同じことをするという機会は重要だと思う。女性が「働く権利」を主張するように、男性も育児や家事に関わる権利を主張するべきなのだが、女性が仕事をしていくのが難しいように、男性が育児や家事に関わっていくことは難しい。音楽をするのに、そういうドロドロしたものを持ち込むのはどうかとも思ってはいるのだが・・・・。

2013年3月30日土曜日

パサニアの唄

 ブログは公共の場なので、あまり仕事の愚痴は書きたくないが、ま、とにかくこの時期は忙しい。年度末に練習時間が確保できないというのは、ヴァイオリンに限らず四十のテナライスト共通の悩みではないかと思う。愚痴っていても仕方がないので、少しでも時間があれば練習をしたいもの。自分だけではなく、娘にも練習させて、早く「楽しい」というところまで持っていきたいものだ。

 こうして自分の練習もさることながら、まずは娘が喜んでヴァイオリンを続けてくれるのが何より。私が家でヴァイオリンを弾くのを快く思っていない妻も、娘が真剣に練習しているのを無碍に止めろとは言うまい。そうやって家でのヴァイオリンのステータスを上げていくことが、私が文化的な生活をする上での条件を確保することにもつながる。

 とはいうものの、ヴァイオリンを始めたばかりの娘の課題は、ラとシとドとレしかない曲。いちおう「パサニアの唄」という曲名はついているものの、あまり弾いていて楽しい曲ではない。これをどうやって練習させるか・・・
そこでひとつの秘策を考えた。
このラとシとドとレしかない曲に伴奏をつけてそれらしい曲にしてしまおうという手だ。

 しかし、ここに大きなに突き当たる。
 どんなに素晴らしい伴奏をつけても、それを弾く人がいないということだ。自分で弾くしかない。つまり、自分で弾けるレベル以上の伴奏はつけられないということだ。ま、そんなことで、できるだけ単純なメロディで、だけどそれなりの仕上がりになるように編曲してみた。

 今朝、早起きしてカラオケボックスで録音。まずファーストを録音して、それに合わせてセカンドを弾いて録音する。家に帰って二つの録音を重ねたら・・・という目論見だったが、ラとシとドとレしかないファーストを録音したところで早くも挫折。なんでこんなに下手なんだ。ラとシとドとレしかないからこそ下手なのが際立つ。そもそもボーイングのテクニックとか、そういう基礎を素っ飛ばしているのだ。本当なら自分もこの「パサニアの唄」でレッスンを受けなければならないぐらいのレベルなのに、それに伴奏をつけてあげるなどと、ちゃんちゃらおかしいことを考えているところに無理がある。結局、ファーストの録音までに何度もテイクを重ねる。結局2時間、こんなことばかりをしていた。
 うむ、確かに練習にはなったのだが・・・

2013年3月18日月曜日

側頭部で弓を感じる

 前回の記事で「力を抜いて」といわれると力が抜けないということを書いたが、力を抜くこと以外にも意識するとなかなかできないことはたくさんある。そのうちのひとつが、弓を流さないことだとか、下げ弓の時に手首を手前に引かないことだとか、ボウイングの結構基本的なことだ。今週のレッスンでは、そういう悩みを解決する着想がいくつかあった。

 弓が流れてしまう原因の一つに、先弓を使おうとして楽器を自分からみて左の方に動かしてしまうことがあげられる。これを回避するために、楽器の左側の側面をみるようにする、というのは以前にアドバイスされた。これがまずひとつ。

 そしてもうひとつが、先弓の位置を側頭部で感じること。下げ弓ならば、最初は元弓なので、弓の先は視野に入らない。側頭部のだいぶ後ろというか上の方にあるはず。ここから弓を運んでいくと、弓の先が側頭部に近づいてくる感覚がある。その感覚をキープしながらボウイングすると、弓が側頭部から離れない。すると、自然と右手首が前に出て、まっすぐなボウイングが出来る。
 なんか、目から鱗、って感じだ。

 今回のレッスンでは、フレーズごとに練習しているのを合体させて、曲として通して弾こうという時に、新しいフレーズにうまく入れないことについて相談。フレーズごとにばかり練習をしていると、そのフレーズの最後の音を、まるで曲の終わりの音のようにしっかりと弾く癖がついていることが、先生の指摘で分かった。そこを抜くというか、捨てるような感じで、気持ちを次のフレーズに向けていくと弾ける。
 うむ、なるほど。

 先生によると、ドッペルもだいぶ弾けるようになったので、次の曲のことを考えましょうとのこと。いや、まだ弾けていないところが多いんですが・・・・

2013年3月11日月曜日

力を抜いて・・・

 ふーたさんの「力を抜くとか、感じるとか、そういうのが苦手。」に激しく同意。
 だいたい、「力を抜いて」といわれると、力を抜こうとしてそこに力が入ってしまう。例えばネットの画面に

このボタンは
押してはいけません

と書いてあると押したくなるのと同様で、これはどうもヴァイオリンだけではないようだ。知人に趣味でレースをやっている人がいる。ちゃんとサーキットでやっている人なので、公道では至って安全運転。見た目は真面目な好青年といったところなのだが、それはさておき、ヴァイオリンとはまったく違う世界でも、やはり「力を抜く」ということが大切なシーンはあるようで、例えばカーブに突っ込むときのブレーキワークとかハンドルの操作とか、そういう場面でも変に力が入っているときは、遠くから見ていても分かるらしく、いかに力を抜いているかが大事らしい。

 クルマのことはさておき、レッスンで見ていただいているバッハのドッペルなのだが、こっちの方は変に力が入っていることが見た目にも音にもはっきり出てくる。例えばファーストヴァイオリンのソロの部分


 A線を飛び越えてD線とE線で移弦を繰り返すところをかっこよく弾きたいところなのだが、そこに力が入りすぎると、ギロギロっと余計な音が鳴ってしまう。弓を軽く横に運ぶだけでいいのだが、「はずむように」と意識して最初に圧がかかってしまう。弓をしっかり止めようと思うと、止めるときにブルブルっと震えてまた余計な音がする。移弦の時に他の音を出さないようにと、またここでも力が入る。しっかり移弦をした後で次の音を弾きなさいと言われると、急いで移弦しようとしてまたよろしくないことになる。
 とまあ、こんな具合なのだ。

 力を抜くためには、何かほかのことを考えながら弾くのがいいのだが、先生、そういう時は何考えているんですかぁ?

2013年3月3日日曜日

娘の危機 その後

 前回の記事では、娘がヴァイオリンを辞めたいと言い出した話をして、この続きは「気が向いたら」ということにしていた。それから1週間。書く気はあったし、書くことも決まっていたのだが、年度末の繁忙に巻き込まれて、ヴァイオリンを弾くことも、他の方のブログをチェックすることもままならなず、あとまわしになってしまった。そういうしているうちに書くことを忘れてしまいそうだったので、まだ覚えているうちに、覚えている範囲で書くことにした。

 結局、わずかな時間の、しかもかなり投げやりな練習だけでレッスンに臨んだ娘だったが、先生の前では見事に「らーしーらーしー」と弾いて見せた。これは天性の才能かと見紛うほどの素晴らしい「らーしーらーしー」だった。先生に
よく練習してきたね
と褒められてめっさ嬉しそうな娘。「いえ、それは・・・」と喉まで出かかった言葉を呑み込む父。
「じゃあ、次は・・」
と新たな課題「しーどーしーどー」に進む。その間の課題にはどんどんマルがついていく。照れくさそうな笑みの絶えない娘。
 そんな感じで、終始和やかな雰囲気で、あっという間に娘のレッスンが終わった。

 そのあと私のレッスン。娘のレッスンよりちょっと長めなのだが、その間に予定通り宿題を終えた娘と、来月の予約を確認する。月に1回といっていたので、私だけの回と、父娘の回が出来てしまうし、娘にしてみるとレッスンとレッスンの間が長く開いてしまうので、予約表を見ながら決め倦んでいると、
来月も全部来る
とのこと。先生に対する信頼は絶大だ。

 家に帰って、レッスン前の不機嫌が嘘のように「バヨ先生だ~いすき」と言う娘。「バヨ先生好きやしヴァイオリン続ける。」なんてことを聞いて、「お父さんもそうやで」と説明する妻。敢えて否定はしません。

2013年2月24日日曜日

娘の「辞めたい」危機

 今日はレッスンの日というのに娘はぜんぜん練習をしない。父は夜中にこっそり出掛けてカラオケボックスで練習をしたりするのだが、子供を夜中にそういうところに連れて行くわけにもいかず、昼間は昼間で練習しにくい雰囲気がある。

 ま、しかし今日はレッスン当日。さすがに練習するなとは言わないだろうと思っていた朝食のあと

娘 : あぁ~、どうしよう、宿題。ヴァイオリンの練習もしなあかんし、スタジオでやろうかな。
母 : あか~ん、先に宿題しなさい。
父 : え~やん、スタジオでやる方が集中できるんやろ。さき練習しよっ。

 この会話で娘のテンションは一気に低下。
 もともと、この宿題というのが曲者だ。一般的には宿題は先にやっておくべきもので、そもそも日曜日にまで残っているのは良くないことなのだが、娘の場合、この宿題というのが半端なく多い。学校から帰ってすぐに宿題を始めて、やっと晩ご飯までに終わるかどうかというぐらいの量が出ている。なんでも、クラスで授業中に騒いでいる子供がいたり、いうことを聞かない子供がいたりすると、「罰」として、全員に連帯責任で宿題がだされるらしい。しかも、内容は親が見ても子供が見ても、手間がかかるだけで中身の伴わないものが多いうえに、きちんと採点をしている様子もない。参観日に行った母親の話では、黒板の半分ぐらいが宿題忘れをした子供の名前で占められているらしいが、毎日やっていてもこれだけの負担になるものを、子供が忘れていたのか、出来なかったのか、サボっていたのか、他の事情があるのかは別にして、1日分のノルマが余計に重なるようなことがあれば、もはやそのノルマを果たすのは不可能で、宿題忘れが常態化するのは目に見えているのだが、そうすると今度は宿題をしてこない子供が多いと言って罰の宿題が出されるという。子供から聞く話なので、すべてを「そうか、そうか」と聞くわけにもいかないが、本人はこれで相当、学習意欲を殺がれている様子だ。スタジオで宿題をするというのは、父子でスタジオに行って、私がレッスンを受けている間、することがないので事務室で宿題をしていることを言っている。本当にすることがないので集中して勉強ができるようだ。宿題がない時はゲームに興じたりしていることもあるが、45分は結構長い時間だ。先に宿題をしていたら練習時間がなくなるばかりか、私がレッスンを受けている間はゲームの時間になる。そんなことをいろいろ娘なりに考えた今日の行動計画を母親に鼻から否定され、父の誘いもどこか「練習しなさい」という強制に聞える。これではテンションが上がるはずもない。

娘 : もういやや~。練習したらいいんやろ、はいはい。

 二階から聞こえる投げやりなヴァイオリンの音。妻は、いつも娘が宿題でイライラしているということを訴え出すので、それはそれで聞いてやらないと家庭の平和が維持できない。
 しばらくして、二階から降りてきた娘。何もやりたくないと言い出す。お昼に某ハンバーガーショップに行こうかと提案しても「食べたくない」というぐらいだから、かなりテンションが下がっている。

娘 : なぁなぁ、もうヴァイオリン辞めたい。
父 : へぇ、でも今日は行こ。
娘 : ・・・・
父 : 何て言って辞めるの。だんだん行かないようになって、いつの間にか辞めるの。
娘 : 来月から月1回だけにする

 月1回は行きたいのか・・。ま、それもいいかもしれない。
 昼からは、ミュートをつけて練習をした。そのうち娘のご機嫌も直って、「いっしょに練習しよう」と言ってくるのではないかと期待していたら、ノックの音があって、娘ではなく妻が来た。

母 : お姉ちゃんが明日から中間テストなんやから、ちょっと静かにしたげよし。

 あぁもう最悪。リビングに降りると、娘が「ちっとも練習できていない」と言い出すのだが、もはや家の中で練習することは出来ない。結局、ほとんど練習をしないままレッスンに行くことになった。

 この話、ちゃんと続きがあって、結局、続けることになるのだが、今日は記事が長くなったのでここまで。続きは気が向いたら書きます。

2013年2月18日月曜日

家での練習

 休みの日の朝にカラオケボックスで優雅なひと時を過ごすのはいいが、普段の日も、ちょっとでも時間があれば練習をしたい。それは上手になりたいということばかりではなく、ただヴァイオリンに触れいていたいという本質的な欲求でもある。とはいっても、会社に勤めていれば定時に帰れる日は稀で、夏でもとっぷりと日は暮れて、家族もみんな食事を終え、嵐のバラエティ番組だの、嵐が出演する歌番組だの、嵐の誰かが出演しているドラマだのを見ている時間にしか帰ることは出来ない。家の中で思いっきり音を出して楽器を弾くなど不可能。せいぜい、弦をポロンポロンとはじきながら譜読みをするぐらいしかできない。休みの日も、家族がまだ寝ている早朝こそ自由時間なのだが、一度家に帰ってから再びカラオケボックスに行くとなると、妻の冷たい視線が玄関先まで追いかけてくる。それに気を遣って家で練習するのだが、今度は近所に迷惑だという冷たい視線が、階段下のリビングから二階の寝室に刺さってくる。実際、今の季節ならどの家も窓を閉めているので、隣家からのヴァイオリンの所為で会話もできない、などといった状態にはならないはずだし、練習時間も日没までと決めているのだが。実際は家の外よりも家の中がうるさく、録り溜めしている嵐のバラエティ番組だとか、嵐が出演する歌番組だとか、嵐の誰かが出演しているドラマだとかを見るのに邪魔になるのかもしれない。ま、昨日のところではそういう一方的な言い方ではなく、婉曲に、二階のサッシを二重サッシにしようか、などといったことを言う。結露が激しいし暖房も効きにくいし・・・・、などというのだが、言いたいことは

いい加減にしいや
ということだろう。


 最近ヴァイオリンを始めた娘が、平日ぜんぜん練習をしないのにも、妻のこういうスタンスが少なからず影響しているはずだ。こうなったら、リフォームで家族の問題を解決する番組に応募して、

何ということでしょう
お父さんがいつも肩身を狭くしてヴァイオリンを弾いていたあの寝室が、防音対策ばっちりの音楽室に・・

なんてことをしてもらうしかないか。

2013年2月17日日曜日

新しい練習場所

 最近、近所に新しいカラオケボックスが出来た。近所といってもクルマでひとっ走りの距離なのだが、弾きたいという思いがあればそれほど苦になる距離でもない。そして有難いのは年中無休で24時間営業というところだ。
 まだ「初老」というには早いが、歳を重ねるにつれて夜更かしが出来なくなり、代わりに朝早く目覚めるようになる。会社が遠いので平日は比較的早い時間に起きないといけないのだが、休みの日でも同じような時間に目覚めるようになってきた。家族はまだ寝ている。この休日の朝というのが貴重な自由時間なのだ。ところが、さすがにこの時間に家の中でギーコギーコとヴァイオリンを弾くわけにはいかない。そういう時の強い味方がこういう24時間営業のカラオケボックスだ。
 今朝もいつもと同じ、東の空が白み始める時間に目覚める。外は雪が積もっていたが、道路は融けていた。家で朝食を済ませ、クルマを出してカラオケボックスへ。さすがにこの時間に歌っている人はそれほどいない。駐車場はガラガラ。部屋も選び放題。広めの部屋を借りて2時間ほど練習。途中、ドリンクバーでスープを飲んだりコーヒーを飲んだりしながら、優雅な朝のひと時を過ごした。

2013年2月5日火曜日

父の練習時間は・・

 娘のヴァイオリンの練習がなかなか続かないという愚痴をこぼしたが、それもそのはず。娘のやっているのは開放弦と1指だけ。順調に練習すれば、2~3回繰り返したところで10分と掛からない。これを延々30分も練習するのは苦痛だ。上手くいかなければ尚更苦痛で、いやそれを苦痛と感じさせずに出来るまでやるのが大切なのだが、なかなかそういうのも難しい。

 一方で父はどうか。
 ヴァイオリンの練習の時に持ち出す鞄には、いつもクラシックの名曲たちの楽譜が入れられている。どの曲も、プロのCDなどにも収録されている名曲ばかりで、CDなら3~5分、私の演奏なら5~10分ぐらいの大曲ばかり。そればヴァイオリンだけで6曲と、その上にヴィオラが5曲ほどあるから、ちゃんと弾けば通して弾くだけで2時間ほどになる。ところが、どれ一つとしてまともに最初から最後まで通せるものがない。
今日はまず手始めにカノンから
などとパッヘルベルのカノンをやってみる。前にレッスンで見ていただいているし、何度もバヨ会で弾いたこともあるので甘く見ているのだが、それが甘くない。すっかり指がマヒしていて、とにかく弾けない。弾けなくなったらそこばかり繰り返して練習するのだけれど、いつまでやっても弾けないから、飽きてきて次のフレーズに移る。そしてしばらく弾くのだけれど、また弾けないフレーズが出てきて、そこを繰り返して、弾けないとなるや、もう続ける気力がなくなってしまう。じゃ、次はこの前の発表会で弾いたばかりのシャコンヌ、それもダメなら前の発表会で弾いたAllaRusticaと、次々に曲を替えて練習するのだが、どれも最後まで弾けない。そして、ついに嫌になって止める。というのがいつものパターン。
 たとえ10分でも、決められた課題を最後まで弾ききる娘の方が偉いと言えば偉い。


2013年2月3日日曜日

娘は順調 父は・・・

今日はレッスン。いつも娘といっしょに行くのだが、前回は
お父さんがいると緊張する
と嫌がられて、娘のレッスンの間、下の事務室で待つことになった。今回はどうするのかと訊くと、緊張するけど、練習見てもらうのに先生の話いっしょに聞いてほしいし・・・・ でもどうしよう・・・・ などと、やはり嫌がっている様子。しかし、練習はしなければ、という意欲はあるようなので、これはまずまずではないだろうか。
 出掛ける前にレッスンの感想を聞いてみたのだが、バヨ先生のレッスンはとても楽しいという。ヴァイオリンを買い与えた時に、ケースを背中に背負って見せて、「発表会の時にバヨ先生が背中に背負ってはったし、私も背負う」などと言っていたのだが、その段階ですでにバヨ先生への信頼はばっちりだ。若くてきれいな女性が凛とステージに立ってヴァイオリンを弾いている姿は、小学生の女の子にとってはひとつの憧れなのだろう。自分もそうなりたい、と思うのは信頼や尊敬の第一歩ではないだろうか。レッスンが始まると、そうした外面的なところだけでなく、言葉や表情のひとつひとつに自分が大切に扱われていることを感じるのか、ますます先生への信頼が深まっているように思う。これは本当に良かった。

 娘のレッスンは、まだやっと今日、開放弦が合格になったところ。今日は1指だけを使う「ラーシーラーシー」シリーズもいくつかマルをもらって、いよいよ3指まで使うところが宿題に出された。私も最近まで心許なかった重音のところもお褒めの言葉をいただいて、本人もとても嬉しそうにしていた。

 私のレッスンの間は、娘は事務室で宿題をしていたりゲームに興じたりしているのだが、今日はレッスンが終わったところで、再び娘を褒めていただいた。よく練習しているみたいですね、とのことだが、実はそんなに練習はしていない。前回のレッスンから今日まで、昨日20分ほど、今朝10分ほどだ。いま貰っている宿題はそんなに難しいものではなく、こればかりを20分つづけるというのも結構な苦痛になるはずだ。だから、10分だけでいいから毎日でも練習してくれれば、だいぶ良くなるのに、と思っていたのだが、先生からは、あまり詰め込まずに、いまは週2回ぐらい。同じことばかりやって飽きるようだったら、合格した開放弦のところからもう一回やればいいですよ、とのことだった。

 ともあれ、娘は順調
 それに比べて父は・・・・ 

2013年1月27日日曜日

E線弾く時は宮本笑里

 今日はレッスンだった。ヴァイオリンの弓も修理できたので、再びバッハのドッペルを見ていただく。練習時間がなかなか確保できないのはいまに始まったことではないのだが、このところ何をどう練習すればいいのかわからず、スランプに陥っている。もともとこの曲の中からいくつかのフレーズを取り出して、それをエクササイズのように繰り返し練習していくうちに、いつの間にか全部弾けているじゃん、というようになるのではないかという画策からこの曲を選んでいるのだが、どうにもこうにも難易度が高すぎる。まだやる気は失せていないのだが、あまりにも出来なさすぎるので打つ手がないという状態だ。
 そんなことをいいつつ、取り敢えず最初から弾いて、途中のソロが終わって長い休符になるまでのところを通してみてご指導を仰ぐ。取り敢えず弾いてみるのだが、ご指導の内容は、取り敢えず弾けるというレベルではなく、かなり基礎的なところで、フォームの矯正が中心だった。
 言われてみれは、どれも今日初めて言われたことではないのだが、弾くことに必死になるとどうしてもうまく出来ない。反対にフォームばかり気にしていると、次どの音だったっけ、って感じでこれもまた弾けない。ただ、フォームをきちんと直せば音色もよくなるということが自分でもよく分かった。
 たとえばこの曲の中で何度となく現れる次のフレーズ
移弦の時、特に高い弦に移弦するときに右肘をちゃんと下げるということ、移弦は弦の上に弓を載せたまま弓を動かさないですること、下げ弓の時に右手首を前の方へ出すこと、上げ弓のときもたっぷりと弓を使うこと。どれも今までからずっと言われていることばかり。それがいざ弾いてみると他のことが気になって、いやもちろん気にしなくていいものはないのだが、それもいっぺんにいろんなことを考えないといけないのでこれが出来ない。
 今日新しく言われたことは、一生懸命に弾こうとすると、指板を上から覗き込もうとしてしまい、そのために楽器が外側に逃げていく傾向があるということ。それを楽器の左側から覗き込むと、楽器は内側へ寄っていく。それと、E線を弾こうという時に、右肘を下げようとして楽器まで右側に傾いてしまっているということ。これは前にも言われているのだが、この時に楽器を左側から覗き込んでみると、左肩が後ろにのけ反るような感じになり、しかも楽器が内側に寄るので、無理なくボウイングができる。そういえば、宮本笑里さんが高い音を出す時にやたらと身体をのけ反らしているではないか。
あれだ あれあれ
自分にも背中まで髪があるとイメージして、高い弦い移弦するときはその髪をフワッと揺らすイメージでのけ反ってみる。お、お、なかなかいい音が出ている。先生にも褒められた。
 最後にもういちど、最初に通したところを弾いてみる。長く伸ばす音だけでなく、短い音でもE線に移弦するときは同じようにしないといけないのだが、E線に移弦するたびに
笑里、笑里、
と声を掛けられる先生がなんかちょっとお茶目だった。

2013年1月26日土曜日

顎当てにひと工夫

娘の練習が長続きしない原因の一つに、どうやら、ヴァイオリンを構えると顎というか首筋のあたりが痛い、というのがあるようだ。慣れないときにはそういうことはありがちなのだが、楽器も専決予算で購入したモノなのでそんなに上等ではない。構え方がわるいのか楽器がわるいのかはわからないが、とにかく何とかしようというので、こんなことをしてみた。
 うどんを捏ねたりするときに俎板が動かないように、俎板の下に弾いておくものだ。たぶんホームセンターとか食器屋さんで売っているのだと思うけれど、たまたま今日、手作りパンを作っているときに妻が使っていたので、幅1センチほど切り取って分けてもらった。
 私の美意識からすると、まずマジックで黒く塗ってから貼るのだが、そうすると顎とか服とかにマジックがつくと妻の猛反対にあい、仕方なく白いまま両面テープで貼ることにした。なんかヴァイオリンが怪我しているみたいだ。
 実際に構えさせてみると、クッションになるというほかに、滑りにくくなって構えやすいと好評。さて、これで練習時間は少しでも増えるのか。

2013年1月25日金曜日

娘の練習に付き合う

 去年の11月から小学生の娘がヴァイオリンを習い始めた。子供のことなので、大人がやっているものを見ると自分もしてみたいというのが常。パソコンやってみたい、携帯電話やってみたい、などというのは聞き飽きているのだが、なかなか勉強やってみたいと言わないのは、大人が勉強していない査証か。それはともかく、そういうことの延長でボソッと
ヴァイオリンやってみたい
といったのに鋭く反応。ネットでヴァイオリンを買ってレッスンを手配して、と矢継ぎ早に手を打って自分の趣味に娘を巻き込んでいく。妻に稟議を回すとそこで否決されてしまうので、専決権限の範囲でしか予算が組めないのだけど、ビジネスにはスピードが必要。娘が楽しげにヴァイオリンを弾いていれば、いつか理解も得られるさ。いまは3/4の分数楽器だけれど、そのうちに4/4を買う時が来る。それまでに娘の口から妻に「大人とおんなじ大きさのヴァイオリンがほしい」と言わしめるというのが当面の目標でもある。

 さてさて、そういう経緯で始まった娘のバヨライフなので、まずは無理をせず、楽しいと思わせるところが大切。幸い先生もそんなに厳しい指導はされない。けれど、そろそろ開放弦ばかり弾くことに飽きてきたのか、練習にはなかなか身が入らない。いま、篠崎の教本で、
ラーラーシーシーラーシーラー
とか
ラーシーラーシーラーラーラー
とか、やっと指ひとつ出てきたところなんだが、これが娘にとっては難しいうえに、やっていてもあまりモチベーションが湧いてこない。ま、最初の1年ぐらいは仕方がないのだが、練習に付き合っていてもすぐに面白くなくなってしまう様子。ここを乗り切って「ロングロングアゴー」ぐらいまで行ければもうちょっと楽しくなってくるのだろうけれど、練習しないとそこまで辿り着けない。どうしたものか。

2013年1月20日日曜日

最近の練習曲~Bach Double Concerto BWV 1043~

少し前になるが、修理に出していたヴァイオリンの弓が帰ってきた。これでヴァイオリンの練習ができる。
去年の秋から、レッスンではこの曲を見ていただいている。




去年の秋といえば、2年に1度の発表会を終えて、「次はどの曲を練習しますか」と先生に言われていた時期。発表会の出来具合から言うと、もう一度基礎練習からやり直さないといけないところだったので、「音階練習とか、そういう練習ってどうしたらいいんですか」なんてことを言っていた。ところが、そういう基礎練習はすぐに飽きてしまって長続きしないことを先生はお見通し。そこで、小野アンナの教本を買うには買って、その上で弾きたい曲を選び、その曲の調にあわせて音階練習をする、という提案があった。これはなかなかの妙案だ。小野アンナの音階教本の最初は、いろんな調の音階練習が鬼のように並んでいる。これを最初から順番に全部やっていくのはさすがに大変だ。間違いなく面白くない。だけど、「この曲を弾くための練習だ」と思えば音階練習にもモチベーションが湧いてくる。それで選んだ曲がこの曲。これはニ短調なので、まずは小野アンナ教本のニ短調音階から見ていただくことになった。
なぜこの曲なのか。レベル的に言うと、本当なら私の手に終える曲ではないのだが、選曲の理由はズバリ
合奏したいから
レベルは高いが、ヴァイオリン教本にはよく用いられる曲で、素人ヴァイオリニスト憧れの曲。バヨ会で何人かが集まれば、「じゃ、ドッペルでも弾く」なんて流れになるのだが、いままでは弾けないから見学していた。
嗚呼ぼくも弾きたい
以前にパッヘルペルのカノンを見ていただいたのもそんな動機からだったが、今回も同じ。
とは言ってもレベルは全然合わないので、目下のところ、この曲の中のいくつかのフレーズを使ってエクササイズをしているような感じだ。音階練習や分散和音の練習になりそうなフレーズがいっぱいあるので、当面は当初の予定通り基礎練習。まだまだ曲を通して弾くのには遠い感じだ。

2013年1月18日金曜日

お気に入りの曲紹介~Telemann Viola Concerto~

しばらくヴィオラばかり弾いていたので、今日はヴィオラのお気に入り曲の紹介。
前の記事を読んで、ヴィオラ奏者には偏屈な人が多くて作曲家の不興を買い、ヴィオラのための曲がないと私が考えていると誤解されておられる方もいらっしゃるかもしれないが、それこそ誤解。空が証拠に、こんな素晴らしい曲もある。



テレマンのヴィオラ協奏曲ト長調。ヴィオラの深みのある響きが際立つ曲だと思う。コンサートで聴いてから自分にも弾けるだろうかと思って楽譜を探していたら、ネットで楽譜を見つけた。さっそく入手してヴィオラのパートだけを抜き出したヴィオラ譜を作成。練習してみる。最初のうちは、
お、意外と弾けるじゃん
と思っていたが、中盤からどんどん難しくなってくる。ま、最初のところもこの動画のような速さで弾けるわけではないので、分散和音の練習でもするつもりでボチボチ弾いて行こうかというところかな。

2013年1月14日月曜日

ヴィオラのレッスン

娘のレッスンが終わっていよいよ私の番になった。正月からヴァイオリンの弓を折ってしまったので、今日はヴィオラでお願いします、とお願いする。ヴィオラっていうのは地味な楽器で、アンサンブルでもほとんど主旋律が回ってくることはない。ヴァイオリンのために数多くのソナタやコンチェルトを残した偉大な作曲家たちも、ヴィオラのための曲となるとほとんど書いていない。ヴィオラ奏者にへそ曲がりな人が多くて不興を買ったわけでもあるまいに。

そんなわけで、チェロのための曲でレッスンをつけていただいた。
J.S.BACH 無伴奏チェロ組曲1番のプレリュード
チェロとヴィオラはちょうど1オクターヴ違いで弓が張られている。チェロ用の曲を1オクターヴ上げて弾けばヴィオラでも弾けるのだが、ヘ音記号のチェロ譜を見ながら弾くのはなにげに弾きにくい。そう思って探してみると、世間には同じようなことを考えている人がいるらしく、ヴィオラ用のハ音譜を作ってアップしてくれているサイトを見つけた。このハ音譜っていうのも、ヴィオラやっている人じゃなかったら読めない代物なんだろうけど、何を隠そうヴィオラをやっていてもすぐには読めない。取りえず全部ドレミを書き込む(以下これを「イタリア語のフリガナ」という)。実際に弾いてみるとこうなる予定。



今回は、後半のところでどんどんハイポジションになっていくところのポジションの取り方を教授いただいた。音の高さから言えば高いソまでなので、A線の3ポジで弾けるのだが、バッハの表譜に従えばD線の5ポジで弾かないといけないところがある。この動画ではちょうど2分ぐらいからのスレーズなんだが、よく見れば3ポジで弾いている。先生は、そのあとの2分17秒ぐらいからのフレーズも、全部D線でポジション移動しながら、最後は5ポジまで上げて弾いておられた。4ポジ以上のハイポジションはヴァイオリンでも未知の世界なんだが・・・。

どっちにしても、他人に聴いてもらえるレベルまではかなり高い壁を乗り越えなければ。

2013年1月12日土曜日

娘のレッスンで学ぶ基礎

スタジオにレッスンに行って受講料を払うと、通い帖に「領収」というハンコを押してもらえる。これが1枚のカードに24回分のハンコが押せるようになっていて、何となくスタンプカードのような感じ。集めても何も特典はないのだけれど。今回は148回目のレッスン。ちょうどカード6枚がいっぱいになった。いつから始めているかはもはや定かではないけれど、何回目のレッスンかはスタンプカードの枚数で分かる。

さてさて、去年の年末からは小学生の娘といっしょに通うようになった。娘は始めたばかりなので、まだ開放弦の練習をしているが、そのうち、あっという間に私を追い抜いて行くに違いない。続けていればの話ではあるが・・・。
娘のレッスンの間、傍らで聞いているのだが、これが結構な勉強になる。先生も、大人相手に基礎的なことばかり言っても面白くないと思っておられるのか、ま、これは実際面白くないのだが、いや、だって言われたらそのとおりってわかっているんだけど、そうできなくて困るんですよ、ってことが多いから、いや、ま、それはさておき、とにかく大人向けのレッスンではあまり仰らないことも丁寧に説明をされる。説明を聞いていて「目から鱗」なんてこともよくあるものだ。
例えば構え方だとか、弓の運び方だとか、練習の仕方だとか。

構え方に関していえば、娘のレッスンを聞いていて、肩当ての位置を変えてみた。いままでは肩の前で顎で挟んでホールドしていたのだけれど、肩の上にヴァイオリンを置くようにしてみた。それに合わせて、肩当ての幅の広い方を筐体の真ん中寄り、つまり肩の首から遠い方にずらすようにしてみた。これでE線のときのボウイングが楽になった。
ボウイングの時の右腕の運び方も、肘の動きにいままで意識したことのない動きがることを発見。先弓になった時には右肘が前の方に出てくる、というより中弓のときだけ右肘が後ろに畳まれる感じなのだ。いままで、先弓になると巧く弓を運べなかったのは、これが意識でいていなかったからかぁ。
重音の練習は弓と弦の接点だけを見て、弓は絶対に押さえつけない。ま、これは大人のレッスンでも言われることなのだけれど、これから娘といっしょに練習するのに、改めてそうなんだなと思ったりした。

練習時間も短く、なかなかヴァイオリンに関わっていられない大人にとって、少しでもヴァイオリンと関わることが出来る時間は貴重な時間。子供のレッスンを見ている間も無駄には出来ない。

2013年1月6日日曜日

今年の目標とハプニング


前置きからブログを書き始めると、さて本題をどんなふうに切り出していったものかと悩むのだが、ここからは本編開始。もう誰かに読んでもらおうとかそんなことは一切気にしないで、自分のペースで書いていくことにした。あくまでも日記。この先も世間に役立つ情報はありません。

ちょっと前になるが、新しい年を迎えて今年の目標を立てることにした。ヴァイオリンに関していえば、こんな曲が弾けるようになりたいとか、いやもっと基礎練習をしてちゃんと音程がとれるようになりたいとか、いろんな目標の立て方があると思うけれど、自分に関していえば目標はただひとつ
年末までヴァイオリンを続けること
これがすべて。
続けていれば多少上達もするさ・・・などという甘い考えではなくて、多少の上達も実感できなければ続けていて面白くないし、続けようと思ったら一生懸命練習して上達するしかない。そのうち誰か合奏に付き合ってくれる人がいるかもしれないし、そしたらもっと楽しくなるさ。でもそのためには練習してレパートリーを作らないといけないし、何よりも続けていないと。

などと思っていた矢先、とんでもないハプニングが襲ってきた。曜日の巡りでいつもより長い正月休み。三箇日も済んで正月気分も薄れ、ちょっと退屈してきたので、ここらで弾き初めをとヴァイオリンを弾いていたとき、譜面をめくろうとしたその時に、何のはずみかで弓を床に落としてしまった。その落ち方がわるかった。いちばん壊れやすい先のところから真っ逆さまにフローリングに吸い寄せられた弓は、床にたたきつけられた衝撃で折れてしまった。
Oh No!
心まで折れてしまう大惨事。
折れたといっても先が裂けた状態。工房に持っていくと「これは直せますよ」とのことだった。しかも思っていたほど高くない。葉加瀬太郎のチケット代ぐらいは覚悟していたんだけど、映画代2人分ぐらいだった。
とはいえ、弓は一週間ほど入院。その間、ヴァイオリンは弾けないのでヴィオラの練習。その間にレッスンがあったので、今年最初のレッスンはヴィオラ見ていただくことになった。

なんだかブログを始めていきなり大波乱の予感。

2013年1月2日水曜日

自己紹介


ブログを前から順番に読まれる方も多くはないと思うのですが、いちおうそういう方のために自己紹介をしておこうと思います。
年齢は四十路の後半。初めてヴァイオリンを手にしたのは、確か25歳ぐらいだったと思います。そのころは会社の寮に住んでいました。まだカラオケボックスなどというものが世間では珍しく、インターネットも携帯電話もありません。練習時間も作れず、練習場所もなく、練習相手もいないなかで2年ほどレッスンに通いましたが、ま、上達するべくもありません。それでもスズキメソッドという教本の2巻の後半までマルをもらいました。まあまあ、ちょこっとした曲が弾けるレベル。2巻の後半になると、子供の発表会でおなじみの曲もでてきます。
それからしばらく、ヴァイオリンケースを開くこともないまま10年余りを過ごし、子供がピアノを習い始めたのをきっかけに、子供と同じスタジオでレッスンを再開。それから8年ほどになります。
レッスンは不定期なのですが、月2回ぐらい。いまの先生に見ていただくようになって7年ぐらいになりますが、再開後は真面目に教本をやっている訳ではないので「どれぐらい弾けるのですか」と言われてもうまく答えられません。数年前には、教本によく出てくるヴィヴァルディのイ短調コンチェルトを発表会で弾きました。いまはバッハのドッペルコンチェルトを見てもらっています。というと、「じゃスズキの○巻レベルですね」と思われるかもしれませんが、そうではなくて、この曲を弾きたいと思ったらそればっかり練習をして、なんとか弾けるようにしていくという練習をしていますので、その曲が弾けても、その曲よりも難易度が低い曲が全部弾けるわけではありません。弾けるのはその曲だけのワンポイントです。
普段の練習場所はカラオケボックス。最近、すっかり顔なじみになったので、「今日はマイクください」と言わない限りはマイクも渡してくれません。いいんです。荷物になるだけですから。いつも、部屋番号が書かれたカゴだけを渡され、それに楽器と譜面台、楽譜をもって部屋まで行き、カラオケのデッキは音を絞ったうえで、扉を固く閉ざして練習をしています。
3年ほど前から、インターネットで知り合った方と「バヨ会」と称して合奏会をするようになりました。合奏となるとヴィオラが必要なので、いろんな経緯があってここ1年ほど、ヴァイオリンと並行してヴィオラの練習もしています。バヨ会の予定が入ると、レッスンで先生から言われた課題はそっちのけで、バヨ会で弾く曲ばかりを練習して、なんとか他の方の足を引っ張らないように繕っているのですが、これがなかなかたいへんというレベル。だけど、これが練習の大きな原動力にもなっています。
そんなわけで、20年前にはなかったカラオケボックスとインターネットがヴァイオリンを続けていくための必須要件になっている。このブログを始めたのも、ま、そういう動機です。

2013年1月1日火曜日

創刊にあたって


ヴァイオリンって、小さい頃からやっていないと弾けないですよね。
ヴァイオリンって、すっごく高いんですよね。

私もそう思っていました。
楽器の多くは大人の体格に合わせて作られているので、子供の小さな身体では構えることもできません。ところがヴァイオリンだけは例外で、子供用のミニチュアのような楽器が用意されています。だから、プロの演奏家でテレビに出てきてインタビューを受けるような人は、たいてい3歳ぐらいからヴァイオリンをしている人ばかり。そして、持っている楽器もとっても高価。それ以外に身近にヴァイオリンを持っている人なんて普通はいないですから、きっとヴァイオリンをやっている人はみんな3歳からやっていて、みんなとっても高価な楽器を持っているのだと思ってしまうんですね。

小さい頃からやっていないと弾けないのはある意味本当です。
私は大人になってからヴァイオリンを始めた物好きですが、どうにもこうにもならないことがいっぱいあります。だけど、世間にはそんな物好きな人はいっぱいいるのだということがわかりました。もちろん、いまからプロになるなんていうのは望むべくもないのですが、それなりに楽しめます。値段は… クルマの値段からゼロひとつとったぐらい。けっしてお安くはないですけど、思っていたほどお高くないでしょ。

「四十の手習い」という言葉がありますが(調べてみると、もともとは「六十の手習い」というのが正しいようですが、映画「男はつらいよ」で主人公の寅さんに「四十の手習い」というセリフがあったらしく、それが定着したようです)、このブログは、まさにそれを地で行くオッチャンヴァイオリニストの奮闘日記です。世間に役立つような情報は何ひとつ書かれていません。いまからヴァイオリンを始めようという方のお役にも立ちません。けったいなオッチャンのシュールな日常を赤裸々に綴る面白くもないブログです。読んでも時間に無駄になるだけですが、お暇つぶしにちょっくら読んでいってください。