ヴィオラのことだけでもいろいろあった一年ももうすぐ終わり。今年のブログのネタを辿ってみると、ドラマ「カルテット」にはじまり、アンサンブルへの再入団、ロビーコンサート、定演、保育園での演奏ときて、最後は忘年会での演奏(←これは今日のネタ)。人前で弾く機会が多かったし、いろんな人のお話も聞かせてもらった。
さてさて、その1年の最期のレッスンが先週の土曜日のお昼にあった。その日の夜は忘年会。本番前の駆け込みレッスンだ。
前回のレッスンでいろいろ指摘されたことが全部克服できたわけではない。それでも、リズムがわるいと言われればメトロノームと格闘し、音程がわるいと言われればチューナーと格闘する。姿勢がわるいと言われれば動画を撮って観てみたりもしたのだが、姿勢よりも顔がよくない。ちょっと難しいところに差し掛かると、とたんに顔をしかめ始める。
ここ、上手く弾けないんです。
ということが顔でばれてしまう。それに何と言っても音色だ。弾こうとしている曲はゆっくりの曲。
ミーーーーーーーファーーーーーーソーーーーーレーミーーーーーンン
と、とにかく同じ音を長く伸ばすフレーズから始まる。先生曰く、
「ソ」まできて、やっと「あぁあの曲か」っていうのがわかる
とのこと。いやそれはそうなんだが、やりたいことはそうではない。たまたま同じようにミの全音符から始まる曲があっても、それはそれ、これはこれというように、最初の音で曲の雰囲気を作ってしまいたいのだが、アヴェ・マリアどころか、ヴィオラの音にも聞こえない。笙みたいな音だ。そんなこというと笙の演奏家に叱られそうだが、笙の音は笙の音、ヴィオラの音はヴィオラの音って、ちゃんと違う音が出ないといけないはず。
そこで練習の方は最後の作戦、顔で音を作る作戦に転じた。弾けていようと弾けていまいと、どんな音色が出ていようと、とにかく素晴らしい音が出ていると信じて弾く。そうすると、顔だけ見ていると上手く弾いているように見える。果たして、その練習の成果は?
本番当日のレッスンだから、もう先生も細かいことは仰らない。
いつも言いますけど、開き直りですよ。
と言われて、毎回開き直って本番を迎えているのだが、今回もその例に漏れなかった。ただ、最初はもう少し、「この曲を弾くぞ」という気持ちが欲しい。音程を合わさなきゃとか、丁寧に始めなきゃとか、そういうことばかり考えていると、何の曲なのか分からないから、なんか、待ち歩いていて挨拶もなしにいきなり話し掛けられたような感じがするという。今日は伴奏はないけれど、伴奏があるものは伴奏をイメージして、歌詞のあるものは歌詞をイメージして、それが全部、音に出る。何も考えていなかったら何も考えていない音しか出ない。
はい。仰るとおり。
本番の方は酔客相手で、こちらも少し酔って演奏するので、
ま、こんなもんか~
ってぐらいの演奏はできた。他に、サックスを弾く人、尺八を弾く人、歌を歌う人なんかがいて、それぞれ日頃の技芸を発表されるのだが、ひとり、朗読を発表された方がおられた。カルチャークールに通っておられるそうだ。考えてみたら、音楽を鑑賞するときに楽譜を見て鑑賞はしない。ならば文学鑑賞も文字を見ることに拘ることはなく、楽器を演奏するように朗読をしてもらって、それを鑑賞するというスタイルがあっていい。図書館では、目の見えない人のために本の「音訳」というのをやっているらしい。朗読と音訳は感情の込め方が違うらしいのだが、それにしても、老後にやりたいことがひとつ増えたような気がした。
2017年12月5日火曜日
リズム
先月は、私の都合でレッスンをキャンセルしたので、1カ月以上、間が空いてレッスンを再開した。その1か月間の前半はほとんど練習が出来ていなかったものの、後半は練習を再開。前のレッスンで言われていたのは、リズムと弓の返しだったので、とにかくそこを重点的に練習したのだが、再開後のレッスンでも、やはり言われたのはリズムと弓の返し。
うむむ… なんて進歩がないのだ。
レッスンの冒頭。
「なんの曲をやっていましたっけ」と先生。「AVE MARIAです」「誰の?」
そこで「Gounod」が読めない私。外国人の名前はたいてい読みにくいが、フランス人の名前はいちばん読みにくい。ま、ロシア人の名前をЧайковский なんてロシア語で書かれた日には撃沈間違いなしなのだが、Gounod=グノー は読めそうで読めない。
いや、でも、ちゃんと調べていたんですよ。
前回のレッスンでは、長く伸ばす音を中心にリズムが取れていないという注意を受けて、伴奏をイメージしながらというアドバイスをもらったのだけれど、調べてみたら、この曲の伴奏って、バッハの平均律クラヴィーアなんだ。あ、聴いたことがある! そういえば途中でやたら臨時記号がつくところがあるけど、そうか、それはバッハが「どうだ。平均律ってこんなことできるんだぞ」と言わんばかりに作曲した曲に載せているからなんだ。なんてことをイメージして、メトロノームさんといっしょに練習してきた。
その効果があってか、長く伸ばすところのリズムは何も言われなかった。
問題は、2分音符の前に装飾のようにつく16分音符。「マリーーーーーーーアーーー」ってなるところの「マ」のところが16分音符でもない、8分音符でもない、変な長さになっている。先生に見本を見せてもらって、「いや、そう弾いているつもりなんですけど」と言ってみたものの、「そうなっていない」と軽く撃沈。
移弦の前やポジション移動の前は、その先を焦っているせいか、音が短くなりすぎで、しかも次の音が早く出すぎ。なんかこれもデジャヴな感じ。
ま、それでもわずかに進歩はしたのか。
長い音は言われなかったしな。
とりあえずレッスンを再開できたことが進歩なのかも。
2017年11月26日日曜日
保育園の演奏会に出演
アンサンブルに入るといろんな経験ができるもので、今回も楽しい経験をしてきた。
いつも指導してくださる先生は、あちらこちらで大学の学生やら、私たちのような素人アンサンブルの指導をされておられるのだが、そのひとつに保育園での指導があるそうだ。そこの保育園では、何歳かになったら全員がヴァイオリンのレッスンを受けることになっているらしい。希望者だけ、ではなくて全員だそうだ。
それで、地域の結構立派なホールを借りて、年に1度、発表会と演奏会の間ぐらいのイベントがあって、それのお手伝いにいつも馳せ参じることになっているらしい。私はもちろん初参加だ。
園児たちの演奏は、本当に元気がいい。もちろん、そんなに難しい曲が弾けるわけではないのだが、舞台袖で聞いていても、とても元気がいいのが分かる。おそらく、失敗したらどうしようとか、上手に弾かなければ、などといった邪念がないから、あういう音が出てくるのだと思う。
保育園でヴァイオリンを習えば、卒園してからも続けるという子供も多い。卒園児たちの発表会のようなステージもある。発表会でお馴染みの曲が何曲か続く。低学年の子供たちの演奏は、舞台袖で思わず「がんばれ」と力が入ってしまう。中学生ぐらいになると、さすがに貫禄だ。チゴイネルワイゼンを弾いていた子もいたが、舞台袖で聴いていた大人たちはたぶん一生この曲を弾くことはないだろう。
私たちの演奏は、子供たちの歌の伴奏が主。前に数十人の子供たちが並べば、客席で私たちを見ている人はいない。トトロの歌、ミッキーマウスの歌、集まれファンファンファンなど、これもお馴染みの曲ばかり。保育園の先生もいっしょに弾くのだが、園児の相手はしなければいけないし、自分の演奏もしなければいけないし、大量にあるちっちゃいヴァイオリンの調弦もしなければいけないのは、結構、ハードワークだと思う。それにしても、こうして、小さいときからヴァイオリンを弾く機会があれば、別に芸大に行ってプロの演奏家になるとか、そういうことじゃなくても、人生の幅が大きく広がると思う。この前の定期演奏会のときもそうだったけれど、この日も何人かの大学生が演奏に来ていた。そうそう、そういうことが出来るかもしれない。なんとも羨ましい。
いつも指導してくださる先生は、あちらこちらで大学の学生やら、私たちのような素人アンサンブルの指導をされておられるのだが、そのひとつに保育園での指導があるそうだ。そこの保育園では、何歳かになったら全員がヴァイオリンのレッスンを受けることになっているらしい。希望者だけ、ではなくて全員だそうだ。
それで、地域の結構立派なホールを借りて、年に1度、発表会と演奏会の間ぐらいのイベントがあって、それのお手伝いにいつも馳せ参じることになっているらしい。私はもちろん初参加だ。
園児たちの演奏は、本当に元気がいい。もちろん、そんなに難しい曲が弾けるわけではないのだが、舞台袖で聞いていても、とても元気がいいのが分かる。おそらく、失敗したらどうしようとか、上手に弾かなければ、などといった邪念がないから、あういう音が出てくるのだと思う。
保育園でヴァイオリンを習えば、卒園してからも続けるという子供も多い。卒園児たちの発表会のようなステージもある。発表会でお馴染みの曲が何曲か続く。低学年の子供たちの演奏は、舞台袖で思わず「がんばれ」と力が入ってしまう。中学生ぐらいになると、さすがに貫禄だ。チゴイネルワイゼンを弾いていた子もいたが、舞台袖で聴いていた大人たちはたぶん一生この曲を弾くことはないだろう。
私たちの演奏は、子供たちの歌の伴奏が主。前に数十人の子供たちが並べば、客席で私たちを見ている人はいない。トトロの歌、ミッキーマウスの歌、集まれファンファンファンなど、これもお馴染みの曲ばかり。保育園の先生もいっしょに弾くのだが、園児の相手はしなければいけないし、自分の演奏もしなければいけないし、大量にあるちっちゃいヴァイオリンの調弦もしなければいけないのは、結構、ハードワークだと思う。それにしても、こうして、小さいときからヴァイオリンを弾く機会があれば、別に芸大に行ってプロの演奏家になるとか、そういうことじゃなくても、人生の幅が大きく広がると思う。この前の定期演奏会のときもそうだったけれど、この日も何人かの大学生が演奏に来ていた。そうそう、そういうことが出来るかもしれない。なんとも羨ましい。
2017年10月22日日曜日
忘年会を目指して
いろいろ考えながら、定期演奏会後はじめてのレッスンを迎えた。まずは定期演奏会の報告。「とにかく楽しかった」と言うと「楽しいのがいちばんです」とのこと。いや、先生、それ、楽しかったという言葉の裏に、実はあまり上手くは弾けなかったという含意を読んだでしょう。違うんですよ。練習では考えられないレベルで弾いたんですよ。やればできるんですから…
と、大きなことを言うのは控えめに、来年の発表会を目指していろいろ考えていることを相談。
いままでは、テンポの速い曲をヒラヒラパラパラ弾くのが上手いと思っていたけれど、そうじゃなくて、ゆっくりした曲をしっかり聴かせたい。来年もアンサンブルに参加するつもりだから、どうせそっちはヒラヒラパラパラになって、あっという間に本番になるから、とりあえず形にするのに精一杯になるはず。それなら発表会はそうじゃないところをしっかりやりたい。
このところ、ひとりで練習していたのはこの曲。グノーのアヴェ・マリア。例の「ヴィオラ名曲31選」の中の曲だ。宮本笑里さんが弾くとこうなる。
しかし、発表会の曲としてはちょっと簡単すぎる印象がある。それは先生も仰っておられて、この曲で発表会に出るなら相当なレベルにもっていかないと、「なんだ簡単な曲だなぁ」という印象しか残らない、とのこと。同感です。
しかし、忘年会の余興ならちょうどいい具合なので、それを目標に、などと、先生にとってはたぶん消える魔球のような変化球で攻めてみると、「それもいいですね。本番は本番ですから」、ということになった。
先生の前で弾いてみると課題山積。弾く前から課題山積だったのだが、ちょっといくつかに整理してみる。音程とリズムはとりあえず横に置いといて(←いや、それがいちばん課題なんだが)
まず、弓の返し方。
いや、分かっているんですよ、駄目だって。でもやっぱり駄目出し。もっと大事に。アクセントを付けないように返す。とにかく弓を返すところばかりを練習する。最初は解放弦でいい。
ロングトーンはやりにくければ元弓から始めなくてもいいけど、どこから始めるのかはいつも決めておく。
ピアノは音を小さくするのではなく、ピアノに聞こえるように弾く。指板より弓を寝かせて、だけど弓の速さを遅くするのではなく、弓はできるだけたくさん使ってピアノにする。
次のレッスンまではビブラート禁止。ビブラートで誤魔化さずにロングトーンをしっかり弾けるように。ま、これがこの曲のほぼすべてかもしれない。
そんな訳で、ゆっくりと始動。
2017年10月15日日曜日
続・ヴィオラの名曲を探して
前回の記事で、ヴィオリストが過去に作曲家の不興をかってヴィオラのための名曲が書かれないようになったのではないかという仮説を立ててみたが、いやそうでもなさそうだ。YouTubeでいろいろ漁っていると、いろんな作曲家がヴィオラのための曲を書いている。
まずはシューベルト(左の動画)。といっても有名なフランツ・シューベルトとは血縁等はなさそうだ。ウィキペディアによるとドイツ人の作曲家でヴィオリストだそうだ。1754年 ボヘミア(現チェコ共和国)の生まれとある。モーツアルトの2歳上だ。前に見つけたヴァンハルもチェコ人。何かチェコとヴィオラにはつながりがあるのか?
それにしても、ヴィオラコンチェルトなのに主役のヴィオラが出てくるのが遅い。この動画でも、再生を始めてから2分25秒もしてから初めてヴィオラのソロが聞こえてくる。前の記事で唱えた「ヴィオリスト控えめ説」は正しいかもしれない。
右の動画は、カール・ディッタース・フォン・ディッタースドルフ。この人も聞いたことのない作曲家なので、ウィキペディアで調べてみた。ハイドンやモーツァルトと同時代のウィーンに生れ、ボヘミア・ノイホーフ(チェコ)で没した作曲家でヴァイオリン演奏家。また出てきました、チェコ。
この曲も主役が出てくるまでが長い。さきほどの曲ほどではないが、再生を始めてから1分30秒ほどしてから、やっと主役が登場する。このページのリンクはクリックするとそこから再生されるようになっているが、普通は頭から再生されるので、ヴィオラを聴く前に別の動画を見にいかれる方も多いのではないかと思う。
まだ続く。次はカール・シュターミッツ。この人も「ドイツのチェコ系作曲家」とウィキペディアに書かれている。1745年生まれ。モーツアルトより10年早く生まれているが、活躍したのは同じ世代かもしれない。もしかすると、この時期のチェコにものすごい美人ヴィオリストがいて、チェコの作曲家が挙って彼女のために曲を書いたのかもしれない。
この曲もヴィオラ登場までが長い。いったいこの前奏の間、主役のヴィオリストはどんな顔して待っているのか、参考までに右側の動画をつけておいた。18世紀ボヘミアの美人ヴィオリストを想像しながら見るのも一興か。
美人の話が出てきたので、女性ヴィオリストの演奏している動画を探してみた。いずれもアンリ・ヴュータンという19世紀フランスの作曲家の作品。発表会用にオーケストラをピアノで弾いているのではなく、最初からピアノとヴィオラのために書かれた曲のようだ。やはり時代が下ると旋律的で技巧も難しそう。
さてさて、ここから先はやや数奇な世界へ。
いずれもYouTubeで漁って見つけたものだ。最初のはヘンデル。次は音楽の父J.S.バッハの息子、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハの作品。新しい時代のものに比べると、どちらもバロック調のなんだか馴染みのある旋律で、いかにもヘンデル、いかにもバッハという感じなのだが、どうも事情が違うようだ。どちらの動画にも「Casadesus」という謎の人物の名前が記されている。例によってウィキペディアで調べてみると、ヴィオラ奏者と紹介されたあとで、長らく忘れられてきた作曲家の作品を蘇らせたと称して、その作曲家風の贋作をつくり、楽譜を売るという詐欺師紛いのことをしていたようだ。これらの曲もそのようにして作られた贋作らしく、「カサドシュ作曲のヘンデル風の協奏曲」「カサドシュ作曲のJ.C.バッハ風の協奏曲」と呼ばれているらしい。ヴィオラの名曲が少ないのは、さてはそういうヴィオリストがいるからか。こいつの所為だったんだ。いやしかし、これには同情の余地がある。かれもヴィオリストとしてヴィオラの名曲が少ないことを嘆き、それならば自分が過去の大作曲家に成り代わってヴィオラの名曲を書こう、などと思ったのかもしれない。いまなら、「ヘンデル トリビュート小品集」だとか「C.P.バッハに愛を込めて カサドシュ協奏曲集」みたいなタイトルを付けて出版すればいいものなのだが…
それにしても、多くの人にヘンデルやバッハの曲と思わせるだけあって、先輩作曲家に対する尊敬の念とヴィオラに対する愛情を感じる旋律ではないか。
最後にバッハの右側の動画に出演している韓国人のヴィオリストの別の動画。「キム・サンジン」と読むのだろうか。もしかすると、韓国では葉加瀬太郎ばりの人気者なのかもしれない。こういうタレント性のある人が出てくるとヴィオラのステータスも上がるのだが。
まずはシューベルト(左の動画)。といっても有名なフランツ・シューベルトとは血縁等はなさそうだ。ウィキペディアによるとドイツ人の作曲家でヴィオリストだそうだ。1754年 ボヘミア(現チェコ共和国)の生まれとある。モーツアルトの2歳上だ。前に見つけたヴァンハルもチェコ人。何かチェコとヴィオラにはつながりがあるのか?
それにしても、ヴィオラコンチェルトなのに主役のヴィオラが出てくるのが遅い。この動画でも、再生を始めてから2分25秒もしてから初めてヴィオラのソロが聞こえてくる。前の記事で唱えた「ヴィオリスト控えめ説」は正しいかもしれない。
右の動画は、カール・ディッタース・フォン・ディッタースドルフ。この人も聞いたことのない作曲家なので、ウィキペディアで調べてみた。ハイドンやモーツァルトと同時代のウィーンに生れ、ボヘミア・ノイホーフ(チェコ)で没した作曲家でヴァイオリン演奏家。また出てきました、チェコ。
この曲も主役が出てくるまでが長い。さきほどの曲ほどではないが、再生を始めてから1分30秒ほどしてから、やっと主役が登場する。このページのリンクはクリックするとそこから再生されるようになっているが、普通は頭から再生されるので、ヴィオラを聴く前に別の動画を見にいかれる方も多いのではないかと思う。
この曲もヴィオラ登場までが長い。いったいこの前奏の間、主役のヴィオリストはどんな顔して待っているのか、参考までに右側の動画をつけておいた。18世紀ボヘミアの美人ヴィオリストを想像しながら見るのも一興か。
さてさて、ここから先はやや数奇な世界へ。
いずれもYouTubeで漁って見つけたものだ。最初のはヘンデル。次は音楽の父J.S.バッハの息子、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハの作品。新しい時代のものに比べると、どちらもバロック調のなんだか馴染みのある旋律で、いかにもヘンデル、いかにもバッハという感じなのだが、どうも事情が違うようだ。どちらの動画にも「Casadesus」という謎の人物の名前が記されている。例によってウィキペディアで調べてみると、ヴィオラ奏者と紹介されたあとで、長らく忘れられてきた作曲家の作品を蘇らせたと称して、その作曲家風の贋作をつくり、楽譜を売るという詐欺師紛いのことをしていたようだ。これらの曲もそのようにして作られた贋作らしく、「カサドシュ作曲のヘンデル風の協奏曲」「カサドシュ作曲のJ.C.バッハ風の協奏曲」と呼ばれているらしい。ヴィオラの名曲が少ないのは、さてはそういうヴィオリストがいるからか。こいつの所為だったんだ。いやしかし、これには同情の余地がある。かれもヴィオリストとしてヴィオラの名曲が少ないことを嘆き、それならば自分が過去の大作曲家に成り代わってヴィオラの名曲を書こう、などと思ったのかもしれない。いまなら、「ヘンデル トリビュート小品集」だとか「C.P.バッハに愛を込めて カサドシュ協奏曲集」みたいなタイトルを付けて出版すればいいものなのだが…
それにしても、多くの人にヘンデルやバッハの曲と思わせるだけあって、先輩作曲家に対する尊敬の念とヴィオラに対する愛情を感じる旋律ではないか。
2017年10月9日月曜日
ヴィオラの名曲を探して
いまさらいうのもなんだが、ヴィオラという楽器は控えめなのか、目立たないのか、作曲家の興味をそそらないのか、あるいはかつてヴィオリストが作曲家の不興をかったのか、ヴィオラのために書かれた名曲というのが少ない。スタジオの発表会ではこれまで2回、ヴィオラを弾いているが、1回目はバッハの無伴奏チェロ組曲1番のプレリュード,2回目はヘンデルのヴァイオリンソナタ4番をアレンジして弾いている。もちろん、テレマンのヴィオラコンチェルトのような曲もなくはないのだが、発表会のネタに事欠かないヴァイオリンとは違って、選曲にはなかなか苦労する。
そこで、YOUTUBEで「VIOLA」とキーワードを入れて、何かいい曲はないかと探してみることにした。
マックス・ブルッフがヴィオラのために書いた曲のようだ。ヘンデルやバッハとは違ってなかなかロマンティックな旋律。リズムが難しそう。音色にも相当気を遣わないといけない。苦手克服にはいいのだけど、かなりの大作。この曲をこのレベルで「聴かせる」のは至難の業か。
ひとつめの動画と同じ演奏家の動画を探して見つけた曲。「パク・ハヤン」と読むのだろうか。韓国のヴィオリストのようだ。作曲家ヴァンハルはチェコの作曲家のようだ。「古典派」というからモーツアルトやハイドンなんかと同世代なのだろうか。そういえば、なんとなくそれっぽいところもある。それにしても第1楽章だけで8分もあるのか。他の楽章を弾くという手もあるが、発表会で弾くとなるとピアノ伴奏譜があるかどうかが問題だな。
1曲目と同じロマン派の作曲家でパガニーニの曲。やはり時代が下るとより高い技巧を要求するようになってくる。リズムも複雑になってくるし、随所にフラジオレットが使われている。そのフラジオレットの使い方がまた何種類もあって、こりゃちょっと無理っぽい。YOUTUBEでこの曲を検索すると、チェロで弾いている動画も多い。ヴィオラのための曲なのか、チェロのための曲なのかは、いまのところ不明。
ひとつはジブリから、もうひとつはゲーム音楽から。どちらも日本人の演奏家によるものだが、ほかにこの方たちの演奏の動画はYOUTUBEには載っていない。「ザナルカンド」を弾いておられる方は、音楽教室の講師と紹介されていて、どうやらその音楽教室の宣伝のためにアップされた動画のようだ。
この路線で行くならば、ヴァイオリンのための楽譜を買ってきて、ピアノ伴奏はそのまま、ヴァイオリンの譜をヴィオラにアレンジして弾くということになりそう。「ウケ」はいいかもしれないが…。
そんなわけで、まだまだ迷走はつづく。
そこで、YOUTUBEで「VIOLA」とキーワードを入れて、何かいい曲はないかと探してみることにした。
マックス・ブルッフがヴィオラのために書いた曲のようだ。ヘンデルやバッハとは違ってなかなかロマンティックな旋律。リズムが難しそう。音色にも相当気を遣わないといけない。苦手克服にはいいのだけど、かなりの大作。この曲をこのレベルで「聴かせる」のは至難の業か。
ひとつめの動画と同じ演奏家の動画を探して見つけた曲。「パク・ハヤン」と読むのだろうか。韓国のヴィオリストのようだ。作曲家ヴァンハルはチェコの作曲家のようだ。「古典派」というからモーツアルトやハイドンなんかと同世代なのだろうか。そういえば、なんとなくそれっぽいところもある。それにしても第1楽章だけで8分もあるのか。他の楽章を弾くという手もあるが、発表会で弾くとなるとピアノ伴奏譜があるかどうかが問題だな。
1曲目と同じロマン派の作曲家でパガニーニの曲。やはり時代が下るとより高い技巧を要求するようになってくる。リズムも複雑になってくるし、随所にフラジオレットが使われている。そのフラジオレットの使い方がまた何種類もあって、こりゃちょっと無理っぽい。YOUTUBEでこの曲を検索すると、チェロで弾いている動画も多い。ヴィオラのための曲なのか、チェロのための曲なのかは、いまのところ不明。
ひとつはジブリから、もうひとつはゲーム音楽から。どちらも日本人の演奏家によるものだが、ほかにこの方たちの演奏の動画はYOUTUBEには載っていない。「ザナルカンド」を弾いておられる方は、音楽教室の講師と紹介されていて、どうやらその音楽教室の宣伝のためにアップされた動画のようだ。
この路線で行くならば、ヴァイオリンのための楽譜を買ってきて、ピアノ伴奏はそのまま、ヴァイオリンの譜をヴィオラにアレンジして弾くということになりそう。「ウケ」はいいかもしれないが…。
そんなわけで、まだまだ迷走はつづく。
2017年10月7日土曜日
定期演奏会が終わって…
定期演奏会が終わって、ちょっと中弛み状態。6月のロビーコンサートの後は、もう翌日から次の定期演奏会にむけてギアチェンジをしていたのだが(その時の記事)、音楽に関してはもう来年まで大きな予定はなく、曲すらも決まっていない。来年は、7月か8月に、普段レッスンを受けているスタジオと、時々アンサンブルのレッスンを受けているスタジオの両方で発表会がある。それと、多分また今年と同じように5月ごろから毎週練習に参加して、6月のロビーコンサートと9月か10月の定期演奏会、というスケジュールになると思う。結構、過密スケジュールだ。他人の何倍も練習しないと弾いている真似すらできない力量から考えると、4月までには発表会の曲をほぼ完ぺきに弾けるようにしておかないと、ロビーコンサートや定期演奏会の曲の練習時間を確保できないのだが、まだ曲も決まっていない。何を弾くかも
悩み中
先日の子供の発表会をみたところ、今の先生、結構本気で仕上げてくる感じだ。「とりあえず弾ける」ではなくて「ちゃんと弾ける」というレベルが目標。アンサンブルの場合は曲が決まっていて、それも半端なく多いので、ところどころ弾けないところがあっても「時間切れ」でステージに上がることになるが、先生が「ちゃんと弾く」というスタンスで来られるなら、たとえ簡単な曲であっても「聴かせる」演奏をしたい。指がクルクル回って速さで「上手」に見せかけるのではなくて、曲名をみたら「なんだ簡単な曲だなぁ」とか思える曲でも、聴いてみたら「をっ」となるような…
またまた自分でハードルを上げてしまった。
悩み中
先日の子供の発表会をみたところ、今の先生、結構本気で仕上げてくる感じだ。「とりあえず弾ける」ではなくて「ちゃんと弾ける」というレベルが目標。アンサンブルの場合は曲が決まっていて、それも半端なく多いので、ところどころ弾けないところがあっても「時間切れ」でステージに上がることになるが、先生が「ちゃんと弾く」というスタンスで来られるなら、たとえ簡単な曲であっても「聴かせる」演奏をしたい。指がクルクル回って速さで「上手」に見せかけるのではなくて、曲名をみたら「なんだ簡単な曲だなぁ」とか思える曲でも、聴いてみたら「をっ」となるような…
またまた自分でハードルを上げてしまった。
2017年10月1日日曜日
ステージに載る
定期演奏会が終わった。
感想
理屈抜きで楽しい
もう、これに尽きる。前日からのテンションの盛り上がりは、昨日の記事の通り。ま、多少コミカルには書いているが、大筋、嘘ではない。上手な人と一緒に弾けば、普段の練習では失敗ばかりしているところも弾けたりするし、弾ければ間違いなく楽しい。練習のときには揃わなかった楽器が揃って、プロの歌手にも来てもらえれば、そりゃそれなりに格好も付く。それが美人だったり、若い女性だったりすれば、なおさらテンションも上がるというものだが、本質はそこではない。こうしてアンサンブルに入っていなければすれ違うこともなかった人と、時間と場所をシェアし、演奏してそれを聴かせるという目的をシェアすること。それが本質だと思う。
今回はエキストラの方と話をすることも多かった。たいていは、先生がお世話をされている大学の学生だったり、そこの卒業生だったりするのだが、その卒業生どうしが同じアマオケに入っていたり、その卒業生がコアになって新しいアマオケを作っていたり、そういうつながりがいくつもあるようだ。エキストラに来ることで新しいつながりができることもあるという。同窓会とかで「いっかい集まろうや」とか言いながら酒飲んで話するだけではなくて、そこに共通の「やること」があるのは羨ましい。こうして時間と場所と目的をシェアするところに信頼と連帯が生まれる。いちばん大事なのはきっと目的だと思う。
演奏の方は、途中、弾く曲を間違えて1小節弾いてしまうという大事故を起こしてしまったが、これをご愛敬で許してもらえば、いままでの練習ではありえないレベルで演奏できたと思う。本当に、始まってしまうとあっという間に終わってしまった。本当に楽しかったけど、ちょっと疲れた。今夜はぐっすり眠れそうだ。
オペラ座の怪人を 演奏するために 用意された仮面 |
理屈抜きで楽しい
もう、これに尽きる。前日からのテンションの盛り上がりは、昨日の記事の通り。ま、多少コミカルには書いているが、大筋、嘘ではない。上手な人と一緒に弾けば、普段の練習では失敗ばかりしているところも弾けたりするし、弾ければ間違いなく楽しい。練習のときには揃わなかった楽器が揃って、プロの歌手にも来てもらえれば、そりゃそれなりに格好も付く。それが美人だったり、若い女性だったりすれば、なおさらテンションも上がるというものだが、本質はそこではない。こうしてアンサンブルに入っていなければすれ違うこともなかった人と、時間と場所をシェアし、演奏してそれを聴かせるという目的をシェアすること。それが本質だと思う。
今回はエキストラの方と話をすることも多かった。たいていは、先生がお世話をされている大学の学生だったり、そこの卒業生だったりするのだが、その卒業生どうしが同じアマオケに入っていたり、その卒業生がコアになって新しいアマオケを作っていたり、そういうつながりがいくつもあるようだ。エキストラに来ることで新しいつながりができることもあるという。同窓会とかで「いっかい集まろうや」とか言いながら酒飲んで話するだけではなくて、そこに共通の「やること」があるのは羨ましい。こうして時間と場所と目的をシェアするところに信頼と連帯が生まれる。いちばん大事なのはきっと目的だと思う。
演奏の方は、途中、弾く曲を間違えて1小節弾いてしまうという大事故を起こしてしまったが、これをご愛敬で許してもらえば、いままでの練習ではありえないレベルで演奏できたと思う。本当に、始まってしまうとあっという間に終わってしまった。本当に楽しかったけど、ちょっと疲れた。今夜はぐっすり眠れそうだ。
2017年9月30日土曜日
前日練習
いよいよ明日が本番。今日は、明日ステージに載る全員が初めて集まって、明日と同じステージで練習した。
ヴィオラパートにもエキストラの方が来られた。先生が面倒を見ておられる大学のアンサンブルから来られた女子学生だ。団員の方は奥ゆかしいのかなんだか、エキストラを最前列に並べ、その陰に隠れてこっそり弾こうとする人ばかり(私を含む)。いやしかし、やはりわざわざ来てもらっている人だけあって、演奏はそつがない。それにアンサンブルで弾くことにも慣れていて、アクションが大きく、ちょっとした動きで次の音が予測できる。前にいてもらうととても弾きやすい。
ちなみにこれは、いつもレッスンを受けている先生も同じで、前のレッスンの時に、fzp(強いアクセントを付けたあとで、すぐ弱く)の弾き方について、弓をいきなり速く動かしてすぐにゆっくりにするという弾き方をしていたところを、そうではなくて、弓を深く重みを載せて弾いた後、弓速は変えないまま弓に載せる重みを軽くして弾くように、というご指導をいただいたときのお手本を見て、音が出る前に次はどういう弾き方で来るのかがイメージできるのを強く感じた。何がどう違うのかよくわからないが、そういうものなのだろう。
とにかく、そうやって動きを目で追いながら弾いていると、がぜんテンションが上がってくる。
こうしてエキストラにも助けられて練習が始まる。いつもの練習では「パラパラパッパッパー」と口で歌っていたオーボエやホルンもいる。口で歌わなくても楽器の音が出てくる。これもがぜんテンションが上がってくる。
そしてソプラノの美しい歌手の登場。プロのソプラノの声をこんな間近で聴けるなんて。いままでこんな機会はなかったのでイメージができなかったのだが、とにかくすごい。大声を出すとかそういうことではなくて、とにかく声量がすごいし、小さな声でうたうところも、細く針のような声でけっして弱々しい、か細い声ではない。とにかく綺麗な声だ。そして容姿も美しい。モーツアルトはこんな美しい人のためにこの曲を書いたのかと暫し妄想。途中、レスタティーヴォのところをチェンバロ(キーボードで演奏)と合わせる時間が結構長かったのだが、チェンバロは私の席のうしろ。チェンバロの方を見て歌ってくださるということは、私の方を見て歌ってくださるのとほぼ同じ。少なくとも視界には私が入っていたはずだ。これもがぜんテンションが上がってくる。これはエキストラがはいったり、オーボエが入って上がった分の100倍ぐらい。
もう、遠足の前の日みたいに、興奮して眠れないかも。
ヴィオラパートにもエキストラの方が来られた。先生が面倒を見ておられる大学のアンサンブルから来られた女子学生だ。団員の方は奥ゆかしいのかなんだか、エキストラを最前列に並べ、その陰に隠れてこっそり弾こうとする人ばかり(私を含む)。いやしかし、やはりわざわざ来てもらっている人だけあって、演奏はそつがない。それにアンサンブルで弾くことにも慣れていて、アクションが大きく、ちょっとした動きで次の音が予測できる。前にいてもらうととても弾きやすい。
ちなみにこれは、いつもレッスンを受けている先生も同じで、前のレッスンの時に、fzp(強いアクセントを付けたあとで、すぐ弱く)の弾き方について、弓をいきなり速く動かしてすぐにゆっくりにするという弾き方をしていたところを、そうではなくて、弓を深く重みを載せて弾いた後、弓速は変えないまま弓に載せる重みを軽くして弾くように、というご指導をいただいたときのお手本を見て、音が出る前に次はどういう弾き方で来るのかがイメージできるのを強く感じた。何がどう違うのかよくわからないが、そういうものなのだろう。
とにかく、そうやって動きを目で追いながら弾いていると、がぜんテンションが上がってくる。
こうしてエキストラにも助けられて練習が始まる。いつもの練習では「パラパラパッパッパー」と口で歌っていたオーボエやホルンもいる。口で歌わなくても楽器の音が出てくる。これもがぜんテンションが上がってくる。
そしてソプラノの美しい歌手の登場。プロのソプラノの声をこんな間近で聴けるなんて。いままでこんな機会はなかったのでイメージができなかったのだが、とにかくすごい。大声を出すとかそういうことではなくて、とにかく声量がすごいし、小さな声でうたうところも、細く針のような声でけっして弱々しい、か細い声ではない。とにかく綺麗な声だ。そして容姿も美しい。モーツアルトはこんな美しい人のためにこの曲を書いたのかと暫し妄想。途中、レスタティーヴォのところをチェンバロ(キーボードで演奏)と合わせる時間が結構長かったのだが、チェンバロは私の席のうしろ。チェンバロの方を見て歌ってくださるということは、私の方を見て歌ってくださるのとほぼ同じ。少なくとも視界には私が入っていたはずだ。これもがぜんテンションが上がってくる。これはエキストラがはいったり、オーボエが入って上がった分の100倍ぐらい。
もう、遠足の前の日みたいに、興奮して眠れないかも。
2017年9月17日日曜日
Edward W. Elgar
演奏会のプログラムに掲載する曲の紹介を書くことになったので、図書館に行って、作曲家の女性関係を調べたりしたのだが、その所為があって、ひとつ書き上げることができた。自分で言うのも何だがそこそこの出来だ。読んで演奏を聴く楽しみが増えればと思う。遠くで演奏会にお越しいただけない方のためにフライングでご紹介したい。お近くの方で興味を持たれた方は是非お越しいただければと思う。
ちなみにこの曲の紹介だ。
Serenade for Strings Op.20, Edward W. Elgar, 1893, Malvern.
弦楽セレナーデ作品20は、エルガーが、1893年に、10歳ほど年上の妻、キャロライン・アリスとの結婚3周年を記念して作曲したと言われている。特に第2楽章の甘美なメロディからは、彼の深い愛情が感じられる。
エルガーは愛妻家として知られているが、浮いた噂がないわけではない。もっとも有名なのは、1902年から生涯続いたアネモネとの交流であろう。二人の交流は妻も公認のものであったが、1989年に、アネモネが残していたエルガーの書簡が「アネモネの手紙」として公表され、誰もが考えていた以上に二人が親密な関係であったことがわかった。それでも一線を越える関係であったかどうかは明らかではない。
弦楽セレナーデ作品20が作曲されたのは、エルガーがアネモネと出会うよりも前である。このころエルガーは、女子学校の音楽教師の職にあり、その学校の校長、ローザ・バーリーがエルガーに対する深い愛情を抱いていた。しかし、エルガーの方ではまったくその素振りはなかったという。彼女の回想によると、エルガーは考えられないほど抑圧された人間で、無数の非難を浴びるという恐怖に憑りつかれ、いわば内面に閉じ込められた状態だったのだという。この内面の自由、つまり、行動を伴わなければ心の中で何を考えていても許されるという自由は、近代以降の個人に与えられた自由の核心といってもよい。妻への愛情と愛妻家というイメージで自分を抑圧していた彼は、この内面の自由によって何を想像し、どんなロマンスをこの曲に込めたのだろうか。
この曲の第1楽章は、何かに追われているような旋律で始まる。彼を追うのは、妻のアリスではなく、醜聞に飢えた世間の目であったり、愛妻家という虚構から得られる彼のプライドだったかもしれない。この旋律はたびたび登場して第1楽章全体に逃げ場のない雰囲気を醸し出す。途中、ヴァイオリンが甘美な会話をするように美しい旋律を奏でる間も、低弦はどこか不穏な旋律を送り続ける。そして、その甘美な会話が衝撃的な旋律で遮られ、再び何かに追われるような旋律が始まる。最後は都会の雑踏の中に逃げ込むように曲が盛り上がり、静かにドアが閉じられる音で、第2楽章に続いていく。妻とのロマンスを思い描きながら作った曲ならば、なぜ第1楽章にはこんなにも緊迫感があるのだろう。彼はこの作品でいったいどんな情景を思い描いたのか。
想像するのは自由だ。貴女もエルガーがこの曲に込めた情景を想像してほしい。貴女はいまシルクのドレスで身を包み、恋のアヴァンチュールを楽しんでいるところ。演奏会のあとは、ふたりで都会の雑踏に消えてゆき・・・(18歳以上限定)。
参考文献
フリッツ・スピーグル 著 ; 山田久美子 訳. 恋する大作曲家たち. 音楽之友社, 2001.3. 446p ; ISBN 4-276-21061-5 :
水越健一 著. エドワード・エルガー希望と栄光の国. 武田書店, 2001.6. 220p ; ISBN 4-88689-016-4 :
お越しになってプログラムを見た時に、これと違う原稿に挿し変わっていたら、他のメンバーからNGが出たということなんだが、解釈は聴く人に任されているので、気に入っていただければ是非アヴァンチュールを楽しみに来てください。
ちなみにこの曲の紹介だ。
Serenade for Strings Op.20, Edward W. Elgar, 1893, Malvern.
弦楽セレナーデ作品20は、エルガーが、1893年に、10歳ほど年上の妻、キャロライン・アリスとの結婚3周年を記念して作曲したと言われている。特に第2楽章の甘美なメロディからは、彼の深い愛情が感じられる。
エルガーは愛妻家として知られているが、浮いた噂がないわけではない。もっとも有名なのは、1902年から生涯続いたアネモネとの交流であろう。二人の交流は妻も公認のものであったが、1989年に、アネモネが残していたエルガーの書簡が「アネモネの手紙」として公表され、誰もが考えていた以上に二人が親密な関係であったことがわかった。それでも一線を越える関係であったかどうかは明らかではない。
弦楽セレナーデ作品20が作曲されたのは、エルガーがアネモネと出会うよりも前である。このころエルガーは、女子学校の音楽教師の職にあり、その学校の校長、ローザ・バーリーがエルガーに対する深い愛情を抱いていた。しかし、エルガーの方ではまったくその素振りはなかったという。彼女の回想によると、エルガーは考えられないほど抑圧された人間で、無数の非難を浴びるという恐怖に憑りつかれ、いわば内面に閉じ込められた状態だったのだという。この内面の自由、つまり、行動を伴わなければ心の中で何を考えていても許されるという自由は、近代以降の個人に与えられた自由の核心といってもよい。妻への愛情と愛妻家というイメージで自分を抑圧していた彼は、この内面の自由によって何を想像し、どんなロマンスをこの曲に込めたのだろうか。
この曲の第1楽章は、何かに追われているような旋律で始まる。彼を追うのは、妻のアリスではなく、醜聞に飢えた世間の目であったり、愛妻家という虚構から得られる彼のプライドだったかもしれない。この旋律はたびたび登場して第1楽章全体に逃げ場のない雰囲気を醸し出す。途中、ヴァイオリンが甘美な会話をするように美しい旋律を奏でる間も、低弦はどこか不穏な旋律を送り続ける。そして、その甘美な会話が衝撃的な旋律で遮られ、再び何かに追われるような旋律が始まる。最後は都会の雑踏の中に逃げ込むように曲が盛り上がり、静かにドアが閉じられる音で、第2楽章に続いていく。妻とのロマンスを思い描きながら作った曲ならば、なぜ第1楽章にはこんなにも緊迫感があるのだろう。彼はこの作品でいったいどんな情景を思い描いたのか。
想像するのは自由だ。貴女もエルガーがこの曲に込めた情景を想像してほしい。貴女はいまシルクのドレスで身を包み、恋のアヴァンチュールを楽しんでいるところ。演奏会のあとは、ふたりで都会の雑踏に消えてゆき・・・(18歳以上限定)。
参考文献
フリッツ・スピーグル 著 ; 山田久美子 訳. 恋する大作曲家たち. 音楽之友社, 2001.3. 446p ; ISBN 4-276-21061-5 :
水越健一 著. エドワード・エルガー希望と栄光の国. 武田書店, 2001.6. 220p ; ISBN 4-88689-016-4 :
お越しになってプログラムを見た時に、これと違う原稿に挿し変わっていたら、他のメンバーからNGが出たということなんだが、解釈は聴く人に任されているので、気に入っていただければ是非アヴァンチュールを楽しみに来てください。
2017年9月16日土曜日
アンサンブルの楽しみ方
アンサンブルのメンバーになるといろいろな楽しみがあるものだ。すぐに思いつくのは仲間との飲み会だが、うちのアンサンブルに限るとあまりそういう機会はない。練習が木曜日の夜で、クルマで来る人も多く、終わったらさっさと帰るというのがスタンダード。いやしかし、楽しみ方はいろいろあるというのを実感している。
まず楽譜の管理。これはいちおう、ライブラリアンというひとがいて管理されている。一年の半分しか活動に参加できない自分としては、そこはあまり関われないのだが、原版が古くて不鮮明なものや、手書き譜で読みにくいものをメンテナンスするというようなことなら、期間限定団員にもできる。幸い少し長めの夏休みがあり、時間もあったので、書き込みのある古いスコア譜をもとに演奏していた曲のパート譜を作成したり、指導してくださる先生の手書きの編曲譜をフリーソフトを使って写譜したりといったことをやった。
これはずいぶん歓迎された。
弾きやすい。
これで弾いたら上手になった気がする。
などとお褒めをいただいた。これでみなさんが1割り増しぐらいで弾けるのなら、その時間、私が練習時間を削ったことによって1割後退しても、全体としてはレベルが上がるはず。
もうひとつは、プログラムの曲紹介を書くこと。
といっても、和声がどうだとか、対位法がナンチャラだとか、そういう難しいことは書けない。曲紹介を書くにあたってやったのは、図書館に行って、モーツアルトとエルガーの
女性関係を徹底的に調べる
こと。今回、演奏する曲は、それぞれ作曲家が何歳の時に書いたものか。そして、そのとき彼は誰に思慕の情を抱き、誰を口説き落とす目的でこの曲を作ったのか。
図書館の「音楽」の書架に行けば、モーツアルトに関する本は何冊もある。モーツアルトの曲を1曲ずつ解説した「モーツァルト全作品事典」(音楽之友社, 2006)、モーツアルトと交流のあった人についての解説まで掲載されている「モーツァルト大事典」(平凡社, 1996)、全6巻からなる書簡集などのほか、事典類も充実している。いちばん参考になったのは、高橋英郎「モーツァルトの手紙」(小学館, 2007)。参考になる資料も多いが、調べてみると、出るわ出るわ、女性関係が。噂に違わぬ相当なチャラ男だったようだ。
一方でエルガーの方は愛妻家で通っているのだが、これも調べていくとちょっと怪しい。そもそもセレナーデというのが異性を口説き落とすための曲と言えなくもないのだから、結婚後に書くには、大人の都合で簡単には一線を越えられない誰か意中の人がいるか、あるいはそういうことを妄想しながらでなければ、ロマンティックなセレナーデにはならない。そして、そのセレナーデをロマンティックに弾くには、演奏者も同じように妄想しながら弾く必要がある(キッパリ。
そんなわけで、ずいぶん時間をかけて、超大作を書き上げたのだが、こっちの方は、あるいはその時間、練習しておく方がよかったかも。いや、演奏のレベルは上がらないかもしれないが、聴きに来ていただいたお客さんの満足度は、この曲紹介で1割ほどアップするかもしれないから、やっぱり貴重な貢献だ。
まず楽譜の管理。これはいちおう、ライブラリアンというひとがいて管理されている。一年の半分しか活動に参加できない自分としては、そこはあまり関われないのだが、原版が古くて不鮮明なものや、手書き譜で読みにくいものをメンテナンスするというようなことなら、期間限定団員にもできる。幸い少し長めの夏休みがあり、時間もあったので、書き込みのある古いスコア譜をもとに演奏していた曲のパート譜を作成したり、指導してくださる先生の手書きの編曲譜をフリーソフトを使って写譜したりといったことをやった。
これはずいぶん歓迎された。
弾きやすい。
これで弾いたら上手になった気がする。
などとお褒めをいただいた。これでみなさんが1割り増しぐらいで弾けるのなら、その時間、私が練習時間を削ったことによって1割後退しても、全体としてはレベルが上がるはず。
もうひとつは、プログラムの曲紹介を書くこと。
といっても、和声がどうだとか、対位法がナンチャラだとか、そういう難しいことは書けない。曲紹介を書くにあたってやったのは、図書館に行って、モーツアルトとエルガーの
女性関係を徹底的に調べる
こと。今回、演奏する曲は、それぞれ作曲家が何歳の時に書いたものか。そして、そのとき彼は誰に思慕の情を抱き、誰を口説き落とす目的でこの曲を作ったのか。
図書館の「音楽」の書架に行けば、モーツアルトに関する本は何冊もある。モーツアルトの曲を1曲ずつ解説した「モーツァルト全作品事典」(音楽之友社, 2006)、モーツアルトと交流のあった人についての解説まで掲載されている「モーツァルト大事典」(平凡社, 1996)、全6巻からなる書簡集などのほか、事典類も充実している。いちばん参考になったのは、高橋英郎「モーツァルトの手紙」(小学館, 2007)。参考になる資料も多いが、調べてみると、出るわ出るわ、女性関係が。噂に違わぬ相当なチャラ男だったようだ。
一方でエルガーの方は愛妻家で通っているのだが、これも調べていくとちょっと怪しい。そもそもセレナーデというのが異性を口説き落とすための曲と言えなくもないのだから、結婚後に書くには、大人の都合で簡単には一線を越えられない誰か意中の人がいるか、あるいはそういうことを妄想しながらでなければ、ロマンティックなセレナーデにはならない。そして、そのセレナーデをロマンティックに弾くには、演奏者も同じように妄想しながら弾く必要がある(キッパリ。
そんなわけで、ずいぶん時間をかけて、超大作を書き上げたのだが、こっちの方は、あるいはその時間、練習しておく方がよかったかも。いや、演奏のレベルは上がらないかもしれないが、聴きに来ていただいたお客さんの満足度は、この曲紹介で1割ほどアップするかもしれないから、やっぱり貴重な貢献だ。
2017年8月26日土曜日
カツオブシムシ
定期演奏会が近づいてきたので、弓の毛替えをすることにした。本番が近づいてくると、
上手く弾けないのは
きっと弓毛の所為だ
とか
弦を換えれば
いい音が出るはずだ
とかそういうことを考えるのは私だけではないはずだ。
ところで、しばらくヴィオラばかりを弾いているので、ヴァイオリンのケースは開けられることがほとんどない。ところが、数ヶ月前に開けた時にある異変に気付いた。しばらく弾いていないのに、弓毛がずいぶん薄くなっていて、切れた毛が弓の両端からいくつもぶら下がっているのだ。しばらく弾いていないから、こんなふうに毛が切れることはないはずだ。普段、弾かないものではあるが、この状態で置いておくのは、なにか酷く粗末に扱っているような気がする。これはよくない。
そこで、ヴィオラ弓と一緒にヴァイオリン弓も毛替えをしてもらうことにした。
工房に持っていって職人さんにヴァイオリン弓を見せると、
あっ、カツオブシムシですね。これは。
と立ちどころに原因が判明。テントウムシの小さいような虫なのだが、幼虫の時に動物性の蛋白質を得るために、もともと馬の尻尾で出来ている弓毛を食べるのだそうだ。ケースの中に住み着いてどんどん増えるわけではない。成虫になるとどこかに飛んでいくという。小さな虫なので、弓毛の1本でも十分に成長するので、もし飼うとしたら(飼わないけど)、切れた弓毛の1本を食べさせておけばよいのだが、たまたまケースの中で卵からかえった幼虫は、いちばん食べ頃な弓毛の一部を食べて、その弓毛が切れたら、切れ端には見向きもせずに、その次に食べ頃な弓毛に食い付くというようなことを繰り返し、おかげで何本もの弓毛が切れてしまって毛が薄い状態になってしまったらしい。
変な防虫剤を入れると、こんどはニスを痛めてしまうことがあるらしい。「雛人形のようなデリケートなものに入れるものなら大丈夫かもしれないけれど…」ということなのだが、雛人形の方はほとんどが植物性のタンパク質なので、付く虫の種類は違うかも。
結局、そういう防虫対策はなにもしないまま。ヴァイオリン弓は当分、ヴィオラケースに入れておくことにした。
そのうち天日干しでもするのがいいのか・・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/ヒメマルカツオブシムシ
2017年8月15日火曜日
こどもの発表会
少し前になるが、いつもお世話になっているスタジオの発表会があった。大人の発表会は2年に1回しかなく、今年はOFFなのだが、こどもの発表会は毎年ある。自分の娘たちが卒業して以来、遠ざかっていたのだが、すぐ近くのホールでやっているので様子を見に行った。
プログラムを見て、まず、ヴァイオリンを弾く生徒が増えていることに気づく。以前は、ほとんどがピアノの生徒で、ヴァイオリンは3人ぐらい。先生が他所の教室や自宅で教えているこどもを連れてきたりしていた年もあったのだが、久しぶりに見た発表会では3人に1人ぐらいの割合でヴァイオリンの生徒さんがいる。
実際に演奏を聴いてみて、レベルが相当に上がっているのにも驚いた。発表はほぼ年齢順。あとの方になるほど年長で、演奏技術も上がっていくのだが、最初に発表した子でもけっして拙い演奏ではない。ボッケリーニのメヌエットを、失敗することなく最後まで弾き通した。マジャールの踊り、ユーモレスク、ゴゼックのガボット、バッハのガボット、ザイツのコンチェルト2番、バッハのブーレと、教本でおなじみの曲が次々に披露されるのだが、演奏の途中で明らかな失敗をする子はいない。なかには「聴かせる」という域の演奏をする子もいて、かなり聴き応えがあった。
まだ幼いこどももいるのだが、他の発表もしっかり聴いている様子で、会場全体が「晴れの日」という雰囲気になっている。
うーむ
いろんな意味でハードルが上がってしまった。
プログラムを見て、まず、ヴァイオリンを弾く生徒が増えていることに気づく。以前は、ほとんどがピアノの生徒で、ヴァイオリンは3人ぐらい。先生が他所の教室や自宅で教えているこどもを連れてきたりしていた年もあったのだが、久しぶりに見た発表会では3人に1人ぐらいの割合でヴァイオリンの生徒さんがいる。
実際に演奏を聴いてみて、レベルが相当に上がっているのにも驚いた。発表はほぼ年齢順。あとの方になるほど年長で、演奏技術も上がっていくのだが、最初に発表した子でもけっして拙い演奏ではない。ボッケリーニのメヌエットを、失敗することなく最後まで弾き通した。マジャールの踊り、ユーモレスク、ゴゼックのガボット、バッハのガボット、ザイツのコンチェルト2番、バッハのブーレと、教本でおなじみの曲が次々に披露されるのだが、演奏の途中で明らかな失敗をする子はいない。なかには「聴かせる」という域の演奏をする子もいて、かなり聴き応えがあった。
まだ幼いこどももいるのだが、他の発表もしっかり聴いている様子で、会場全体が「晴れの日」という雰囲気になっている。
うーむ
いろんな意味でハードルが上がってしまった。
2017年8月13日日曜日
オペラ座の怪人
アンサンブルで「オペラ座の怪人」を弾くことになった。これがなかなかイケてるアレンジだ。アンサンブルを指導してくださっている先生によるアレンジなのだが、最初に弾いたときから
おぉ
と声が出るぐらいのカッコよさだった。
このアンサンブルの演奏会の曲目は、たいてい、バロック、古典派、ロマン派以降の割と新しいやつ、映画音楽という感じ。今回は、ヘンデル、モーツアルト、エルガー、そして「オペラ座の怪人」。前回はこの枠に「サウンド・オブ・ミュージック」が入っていた。その前は「チキチキバンバン」。映画の中では「古典派」といっていい。わりと年配の方が多いアンサンブルなので、「若いときに観にいった」映画なのだろう。「オペラ座の怪人」についていえば、私のイメージは劇団四季のミュージカルのイメージで、それも見に行ったことがないので、ストーリーもしらない。曲は何となく聞いたことがあるのだが、どういう場面で流れている曲なのかが分からないので、イメージが膨らんでいかない。
これは映画を観るしかない。
それで、図書館のヴィデオコーナーにこの映画がないか調べて観にいくことにした。
あった、あった。
だが、まてよ。モノクロって書いてある。そんな古い映画なのか。ま、ただで観られるものに文句も言うまい。ディスクをデッキに入れて再生。まず淀川長治さんの解説。おぉ懐かしい。図書館で観ると、こういうのもなんかアカデミックに見える。淀さんの説明ではサイレント映画だということだ。
サイレント・・・
じゃ音楽ないじゃん。
とは言っても乗りかけた船。ここで降りては図書館まで来たのが無駄になる。1時間半ほどの映画だったが、最後まで早送りすることなく全部観る。
音楽とは関係ないが、サイレント映画というのは、それはそれで面白い。台詞も効果音もない。ときどき短い字幕で台詞が出てくる。
「幽霊が出るということはご存じないようですな」
とか、そんな字幕が出た次のシーンでは、それを聞かされた男二人が、一瞬顔を見合わせて「そんなもの出るわけないよ」と笑う。ここは台詞も笑い声もないから、大袈裟な仕草だけでそれが演じられる。テラス席で初めてその幽霊(英語の字幕ではPhantomとなっている。題名の邦訳に倣えば「怪人」と訳すところなのだが、字幕では「幽霊」と訳されていた)の後姿を見た時の、その男二人の驚きよう、恐怖、しかし思い直して「正体を暴いてやる」とばかりにもう一度テラス席に勇ましく入っていく様。これもみんなサイレントなのだが、まるで話している声が聞こえてきそうな演技だ。
エリックのクリスティーヌに対する猟奇的な愛情。そのクリスティーヌを助けるウラルの勇敢さ。淀さんの解説では、醜い容姿のエリックにも愛情が注がれているのだが、サイレント映画では「醜い男」=「悪者」という比較的単純なストーリーにまとめられているような感じだ。
これは、もうちょっと新しい映画を観るか、劇団四季のミュージカルを観にいくか、原作の小説を読むかしないとイメージが湧いてこない。
おぉ
と声が出るぐらいのカッコよさだった。
このアンサンブルの演奏会の曲目は、たいてい、バロック、古典派、ロマン派以降の割と新しいやつ、映画音楽という感じ。今回は、ヘンデル、モーツアルト、エルガー、そして「オペラ座の怪人」。前回はこの枠に「サウンド・オブ・ミュージック」が入っていた。その前は「チキチキバンバン」。映画の中では「古典派」といっていい。わりと年配の方が多いアンサンブルなので、「若いときに観にいった」映画なのだろう。「オペラ座の怪人」についていえば、私のイメージは劇団四季のミュージカルのイメージで、それも見に行ったことがないので、ストーリーもしらない。曲は何となく聞いたことがあるのだが、どういう場面で流れている曲なのかが分からないので、イメージが膨らんでいかない。
これは映画を観るしかない。
それで、図書館のヴィデオコーナーにこの映画がないか調べて観にいくことにした。
あった、あった。
だが、まてよ。モノクロって書いてある。そんな古い映画なのか。ま、ただで観られるものに文句も言うまい。ディスクをデッキに入れて再生。まず淀川長治さんの解説。おぉ懐かしい。図書館で観ると、こういうのもなんかアカデミックに見える。淀さんの説明ではサイレント映画だということだ。
サイレント・・・
じゃ音楽ないじゃん。
とは言っても乗りかけた船。ここで降りては図書館まで来たのが無駄になる。1時間半ほどの映画だったが、最後まで早送りすることなく全部観る。
音楽とは関係ないが、サイレント映画というのは、それはそれで面白い。台詞も効果音もない。ときどき短い字幕で台詞が出てくる。
「幽霊が出るということはご存じないようですな」
とか、そんな字幕が出た次のシーンでは、それを聞かされた男二人が、一瞬顔を見合わせて「そんなもの出るわけないよ」と笑う。ここは台詞も笑い声もないから、大袈裟な仕草だけでそれが演じられる。テラス席で初めてその幽霊(英語の字幕ではPhantomとなっている。題名の邦訳に倣えば「怪人」と訳すところなのだが、字幕では「幽霊」と訳されていた)の後姿を見た時の、その男二人の驚きよう、恐怖、しかし思い直して「正体を暴いてやる」とばかりにもう一度テラス席に勇ましく入っていく様。これもみんなサイレントなのだが、まるで話している声が聞こえてきそうな演技だ。
エリックのクリスティーヌに対する猟奇的な愛情。そのクリスティーヌを助けるウラルの勇敢さ。淀さんの解説では、醜い容姿のエリックにも愛情が注がれているのだが、サイレント映画では「醜い男」=「悪者」という比較的単純なストーリーにまとめられているような感じだ。
これは、もうちょっと新しい映画を観るか、劇団四季のミュージカルを観にいくか、原作の小説を読むかしないとイメージが湧いてこない。
2017年7月14日金曜日
綾瀬はるかをイメージして
セレナードの定義のひとつは「慕情を捧げる女性の窓辺で男性が歌う愛の歌」(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説 https://kotobank.jp/word/セレナード-87906 2017.7.8アクセス) 今回の演奏は弦楽合奏だけれど、おそらく、そういう状況をイメージできるような演奏をするべきなのだろう。「発表会」なら「上手に弾けたね」って褒めてもらえたらいいのだが、今回は「演奏会」で弾くのだから、聴いている人にそういうイメージを持ってもらって、ロマンティックな気持ちになってもらうことが目標だ。
いまのところ、とにかく必死で楽譜を追いかけているので、先生から「もっと力を抜いて」というようなことを、1日に1回は必ず言われる。確かに、そんな肩肘張った演奏ではロマンティックな気持ちにはならない。慕情を捧げる女性の窓辺に行って、「今日はチューしな」みたいな余計な力が入ってしまうと、たいがいは上手くいかない。
ここはやはりイメージが大事だ。
演奏会当日は大学生もエキストラで入るのだが、この曲だけは「大人」がしっかりイメージを作って若いのをリードするぐらいの気持ちでないといけない。窓辺に立つ女性も、AKBとかエビ中のメンバーではなくて、もう少し年長で、ドレスアップした女性をイメージして、その人に想いを伝えるつもりで弾く。
そう、例えば綾瀬はるかのような、それも、爽健美茶やジャイアントコーンのCMにでてくるような綾瀬はるかではなくて、sk-Ⅱだとか、SEIKO LukiaのCMみたいに、スリットのあるドレスに身を包み、ホールのテラス席から物憂げな表情でこちらを見ている綾瀬はるかのイメージだ。
その綾瀬はるかをロマンティックな気持ちにさせて、
今夜は特別な日にしたい
と思わせる。
ぐへへ…
そりゃ、力が入るわ。
いまのところ、とにかく必死で楽譜を追いかけているので、先生から「もっと力を抜いて」というようなことを、1日に1回は必ず言われる。確かに、そんな肩肘張った演奏ではロマンティックな気持ちにはならない。慕情を捧げる女性の窓辺に行って、「今日はチューしな」みたいな余計な力が入ってしまうと、たいがいは上手くいかない。
ここはやはりイメージが大事だ。
演奏会当日は大学生もエキストラで入るのだが、この曲だけは「大人」がしっかりイメージを作って若いのをリードするぐらいの気持ちでないといけない。窓辺に立つ女性も、AKBとかエビ中のメンバーではなくて、もう少し年長で、ドレスアップした女性をイメージして、その人に想いを伝えるつもりで弾く。
そう、例えば綾瀬はるかのような、それも、爽健美茶やジャイアントコーンのCMにでてくるような綾瀬はるかではなくて、sk-Ⅱだとか、SEIKO LukiaのCMみたいに、スリットのあるドレスに身を包み、ホールのテラス席から物憂げな表情でこちらを見ている綾瀬はるかのイメージだ。
その綾瀬はるかをロマンティックな気持ちにさせて、
今夜は特別な日にしたい
と思わせる。
ぐへへ…
そりゃ、力が入るわ。
2017年7月8日土曜日
セレナーデ
アンサンブルは、先月のロビーコンサートが終わって、こんどは10月の定期演奏会に向けてギアチェンジ。
とりあえず弾ける
ではなくて、ちゃんと聴いてもらえるレベルにする。「上手に弾けたね」ではなくて、「聴いていて楽しかった」とか「心地よかった」とか「感動した」とか、褒めてもらうのではなくて満足してもらえるような音楽を創る。
発表会ではなくて演奏会
なのだ。
-と、ひとりで勝手にハードルを上げてしまっているようだが、練習していて先生がおっしゃることも、「そこは強く」「そこは弱く」「そこは音程に気を付けて」というようなものから、「そこはこういう気持ちを込めて」「そこはこういうことを想像して」というようなものにシフトしてきた。いや、いままでも仰っておられたかもしれないが、耳に入ってこなかっただけかもしれない。
今回の定期演奏会の曲目の中でいちばん難しそうなのが、エルガーのセレナーデ。まだ弾けないところが残っているが、そこを除けば「とりあえず弾ける」ところまで、やっときた。弾けるようになると、なかなかいい曲じゃないか。弾けるようになると、練習していても楽しくなってくる。弾けるようになると、つい欲が出て、「もっと感情を込めて」なんてことを考えたりする。
セレナードというのは、どうも、想いを寄せる女性に捧げる曲のようだ。ブリタニカ国際大百科事典とWikipediaでは説明が大きく異なるのだが、エルガーのこれは、いったいどんな想いを込めれればよいのか。もし歌詞をつけるならばどんな歌詞なのか。窓辺で聴いてくれている女性にはどんな想いを伝えればよいのか。
セレナード
serenade
「夕べの音楽」の意。 (1) カッサシオン,ディベルティメントなどと類似の楽曲で,室内オーケストラあるいは管楽器のための多楽章形式をとる。 18世紀,夕べのもてなしや憩いとして人々に聞かせるために作られた。 W.モーツァルトの7曲のセレナードと『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』はその典型。 (2) 慕情を捧げる女性の窓辺で男性が歌う愛の歌。モーツァルトのオペラ『ドン・ジョバンニ』のなかの"Deh vieni alla finestra",F.シューベルトの"Ständchen"などがある。
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
とりあえず弾ける
ではなくて、ちゃんと聴いてもらえるレベルにする。「上手に弾けたね」ではなくて、「聴いていて楽しかった」とか「心地よかった」とか「感動した」とか、褒めてもらうのではなくて満足してもらえるような音楽を創る。
発表会ではなくて演奏会
なのだ。
-と、ひとりで勝手にハードルを上げてしまっているようだが、練習していて先生がおっしゃることも、「そこは強く」「そこは弱く」「そこは音程に気を付けて」というようなものから、「そこはこういう気持ちを込めて」「そこはこういうことを想像して」というようなものにシフトしてきた。いや、いままでも仰っておられたかもしれないが、耳に入ってこなかっただけかもしれない。
今回の定期演奏会の曲目の中でいちばん難しそうなのが、エルガーのセレナーデ。まだ弾けないところが残っているが、そこを除けば「とりあえず弾ける」ところまで、やっときた。弾けるようになると、なかなかいい曲じゃないか。弾けるようになると、練習していても楽しくなってくる。弾けるようになると、つい欲が出て、「もっと感情を込めて」なんてことを考えたりする。
セレナードというのは、どうも、想いを寄せる女性に捧げる曲のようだ。ブリタニカ国際大百科事典とWikipediaでは説明が大きく異なるのだが、エルガーのこれは、いったいどんな想いを込めれればよいのか。もし歌詞をつけるならばどんな歌詞なのか。窓辺で聴いてくれている女性にはどんな想いを伝えればよいのか。
serenade
「夕べの音楽」の意。 (1) カッサシオン,ディベルティメントなどと類似の楽曲で,室内オーケストラあるいは管楽器のための多楽章形式をとる。 18世紀,夕べのもてなしや憩いとして人々に聞かせるために作られた。 W.モーツァルトの7曲のセレナードと『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』はその典型。 (2) 慕情を捧げる女性の窓辺で男性が歌う愛の歌。モーツァルトのオペラ『ドン・ジョバンニ』のなかの"Deh vieni alla finestra",F.シューベルトの"Ständchen"などがある。
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
https://kotobank.jp/word/セレナード-87906 2017.7.8アクセス
セレナーデ
セレナーデ(ドイツ語: Serenade(南ドイツ・オーストリアではセレナーデ、北ドイツではゼレナーデ))は音楽のジャンルの1つであるが、一般的な言葉としては、恋人や女性を称えるために演奏される楽曲、あるいはそのような情景のことを指して使う。
各国では、イタリア語: serenata(セレナータ)、英語: serenade(セレネイド)フランス語: sérénade(セレナード)。
日本ではセレナーデもしくはセレナードと呼ぶことが多い。また夜曲((やきょく))あるいは小夜曲((さよきょく))と言う。
親しい相手や、その他の称賛すべき人物のために、夕方しばしば屋外で演奏される音楽を指す。
18世紀のセレナーデに典型的な楽器編成は、木管楽器とヴィオラ、複数のコントラバスであった。これらは「立って」演奏できる楽器であり、セレナーデが屋外ないしは野外で演奏されるという伝統に深く関係するものだった。古典派のセレナーデは、開始楽章と終楽章において行進曲が使われている。これは、演奏家が入退場の際に、しばしば行進しなければならなかったからだろう。
Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/セレナーデ 2017.7.8アクセス
2017年7月2日日曜日
ヴィオラの教本
いつもレッスンを受けているスタジオでは、今月、子供の発表会があって、子供たちはもはや臨戦モード。曲も仕上がり前という感じで、いかにステージ映えよく弾くかとか、ピアノとどう合わせるかとか、レッスンには関係ないがどんな衣装で出るかとか、それぞれの家庭で「ことしの10大ニュース」にランクインされるべく、着々と準備が進んでいる。こうなると大人は二の次。いつもレッスンしていただいている先生は平日のレッスンになってしまった。それで「今月はレッスンなし」というのもどうかと気を遣っていただいて、もう一人の先生にレッスンを見ていただくことになった。いつもの先生より年配で、多分、私よりも年上。初めての生徒相手にどっしり落ち着いてレッスンをしてくださる。
別の先生のレッスンだということは前もって聞いていた。たぶん、最初に、「普段はどんなレッスンなのですか」ということを聞かれると予想していたのだが、これにはどう答えようかと決めあぐんでいた。このブログをご覧いただいている方には既に既知のことだが、とにかくアンサンブルが始まって以来、アンサンブルの曲に追われて余裕がない。レッスンンはレッスンでレッスンの曲をしてもらおうと思っていたのだが、もはやそういうつもりがどっかに行ってしまってはや2ヶ月になる。先々週はロビーコンサートもあって、少々無茶なことになってもいたので猶更だ。そんなことを言えるはずもない。
ところでアンサンブルの方は、ロビーコンサートが終わってちょっと一息というところ。しばらく定期演奏会の曲の練習ができていないので、はやく気持ちを切り替えてというところなのだが、そうすぐに切り替わるものでもない。
それで、レッスンの2時間ほど前に急に思い立って、『ヴィオラ名曲31選』から、シューベルトの「アヴェ・マリア」を練習し始めた。付け焼刃なので、せめて最後まで弾けるようにと、イタリア語のふりがな(ドレミのことね)だとか、アラビア語のふりがな(指番号ね)を色付きで書き込んでいく。
レッスンの最初は、「どうしてヴィオラを」という質問から始まった。これは語り始めると長いのだが、短縮ヴァージョンで説明。それからレッスンの話になったのだが、ヴィオラの教則本をもっているかということを仰る。ヴィオラの教則本と聞けば『篠崎ヴィオラ教則本』だとか『あたらしいヴィオラ教則本』だとかを思い浮かべるのだが、いずれもこの世に実在しない。『スズキヴィオラスクール』はあるようだ。ネットで探すといくつかはあるようだが、はたしてどれがいいのか。
この話ばかりしていても時間がたつばかりなので、付け焼刃でもなんでも、さっきの「アヴェ・マリア」を聞いてもらうことにした。「まあ、なんて下手くそ」と思われたに違いないが、下手なので変に上手と思われない方がいい。突拍子もなく高度な宿題が出たりすると大変だ。
結局、今日のレッスンでは、あらかじめ考えていったフィンガリングをいろいろと訂正していただいた。この訂正したフィンガリングで次回までにもう少し練習。「小指は苦手そうですね」と図星を突かれ、少しずつでいいから小指を使ったフィンガリングの練習をしないさいということになった。
そういえばセヴシックも最近、サボり気味だ。
全体的に、アンサンブルに傾倒しすぎなところを反省させられるレッスンだった。
別の先生のレッスンだということは前もって聞いていた。たぶん、最初に、「普段はどんなレッスンなのですか」ということを聞かれると予想していたのだが、これにはどう答えようかと決めあぐんでいた。このブログをご覧いただいている方には既に既知のことだが、とにかくアンサンブルが始まって以来、アンサンブルの曲に追われて余裕がない。レッスンンはレッスンでレッスンの曲をしてもらおうと思っていたのだが、もはやそういうつもりがどっかに行ってしまってはや2ヶ月になる。先々週はロビーコンサートもあって、少々無茶なことになってもいたので猶更だ。そんなことを言えるはずもない。
ところでアンサンブルの方は、ロビーコンサートが終わってちょっと一息というところ。しばらく定期演奏会の曲の練習ができていないので、はやく気持ちを切り替えてというところなのだが、そうすぐに切り替わるものでもない。
それで、レッスンの2時間ほど前に急に思い立って、『ヴィオラ名曲31選』から、シューベルトの「アヴェ・マリア」を練習し始めた。付け焼刃なので、せめて最後まで弾けるようにと、イタリア語のふりがな(ドレミのことね)だとか、アラビア語のふりがな(指番号ね)を色付きで書き込んでいく。
レッスンの最初は、「どうしてヴィオラを」という質問から始まった。これは語り始めると長いのだが、短縮ヴァージョンで説明。それからレッスンの話になったのだが、ヴィオラの教則本をもっているかということを仰る。ヴィオラの教則本と聞けば『篠崎ヴィオラ教則本』だとか『あたらしいヴィオラ教則本』だとかを思い浮かべるのだが、いずれもこの世に実在しない。『スズキヴィオラスクール』はあるようだ。ネットで探すといくつかはあるようだが、はたしてどれがいいのか。
この話ばかりしていても時間がたつばかりなので、付け焼刃でもなんでも、さっきの「アヴェ・マリア」を聞いてもらうことにした。「まあ、なんて下手くそ」と思われたに違いないが、下手なので変に上手と思われない方がいい。突拍子もなく高度な宿題が出たりすると大変だ。
結局、今日のレッスンでは、あらかじめ考えていったフィンガリングをいろいろと訂正していただいた。この訂正したフィンガリングで次回までにもう少し練習。「小指は苦手そうですね」と図星を突かれ、少しずつでいいから小指を使ったフィンガリングの練習をしないさいということになった。
そういえばセヴシックも最近、サボり気味だ。
全体的に、アンサンブルに傾倒しすぎなところを反省させられるレッスンだった。
2017年6月18日日曜日
ロビーコンサート終わり
ここ1カ月ほど、ずっと課題になっていたロビーコンサートが無事(?)に終了。完璧ではないにしても、そこそこ弾いてるふりぐらいはできたし、なにより楽しかった。
会場は、同じ県内でも、いつも練習に通っているところからはずいぶん離れた場所。MCで仰っておられたが、今年が10年目だそうだ。ここでも先生がレッスンをされておられるグループがあって、そこだけでは人数が足りないというので、先生がレッスンをされておられる他のグループから人を集めてきて、最後は、これも先生が面倒を見ておられる大学の楽団から学生さんを呼んできて、毎年されているそうだ。
ステージに載っている出演者は80人ほど。小さなグループだとヴァイオリンばかりというところも多く、特にヴィオラなんてやっている奇特な人は少ないので、そういうところは大きなグループから補うことになる。今回の会場近くのグループにはヴィオラを習っている人はいなくて、うちのアンサンブルから私を含めて3名と、何かあればうちのアンサンブルに必ず来られる準団員(?、ま、私もそうだが)の方、それに学生さんが4名というパート構成。これで何とか80人のうちの8人は確保したといったところ。それでもヴァイオリンが多い。
さらに途中で、地元のフラダンスサークルの方4~5名が演奏に合わせて踊るというのもあって、とにかく出演者が多い。客席も満員御礼なのだが、そこはやはりロビーコンサート。いくら満員といっても出演者と同じぐらいの人数だ。
学生さんは「助っ人」というポジションで来られるのでレベルが高い。中には大学に入って初めて弦楽器を触ったという人もいるかもしれないが、とにかく練習量が違う。別に楽しむ分には楽器を始める時期がどうのということもないのかもしれないが、やはり時間のあるうちに、そして練習場所を確保できるうちに始められるというのは羨ましい。隣で全然別の音を出していても気にしないでね。
おじさん、別のパートだから。
と、最初に開き直って、弾けるところだけ弾くと心に決める。
実際、弾いてみると、拍を読み間違えていたり、半音を取り間違えたりといった「小さな事故」も頻繁に起こる。これは「ヒヤリハット」ではない。すでに間違えているので「事故」だ。たぶん隣の学生さんにも聞こえているのだが、そこは年長者へのものの言い方をよくわきまえた学生さんで、何も仰らない。それはいいのだが、いちばん困ったのが
速い
こと。これは上手な学生さんが速くしているというのではなく、もともと速さの違ういくつかのグループが一緒に演奏すると、一番早いところに合わせて速くなるという法則のようなものがありそうだ。これはかなり強烈な事故になってしまう。
あの人、弾けていない。
というのが客席からみてわかるぐらいの事故になってしまった。
ともあれ無事に(いや、全然。無事じゃないけど)終了。
弾けないなりに楽しいものだ。弾けたらもっと楽しいだろうなぁ。
会場は、同じ県内でも、いつも練習に通っているところからはずいぶん離れた場所。MCで仰っておられたが、今年が10年目だそうだ。ここでも先生がレッスンをされておられるグループがあって、そこだけでは人数が足りないというので、先生がレッスンをされておられる他のグループから人を集めてきて、最後は、これも先生が面倒を見ておられる大学の楽団から学生さんを呼んできて、毎年されているそうだ。
ステージに載っている出演者は80人ほど。小さなグループだとヴァイオリンばかりというところも多く、特にヴィオラなんてやっている奇特な人は少ないので、そういうところは大きなグループから補うことになる。今回の会場近くのグループにはヴィオラを習っている人はいなくて、うちのアンサンブルから私を含めて3名と、何かあればうちのアンサンブルに必ず来られる準団員(?、ま、私もそうだが)の方、それに学生さんが4名というパート構成。これで何とか80人のうちの8人は確保したといったところ。それでもヴァイオリンが多い。
さらに途中で、地元のフラダンスサークルの方4~5名が演奏に合わせて踊るというのもあって、とにかく出演者が多い。客席も満員御礼なのだが、そこはやはりロビーコンサート。いくら満員といっても出演者と同じぐらいの人数だ。
学生さんは「助っ人」というポジションで来られるのでレベルが高い。中には大学に入って初めて弦楽器を触ったという人もいるかもしれないが、とにかく練習量が違う。別に楽しむ分には楽器を始める時期がどうのということもないのかもしれないが、やはり時間のあるうちに、そして練習場所を確保できるうちに始められるというのは羨ましい。隣で全然別の音を出していても気にしないでね。
おじさん、別のパートだから。
と、最初に開き直って、弾けるところだけ弾くと心に決める。
実際、弾いてみると、拍を読み間違えていたり、半音を取り間違えたりといった「小さな事故」も頻繁に起こる。これは「ヒヤリハット」ではない。すでに間違えているので「事故」だ。たぶん隣の学生さんにも聞こえているのだが、そこは年長者へのものの言い方をよくわきまえた学生さんで、何も仰らない。それはいいのだが、いちばん困ったのが
速い
こと。これは上手な学生さんが速くしているというのではなく、もともと速さの違ういくつかのグループが一緒に演奏すると、一番早いところに合わせて速くなるという法則のようなものがありそうだ。これはかなり強烈な事故になってしまう。
あの人、弾けていない。
というのが客席からみてわかるぐらいの事故になってしまった。
ともあれ無事に(いや、全然。無事じゃないけど)終了。
弾けないなりに楽しいものだ。弾けたらもっと楽しいだろうなぁ。
2017年6月17日土曜日
ひとりゲネプロ
先週のレッスンで先生に「来週、本番なんです」といって半ば呆れられたロビーコンサートを目前に控えた今週の練習は、本番通りの順番で最初から最後までおさらい。ほぼゲネプロだ。
このアンサンブルが本拠地にしているのは、いまや世界的に有名な忍者の里と同じ市。町村合併の前は同じ郡の違う町だった。こんな電車も走ってくる。誰にも気づかれないようにステージからいなくなるという選択肢を示されて最初に思いついたのは忍術。しかし忍術の練習となると生半可な気持ちでは身につかない。きっと命懸けだろう。本番でしくじると手裏剣がとんでこないとも限らない。
これも町村合併で同じ市になっているのだが、全国でも有名な狸の置物を作っている地域がある。巻物を咥えて消えるより、葉っぱをおでこに当てて化けさせるか。今度のメンバーはいろんなところの寄せ集めだから、狸が一匹ぐらいいても誰も気づくまい。いやしかし、狸としてはクオリティが高いかもしれないが、所詮、狸だからなぁ。
とぶつぶつ呟きながら練習会場へ。
ま、しかし、
本番が近づくと何とかなるもんだね
もとい。経験的には何ともならないことを何度も経験しているのだが、今回は奇跡的になんとかなってきた。完璧とまではいかないまでも、いちおう弾いているふりぐらいはできる。狸よりはましだろう。
今日は、この前の練習の録音を聴きながら、カラオケボックスで
ひとりゲネプロ
いよいよ明日かぁ。
このアンサンブルが本拠地にしているのは、いまや世界的に有名な忍者の里と同じ市。町村合併の前は同じ郡の違う町だった。こんな電車も走ってくる。誰にも気づかれないようにステージからいなくなるという選択肢を示されて最初に思いついたのは忍術。しかし忍術の練習となると生半可な気持ちでは身につかない。きっと命懸けだろう。本番でしくじると手裏剣がとんでこないとも限らない。
これも町村合併で同じ市になっているのだが、全国でも有名な狸の置物を作っている地域がある。巻物を咥えて消えるより、葉っぱをおでこに当てて化けさせるか。今度のメンバーはいろんなところの寄せ集めだから、狸が一匹ぐらいいても誰も気づくまい。いやしかし、狸としてはクオリティが高いかもしれないが、所詮、狸だからなぁ。
とぶつぶつ呟きながら練習会場へ。
ま、しかし、
本番が近づくと何とかなるもんだね
もとい。経験的には何ともならないことを何度も経験しているのだが、今回は奇跡的になんとかなってきた。完璧とまではいかないまでも、いちおう弾いているふりぐらいはできる。狸よりはましだろう。
今日は、この前の練習の録音を聴きながら、カラオケボックスで
ひとりゲネプロ
いよいよ明日かぁ。
2017年6月11日日曜日
降り番
少し前になるが、「オケ老人」という映画を見た。そこで初めて「降り番」という言葉を聞いた。一般的には、オーケストラで自分の楽器の出番がない曲でステージに乗らないことをそういうようだが、映画の中では、それぞれのパートでいちばん下手っぴな人はステージに乗せないというルールを作って、互いに競争させ、それでオケ全体のレベルを上げるというストーリーの中で使われていた。そんなことが実際にあるのかどうかは分からない。少なくともうちのアンサンブルにはそういうルールはないのだが、本番を来週に控えていまの状態では、もう降り番しかない。
前回の記事でも書いたが、ステージは前半と後半に分かれていて、前半は何とかなりそうだ。ちょっと問題だった紐の曲も、今週の練習ではなんとか付いていくことができたし、そりゃ完璧ではないが、それなりに弾いているふりぐらいはできる状態になった。練習の録音もしたので、あと1週間は前半の曲を集中的に練習して、なんとか本番を乗り切ろう。そんなわけで後半は降り番。ロビーコンサートだから、舞台袖ではなく、パイプ椅子が並んでいる客席の後ろの方からでも見学させてもらおう。いや、ホントに残念だが、どうやら毎年、前の年の定期演奏会の曲から選曲しているようなので、来年はちゃんと出られるだろう。今年はとりあえず様子見だ。
そんなわけで、今週の練習の時に
後半は降り番にします
といって、「しゃぁないなぁ」とかなんとか言われながら、肩の荷を半分降ろす予定だったのだが、反応が予想と違う。「なに言うてんのぉ。あかん、あかん」って言われて、「そんなん本人が無理って言うたはるんやし」などと助け船を出してくれる人もいない。おや、予定が違ってきたぞ。弾ける曲だけでいいはずだったのだが、それはどうも全部弾けるようになれということだったのか。
ここのアンサンブルは平均年齢も高く70を過ぎた方もおられる。以前はもっと高齢の方もおられて、70歳を超えると好きに弾いてもいいというルールがあったそうだ。いまは75歳以上になっているらしい。国民健康保険法の改正と関係あるのかどうかは分からないが、いまのところ該当者はいないが、あと数年でそこに至る人もいる。とにかく一定の年齢になると、途中でどこを弾いているかわからなくなって2~3小節先に終わってしまうのありらしい。
結構な高齢になってから、このアンサンブルで初めてヴァイオリンを弾いている人もいる。アンサンブル練習の前に初級者クラスがあって、1~2年はそこでレッスンを受けるのだが、それでもうステージに上げてしまう。「弾ける曲だけ」ということだが、これもどうも「魔法の言葉」のように思えてしまう。
初めて聞く話ばかりではないが、降り番の話をした日に限ってそういう話をされるというのは、たぶん「降り番は駄目よ」ということをやんわり仰っておられるのだろう。紛いなりにも10年以上つづけていて、練習すればそれなりには弾ける。上手な方ではないが、いちおうこのアンサンブルでは許容範囲に入っているのだろう。その私が「完成していないので降ります」というと、乗りにくい人もいるかもしれないし、それはこのアンサンブルのポリシーに合わないのだろう。
最近、レッスンの方もアンサンブルの曲ばかり。レッスンはレッスン、アンサンブルはアンサンブルと分けるほどこっちに余裕がない。今日は朝から3時間ほどカラオケボックスで後半の曲を練習して、午後のレッスンで見てもらった。先生曰く
いまから1週間で
この曲が弾けるように練習するか、
どうやって気づかれないようにいなくなるかを考えるか、
どっちかですね。
おうそうか。その手があったか。アンサンブルのある街は忍者の里にも近い。次の練習は演奏の練習よりも忍術の練習にするべきか。
前回の記事でも書いたが、ステージは前半と後半に分かれていて、前半は何とかなりそうだ。ちょっと問題だった紐の曲も、今週の練習ではなんとか付いていくことができたし、そりゃ完璧ではないが、それなりに弾いているふりぐらいはできる状態になった。練習の録音もしたので、あと1週間は前半の曲を集中的に練習して、なんとか本番を乗り切ろう。そんなわけで後半は降り番。ロビーコンサートだから、舞台袖ではなく、パイプ椅子が並んでいる客席の後ろの方からでも見学させてもらおう。いや、ホントに残念だが、どうやら毎年、前の年の定期演奏会の曲から選曲しているようなので、来年はちゃんと出られるだろう。今年はとりあえず様子見だ。
そんなわけで、今週の練習の時に
後半は降り番にします
といって、「しゃぁないなぁ」とかなんとか言われながら、肩の荷を半分降ろす予定だったのだが、反応が予想と違う。「なに言うてんのぉ。あかん、あかん」って言われて、「そんなん本人が無理って言うたはるんやし」などと助け船を出してくれる人もいない。おや、予定が違ってきたぞ。弾ける曲だけでいいはずだったのだが、それはどうも全部弾けるようになれということだったのか。
ここのアンサンブルは平均年齢も高く70を過ぎた方もおられる。以前はもっと高齢の方もおられて、70歳を超えると好きに弾いてもいいというルールがあったそうだ。いまは75歳以上になっているらしい。国民健康保険法の改正と関係あるのかどうかは分からないが、いまのところ該当者はいないが、あと数年でそこに至る人もいる。とにかく一定の年齢になると、途中でどこを弾いているかわからなくなって2~3小節先に終わってしまうのありらしい。
結構な高齢になってから、このアンサンブルで初めてヴァイオリンを弾いている人もいる。アンサンブル練習の前に初級者クラスがあって、1~2年はそこでレッスンを受けるのだが、それでもうステージに上げてしまう。「弾ける曲だけ」ということだが、これもどうも「魔法の言葉」のように思えてしまう。
初めて聞く話ばかりではないが、降り番の話をした日に限ってそういう話をされるというのは、たぶん「降り番は駄目よ」ということをやんわり仰っておられるのだろう。紛いなりにも10年以上つづけていて、練習すればそれなりには弾ける。上手な方ではないが、いちおうこのアンサンブルでは許容範囲に入っているのだろう。その私が「完成していないので降ります」というと、乗りにくい人もいるかもしれないし、それはこのアンサンブルのポリシーに合わないのだろう。
最近、レッスンの方もアンサンブルの曲ばかり。レッスンはレッスン、アンサンブルはアンサンブルと分けるほどこっちに余裕がない。今日は朝から3時間ほどカラオケボックスで後半の曲を練習して、午後のレッスンで見てもらった。先生曰く
いまから1週間で
この曲が弾けるように練習するか、
どうやって気づかれないようにいなくなるかを考えるか、
どっちかですね。
おうそうか。その手があったか。アンサンブルのある街は忍者の里にも近い。次の練習は演奏の練習よりも忍術の練習にするべきか。
2017年6月4日日曜日
曲順が決まる
目前に迫ったロビーコンサートの曲順が決まった。いまの仕上がり具合から言うと、すべてを所定の水準まで仕上げるのは難しい。そこで、比較的仕上がっている前半の3曲に時間を集中投下して、後半はお腹が痛くなってトイレにでも隠れていようかという作戦に変更した。前半の曲のうち、ヴィヴァルディとカノンは知っている曲だ。カノンは短い曲だし、ヴィヴァルディはほとんど練習しなくても何とかなりそう。あとは「紐」だ。パーセルだから、そんなに高度なテクニックはなくても、せいぜいサードポジションさえなんとかなればいいのだが、なにせ速い。この前の練習では、ところどころ見失いながらも、なんとか
どこを弾いているか
が分かる程度までは出来てきた。終わるところで待ち構えて最後の音だけを弾いて澄ましていると、クスクスっと笑い声が… ムムム。ばれていたか。せめて終わりの4小節ぐらいは弾けるようにしておかないとまずいかなぁ。(←こんなレベルです)
ところで、このブログにコメントが書き込めないというクレーム(?)があったので、ちょっと試してみます。この記事の下に「〇件のコメント」というリンクがあるので、そこから見てみてください。
どこを弾いているか
が分かる程度までは出来てきた。終わるところで待ち構えて最後の音だけを弾いて澄ましていると、クスクスっと笑い声が… ムムム。ばれていたか。せめて終わりの4小節ぐらいは弾けるようにしておかないとまずいかなぁ。(←こんなレベルです)
ところで、このブログにコメントが書き込めないというクレーム(?)があったので、ちょっと試してみます。この記事の下に「〇件のコメント」というリンクがあるので、そこから見てみてください。
2017年5月30日火曜日
1週間に1曲
1週間に1曲仕上げるとブログに書いて2週間が過ぎた。では2曲仕上がったのか?
そんな訳はない。
とにかく
速い
ついていけない。
いちおう、2曲は弾いてみた。まったくの初見ではない。ただ、練習でも音源に合わせるような練習をするとまったくついていけなかった。こりゃ駄目だ、と思っていたが、やはり駄目だ。それでも、隣で同じパートを弾いている人がいると、少なくとも楽譜を追えるようにはなった。それを「進んでいる」と捉えるのか、「まだその程度」と捉えるのか。
娘をクルマで迎えに行くときに、この曲を聴いていたら、「これ弾くの? いいやん」と言ってくれたので、ちょっと励みになった。なんとか弾いているふりだけでもできるようにするか。
そんな訳はない。
とにかく
速い
ついていけない。
いちおう、2曲は弾いてみた。まったくの初見ではない。ただ、練習でも音源に合わせるような練習をするとまったくついていけなかった。こりゃ駄目だ、と思っていたが、やはり駄目だ。それでも、隣で同じパートを弾いている人がいると、少なくとも楽譜を追えるようにはなった。それを「進んでいる」と捉えるのか、「まだその程度」と捉えるのか。
娘をクルマで迎えに行くときに、この曲を聴いていたら、「これ弾くの? いいやん」と言ってくれたので、ちょっと励みになった。なんとか弾いているふりだけでもできるようにするか。
2017年5月15日月曜日
一刀両断に解決
軽い気持ちで「出ますよ」といったロビーコンサートが、結構、重い。
弾ける曲だけ弾けばいいのだが、しばらくの間、毎週の練習でもこのロビコンの曲を練習するようだし、どうせおカネ払って会場まで行くのだから、少しでもたくさん弾く方がいい。そうなると、これから毎週、1週間ごとに1曲、仕上げるようなペースになってくる。ま、どこまで出来るかはわからないが、それぐらいのつもりで出来るところまでやろうということで、今週はこの曲だ。
邦訳すると
「ゴルディアスの解かれた結び目」
とかいうらしい。
むかしむかし、争いの絶えない国があって、王様の跡取りがいなくなってしまったので、神様に「どうしたらいいですか」と聞いたら、「もうすぐ預言者の前に牛車に乗った男が現れるので、そいつを王様にしろ」というお告げがあった。「ホンマかいな」とみんなが思っているところに、ゴルディアスという貧しい農民が牛車に乗って現れたので、「ほな、お前、王様な」ということになった。
ゴルディアスは、王様になったら早速、ゴルディオンという街を作って、そこの宮殿に自分が王様になった切っ掛けとなった牛車を、これでもかというぐらい、かっちんかっちんに括り付けて、「もし、これほどいたやつがいたら、そいつはアジアの王様な」と言い残した。言うだけあって、なかなかそれをほどくやつはおらへんかったけど、あの有名なアレキサンドロス大王がここにきた時に、そいつを「えいっ」と剣で切って一件落着。
そんなことで、Gordian Knot と言えばなかなか解けない難題。Cut a Gordian Knot と言えば、一刀両断に問題を解く、という意味らしい。
<参考文献>
https://ja.wikipedia.org/wiki/ゴルディアスの結び目
http://eow.alc.co.jp/search?q=gordian+knot
弾ける曲だけ弾けばいいのだが、しばらくの間、毎週の練習でもこのロビコンの曲を練習するようだし、どうせおカネ払って会場まで行くのだから、少しでもたくさん弾く方がいい。そうなると、これから毎週、1週間ごとに1曲、仕上げるようなペースになってくる。ま、どこまで出来るかはわからないが、それぐらいのつもりで出来るところまでやろうということで、今週はこの曲だ。
邦訳すると
「ゴルディアスの解かれた結び目」
とかいうらしい。
むかしむかし、争いの絶えない国があって、王様の跡取りがいなくなってしまったので、神様に「どうしたらいいですか」と聞いたら、「もうすぐ預言者の前に牛車に乗った男が現れるので、そいつを王様にしろ」というお告げがあった。「ホンマかいな」とみんなが思っているところに、ゴルディアスという貧しい農民が牛車に乗って現れたので、「ほな、お前、王様な」ということになった。
ゴルディアスは、王様になったら早速、ゴルディオンという街を作って、そこの宮殿に自分が王様になった切っ掛けとなった牛車を、これでもかというぐらい、かっちんかっちんに括り付けて、「もし、これほどいたやつがいたら、そいつはアジアの王様な」と言い残した。言うだけあって、なかなかそれをほどくやつはおらへんかったけど、あの有名なアレキサンドロス大王がここにきた時に、そいつを「えいっ」と剣で切って一件落着。
そんなことで、Gordian Knot と言えばなかなか解けない難題。Cut a Gordian Knot と言えば、一刀両断に問題を解く、という意味らしい。
<参考文献>
https://ja.wikipedia.org/wiki/ゴルディアスの結び目
http://eow.alc.co.jp/search?q=gordian+knot
なんか、高校の英語の時間と漢文の時間を混ぜたみたいな話だ。それに「ゴルディアス」という固有名詞も日本人には馴染みがなくて覚えにくい。曲名が言えないと練習もままならないので、アンサンブルのみなさんは
紐ほどくやつ
といっておられる。これで難しい問題は解決だ。
ただし、弾けるかどうかという問題はまた別で、こっちは「えいっ」とはいかない。
2017年5月6日土曜日
MOZARTだけでもたのしく
GWはカレンダー通り。世間には祝日も休めない人がいることを思えば恵まれた環境か。しかし、そうやって「自分より条件がわるい人がいるから仕方がない」などと思っていると、いつまでたってもも条件は良くならない。平均的な条件よりも低い条件しか提示できない会社には、それなりの理由がある。平均的な条件よりもいい条件で働ける会社で「うちは平均以上なんだから」などといって条件をわるくするようなことをすれば、平均はどんどん下がってしまう。平均より条件のわるい人が、平均よりも条件のいい人を妬むのも天に唾するようなもので、その人たちの条件がわるくなって「ざまあみろ」なって溜飲を下げているようでは、いずれ自分の条件はもっとわるくなる。
だからいう。
祝日と土曜日が重なったときは、
金曜日の午後を振替休日にしよう!
賛同いただける方はSNSで拡散を。
そんな訳で、GWはバヨ三昧。
先週の木曜日に、オケの練習に合流。定期演奏会の前に、6月に軽い演奏会があるらしい。軽い演奏会と聞いて、弾く曲も軽いだろうと勝手に思い込んで「行きます」とは言ったものの、渡された楽譜の量と難易度に愕然。確かめてみたら、去年の定期演奏会で弾いた曲だ。そりゃ他の人にとっては軽いかもしれないが…
幸い、そんな大袈裟な舞台ではなくて、ロビーで普通の服装で演奏するらしく、弾ける曲だけ弾いたらいいということだったので、29日、30日の2日間でひと通り楽譜に目を通して優先順位をつけた。第1順位は「調和の霊感」3番かな。
3日は、家族がみんな出掛けたので、家で練習。4日はオケの練習があるので、オケの曲(軽い演奏会のは除く)を中心に、ミュートをかけて練習。前回は、MOZART以外は悲惨な状態だったので、いちばん悲惨だったエルガーをやってみる。ところが、これはいくらやっても出口が見えてこない。出口が見えないからと言って何もしなければ、いつまでたっても出口は見えない。山で遭難したときと違って、ジタバタでもなんでも動かないわけにはいかないのだが、こういうときの練習はあまり他人に聞かれたくないものだ。
4日はオケの練習。夕方からなので、それまではカラオケボックスで練習。これなら出口の見えない曲でも思いっきり練習できる。とはいえ、そういう練習を続けるのは結構な苦痛だ。あまりの出来なさ加減に練習が嫌になってきて、MOZARTで気分転換を図る。ヘッドフォンでYouTubeにアップされている音源を聴きながら、それに合わせてみる。バヨ先生が「そういう練習は駄目ですよ」と仰る禁断の練習だ。これをやり始めると、あっという間に時間が過ぎる。3~4回繰り返すと「もう1時間も練習したやん」とか思ってしまうのだが、実は弾けないところはいつまでたっても弾けない。弾けないまま次のフレーズになってしまうからだ。本当なら、弾けないところを繰り返し練習しないとダメなんだろうけど
音楽は戻らないよ
と言わんばかり。ヴォイスレコーダーだったら、「いまのところ繰り返し」ボタンみたいなのがあって、繰り返し練習できるのだが。
昨日、5日は軽くお出掛け。
練習はお休みだったが、来年の夏にあるスタジオの発表会に向けて、曲のアレンジをする。前回から、生徒の中で「おっさん」という共通点でアンサンブルを結成して出し物をするようにしたのだが、楽器がヴィオラとクラリネットとマリンバ。次はアルトサックスも混ざってきそうなのだが、どう考えてもそういうアンサンブルのための楽譜が一般的に販売されているとは思えない。何か他の楽器のための楽譜からアレンジしないとダメなんだが、フリーの楽譜入力ソフトのおかげで、これが結構楽しい。
そして今日は再びカラオケボックスへ。
オケの定期演奏会で弾く3曲を集中的に練習。
最初はMOZARTから。やっぱりこれで勢いをつけていかないと、すぐに練習がつならなくなる。いつもは第1楽章から順番に練習していくので、あとの方の楽章ほど練習は手薄。今日は第2楽章から練習してみる。緩楽章なのだが、だからこそきれいな音色を出したい。繰り返し練習しているうちに、何も考えなくても身体が動くようになって、無理な力が入らなくなり、その結果、音色がよくなる。いや本当は効果的に音色をよくするトレーニングとかがあるのかもしれないが、いまのところ、この方法が音色をよくする練習としてはベストのように思う。第3楽章は第2楽章以上に手薄。2拍子というのがまた難しくて、2小節休符だとか思っても、すぐに出番がやってくる。刻みだ~~、と張り切ってジャカジャカジャカジャカって弾くのだが、これもあっという間に終わってしまう。
そんなこんなを練習して、最後に禁断の練習を2回。
コレルリは、何とかなるだろうと思って、ほとんどいままで練習していなかったので、まず譜読みから。最初から譜読みしていって、最後までいちおう読めたら(どういう状態になったら「読めた」と言えるのかがいまだにわからないのだが)、またこれも禁断の練習1回。
もうこの辺で3時間以上練習している。フリータイムの元は取れた。
エルガーは… ま、ちょっとだけ練習した。これは禁断の練習まで進まない。
そんな感じでGWもあと1日。来週のオケ練習では、せめてMOZARTだけでもたのしく弾きたいのだが、果たして…。
だからいう。
祝日と土曜日が重なったときは、
金曜日の午後を振替休日にしよう!
賛同いただける方はSNSで拡散を。
そんな訳で、GWはバヨ三昧。
先週の木曜日に、オケの練習に合流。定期演奏会の前に、6月に軽い演奏会があるらしい。軽い演奏会と聞いて、弾く曲も軽いだろうと勝手に思い込んで「行きます」とは言ったものの、渡された楽譜の量と難易度に愕然。確かめてみたら、去年の定期演奏会で弾いた曲だ。そりゃ他の人にとっては軽いかもしれないが…
幸い、そんな大袈裟な舞台ではなくて、ロビーで普通の服装で演奏するらしく、弾ける曲だけ弾いたらいいということだったので、29日、30日の2日間でひと通り楽譜に目を通して優先順位をつけた。第1順位は「調和の霊感」3番かな。
3日は、家族がみんな出掛けたので、家で練習。4日はオケの練習があるので、オケの曲(軽い演奏会のは除く)を中心に、ミュートをかけて練習。前回は、MOZART以外は悲惨な状態だったので、いちばん悲惨だったエルガーをやってみる。ところが、これはいくらやっても出口が見えてこない。出口が見えないからと言って何もしなければ、いつまでたっても出口は見えない。山で遭難したときと違って、ジタバタでもなんでも動かないわけにはいかないのだが、こういうときの練習はあまり他人に聞かれたくないものだ。
4日はオケの練習。夕方からなので、それまではカラオケボックスで練習。これなら出口の見えない曲でも思いっきり練習できる。とはいえ、そういう練習を続けるのは結構な苦痛だ。あまりの出来なさ加減に練習が嫌になってきて、MOZARTで気分転換を図る。ヘッドフォンでYouTubeにアップされている音源を聴きながら、それに合わせてみる。バヨ先生が「そういう練習は駄目ですよ」と仰る禁断の練習だ。これをやり始めると、あっという間に時間が過ぎる。3~4回繰り返すと「もう1時間も練習したやん」とか思ってしまうのだが、実は弾けないところはいつまでたっても弾けない。弾けないまま次のフレーズになってしまうからだ。本当なら、弾けないところを繰り返し練習しないとダメなんだろうけど
音楽は戻らないよ
と言わんばかり。ヴォイスレコーダーだったら、「いまのところ繰り返し」ボタンみたいなのがあって、繰り返し練習できるのだが。
昨日、5日は軽くお出掛け。
練習はお休みだったが、来年の夏にあるスタジオの発表会に向けて、曲のアレンジをする。前回から、生徒の中で「おっさん」という共通点でアンサンブルを結成して出し物をするようにしたのだが、楽器がヴィオラとクラリネットとマリンバ。次はアルトサックスも混ざってきそうなのだが、どう考えてもそういうアンサンブルのための楽譜が一般的に販売されているとは思えない。何か他の楽器のための楽譜からアレンジしないとダメなんだが、フリーの楽譜入力ソフトのおかげで、これが結構楽しい。
そして今日は再びカラオケボックスへ。
オケの定期演奏会で弾く3曲を集中的に練習。
最初はMOZARTから。やっぱりこれで勢いをつけていかないと、すぐに練習がつならなくなる。いつもは第1楽章から順番に練習していくので、あとの方の楽章ほど練習は手薄。今日は第2楽章から練習してみる。緩楽章なのだが、だからこそきれいな音色を出したい。繰り返し練習しているうちに、何も考えなくても身体が動くようになって、無理な力が入らなくなり、その結果、音色がよくなる。いや本当は効果的に音色をよくするトレーニングとかがあるのかもしれないが、いまのところ、この方法が音色をよくする練習としてはベストのように思う。第3楽章は第2楽章以上に手薄。2拍子というのがまた難しくて、2小節休符だとか思っても、すぐに出番がやってくる。刻みだ~~、と張り切ってジャカジャカジャカジャカって弾くのだが、これもあっという間に終わってしまう。
そんなこんなを練習して、最後に禁断の練習を2回。
コレルリは、何とかなるだろうと思って、ほとんどいままで練習していなかったので、まず譜読みから。最初から譜読みしていって、最後までいちおう読めたら(どういう状態になったら「読めた」と言えるのかがいまだにわからないのだが)、またこれも禁断の練習1回。
もうこの辺で3時間以上練習している。フリータイムの元は取れた。
エルガーは… ま、ちょっとだけ練習した。これは禁断の練習まで進まない。
そんな感じでGWもあと1日。来週のオケ練習では、せめてMOZARTだけでもたのしく弾きたいのだが、果たして…。
2017年4月30日日曜日
MOZARTだけはたのしく
5月の第1回練習はGWの関係で自主練習らしいので、予定よりも1週間早く、オケ練習に参加した。その前の週にレッスンがあったのだが、オケ練習が近づいているとあって、もう『ヴィオラ名曲31選』どころではなくなっていたので、前言を翻してオケの曲を見てもらうことになった。というか見てもらうことにした。
Allegroの曲は、もう見てもらう前に言われることは分かっているので、ゆっくりの曲を見てもらう。いちおう最後までは通せるようになったとはいえ、やや怪しいところがあるのと、全体的に音色がなんか
無理しています
って感じ満載なのだ。
自分としては、去年から『ヴィオラ名曲31選』をやってきて、いちばん成長したと思っているのは、この「ゆっくり弾くときの音色」なのだが、それもこうしてみると幻想に過ぎなかったのかもしれない。バッハのアリオーソを弾いているときは、それらしい音色で弾けるようになったのだけれど、それはそればっかり練習するからで、こうして他の曲を弾いてみると何もできていない。いや、これであと2か月、バッハのアリオーソを弾かない日が続くと、バッハのアリオーソではちゃんとした音色が出るようになったという事実もなかったことになってしまうのだろう。やはり基礎は大事なんだ。杭が岩盤に届いていないマンションは、いくら立派に見えても傾く。
オケで弾くMozart の "Exsultate Jubilate"は急緩急の構成。第1楽章の課題は指が回らないこと。もう、これについては、レッスンで何度見てもらっても
ゆっくり何回も練習して少しずつ速く弾けるようにしていくこと
としか言われないので、第2楽章の緩楽章を見てもらう。そしてフィンガリングを何箇所か直してもらった。
オケなので、フィンガリングはみんな揃っている方がいいのだが、2年前の経験では、少なくともヴィオラはボウイングも合っていなかった。他のパートがボウイングを揃える相談をしている時間を、ヴィオラだけはパートの結束を固めるための雑談に使っていたので、上げても下げても誰かには合わせられるという状態になっていた。昨年、観客として見たときは、少なくともボウイングは合っていたので、知らない間にずいぶんグレードアップしたのかもしれない。
その間、こっちも『ヴィオラ名曲31選』で音色トレーニングをする中で、移弦によって音色が変化するのを防ぐために、ポジション移動を結構、多用するフィンガリングをしてきた。音程はかなり怪しいが、ポジション移動に対する抵抗感はかなり減っている。3ポジの4指で苦労するところは、以前なら1ポジに戻してさっさと移弦していたところなんだが、先生から5ポジに上がるように言われると、いちおうそれで試してみよう、ぐらいには思えるようになった。それでフィンガリングが安定すれば、ボウイングも安定して、音色も安定する。
……はずだ。
そんなこんなで迎えたオケの練習。
MOZARTだけは弾けた。
楽しかった。
あとの曲は……
2017年4月10日月曜日
MOZARTはたのしく
Mozart の "Exsultate Jubilate" の全体像が見えてきた。たぶん、本番は120ぐらいなんだろうけど、とりあえずメトロノームを80にして第一楽章を通す。何箇所か指が回らないところがあるけれど、なんとか最後まで通せるようになった。第二楽章は緩楽章なので、速さは問題ない。第三楽章は何となく簡単そう。そこで、メトロノームを100にしてやってみる。おや不思議。指が回らないところは相変わらず回らないけれど、他のところは弾けるじゃん。
ここまで来たらゴールは見えてきた。
そんなに焦らなくても大丈夫だろう。
↑ウサギとカメのウサギみたいな心境
本番より多少遅いとはいえ、メトロノームを鳴らしていると、なんとなく主旋律がイメージされてくる。YouTubeを開けばいくらでも音源がある時代だから、何度も繰り返し聴いて、だいぶイメージが付いてきている。オーケストラを聴きながら、自分のパートをイメージできるようにもなってきたし、反対に自分が弾いているときも他のパートだとか、ソプラノの声がイメージされるようになってきた。そうなると、弾いているのも結構楽しい。予想通り、練習しながら一人で盛り上がることもしばしば。
あぁ、ここ、Mozartらしいなぁ
なんて思うと、早くそのフレーズをアンサンブルで合わせたくなる。まだちょっと速さが足りないんだけど、少なくとも、2年前にやったBachの Brandenburg Concerto よりは、弾けている度合いが高い。
レッスンの方は、『ヴィオラ名曲31選』の1番、Ave Verum Corpus が、いろんな課題を残したまま、
こればっかりやっていても飽きますから
という理由で卒業。いや、ほとんど中退だ。次の Mozart ピアノソナタ11番のテーマも、次ぐらいに強制退学させられそうな気配。そしてMozart ヴァイオリンDuo 2番をヴィオラにアレンジしたやつは、ゆっくりなんだけど楽譜が真っ黒。Ave Verum Corpus の7~8曲分ぐらいの音符があって、最初の12小節から先に進めない。
そんなわけで、しばらくはMOZART地獄の様相を呈していたのだが、ちょっとそろそろ他の曲も、という雰囲気になってきている。
ここまで来たらゴールは見えてきた。
そんなに焦らなくても大丈夫だろう。
↑ウサギとカメのウサギみたいな心境
本番より多少遅いとはいえ、メトロノームを鳴らしていると、なんとなく主旋律がイメージされてくる。YouTubeを開けばいくらでも音源がある時代だから、何度も繰り返し聴いて、だいぶイメージが付いてきている。オーケストラを聴きながら、自分のパートをイメージできるようにもなってきたし、反対に自分が弾いているときも他のパートだとか、ソプラノの声がイメージされるようになってきた。そうなると、弾いているのも結構楽しい。予想通り、練習しながら一人で盛り上がることもしばしば。
あぁ、ここ、Mozartらしいなぁ
なんて思うと、早くそのフレーズをアンサンブルで合わせたくなる。まだちょっと速さが足りないんだけど、少なくとも、2年前にやったBachの Brandenburg Concerto よりは、弾けている度合いが高い。
レッスンの方は、『ヴィオラ名曲31選』の1番、Ave Verum Corpus が、いろんな課題を残したまま、
こればっかりやっていても飽きますから
という理由で卒業。いや、ほとんど中退だ。次の Mozart ピアノソナタ11番のテーマも、次ぐらいに強制退学させられそうな気配。そしてMozart ヴァイオリンDuo 2番をヴィオラにアレンジしたやつは、ゆっくりなんだけど楽譜が真っ黒。Ave Verum Corpus の7~8曲分ぐらいの音符があって、最初の12小節から先に進めない。
そんなわけで、しばらくはMOZART地獄の様相を呈していたのだが、ちょっとそろそろ他の曲も、という雰囲気になってきている。
2017年4月2日日曜日
ゆっくりの練習は一人でしか出来ない
楽器の練習はどの楽器でも同じだと思うのだが、新しい曲をもらって、それがいちおう弾けるようになるまでは、かなりの忍耐が必要だ。いや、誰でもそうとは思わないが、私のように譜読みがままならない上に、読めたとしても思ったように手が動かないとなると、もらった曲をひと通り通すというところまでがとても長い。それが弾ければ達成感もあるし、曲に興味があれば、他のパートが重なるところを想像して、一人盛り上がったり、楽譜に書かれている強弱記号とかを手掛かりに、「ここはこんな感じかな」なんてことを考えて工夫してみたり、それで何となく完成度が上がったように勘違いしてまた盛り上がったりと、練習も楽しくなってくるものだ。しかし、その前段階は、出来ないところで止まると、何度やり直してもそこを越えられない、ということの連続。最初に止まったところは何回でも練習して乗り越えるのだが、次に止まったところは3回やって出来なかったら、お菓子とかコーヒーとかスマホに手が伸びてしまう。
もっか取り組んでいるのは、もらった3曲の中でいちばん美しいと思った Mozart の "Exsultate Jubilate" の第1楽章。この前、練習を見学したときは、ほぼ本番のテンポ通りに弾いておられたので、5月の練習合流までにそれぐらいまではやっておきたいところ。四分音符120ぐらいだ。
ところが、出だしの16分音符で先に進まなくなる。焦れば焦るほど、フィンガリングとボウイングが合わなくなってしまう。特に小指を出さなければいけないところはフィンガリングが遅れがち。レッスンで見ていただいている曲で、小指を巻き込まないようにする練習をしてきたのだが、こういうところでその成果が発揮できない。
先生曰く
駄目ですよ。速く弾いちゃ。
まず、最初から最後までゆっくり同じ速さで弾けるようになってから速くするんです。
やっぱりお見通し。
でも先生、5月までにこのテンポで弾きたいんです。
その練習は5月になったら出来ます。
ゆっくり弾く練習は一人でしか出来ないですよ。
深いよ!
深いよ、先生。
まずは、メトロノームなしに、フィンガリングの練習だと思って、最初の16分音符を、小指を巻かないように気を付けて弾く。この曲はヘ長調なので、D線とG線の2指が1指にくっつく形になる。その状態で3指をポイントするとどうしても4指を巻いてしまう。この前までレッスンで見てもらっていたのはト長調だったので、2指は3指の方にくっつく形。私の場合、これだったら小指を巻かないで3指をポイントできるようになったのだが…。
そんな泣き言をボソボソ言いながら、4指で関係のない隣の弦を押さえた状態で他の指を動かす練習。譜読みどころではない。
嗚呼まだ先は長い
ところが、出だしの16分音符で先に進まなくなる。焦れば焦るほど、フィンガリングとボウイングが合わなくなってしまう。特に小指を出さなければいけないところはフィンガリングが遅れがち。レッスンで見ていただいている曲で、小指を巻き込まないようにする練習をしてきたのだが、こういうところでその成果が発揮できない。
先生曰く
駄目ですよ。速く弾いちゃ。
まず、最初から最後までゆっくり同じ速さで弾けるようになってから速くするんです。
やっぱりお見通し。
でも先生、5月までにこのテンポで弾きたいんです。
その練習は5月になったら出来ます。
ゆっくり弾く練習は一人でしか出来ないですよ。
深いよ!
深いよ、先生。
まずは、メトロノームなしに、フィンガリングの練習だと思って、最初の16分音符を、小指を巻かないように気を付けて弾く。この曲はヘ長調なので、D線とG線の2指が1指にくっつく形になる。その状態で3指をポイントするとどうしても4指を巻いてしまう。この前までレッスンで見てもらっていたのはト長調だったので、2指は3指の方にくっつく形。私の場合、これだったら小指を巻かないで3指をポイントできるようになったのだが…。
そんな泣き言をボソボソ言いながら、4指で関係のない隣の弦を押さえた状態で他の指を動かす練習。譜読みどころではない。
嗚呼まだ先は長い
2017年3月26日日曜日
オケ始動
先日、アマオケの練習を見学してきて、楽譜をもらってきた。
2年前にも一度お世話になったオケだ。その前の年に定期演奏会を聴いて関心を持ち、ブランデンブルク協奏曲をやると聞いて、5月ごろのひょっこりと見学に行って参加させてもらったところだ。同じ県内ではあるのだが、うちの県は真ん中におおきな淡水の海があって、向う岸に行くのは一苦労。平日にやっている練習に参加するには、チャイムとほぼ同時に退勤して駅まで小走りに歩いて、ぎりぎり練習開始に間に合う、というか20分ほど遅刻で参加できるという距離。結局、この地理的条件が最大の理由で、定演以降は続けられなかった。その条件は何も解決できたわけではないのだが、一度参加するともう一度参加したくなって、また片道2時間かけて通うことにした。本格的に練習に参加できるのは、会社の都合で5月以降。今年も10月1日の定期演奏会までの期間限定の参加になる予定だ。
短期間の参加だったのに、みなさん覚えてくださっていて、快く迎えていただいた。定演の曲は1月ぐらいから練習されているようで、既に、ほぼテンポ通り最後まで通せるようになっている。だいぶビハインドがあるのは否めない。5月までに、なんとか通せるところまでは追いついておきたいのだが、果たして・・・
レッスンの方は、引き続き、『ヴィオラ名曲31選』(ドレミ音楽出版)を続けることにした。そういうレッスンをしていないと、基礎が身につかないとしみじみ実感したからだ。オケの曲をやっていても、ポジション移動にそれほど抵抗がなくなっていたり、意識さえすれば4指をスムーズに出せるようになっていたり、半年ほどの間に目に見える成果が出ている。期日があって、それまでに弾けるようにしなければいけないという練習では、どうしても妥協を重ねることになってしまって、出来ないことを出来るようにするよりも、出来ないことを如何に避けるかに傾倒しがちだ。
どれだけ、レッスンの曲とオケの曲を並行して練習できるのか、なかなか見通しがつかないところではあるのだが、「もう駄目だ~」となる直前までは頑張ってみようと思う。
2年前にも一度お世話になったオケだ。その前の年に定期演奏会を聴いて関心を持ち、ブランデンブルク協奏曲をやると聞いて、5月ごろのひょっこりと見学に行って参加させてもらったところだ。同じ県内ではあるのだが、うちの県は真ん中におおきな淡水の海があって、向う岸に行くのは一苦労。平日にやっている練習に参加するには、チャイムとほぼ同時に退勤して駅まで小走りに歩いて、ぎりぎり練習開始に間に合う、というか20分ほど遅刻で参加できるという距離。結局、この地理的条件が最大の理由で、定演以降は続けられなかった。その条件は何も解決できたわけではないのだが、一度参加するともう一度参加したくなって、また片道2時間かけて通うことにした。本格的に練習に参加できるのは、会社の都合で5月以降。今年も10月1日の定期演奏会までの期間限定の参加になる予定だ。
短期間の参加だったのに、みなさん覚えてくださっていて、快く迎えていただいた。定演の曲は1月ぐらいから練習されているようで、既に、ほぼテンポ通り最後まで通せるようになっている。だいぶビハインドがあるのは否めない。5月までに、なんとか通せるところまでは追いついておきたいのだが、果たして・・・
レッスンの方は、引き続き、『ヴィオラ名曲31選』(ドレミ音楽出版)を続けることにした。そういうレッスンをしていないと、基礎が身につかないとしみじみ実感したからだ。オケの曲をやっていても、ポジション移動にそれほど抵抗がなくなっていたり、意識さえすれば4指をスムーズに出せるようになっていたり、半年ほどの間に目に見える成果が出ている。期日があって、それまでに弾けるようにしなければいけないという練習では、どうしても妥協を重ねることになってしまって、出来ないことを出来るようにするよりも、出来ないことを如何に避けるかに傾倒しがちだ。
どれだけ、レッスンの曲とオケの曲を並行して練習できるのか、なかなか見通しがつかないところではあるのだが、「もう駄目だ~」となる直前までは頑張ってみようと思う。
2017年3月18日土曜日
いい曲ですね
ヴィオラだとかヴァイオリンをやっているというと、クラシック音楽に造詣が深くてなんでも知っているように思われることがあるが、少なくとも私の場合はほとんど知らない。とにかく1曲弾くのにとても時間がかかるので、そんな次から次へといろんな曲を弾くわけではないし、コンサートに行ったりCDを聴いたりということも、めっきり減ってしまった。
最近、気になる曲を3曲。いちおう年代順に
最初はあるアルカンジェロ・コレルリの合奏協奏曲1番。コレルリの合奏協奏曲 作品6の中では、8番のクリスマス協奏曲が有名だけれど、他の曲もいい。これはそのうちの最初の曲。バロック時代の曲は、後の時代のものに比べるとあまり難易度は高くない。これはどうかわからないけど。合奏協奏曲だから、ヴィオラにもちょっといいところが回ってくるかな?
次はモーツアルト。
モーツアルトの曲って、いかにもモーツアルトって感じがする。コレルリやヴィヴァルディやバッハとは明らかに違う。古典派っていうのだそうだが、古典派の中でもモーツアルトはやっぱりモーツアルトだ。サザンオールスターズの曲を聴いたら、誰が歌っていてもサザンの曲だな、ってわかるのと同じぐらい、モーツアルトの曲を聴いたらモーツアルトの曲だな、ってわかる。これもそういうモーツアルト感満載だ。
16分音符、速えーよ。
最後はエドワード・エルガー。19世紀後半から20世紀前半に活躍したイギリス人。クラシックの中ではだいぶ新しい人だ。年代が新しい人の場合は、それまでになかったものを作ろうという動機があるので、斬新なリズムだったり、途中で転調をさせたりして変化を付けたり、技巧的にも難しいものを要求してきたりする。
でも、これいきなりヴィオラから始まるじゃん。
大曲はこの3曲で、あとは小品がいくつかあるらしい。
はい。
そうです。
オケに載ります。
たぶん。
2017年3月12日日曜日
考えすぎない
このところ、比較的ゆっくりした曲を丁寧に弾くことが課題になっている。曲のレベルから言えば、たぶんスズキの2巻とか3巻ぐらいのレベルなのかもしれない。ちゃんと音程がそれらしくとれて、「あ、バッハのアリオーソだね」とか「モーツアルトのアヴェ・ヴェルム・コルプスだね」ってわかってもらえるレベルなら、もうこの曲も卒業なんだろうけれど、なかなかこれが卒業できない。自分でもあまり満足のいくものになっていないのだから仕方ないのだが。
前回のレッスンでは、フィンガリングを自分で変えてみたヴァージョンを診てもらって、そのうえで、ここもあそこもと修正が入った。移弦をするとどうしても音色が変わる。ゆっくり目の曲だとそれが目立つので、できるだけ同じ弦で弾くのがよいということだ。これは納得。確かにすぐに隣の弦に移弦するよりもポジション移動して同じ弦を使う方が、フレーズのつながりが出てくる。自分でフィンガリングを変えたのも、そこまで意識していなかったけれど、結局、そういう動機だった。
ところが、こうなるとポジション移動がちゃんとできるかが新たな問題になってくる。それを解決しないままレッスンを受けたのだが、それが、ただサードポジションの音程が悪いだけでなく、それを誤魔化すためにボーイングまで小さく(というかいい加減に)なっていたり、速く済ませてしまおうとしてリズムが変だったり、いろんなところに出てしまっているようだ。
今回のレッスンで問題になったのは、主にはボウイング。
音を続けようとして弓を返すところを意識するから、返す直前のところで無意味に弓速が速くなってしまっていたり、テヌートで「丁寧に」弾こうとして中膨らみになる傾向があったり。どうもいろいろ考えすぎているようだ。
何も考えてないと、子供の発表会みたいな無味乾燥な演奏になるし、考えすぎると変だし。何も考えないでちゃんとした演奏ができるようになるには、いったい何を考えて演奏すればいいのだ。とまた考えてしまって変な演奏になりそうだ。
前回のレッスンでは、フィンガリングを自分で変えてみたヴァージョンを診てもらって、そのうえで、ここもあそこもと修正が入った。移弦をするとどうしても音色が変わる。ゆっくり目の曲だとそれが目立つので、できるだけ同じ弦で弾くのがよいということだ。これは納得。確かにすぐに隣の弦に移弦するよりもポジション移動して同じ弦を使う方が、フレーズのつながりが出てくる。自分でフィンガリングを変えたのも、そこまで意識していなかったけれど、結局、そういう動機だった。
ところが、こうなるとポジション移動がちゃんとできるかが新たな問題になってくる。それを解決しないままレッスンを受けたのだが、それが、ただサードポジションの音程が悪いだけでなく、それを誤魔化すためにボーイングまで小さく(というかいい加減に)なっていたり、速く済ませてしまおうとしてリズムが変だったり、いろんなところに出てしまっているようだ。
今回のレッスンで問題になったのは、主にはボウイング。
音を続けようとして弓を返すところを意識するから、返す直前のところで無意味に弓速が速くなってしまっていたり、テヌートで「丁寧に」弾こうとして中膨らみになる傾向があったり。どうもいろいろ考えすぎているようだ。
何も考えてないと、子供の発表会みたいな無味乾燥な演奏になるし、考えすぎると変だし。何も考えないでちゃんとした演奏ができるようになるには、いったい何を考えて演奏すればいいのだ。とまた考えてしまって変な演奏になりそうだ。
2017年2月25日土曜日
レッスンにも風が…
去年の秋から紆余曲折があって、いま、『ヴィオラ名曲31選』(宮脇 薩乎 編,ドレミ楽譜出版社)の曲を見ていただいている。最初はスタジオの事務室の本棚にあったものを持ち込んで、その後しばらくはそれを使っていたのだが、先般、本屋さんに注文して取り寄せてもらった。奥付に「第2刷」と書かれている。つまり増刷されたものということだ。ヴィオラの楽譜にも一定の需要があるのだと思うと、ちょっと嬉しい。
先生は、「じゃ、最初から全部いきますか」と仰ったのだが、最初のAve Verum Corpus(W.A.Mozart)を弾かしてあまりに酷かったので方針が軽く変換されて、途中にあるArioso(J.S.Bach)からすることになった。
しかし、この1曲だけでは45分のレッスン時間が持たなくなってきて、3回目ぐらいに「何かほかの曲もやりましょうか」ということになり、たまたま目に入った「埴生の宿」も見てもらうことに。そしてそのあとは先生が最初に仰ったとおり、最初の曲から順番に見てもらうことにした。
前回のレッスンで「埴生の宿」を卒業。先生の前で、自分で楽譜に丸を付ける。ま、なんとなく嬉しい。考えてみれば、いまの先生に丸をもらったのは初めてだ。昨年からずっとやっていた発表会の曲は、結局最後まで丸をもらえなかった。その前はアマチュアアンサンブルのステージで弾く曲を見てもらっていたのだけど、これも丸をもらえないまま本番を迎えた。教本でレッスンを進めているわけではないので、「ここまで出来たら次行きましょうか」というタイミングがないのだ(それ以上に、丸をもらえるレベルに達していないのが大きな原因なのだが)。その点、『ヴィオラ名曲31選』をやり始めてからは、これが教本の代わりになっていて、これが終わったら次はこれ、という感じになっている。それで初めてもらえた丸だ。
最初にやり始めたAriosoはいまだに終わらない。けれど、その終わらないことが苦にならない。毎回、少しずつ違う課題が出てきて、それを解決すれば前よりも良くなることが実感できてきた。前は、いつも言われることは音程のことばかりだったのだが、最近は音程がよくなったのか、よくならないことが分かったのか、音程のことはさておいて、別の課題が出される。その中には、「弓をもっとたくさん使って」とか「強弱をもっと意識して」のように比較的わかりやすいものもあれば、「もっと音楽的に」とか「もっと朗々と」とか「もっと音のつながりを意識して」みたいな、消化するのに少し時間のかかるものもある。聞いたときは分からないが、練習しながら分かることもある。分からないまま次のレッスンを迎える時もある。そういうときは、一応努力した過程は口で説明して弾いてみると、何か別の言葉が返ってくる。なるほどそういうことかと頭では納得するのだけれど、実際にやろうとすると上手くできない。そしてまた練習。そんな感じだ。
先週、ある人から
ヴィオラらしい音が
出るようになりましたね
と褒められた。あ、ここにも風が吹いている。心地よい風。
2017年2月20日月曜日
ヴィオラに風が吹いている
このクールはこのドラマを観るのを楽しみにしていた。家ではすっかりチャンネル権を奪われているので、ドラマのように毎週観ないといけない番組を観ることはほぼなく、まして、同じ時間に嵐のメンバーがメインパーソナリティをしている番組があるのだから、もう観られないものと諦めていたのだが、奇跡的に観ることができた。
このドラマでヴィオラを弾いている高橋一生という俳優が結構ブレイクしているようなのだ。ヴィオラに吹く追い風を感じる。いつも心無いヴィオラジョークの逆風に晒されている身にとって、こんな心地よい風を感じることはない。
このドラマの設定が、ある日、カラオケボックスで「偶然」出会った4人の弦楽器奏者がカルテットを組むというもの。まずここで、カラオケボックスで弦楽器の練習をするということが当然のこととして描かれている。ヴァイオリンケースを担いでカラオケボックスに行き、ひとりでフリータイムを申し出て、店員に嫌な顔をされた経験のある方は少なからずおられることだろう。時には断られることもある(大手Jカラオケ店は駄目らしい)。それがこんな風にごく自然にドラマの中に描かれているのだ。もうこれで何もビクビクせずに堂々と練習ができるというものだ。
ちょっと補足だが、プロ奏者がカラオケボックスで楽器を弾くのは別に珍しいことではないようだ。筆者は8年前に、すでに宮本笑里がカラオケボックスでヴァイオリンを弾くのを知っていた。
http://6109.jp/emirimiyamoto/?blog=58777
けっして、筆者の隣の部屋で弾いていたとか、筆者が宮本笑里にストーカー行為をしていたわけではないので誤解なく。
そして、この高橋一生が演じる家森という男は、カルテットのメンバーの中でいちばん理屈っぽい。これはヴィオラ奏者に対するステレオタイプなのか。いやそうでもあるまいが、この理屈っぽいところがコミカルというか、結構ポジティブなイメージで描かれている。第一話の有名な「唐揚げにレモン」、第二あ話の「言葉と気持ちは違う」、第三話の「ボーダー被ってますよ」。いずれも、ドラマ全体のストーリーにちょっとしたスパイスをかける伏線になっていて、さらっと聞き逃すことができない。そして第三話の「学級崩壊」と「パチンコ屋」の話のうち、学級崩壊は第五話に見事に繫がっていく。
…あ、つい興奮してしまった。これ、ドラマを観ていない人には何のことかわからない話だが、こういうマニアックな話をさも一般的に誰もが知っているべきことのように話すことが、このドラマの中では前向きに(少なくともありがちなこととして)描かれている。
そして第四話はヴィオラ奏者の家森を中心にストーリーが展開する。音楽で生きる夢を追いかけるために定職を持たないことが理由で妻に離縁された家森が、ヴィオラを叩き壊そうとするのを元妻に止められ「あんたはそれでええんとちゃう」と言われる。二度と会うことがない子供との別れ。そのまえに子供にヴァイオリンを教え、ステージで二重奏をする。なぜヴィオラではなくてヴァイオリンを教えるのか。そこにヴィオラ奏者の悲哀が隠されていることに気づいた視聴者はそんなに多くはあるまい。
主演はファーストヴァイオリンの巻真紀を演じる松たか子なのだが、高橋一生が演じるヴィオラ奏者、家森の存在感は大きい。バラエティー番組への出演なども結構多く、かなりブレイクしているような印象だ。ここは大きな声で言っておきたい。
ドラマ カルテットで高橋一生が弾いているのは
ヴァイオリンではなくてヴィオラです。
見た目で区別がつかない人は番組ホームページでとか、こちらのページで確かめてください。
2017年1月7日土曜日
レッスン初め
まだ正月気分も冷めやらぬ3連休の初日に、今年初めてのレッスンがあった。
年末年始は、隣近所では帰省して留守のところもあって、比較的、気兼ねなく音が出せる。ただし学校が休みの子供たちには結構、気兼ねするのだが、それでも割と練習した方だ。
最近、練習しているのは、『ヴィオラ名曲31選』の中にある曲。
去年の10月に、スタジオの事務室でお借りして、その中から、気に入ったバッハの「アリオーソ」をレッスンで見ていただいていたのだが、それほど長い曲ではないので時間が余る。それで、あまり難しくなさそうな「埴生の宿」も見てもらうことにした。しかし、これも短い曲なので、練習しているうちに物足りなくなってきて、そのうちに『ヴィオラ名曲31選』の最初から全部弾いてみようなどという新たな野望が出てきて、最初の「アヴェ・ヴェルム・コルプス」とその次のモーツアルトの曲も練習するようになった。以前、練習していた葉加瀬太郎とか、ヘンデルのちょっと難しいのはあまり弾いていない。
レッスンでは、最初は「埴生の宿」を見てもらった。
これは、移弦がほとんどなくて、フィンガリングの練習にちょうどいいので、セヴシックの代わりに練習のウォーミングアップで使うようになっている。特に3指をポイントするときに4指を巻いてしまう癖を矯正するのが目下の目標だ。先生の前で弾いてみて、この目標はクリア。
この曲に関する先生のご指導は強弱
pianoもforteもcrescendoも、何もわからない。聴いていいて、楽譜を見なくても、「あ、いまここはpianoなんだな」とかいうことが分かるように弾くこと。確かに、この曲はフィンガリングのウォーミングアップと割り切っていたので、強弱のことは考えていなかった。
それと、今更だが弦は指の腹で押さえること。
これは、いままで指を立てることを意識的にしてきたので、ちょっと意外だった。弦を押さえる力がはいり易いようにと指を立て、爪に近いところでポイントしていて、そこに弦ダコができるのを誇らしく思っていたのだが、そこで押さえるのではないらしい。
これはまたセヴシックからやり直しだな。
次はバッハのアリオーソ
「埴生の宿」もだが、ボウイングをもっと意識的に練習しましょう、ということだった。
これは練習していても気になっていたところだ。個人的に勝手に「暖炉の前で」というタイトルを付けているので、暖炉の火のように消えることなくずっとゆらゆら揺れながら音が続くように弾きたいのだが、どうも弓を返す時や移弦の時、ポジション移動の時に音が途切れてしまう。
弦を返す時に、返し始めが速くなったり、返す直前が速くなったりすると、返したことが分かる。葉加瀬太郎の「情熱大陸」のロングトーンは途中で弓を返しているのに、弓を返したところが分からない。そもそも彼の演奏は聴いていて上げ弓と下げ弓の違いが全くなく、弓を返したところも音だけでは分からない。素人が弾けば上げ弓なのか下げ弓なのか、どこで弓を返したのか、全部分かる、というのだ。これは先生にも難しいことのようだが、意識して練習しないといつまで経ってもボウイングは良くならない。
そういいつつも、可もなく不可もなくというレベルまでは来たと褒めていただいた。お正月のご祝儀相場でもなさそうだし、それだけでも大きな進歩だ。
最後はアヴェ・ヴェルム・コルプス。
モーツアルトのもう一曲は見てもらっていない。
これは2小節目で先生が突然、吹き出すように笑われた。大胆に音を外したので、その所為かと思ったのだが、そんなことで今更笑いません、とのこと。
原因はグリッサンド。D線でミ→#レとスラーで弾くときに、そこがグリッサンドになっているのが唐突すぎたとのこと。そういえば、前回のアリオーソでも、ポジション移動の時にグリッサンドが掛からないようにと注意されていた。これは迂闊だった。そして、この曲はこういう半音移動が結構多い。
そんなわけで、フィンガリングについてもいろいろご指導はあったが、今日は主に右手に関するご指導が中心だった。
音は右手で出しています、とのこと。確かにその通り。フィンガリングが付くとどうしてもそっちに注意が向いてしまうので、開放弦で練習して、音の強弱だとか、弓を返すとことだとか、余計なところで音を復覚ませていないかとか、そういうところを意識的に練習する。
そういえば去年は音程に始まって音程に終わるような1年だったけど、今年はボウイングに始まってボウイングに終わる一年になるのか。何はともあれ、こんな調子で今年も1年間続けていこう。
年末年始は、隣近所では帰省して留守のところもあって、比較的、気兼ねなく音が出せる。ただし学校が休みの子供たちには結構、気兼ねするのだが、それでも割と練習した方だ。
最近、練習しているのは、『ヴィオラ名曲31選』の中にある曲。
去年の10月に、スタジオの事務室でお借りして、その中から、気に入ったバッハの「アリオーソ」をレッスンで見ていただいていたのだが、それほど長い曲ではないので時間が余る。それで、あまり難しくなさそうな「埴生の宿」も見てもらうことにした。しかし、これも短い曲なので、練習しているうちに物足りなくなってきて、そのうちに『ヴィオラ名曲31選』の最初から全部弾いてみようなどという新たな野望が出てきて、最初の「アヴェ・ヴェルム・コルプス」とその次のモーツアルトの曲も練習するようになった。以前、練習していた葉加瀬太郎とか、ヘンデルのちょっと難しいのはあまり弾いていない。
レッスンでは、最初は「埴生の宿」を見てもらった。
これは、移弦がほとんどなくて、フィンガリングの練習にちょうどいいので、セヴシックの代わりに練習のウォーミングアップで使うようになっている。特に3指をポイントするときに4指を巻いてしまう癖を矯正するのが目下の目標だ。先生の前で弾いてみて、この目標はクリア。
この曲に関する先生のご指導は強弱
pianoもforteもcrescendoも、何もわからない。聴いていいて、楽譜を見なくても、「あ、いまここはpianoなんだな」とかいうことが分かるように弾くこと。確かに、この曲はフィンガリングのウォーミングアップと割り切っていたので、強弱のことは考えていなかった。
それと、今更だが弦は指の腹で押さえること。
これは、いままで指を立てることを意識的にしてきたので、ちょっと意外だった。弦を押さえる力がはいり易いようにと指を立て、爪に近いところでポイントしていて、そこに弦ダコができるのを誇らしく思っていたのだが、そこで押さえるのではないらしい。
これはまたセヴシックからやり直しだな。
次はバッハのアリオーソ
「埴生の宿」もだが、ボウイングをもっと意識的に練習しましょう、ということだった。
これは練習していても気になっていたところだ。個人的に勝手に「暖炉の前で」というタイトルを付けているので、暖炉の火のように消えることなくずっとゆらゆら揺れながら音が続くように弾きたいのだが、どうも弓を返す時や移弦の時、ポジション移動の時に音が途切れてしまう。
弦を返す時に、返し始めが速くなったり、返す直前が速くなったりすると、返したことが分かる。葉加瀬太郎の「情熱大陸」のロングトーンは途中で弓を返しているのに、弓を返したところが分からない。そもそも彼の演奏は聴いていて上げ弓と下げ弓の違いが全くなく、弓を返したところも音だけでは分からない。素人が弾けば上げ弓なのか下げ弓なのか、どこで弓を返したのか、全部分かる、というのだ。これは先生にも難しいことのようだが、意識して練習しないといつまで経ってもボウイングは良くならない。
そういいつつも、可もなく不可もなくというレベルまでは来たと褒めていただいた。お正月のご祝儀相場でもなさそうだし、それだけでも大きな進歩だ。
最後はアヴェ・ヴェルム・コルプス。
モーツアルトのもう一曲は見てもらっていない。
これは2小節目で先生が突然、吹き出すように笑われた。大胆に音を外したので、その所為かと思ったのだが、そんなことで今更笑いません、とのこと。
原因はグリッサンド。D線でミ→#レとスラーで弾くときに、そこがグリッサンドになっているのが唐突すぎたとのこと。そういえば、前回のアリオーソでも、ポジション移動の時にグリッサンドが掛からないようにと注意されていた。これは迂闊だった。そして、この曲はこういう半音移動が結構多い。
そんなわけで、フィンガリングについてもいろいろご指導はあったが、今日は主に右手に関するご指導が中心だった。
音は右手で出しています、とのこと。確かにその通り。フィンガリングが付くとどうしてもそっちに注意が向いてしまうので、開放弦で練習して、音の強弱だとか、弓を返すとことだとか、余計なところで音を復覚ませていないかとか、そういうところを意識的に練習する。
そういえば去年は音程に始まって音程に終わるような1年だったけど、今年はボウイングに始まってボウイングに終わる一年になるのか。何はともあれ、こんな調子で今年も1年間続けていこう。
2017年1月1日日曜日
今年も懲りずに
新年が明けた。
毎年、「今年の目標」などということを掲げて取り組むのだが、このところ、毎年、「年末まで続けること」が目標になっている。そしてその目標は昨年も達成できた。ヴィオラを弾いているおかげで、あるいはこのブログを書いているおかげでたくさんの人に励ましてもらった。ヴィオラのおかげで生きてこられたといっても過言ではない。そして時々更新するこのブログが生きている証にもなっている。ただ、ときどき更新が滞ることがあるが、それはネタに困っているからだけで、けっしてその期間、仮死状態にある訳ではない。
ヴァイオリンを習い始めて満13年。ヴィオラも満5年を過ぎて、いまさらとも思うが、続ければ続けるほど、続けることのたいへんさと大切さがわかる。
続けるというのは、何も難しい曲に挑戦し続けることではない。
いままでは、いつかあの曲を弾きたいという思いが先行していて、常に、自分がいま弾ける曲より難しい曲に挑戦し続けていた。パッヘルベルのカノンが弾けなかった頃は、いつかこの曲を弾きたいと思っていた。それが弾けるようになったらバッハのドッペルが弾きたいと思った。まわりの人がみんな自分より上手に感じられて、それに遅れまいとか、合奏で足を引くまいとか、そういう思いがあって、それがヴァイオリンを少し肩肘張った道楽にしてしまっていた。
今年の目標は、そういうことをわかった上で「続ける」ことかな。
この趣味がなくなると寂しいこともよくわかっている。だから、それを失うまいと必死に続けるのでもなく、もっと自然体で、一生懸命に頑張らないで続ける。
どうすればいいのか自分でもよくわからないのだけれど。
毎年、「今年の目標」などということを掲げて取り組むのだが、このところ、毎年、「年末まで続けること」が目標になっている。そしてその目標は昨年も達成できた。ヴィオラを弾いているおかげで、あるいはこのブログを書いているおかげでたくさんの人に励ましてもらった。ヴィオラのおかげで生きてこられたといっても過言ではない。そして時々更新するこのブログが生きている証にもなっている。ただ、ときどき更新が滞ることがあるが、それはネタに困っているからだけで、けっしてその期間、仮死状態にある訳ではない。
ヴァイオリンを習い始めて満13年。ヴィオラも満5年を過ぎて、いまさらとも思うが、続ければ続けるほど、続けることのたいへんさと大切さがわかる。
続けるというのは、何も難しい曲に挑戦し続けることではない。
いままでは、いつかあの曲を弾きたいという思いが先行していて、常に、自分がいま弾ける曲より難しい曲に挑戦し続けていた。パッヘルベルのカノンが弾けなかった頃は、いつかこの曲を弾きたいと思っていた。それが弾けるようになったらバッハのドッペルが弾きたいと思った。まわりの人がみんな自分より上手に感じられて、それに遅れまいとか、合奏で足を引くまいとか、そういう思いがあって、それがヴァイオリンを少し肩肘張った道楽にしてしまっていた。
今年の目標は、そういうことをわかった上で「続ける」ことかな。
この趣味がなくなると寂しいこともよくわかっている。だから、それを失うまいと必死に続けるのでもなく、もっと自然体で、一生懸命に頑張らないで続ける。
どうすればいいのか自分でもよくわからないのだけれど。
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