2018年7月22日日曜日

いつもていねいに。

 いつもお世話になっている先生が楽団のオーディションに合格された。先生と同じ大学の出身で、世界的に活躍する有名指揮者が、若手の育成を目的に作られた楽団で、卒団された後に有名なオーケストラで主席をされるような方も多い。これは、いまのうちにサインをもらっておかなくては。

 この楽団、とにかく公演が多く、おそらく毎日練習漬け、専用の寮もあるらしいので、帰ってからも気兼ねなく練習ができる。道楽でやっている身には羨ましい環境なのだが、その道で食っていく人にはなかなかハードな世界じゃないかと思う。その辺はストイックな性格の先生にはいい環境かもしれないのだが、そうなると、この道楽者の面倒を見るために、わざわざ何時間も電車に乗せるわけにもいかない。先生にはかれこれ4年近くもレッスンを見ていただいてきたのだが、今回のレッスンが最終回となった。

 先生と呼ばれる職業の中でも特に誰かに何かを教える職業の場合は、授業中だけとか、学校にいる間とか、レッスンのときだけでなく、いつでも「先生」なんじゃないかと思う。この先生は、「こうしたらもっと上手に弾けますよ」とか「こうすればいい音が出ますよ」みたいな、ハウツーを教えてくれる「インストラクター」ではなく、先生ご自身の音楽への取り組み方から、じゃ、このおじさんはどのようにこの道楽に向かい合えばいいのか、なんてことを考えるときのヒントをもらってきた、まさに「ティーチャー」としての先生だったように思う。

 こんなふうに思うようになった転機は、たぶん2回あった。
 1回目は子供の発表会をみた時。子供が、子供なりに「聴かせる」演奏をしていることに、少々の驚きを感動を覚え、自分もあんな風に弾きたいと思った。2回目は先生のリサイタルを聴いたとき。このときの感情はうまく言語化できないけれど、先生の演奏を聴いて、「だからいつもレッスンであんなことを仰るのか」とか「だから子供たちの演奏がこうなるのか」などといったことが、何か1本の糸で結び付いて、強烈な「先生ワールド」が見えたように思えた。

レッスンでいわれることはいつも一緒だった。
ゆっくりでいいからていねいに
最後に見てもらうにあたって、今度の発表会の曲を、ていねいに練習してきたつもりだ。通して弾こうとして弾けなかったところは、間違えずに弾けるようになるまで繰り返し練習してきた。なぜ間違えたのかを考えて楽譜に書くようにもしてきた。先生によれば、暗譜するぐらい練習するのはいいことだけれど、暗譜そのものには意味がない、ということだ。暗譜がなかなか出来ないので、全部、ドレミのふりがなを振って、それで歌ったりもしてきたのだが、先生ご自身はそんなことをせずに、楽譜の形で覚えている、と仰っておられた。
 ともあれ、だいぶ弾けるようにはなった。練習の成果もあって間違えずに弾けたので、それは褒められた。だけど、間違えないように弾こうとして演奏が小さくなってしまっているという。おや、これは子供の発表会で感じたことからは逆の方向だ。いや、子供たちはまだこの先にいるのかもしれない。間違えずに弾けるようになったので、やっとこの先生のレッスンを受けられるようになった、ということかも。しかし、その時には最終回だった。

 なんか他の曲も診ましょうか、ということになったので、アンサンブルの定期演奏会で弾くMOZARTを診てもらった。これまでにくらべると、しっかり、ていねいに譜読みしてきた曲だ。だけど、弾き終わった後で、
しまった。ゆっくりでいいからていねいに、が実践できていない。
と反省。最初が全音符だから、ついつい音源で聴いたテンポ通り弾いてしまう。それがあかんと何度も言われてきたのに。ただ、今回は「いつも言っているでしょ」とは仰らず、「しっかりがんばってください」と励ましていただいた。

 最後に、楽譜にサインしてもらった。といっても、名前を書いてもらっただけなのだが、その傍らに「いつもていねいに」と書き添えられていた。4年近くかけて、やっと、この「ていねいに」の意味が解かりかけてきた。これからも「ていねいに」弾きなさいという、本当に単純なメッセージなのだが、「はい。肝に銘じて続けていきます」

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