ヴィオラのことだけでもいろいろあった一年ももうすぐ終わり。今年のブログのネタを辿ってみると、ドラマ「カルテット」にはじまり、アンサンブルへの再入団、ロビーコンサート、定演、保育園での演奏ときて、最後は忘年会での演奏(←これは今日のネタ)。人前で弾く機会が多かったし、いろんな人のお話も聞かせてもらった。
さてさて、その1年の最期のレッスンが先週の土曜日のお昼にあった。その日の夜は忘年会。本番前の駆け込みレッスンだ。
前回のレッスンでいろいろ指摘されたことが全部克服できたわけではない。それでも、リズムがわるいと言われればメトロノームと格闘し、音程がわるいと言われればチューナーと格闘する。姿勢がわるいと言われれば動画を撮って観てみたりもしたのだが、姿勢よりも顔がよくない。ちょっと難しいところに差し掛かると、とたんに顔をしかめ始める。
ここ、上手く弾けないんです。
ということが顔でばれてしまう。それに何と言っても音色だ。弾こうとしている曲はゆっくりの曲。
ミーーーーーーーファーーーーーーソーーーーーレーミーーーーーンン
と、とにかく同じ音を長く伸ばすフレーズから始まる。先生曰く、
「ソ」まできて、やっと「あぁあの曲か」っていうのがわかる
とのこと。いやそれはそうなんだが、やりたいことはそうではない。たまたま同じようにミの全音符から始まる曲があっても、それはそれ、これはこれというように、最初の音で曲の雰囲気を作ってしまいたいのだが、アヴェ・マリアどころか、ヴィオラの音にも聞こえない。笙みたいな音だ。そんなこというと笙の演奏家に叱られそうだが、笙の音は笙の音、ヴィオラの音はヴィオラの音って、ちゃんと違う音が出ないといけないはず。
そこで練習の方は最後の作戦、顔で音を作る作戦に転じた。弾けていようと弾けていまいと、どんな音色が出ていようと、とにかく素晴らしい音が出ていると信じて弾く。そうすると、顔だけ見ていると上手く弾いているように見える。果たして、その練習の成果は?
本番当日のレッスンだから、もう先生も細かいことは仰らない。
いつも言いますけど、開き直りですよ。
と言われて、毎回開き直って本番を迎えているのだが、今回もその例に漏れなかった。ただ、最初はもう少し、「この曲を弾くぞ」という気持ちが欲しい。音程を合わさなきゃとか、丁寧に始めなきゃとか、そういうことばかり考えていると、何の曲なのか分からないから、なんか、待ち歩いていて挨拶もなしにいきなり話し掛けられたような感じがするという。今日は伴奏はないけれど、伴奏があるものは伴奏をイメージして、歌詞のあるものは歌詞をイメージして、それが全部、音に出る。何も考えていなかったら何も考えていない音しか出ない。
はい。仰るとおり。
本番の方は酔客相手で、こちらも少し酔って演奏するので、
ま、こんなもんか~
ってぐらいの演奏はできた。他に、サックスを弾く人、尺八を弾く人、歌を歌う人なんかがいて、それぞれ日頃の技芸を発表されるのだが、ひとり、朗読を発表された方がおられた。カルチャークールに通っておられるそうだ。考えてみたら、音楽を鑑賞するときに楽譜を見て鑑賞はしない。ならば文学鑑賞も文字を見ることに拘ることはなく、楽器を演奏するように朗読をしてもらって、それを鑑賞するというスタイルがあっていい。図書館では、目の見えない人のために本の「音訳」というのをやっているらしい。朗読と音訳は感情の込め方が違うらしいのだが、それにしても、老後にやりたいことがひとつ増えたような気がした。
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