発表会と定期演奏会が終わって、何度目かのセヴシックに勤しんでいる。お経を唱えるようなつもりでやっているのだが、実際にはお経ほども上手くはできない。例えば、中指を人差し指にくっつけて小指を伸ばすと、薬指もつられて小指側に動いてしまうのを何とかしたいと思って、そこばかりを練習するのだが、何度練習しても目に見えた改善はない。小指がすぐに出せないのは、薬指を出す時に小指が小さく巻かれているからだと思って、小指を伸ばした状態で薬指を出す練習ばかりをするのだが、小指が伸ばせても抑える力が弱かったり、他の指が本来の場所からずれたり、なぜか知らないが体中を捻って表情まで歪めていたりと、やっぱりこれも上手くいかない。同じところを10回繰り返したところで1分ほどのものなので、毎日少しづつこつこつと続ければいいのだが、つい目先の成果がないことに心が折れて、5分もすると練習そのものに飽きてきてしまう。
話は変わるが、亡くなった樹木希林さんの映画を観てきた。希林さんが演じるのは茶道の先生。黒木華と多部未華子が従姉妹同士で、ふたりで希林さんにお茶を習いに行くというもの。別に何か大きな事件が起こるわけではないのだが、20歳そこそこでお茶を習いだしてから30を超えるまでの日常が、時にはコミカルに、しかし淡々と描かれている。
茶道の世界を描きながら、そこに見えたのは、希林さんの役者道というか、通ってこられた人生の道のように思えた。変化がないように見えて、日々、その前の日とはちがう毎日を生きていること、雨の日には雨の音を聴き、雪の日には雪を見て、真夏の暑さも、真冬の寒さも、五感で感じながら、いま、目の前にいる人と共有していく。茶道がそういう自然との対話であるように、演技は物語やその構成要素との対話であったり、その映画なりドラマなりを観る人との対話であったりするのではないかと思ったりした。
世の中にはすぐわかるものと、すぐわからないものの2種類がある。
すぐにわからないものは、長い時間を掛けて少しずつわかってくる。
言葉ではなく、理屈でもなく、希林さんが心と身体で演じてこられたことが、この映画を通じて若い役者さんに引き継がれていくのを感じた。
茶道の世界がそうであるように、ヴァイオリンの世界も「すぐにはわからないもの」何だと思う。言葉ではなく、理屈でもなく、長い時間を掛けて、心と身体で少しずつわかっていく。そのためにはまず「カタチ」。
今日も修行だ。
日日是修行
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