2019年12月30日月曜日

チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲

 今年の演奏会収めはハイレベルのアマオケ。チャイコフスキーとシベリウスという組み合わせ。この辺りになると1曲が長い。そして難しそう。なかでもチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲というのは難曲という定評があるらしい。ソロはプロの方だった。
 引用した映像では五嶋みどりさんが弾いているが、聴きに行った演奏会では、若手の男性奏者だった。いや、もう、すごい超絶技法。どこを見ていたらいいのかわからないぐらいすごかった。というか、そういう目で見る必要もないのだけれど。

 シベリウスの演奏の前に団員の方が仰るには、楽譜をそのままなぞると音楽になるというのではなくて、作曲者の意図だとか時代背景だとかを考えて弾いていかないと音楽にはならない」とのこと。これは特にシベリウスがそうだという意味で仰っておられたのだが、バッハやモーツアルトばかりを弾いている身からすると、チャイコフスキーもドボルザークもプロコフィエフも、総じてベートーヴェン以降のものは全部そういうもののように思える。「鳥が歌う」「風が枝を揺らす」といった音ではなく、「喜」「怒」「哀」「楽」といった単純な心理描写じゃなく、目に見える情景描写でもない、なにかもっと複雑なものが音楽で描かれているように思う。村上春樹の小説を読むような、そんな感覚だ。きっと、演奏技法が先にあるのではなく、音楽家が表現したいものが先にあって、それを表現するために技法があとからついてくるのだと思う。チャイコフスキーの場合、表現したいものが、当時の技法からするとずいぶん先の方にあったのに違いない。だから「難曲」のレッテルが張られたのだろう。それが次第にまわりがチャイコフスキーに追いついてきて、「そうだ、それを弾いてみたい」という気持ちが演奏家と共有されて、そこに技法が追いついてきて、それでいまにこの曲が残ったのだと思う。

 いろいろ忙しい一年で、コンサートはあまり行けなかったが、行ったコンサートに「はずれ」はなかった。来年も、いいコンサートにいくつも行ける年にしたい。

2019年12月22日日曜日

やはり「慣れ」か

 前回は、楽器は弾いているうちに音の響きが良くなるのは、実は自分が弾いている音に慣れてくるだけなのでは、という仮説を立てたのだが、今回はもっと本質を
ズバッ
と突くかもしれない。

同じ曲ばっかり弾いているうちに、その曲が弾けるようになるのは、技芸が上達しているからではなく、たんにその曲に慣れてきたからではないのか。

 このところ、新世界だとか白鳥湖だとかGアリだとか、目の前にある面白そうなものばかりを弾いていて、レッスンもそれらの曲になってしまっていたので、発表会で弾く予定のヘンデルのヴィオラソナタ(じつは贋作)はすっかり放置状態になっていた。そうすると、弾けていたはずのフレーズがまったく弾けなくなっている。
まずい
心を入れ替えて精進しなければ。
↑ これはかなり真剣にそう思った。

 それで、レッスンのはじめにそれを言ってみる。

私 : 先生、これから心を入れ替えて真剣に練習します。
先生: いままで真剣じゃなかったのですか。
私 : 真剣は真剣でも、その真剣さがこの曲に向かっていなくて。
    この曲ばっかり練習したら弾けるんですけど、
    しばらく弾かないと弾けなくなるんです。
先生: それは奥の深い悩みですね。
    基礎から積み上げていけば、初見は無理でも、
    ある程度は弾けるんですけど。
私 : (セヴシックを差し出す)

 ただ、基礎練習にはなかなか身が入らないのもお見通しで、「それじゃセヴシックからもう一度しましょうか」とも仰らない。これまでも何度か仰っておられるのだが、曲の中のフレーズを基礎練習だと思ってやる。例えば、ポジション移動のところで音が取らないのなら、そのフレーズをポジション移動の練習だと思って何度もやるとか、音階やアルペジオになっているフレーズも、音階練習やアルペジオの練習のつもりでやるとか、そういうことだ。
 そこに今回はもうひとつスパイスが。
 そのフレーズを戻る
 つまり、上昇音階のフレーズで、例えばその途中にポジション移動なんかがあってうまく音程が取れないとしたら、そのフレーズを練習した後で、次は下降音階を練習する。すると、だんぜん基礎練習ぽくなる。それでいて、今度の発表会で弾くこの曲のこのフレーズだ、という意識はあるので、基礎練習だからといってモチベーションも削がれない。実際にやってみると、これが思いのほか上手くいかない。こういうところで基礎を疎かにしていることが露呈してしまう。

 やっぱり、同じ曲ばっかり練習してそれが弾けるようになるのは、ヴィオラが弾けるようになるのとは別物なんだな。



2019年12月15日日曜日

久しぶりにヴァイオリンを弾くと

 ここ数年、ヴィオラばかり弾いているのでヴァイオリンケースを開いたことがない。このブログの記事を読み返してみると、2年前にヴァイオリンの弓毛を交換している。それも、弾いて摩耗したからではなく、カツオブシムシとかいう虫の幼虫に毛を食べられたからだ。そのときの記事でも「しばらく弾いていない」と書いているが、その後、弓毛を変えたヴァイオリン弦には松脂も塗っていない。音を出せないときにそれでヴィオラを弾いたりするのに使っているだけだから、もう少なくとも2年は弾いていない。4年半ほど前の記事にはバッハのドッペルを弾いていることが書いてあるので、そのころはまだヴァイオリンを弾いていたはずなのだが。

 それで久しぶりに弾いてみたのだが、
 なんて小さいのだ!
 そして
 軽い!
 指が届きやすい!
 なのだけれど、なんか音が変。このヴァイオリン、こんな音だったっけ?、という音しか出ない。はたして、その原因は?
 ということで、いくつか仮説を立ててみた。
  1. ヴィオラとヴァイオリンの違い説
    ヴィオラの方が筐体が大きい分、響きはふくよかだし、たっぷりと豊かなおとがする。それに慣れているから、同じ曲をヴァイオリンで弾くと、どっか響きの貧弱な音のように聞こえたのではないか。
  2. 価格の違い説
    ヴァイオリンのことを知らない人に値段の説明をするときは、クルマの値段の1/10ぐらいと説明するのだが、その例で行くと、ヴァイオリンはホンダのフィットとかスズキのソリオとか、いわゆるコンパクトカークラス。ヴィオラの方はホンダのフリードとかスバルレヴォーグとか、そんな高級車じゃないけれどコンパクトカーよりはワンランク上。やはり、ドライブの楽しさも値段に比例するのか。
  3. 長期間放置が原因説
    ヴァイオリンもヴィオラも、ピアノに比べると構造は至って簡単。複雑な機構を調律して音を調整するというよりも、何度も弾いているうちに材料の木が変化して、その人の癖に合わせて響くようになっていく。放っておけば、やはり木が変化して響かなくなるのか。
  4. 単なる慣れ説
    ヴィオラでもヴァイオリンでも、高いものでも安いものでも、しばらく放ったらかしていたものでも、ちゃんと弾けばちゃんと響く。ヴァイオリンもヴィオラも、もともと全然響いていなかったし、いまも響いていないのだけれど、普段その響いていないヴィオラの音を聴いているから、それに慣れて響いていると勘違いしているだけ。
うむ。どれも説得力があるような、ないような。でも4だけは反証できない。

 もしかすると、よく弾いていた時もこんな音だったのかもしれない。ただ弾いているうちに慣れてしまっていて、それがいい音だと思うようになっていたのが、ヴィオラばっかり弾くようになってヴィオラの音に慣れてしまうとこんなふうに聞こえてしまうのか。
 




2019年12月8日日曜日

流行りのグループレッスン

 この夏からアンサンブルレッスンが始まった。いつもの45分レッスンを30分に切り詰めて、3人が15分を持ち寄って45分のアンサンブルレッスンをする、というパターン。なので、いつもアンサンブルレッスンと個人レッスンのダブルヘッダーになる。

 この秋のドラマで、ヴァイオリンのグループレッスンで知り合った3人を主人公にしたのがあって、素人ヴァイオリンに風が吹いている。微風だけど。あのドラマを見れば、「あ、大人からでも始められるんだ」とか「カラオケボックスで練習すればいいんだ」とか「大学生でも買えるぐらいの値段なんだ」とかいったことがわかる。スタジオの奥さんとの話では、先生役の桜井ユキの演奏は吹替だけれど、生徒役の演奏は吹替なしではないか、ということになった。俳優さんで才能に恵まれていることは差し引かないといけないけれど、少し練習すればこれぐらいは弾けるようになる、というのも割とリアリティがあるようにも思う。このチャンスに生徒さん増やしましょうよ、などと事務所で軽口を叩きながらスタジオに入る。

 前回から、バッハの「主よ」が練習曲に加わった。最初に合わせた時は「最後まで通せたよ」というレベルで満足していたのだが、今回はかなりレベルが上がっている。先生の声に合わせてリズムを取るのではなく、お互いの音を聞きながら弾くレベルまできた。先生のご指導も、「そこは○○の音を聞いて」とか「○○の旋律をいっしょに弾いているつもりで」というような内容になっているし、弾いていても、「いまのところはハモっていなかった」「タイミングが合わなかった」といったことが気になるようになってきた。個人レッスンをいっしょにグループでやるのではなくて、アンサンブルになるためにどうすればいいかという内容の濃いものになっている。
 3人で合わせるので、ひとりひとりが例えば10ポイント上達したとすれば、全体で30ポイントの上達になる。その差が割とはっきりとわかるので、レッスンも楽しい。練習にもモチベーションが湧く。時間がたつのも早い。スタジオにはいろいろとお手間をかけているけれど、やってもらって良かったと思う。
 ちなみにメンバーは年配の男性ばかりなので、ドラマのような恋のドキドキ感はない。

 他の方の個人レッスンの間、また事務室で、3人の中では松下由樹がいちばん上手そうだ、などとどうでもいい雑談をしながら時間を待つ。あ、3人ってそっちの3人ね。

 個人レッスンは30分に切り詰められているだが、今日はちょっと「G線上のアリア」を見てほしいとお願いした。ドラマでは、素人でも数ヶ月でこれが弾けるという設定になっている。そこのリアリティは人によって意見が分かれるが、私はそこそこリアリティはあると思う。ただ、「ほらG線上のアリアが弾けますよ」という演奏から「聴かせられる」演奏に持って行くところはたいへんだ。最初の音なんて、「ミーーーーーーーー」て伸ばしているだけだから、難易度としてはそれほど高くないように思えるかもしれないが、これを音色とか表現力とかでちゃんと聴かせられるようになるということは、そう簡単なことではない、というかめっさ難易度が高い。先生が本気でご指導をされれば、「ミーーーーーーーー」だけで30分かかってしまうだろう。なかなか奥の深い楽器だ。




2019年12月1日日曜日

「G線上のアリア」書誌学的考察

 テレビドラマで注目の曲。こういう流行りを押さえておけば、例えば、忘年会で「なんか弾け」と言われたときに困らない。ちょっとまとまった練習時間があるときには、「指慣らし」にちょうどいいかも。

 ふつうのヴァイオリンブログなら、ここで「弾いてみた」音源とか動画とかをアップするのだけれど、残念ながらそのご期待にはあまり応えることが出来なので、ここは別の角度から薀蓄を述べることにしたい。

 ドラマでは「バッハのG線上のアリア」と言って憚らないのだが、実はこの言い方は正確ではない。『音楽中辞典』(音楽之友社,1979)によると、「G線上のアリア」は、「バッハの管弦楽組曲第3番の第2曲《アリア》をヴィルヘルミ(1845~1908)がヴァイオリンのG線だけで演奏するように編曲した曲」だそうだ。「編曲」というのは創作の一形態なので、「G線上のアリア」を創作したのは誰か、となると、ドイツのヴァイオリニスト、アウグスト・ヴィルヘルミということになる。バッハが作曲した「管弦楽組曲第3番」とは別の著作物と言える。
 写真の楽譜は、パブリックドメインとなっているバッハの管弦楽組曲第3番第2曲の楽譜をネットからダウンロードしてきて、ハ長調に移調し、1オクターブ下げたうえに、ネット上にあるこの曲の音源から一部を手直しし、さらに自分が弾きやすいようにアレンジをしたオリジナルの楽譜だ。確かに自分で「編曲」らしきことをしているが、この創作のなかのもっとも重要な部分、つまりハ長調に移調して1オクターブ下げるというアイデアは、100年以上も前に既にヴィルヘルミが行っているので、これをヴィルヘルミとは別の新しい著作物ということはできない。ヴィルヘルミの著作である「G線上のアリア」を記譜という形で新たに表現したもののひとつにすぎない。ただし、ヴィオラでの演奏のためにハ音譜で書かれている点は、かなり特異な点と言えるが、それとて世界で初めてのものではあるまい。
 この楽譜を作成するためにダウンロードしてきたバッハの管弦楽組曲第3番の第2曲の楽譜には、英語で「Air from Orchestral Suite No.3/J.S.Bach」と書かれていたので、標題には「from J.S.Bach Orchestral Suite No.3」と英語で副題をつけている。しかし、もともとドイツ人であるヴィルヘルミの著作物なので、標題はドイツ語で「Air auf der G-Saite」とした。しかし、この判断はかなり怪しい。
 ヴィルヘルミのこの著作物は、おそらく最初はヴィルヘルミ自身の「演奏」という「表現」の方法で人々の前に公開されたのに違いない。もちろん、そのころに録音や動画を残せる技術はなかったので、この表現形は現存しない。次にそれをヴィルヘルミ自身かあるいはその演奏を聴いた人が記譜することによって、「楽譜」という表現形で人々に公開された。おそらくこれがこの著作物の原型といえそうだが、果たしてそこに「Air auf der G-Saite」と書かれていたのかどうかは怪しい。「G線上のアリア」は、もっと後になって、誰かが、あるいは特定の誰かではなく人々が、この曲を呼称するのに用いるようになった標題で、最初の楽譜には、たとえば「Air」とか、そんなふうに書かれていたのではないかと思う。そうだとすると、例えばドイツのどこかの図書館の貴重書庫にこの曲の初期の楽譜があったとしても、「Air auf der G-Saite」というキーワードでそれを探し出してくることは難しそうだ。
 仮にそれが探し出せたとして、そこに「バッハの管弦楽組曲第3番の第2曲をもとにアウグスト・ヴィルヘルミが編曲した」ということが書かれてあれば(おそらく書かれていると思うが)、それでやっとこの曲とヨハン・セバスティアン・バッハとを結びつけることが出来る。
 ということで、私の楽譜では、創作者は「August Wilhelmj」として副題に「J.S.Bach」を入れている。

 そこにこだわるよりも、演奏の上手い下手にこだわれよ。

 いや、ごもっとも。

2019年11月23日土曜日

ヴィオラの美味しいところ-その後

 ドボルザークの新世界と、チャイコ白鳥の湖のワルツを弾くオケ練習の2回目に行ってきた。2回目でやっと様子が分かったきたのだが、どうもこの取り組みは一過性のものではなく、毎月1回4か月続けた後、2ヶ月お休みで、また新しいクールに入るというサイクルで回されているもので、コアメンバーはある程度固定されているものの、メンバーは毎回入れ替わりがあるようだ。ずいぶん前の話になるが、ブログの全盛期に「バヨ会」というのを不定期にやっていたことがあるが、それに指導者の先生をつけて、もっとしっかり運営しているような感じ。
 ちなみに、「バヨ会」はその頃に流行った「オフ会」のバヨ版で、参加者は多いときで十数人程度。費用は割り勘。すっごい上手い人がいて全体をリードしてくれたり、たまにプロの人が遊びで参加してくれたりとかしていたけど、練習して上手になるというより、ネットで知り合った人と実際にあって、いっしょにヴァイオリンを弾くのが目的で、日程とかも、コアメンバーの誰かと誰かがネットで相談して、「じゃ次はいつね」ってきまったら誰かが会場を押さえて、それから曲を決めて、楽譜がネットで回ってきて、個人で練習して、みんなで合わせたら最後に録音して、みんながブログにアップしたり、ツイキャスト(いまでもあるのかな?)でライブしたり、みたいな運営だった。あれをあのまま続けていたら、もしかするとこういうのになったのかもしれない。

 今回は50人以上らいの参加者がいて、ヴィオラも5人。演奏の方も2回目と会って、少し様子がつかめてきて、、、 つまり、手を抜いていいところとそうじゃないところが1回目で分かって、1回目はとにかく全部弾こうと思っていたのが、2回目は「とにかくここだけは弾こう」というように、目標設定の適正化が図られて、1回目よりは
弾けた
という実感があった。

 「バヨ会」のときも、そういえば最初は「パッヘルベルのカノン」が弾けなくて、とにかくバヨ会でカノンをみんなと一緒に弾きたい、というのが練習のモチベーションだったし、それが目標だった。ちゃんと弾けなくても、いちおう弾けたときは、そりゃもう嬉しかったし、それが「本番」だった。曲はそのあとバッハのドッペルになったり、ヴィオラに転向してからはヴィヴァルディの調和の霊感だったり、いろいろ変わったけど、「みんなと一緒に弾きたい」というおもいは常に持ち続けていたように思う。
 やっぱりそこだよね。。。といまさらながら。

2019年11月17日日曜日

映画「蜜蜂と遠雷」鑑賞

 9月にこの小説を読んで長々と記事を書いたあと、映画が公開されて、本当に楽しみにしていた。いつも拝見している方のブログでもこの映画のことが書かれていたので、たまらずにコメントしたのだけれど、コメントでは書ききれないので、あらためて感想を。

いや~、良かった。

 小説は小説で良かったと思う。特にこの小説は言葉の紡ぎ方がとても丁寧できれいだと思うし、言語化しないと伝えられないことがしっかり伝わってくるというだけでなく、言語化できないところにいろんな想像力が働いて、まるで実際に自分がそのピアノコンクールの観客であるかのような錯覚さえ覚える。

 その中でも特に心情描写というのは、言語化されることでイメージがつかめて、さらに行間からそのイメージを膨らましていくもの。いや、そもそも心情というものは言語化されることによってはじめて心情になるものではないだろうか。たとえば、日本語には「切ない気持ち」という言葉がある。Googleで翻訳すると「Sad feeling」という訳になる。でもなんだか違う。「切ない」は「Sad」でも「painful」でも「melancholy」でもなくて、やっぱり「切ない」だと思う。もし「切ない」という言葉を知らなかったら、「切ない」気持ちにはなれないと思う。自分の気持ちを「切ない」と言語化したときにはじめて「切ない気持ち」を体験できる。

 この小説の登場人物の心情は、そんな簡単な言葉で表現できるものではなくて、特に亜夜の心情は複雑で、そしてそれが刻々と変化していく。この小説では、それが言葉と行間の両方からほとばしってくる。最初は深い悩みを抱えていた亜夜が、次第にその悩みから解き放たれ、新しい心情を言葉ではなく音楽で表現していく様が、この小説の大きな文脈のひとつだと思う。

 映画では、その亜夜にほんとうに会ったような、そんな印象を持った。こんな喩えはどうだろうか。いまの人ならLINEとかで互いに言葉を交わしているひとは多いと思うのだけれど、実際にあって話をすることで初めて「リアル」にその気持ちを共有したりできる、なんてことはないだろうか。

 映画の台詞は小説の文字を音声化しただけではなくて、小説よりも「リアル」に近い印象がある。映画を観ながら、まるでいま目の前に亜夜がいるような。もちろんそこに実際にいる訳ではないので、「互いに分かり合える」ということはないのだが、亜夜の心情がより「リアル」にわかる、というだけでなく、亜夜を通して自分を見る、というか、そのことによって、もしかして自分ってこんなふうに思っているんじゃないかな、って初めて気づいたりだとか、どれだけ言葉を紡いでも辿り着けない「リアル」の世界がそこにあったように思う。

 スクリーンの向こうに手を伸ばすことはできないのだけれど。

 いい小説といい映画に感謝。

2019年10月22日火曜日

ヴィオラの美味しいところだけでも

 今月になってオケネタばかりなのだが、練習もオケの曲しかしていないので仕方がない。当面、来年の発表会で弾こうかなと思っている曲とか、その時に他の生徒さんとアンサンブルで弾くことになるはずの曲とかは後回し。とにかく、この前いっかい練習に参加してみて、自分がそこのオケのレベルからはかなり遠いところにいることがはっきりした。練習に参加するからには、なんとかそのレベルまでは自分を引き上げていかないと…。
 別に練習をしてどこかでステージに載るわけではないのだが、いちおう各回の練習の最後に「本番」と称して、練習した曲を通して弾いて録音し、内輪で共有する、という趣向のようだ。ここではそれが「本番」なのだが、みんなで合わせるところで自分の音を他の人に聞かせるとなれば、それは即ち「本番」。最後の録音だけでなく、練習の最初から最後まですべて「本番」。そう思うと、俄然、練習にも熱が入る…

はずだ…

けれど…

これがなかなか思うように進まない。
 いっかいみんなで合わせてみて、ヴィオラの美味しいところがだいたいわかった。その美味しいところだけでもちゃんと弾きたい。そんなわけで、通して弾くというより、美味しいフレーズを繰り返し弾く。弾けるまで練習し続ける。1回ちゃんと弾けたら、今度は10回連続でちゃんと弾けるまで…  ところが、これがダメで、2回目は必ず失敗するとか、それでも、この前の練習のときは全然弾けなかったわけだから、1回でもちゃんと弾けたというのは、確かに進歩ではあるのだが、最初は1回だけ奇跡的に弾けたというだけで、しばらく全然、最後まで弾き通せなかった。それがそのうちに、5回やったら1回は成功するようになって、その成功の確率が少しずつ高まってきて、いやそれでも2回続けて成功するところまでいかない。前のヴァイオリンの先生は、通して弾いてみて失敗したところは100回続けて成功するまで弾き直すと仰っておられた。プロじゃないから10回でいい、とおまけしてもらったのだが、通して弾いてみて、ではなくて、美味しそうなところだけ弾いてみて10回続けて成功すればいいわけだから、なんと低い目標だろうか。いやしかし、そこまでも行けない。しかし、成功の基準がなんとなくそれらしく聞こえたら、というレベルなので、
どんだけレベル低い練習やねん
と自分でも突っ込みを入れたくなる。

 めげない。
 めげない。

と、自分で言い聞かせて、少しづつでも前に進むしかないよな。

2019年10月16日水曜日

オケ初体験

 オケの練習に行ってきた。
 弦のアンサンブルはやってきたが、管楽器や打楽器のあるオーケストラは初めて。初心者歓迎のオケだし、ま、後ろの方で弾いているふりをしているだけでもいいか、と思って参加してみた。
 アンサンブルに入っていた頃は、結構、距離の遠いところだったので、年間を通じて練習に参加できず、5月ぐらいで、そろそろみなさん最後まで通せるようになりました、というぐらいのところで練習に合流。いちおう練習はしていくのだけれど、何処を弾いているのかさえ分からないまま終わってしまう、なんてことが1カ月ほど続いて、
あ~ 駄目だ
練習しなきゃ
といいう気持ちにスイッチが入り、それでやっと、まぁなんとか弾いているような感じになる、という感じだったのだが、今回もやはり、あ~練習しなきゃ、という思いだけは強く感じた練習だった。どうもその辺は、弦楽アンサンブルでもオーケストラでも、途中からの参加でも最初から参加でも、変わらないようだ。

 今回は、最後にステージがある訳ではなく、とにかく「オケ遊び」をしましょう、という企画のようだ。曲は2曲あって、そのうちの1曲は結構、練習した。もう1曲は、実はあまり練習していない。その練習していない方から始まった。

 その前にやばいと思ったことがあって、実はヴィオラは2人だけしかいなかった。これじゃ後ろの方でコソコソと弾くわけにはいかない。全体は40人ぐらいだっただろうか。パートを揃えるとか、そういうことよりも、とにかく参加している人が愉しむというのが目的なので、ヴァイオリンはファーストとセカンドあわせて15人ぐらいいるのに、ヴィオラは2人、チェロは4人。フルートは10人ぐらいいるのに、クラリネットやオーボエは1人か2人、トランペットやトロンボーンはなし、という編成。これならヴィオラなしでもやっていけるかもしれない。
 ところが、もうひとつやばいことがあって、2曲とも結構ヴィオラに美味しいところが回ってくるのだ。
え、ここ、ヴィオラの聴かせどころじゃん
なんてところが随所にある。ところが、これが弾けない。弾けない。弾けない。弾けない。弾けない。
わりと練習してきたつもりの曲も含めて、ほとんどまともには弾けていない。幸い、もう一人の人は幼少の頃から弦楽器をされている人で、もしかするとほとんど初見でも弾けてしまうぐらいの人なのかもしれない。おかげでヴィオラが途中でなくなってしまうことはなかった。

 いままで弦楽アンサンブルしか経験がないので、あまり考えたことはなかったのだが、オーケストラなら、ティンパニーのような大型楽器もある。コントラバスもたいがい大きいが、ティンパニーの大きさはただごとではない。それを個人で持っておられる方がいるのだ。考えてみれば、そういう人がいないとオーケストラが成り立たない。
 そのティンパニーやら管楽器やらが入ってくると、こりゃすごい迫力だ。特に「新世界より」第4楽章の最初の有名なフレーズなどは、
ぞくっ
とくる。こりゃたまらんだろうな。パートが揃っていなくてもこれだから、これがちゃんとパートが揃ったときには、そりゃもう凄いに違いない。

 数年前からこういうのをされておられるらしく、加えて、みなさんいろんなところのオケに入っておられて、顔馴染みの方も多いようだ。私のように、このオケは初めてという方も何人かおられたが、そこにいる人を誰も知らない、というのは、もしかすると私だけだったかもしれない。しかし、みなさん優しくて、たくさんの方に声を掛けていただいた。
ヴィオラ、よく聞こえていましたよ。
っていうのは、隣で弾いておられた方のことなのか、あるいは、京都の人が「お子さんピアノ上手にならはりましたねぇ」というのと同じなのか。

 ともあれ、練習だな。練習。

2019年10月8日火曜日

新世界で新境地

 「働き方改革」でアンサンブルに参加できず、やさぐれ状態だったのだが、演奏会を聴くと合奏をしたい気持ちがふつふつと沸いてくる。ほんとうなら休みが取りやすくなるはずなのに、1時間ずつ分けて取るのはダメよなどというお節介をいうからこんなことになるのだ。放っといてくれよ、そんなこと。こうなると、役所がいうことを「はぁ、そうですか」と素直に聞き入れて、「休みが取れてよかった」などと小市民的な喜びに満たされることは、天邪鬼な性格が許さない。しかし、待てよ。ネットで探したら、平日練習プランでオーケストラ体験ができる、なんてのがあるじゃないか。何を弾くんだ?

 を! ドヴォルザーク「新世界より」第4楽章 ほか

よくアマオケ(菅もあるやつ)で弾く曲だ。こういうのはやったことがないのよね。いつも行っていたのは弦楽アンサンブルだったから。初心者歓迎。どうも恒常的なオーケストラではなさそうだ。ということは、もうすでにどこかでオケをやっている人とか、いまからオケに入りたいと思っている人とか、昔はやっていたんだけどいろんな事情で続けられなかった人とか、そういう人が集まってくるのかも。
 いや、でも平日ってどんな人が集まってくるのよ。そんなところで知り合った人から「うちのオケに来ない?」なんて誘われても、それ、練習が平日の昼間だったりしない? それにドヴォルザークとかチャイコフスキーとか、見ているだけでも難しそうじゃん。ハイポジションもいっぱいあるし。弾けるの? 練習月1回って少なくない? なんて、いざとなるといろいろ考えたりするのだけど、今回は恒常的な団体ではなさそうだし、気軽に参加できそう。ということで、見付けたその日のうちに申し込み。こんなのに参加できるのも、「働き方改革」のおかげじゃん。

 あ、しまった。申し込む前に楽譜ぐらい見ておけばよかった。
 はたして受け入れられるのか?

2019年9月30日月曜日

載れなかった定演

 アマチュアアンサンブルの定期演奏会を聴いてきた。
 このところ何年か続けて出させてもらっていた演奏会なのだが、ことしは、くだんの「働き方改革」の所為で練習に参加できなくなってしまい、ステージに載ることを断念した。この「働き方改革」、なんかおかしいか。本来なら、いままで出来なかったことが「働き方改革」で出来るようになるはずなのに。

詳しい事情はこちら↓

 感想。

 載りたかった。

 出たかった。

 弾きたかった。

 いやもう、無念とか、口惜しさしかない。
 もし、うちの会社が、あのアンサンブルの練習場所に30分以内に行けるようなところに支社でも作ってくれるんだったら、週に1回、木曜日だけ定時に帰れたら練習に参加できるのだったら、毎日片道2時間半かけて出勤するよ。

 それはともかく、昨年までに比べてエキストラがずいぶん少なかった。それに、いままでと違って団員の方がソロをされていた。これまでは、指導してくださる先生の伝手で、大学のオケからエキストラを引っ張ってきて、各パートの重要なところに嵌めていたし、ソロのあるところはプロの先生にお願いしていたのだが、それを出来るだけ自分たちでやるというように変わってきたようだ。予算事情がよくなくて、などと仰る方もおられたが、それだけ団員の演奏レベルが上がっているということは間違いない。

 あぁでもそこに自分がいない。

 やっぱり、いちどアンサンブルの醍醐味を知ってステージに載る快感を覚えると、まるで麻薬のように、それなしではいられなくなってしまう。世間には週に1回、定時に帰るということが無理な人もいるのはわかっている。自分も若い頃には終電が当たり前の生活だった時期もある。早く帰れても家庭の事情でこんなことが出来ない人もいるわけだから、自分はこの数年間、恵まれていたと思うべきなのかもしれないが、そんな大逸れたことを言っているわけでもなく、叶えてあげてもいいささやかな願望だと思うのだが。

2019年9月22日日曜日

主よ~

 前回のレッスンから少し間が空いたのだが、前回同様、個人レッスンとアンサンブルレッスンの2本立てでレッスンがあった。前回のアンサンブル練習が比較的順調だったので、もう1曲、アンサンブルの曲をいただくことになっていたのだが、予定通り、パート譜が渡された。

カンタータ「主よ、人の望みの喜びよ」BWV147

どっかでも弾いたように思ったのだが、正確には、練習はしていたけれど、発表する予定だった本番が、いつものスタジオの発表会とブッキングして、幻の発表になってしまった(嘘、私以外の方は発表された)曲だ。その時のアレンジは、たしかひたすら和音だったように思うのだが、今回のアレンジでは「タララタララタララタララタララ」の有名なメロディもちょっとだけ回ってくる。
 今回のレッスンでは、パート譜をもらっただけで、

じゃ、初見でいっかい弾いてみましょう

とはならなかった。今の先生にはもう1年間、レッスンを見ていただいているので、さすがにそんなことをしたらどんなことになるのかはお見通しのようだ。

 家に帰って早速譜読み。知っている曲なのでイメージはつきやすい。
 このところ、ヴィオラなのにト音記号で5ポジやらフラジオやらの超絶技法炸裂の楽譜を見ていたので、ハ音記号が懐かしい。

おぉ、読める。読めるぞ。

300年の長い眠りから目覚めし名曲よ(いや、寝てないし)。ただ、ハモらせられるかどうかは別問題で、そういえば、前にやったときも結構、苦労していたよなぁ。

2019年9月6日金曜日

読了「蜜蜂と遠雷」

 この1~2年、毎月必ず1本の映画を観ようと思って実践してきた。観たい映画がなくてもとにかく1本は観る。ミニシアターだとかに行けば、ちょっと昔の映画とかだったり、無名の監督さんが作った映画だったり、探せば自分の琴線に触れる映画はあるものだ。そして2本以上は観ない。観たい映画が2本あるときは、レビューなんかを読んで厳選する。「しまった。あっちの方が良かったかも」なんて後悔しても、他の映画は翌月までお預けで、その頃には「あっちの方」の上映は終わっている。そう思うと、結構、慎重に選ぶので、観ていない方の映画もあらすじぐらいは分かっていたりする。
 映画館に行けば、今後上映される映画のポスターやら予告編やらが目に入るので、また映画を観たくなる。今回、目に留まった映画はこれだ。



 原作が直木賞や本屋大賞をとって、たぶん本屋さんの入口辺りに平積みされていたこともあったので、タイトルは知っていた。けれど、ピアニストが登場する話だとは知らなかった。これは読まないわけにはいかない。早速購入。いまなら「映画化!」の帯にピアノを弾く松岡茉優の写真も付いてくる。文字の割と大きな文庫とはいえ、上下巻で1,000ページ近くある大作だったが、6日間で読了してしまった。

 東京から新幹線ですぐに行けそうなところにある芳ヶ江という架空の街。日本を代表する楽器メーカーがあり、おいしいウナギの店があるこの街の駅前にある、2,300人収容の大ホールと、1,000人収容の小ホール、それにホテルなどを備えた複合施設で開催されるピアノコンクールを舞台に、互いの演奏を聴き、その背景にある互いの人格を見つめながら、自分自身の中にある、自分の気付かなかった人格を引き出して成長していく4人のピアニストの物語。

 半分以上はピアノを弾いている場面だ。といっても、小説を読んでいる間はもちろん音は鳴らない。ピアノを弾いている人やそれを聴いている人の感情描写から、そこで聞こえているはずの音を表現していく。例えば、コンクールの第二次予選で、このコンクールのために作曲された課題曲「春と修羅」のカデンツァが演奏されている場面は、つぎのように描かれている。

 いよいよ「春と修羅」だ。高嶋明石は、固唾を呑んで次の曲を待った。…
 ごく静かに、風間塵の「春と修羅」は始まった。まるで、前の曲「ミクロコスモス」の続きのようなさり気ない幕開け。曲も、至ってシンプルに展開される。日常生活。いつもの散歩道。窓を開け、一日が始まる。自然。人々の営みを包む、宇宙の理。当たり前にそこにあり、生活を満たしているもの。…
 しかし、そのイメージは、カデンツァに突入したとたん、一瞬にして打ち砕かれた。
 客席が凍りついた。
 風間塵の紡ぎ出したカデンツァは、すこぶる不条理なまでに残虐で、凶暴性を帯びていたのである。聴いているのがつらい、胸に突き刺さる、おぞましく耳障りなトレモロ。執拗な低音部での和音。甲高い悲鳴、低い地響き、荒れ狂う風。敵意をむき出しにした、抗う術もない脅威。これまでの、楽しげで、ナチュラルで、天衣無縫な演奏とは似ても似つかない、暴力的なカデンツァ。
 明石はゾッとしてほとんど息を止めていたことに気付いた。
 「修羅」なのだ。
 …
 ひとりの客が自分のそばに立っている少女に気付いてギョッとした。
 グリーンのステージ衣装。ドレスの裾をたくし上げたまま、身じろぎもせずに舞台を見つめている少女。…コンテスタントが、ステージ衣装のままこんなところに。
 客は気づかなかったが、そこにいたのは栄伝亜夜だった。
 …
 これは何?
 奏は亜夜の演奏を聴きながらも混乱していた。このカデンツァはいったい。練習で弾いていたのとは、どれとも違う。…
 骨太でゆったりした-おおらかでどっしりとした-これまでの亜夜のタッチとは違う。これまでの才気走った、先鋭的なものではなく、すべてを包み込むような、まるで大地のような。…
 どこまでも続く地平線。駆けてゆく子供たち。遠くで手を拡げて待っている誰か。生きとし生ける者が歩いて行く大地。…
 ああ、これが亜夜の返礼なのだ。…亜夜は、あの凄まじい「修羅」に満ちた風間塵のカデンツァを聴いて、それに応えた。自然が繰り返す殺戮や暴力に対して、それらをも受け止め飲み込んでしまう大地を描いている。
「春と修羅」は、宮沢賢治の世界をモチーフに作られた曲で、曲の途中にカデンツァがあり、「自由に。宇宙を感じて。」と書かれている。けれど、そんな曲がこの世の中にある訳ではない。小説に現れる架空の曲だ。なのに、この小説を読んでいると、まるでその曲がいま目の前で演奏されているような気持ちになれる。「音」という、ピアノの演奏を鑑賞する中でもっとも大切な要素を抜きにして、文字だけでこれだけ巧みに描き出された世界。さて、これを今度はどんな風に映像化するのだろう。じっと舞台を見つめる役者の絵にアフレコを重ねるのだろうか。小説では心の中で思ったことになっているのを、誰かと会話させたりするのだろうか。

 栄伝亜夜を演じるのは松岡茉優。風間塵を演じるのは新人の俳優だ。亜夜が塵の演奏を聴く場面が何度かあるが、これはこのストーリーの中でとても重要な場面。
 栄伝亜夜は、立ち見の観客に交りながらも、奇妙な感覚に襲われていた。まるで、舞台の上の風間塵と一体化しているように感じるのである。風間塵は遠いステージの上にいるのに、目の前にいるみたいだ。…
 彼はあたしを見上げ、ちらっと笑い、話しかけてくる。
『おねえさん、ピアノ好き?』…
『ええ、好きよ』…
『どのくらい?』
『さあね。どのくらいか言えないくらい、好き』
『本当に?』…
『何よ、それ。本当じゃないと思っているの?』…
『さあね。迷っているみたいに見えたから…ステージの上ではそうじゃないのに、ステージから降りるといつも迷っているみたいだった』
小説では、ステージで塵が演奏しているのを客席で聴いている亜夜が自問自答しているのだが、映画の予告編を見ると、もしかすると楽屋のようなところで二人が会話しているように描かれているのかもしれない。相手を見つめる目、表情、仕草。小説ではたくさんの言葉を重ねて表現されている登場人物の感情が、役者の一瞬の演技で表現される。

 音楽、小説、映画。

 どれも「表現」といわれる。同じものを表現しようとしているのに、表現の方法はそれぞれ違う。今日、読み終えた小説が、映画ではどんなふうに表現されるのだろう。
ロードショウが待ち遠しい。

2019年8月18日日曜日

「もう少し」からが長い

 毎度のことであるが、曲がいちおう弾けるようになってからが長い。今年はアマオケがないので、練習している曲数が圧倒的に少ない。ひとつの曲をじっくり練習できるのだが、これは「飽き」との闘いでもある。前から練習していてえ、ちょっと躓くところがあると、いっきに練習がつまらなくなる。何度弾いてもできないので、その段階で

あぁダメだ

とその日の練習が終わってしまう。気分転換のほかの曲を、というのがないので、それはそれで練習が身に入らない。
 そんなことを乗り越えて、なんとか、いまレッスンでみていただいている曲が弾けるようになったのだが、ここからの道程がまたながい。フレーズことに練習していれば、繰り返し練習しているうちに弾けるようになるのだが、最初から通して一回も間違えないで最後まで通すとなると、次元が全く違う。

 そんなことで迎えた今日のレッスン。
 前回はアンサンブル中心だったので、ほぼ1か月ぶりにこの曲を診ていただく。

 全体的に音程は怪しいのだが、今日は、特に半音のところを狭くとるように、とのこと。診てもらっている曲はヘンデルの曲のはずなのに、途中でやたらと移調する。半音のところがどんどん変化するのだが、半音は半音でしっかり半音にしないと、移調したということがよく分からない。特にハイポジションになると、ヴィオラでも指を入れ替えないとダメなぐらい小さい差で半音になるので、そこをしっかりと半音にする。
 そして、これもいつも言われるのだが、ゆっくりでいいから、最初から最後までおなじペースで弾けるようにする。速く弾いているときはどこか誤魔化している。ゆっくりなら誤魔化しがきかないので、速いときとは違うとことで躓くはず。まずはどこで躓くのかをしっかり把握して、そこを繰り返し練習。遠回りのようでも、こういう練習が一番の近道だ。
 アマオケのある時と違って、そんなに追われてはいないので、ここはじっくり練習だな。

2019年8月12日月曜日

アンサンブルの発表に向けて~初レッスン~

 フラジオレットの話題で、アンサンブルのことがすっかりフェイドアウトになりかけていたが、今月は重要な局面を迎えた。

初のアンサンブルレッスン

曲が決まって以降、個人レッスンの入れ替わりのときに、前のレッスンの人と後のレッスンの人と先生の3人で合わせてみたり、といったことはやっていたのだが、3人揃ってレッスンを受けるのは、今回が初めてだ。先生が入ると、とりあえず最後まで通すことは出来るのだが、素人3人で果たして最後まで通せるか。

 レッスン当日は、まず私の個人レッスン、次にセカンドヴァイオリンをされる方の個人レッスンがあって、そのあとアンサンブルレッスン。そのあとにファーストヴァイオリンをされる方の個人レッスンという順序。

 個人レッスンは、いつものように、セヴシックで準備運動をして、それから曲のレッスンというパターンなのだが、「今日はどちらの曲をされますか?」と言われて、やや迷ってアンサンブルの曲を見てもらうこととした。
 課題はFisとCisとGis。イ長調なので、C線、G線、D線の3指がことごとく#になる。3ポジに移動した場合は、1指がいつもより半音高い。この音程がことごとく取りにくい。
 もう一つの課題は2ポジ。Andanteなので、ひとつのフレーズの間、音色をできるだけ変えないように同じ弦で弾くようにすると、C線やG線などの低い弦でもポジション移動が生じる。3ポジの1指が半音高くて取りにくいのだが、その取りにくい3ポジから2ポジに移動すると、音程はもうグダグダになっている。レの音を弾いているつもりが、隣のD線の開放弦とは半音も音程が変わっている。
 さらに1ポジ1指、2指までが怪しい、と指摘される。3指が高めだと意識するあまり、1指、2指もつられて高くなっているようだ。
 Andanteなので、ヒラヒラという速いパッセージで誤魔化すことが出来ない分、音程はしっかり合わせないといけないのだが…。

 そんなことで、あっという間に個人のレッスンは終わってしまった。次の方のレッスンの間、どっかで暇をつぶしてもいいのだが、スタジオの近くは田舎でそんなところもないし、暑いし、30分だけだし、というのでレッスンを見学をさせてもらう。私と同じように、セヴシック(といってもページは違うが)で準備運動をした後に曲のレッスンをされていた。ユーモレスクだった。そういえば、誰か見学しているのって、結構、緊張するものだ。ちょっとお邪魔だったかも。

 その個人レッスンの終わりかけに、もう一人の方も来られて、いよいよアンサンブルレッスン開始。準備運動なしで、じゃ、と弾いてみる。

とりあえず最後まで弾けた。

当たり前といえばそうなのだが、これは結構大きな成果だ。3人がそれぞれ積み上げてきたことが結実したといってもいい。音程が合わないところを合わせて、合った状態を感じるとか、リズムが合わないところを、お互いが聞き合って合わせていくとか、最初と最後、それと休符の後で一斉に鳴らし始めるところなんかのタイミングの取り方とか、アンサンブルだからこそのレッスンになっている。この調子なら、3カ月先でも発表会に出られそうだ。

 そんなわけで、もう1曲、アンサンブル曲が増えることになった。バッハのカンタータ「主よ~」。あ、これ何処かでもやったことある。けどアレンジは先生がされるそうなので、何処かでやったのとはまた違うものになると思う。

 たぶん来年のいまぐらいにあると思われる発表会に向けて、滑り出しは順調。さてこのまま順風満帆に進むのか。

2019年7月20日土曜日

そろそろ真面目にフラジオレット

 そうそう。
 そろそろ真面目にフラジオレットのことを書かないと、何を書いても読んでもらえなくなってしまう。なんだかんだ言っても、書くからには誰かに読んでほしいし、誰にも読んでもらえないよりも、アホ、ボケみたいなコメントで炎上する方が、まだ自分の存在が確かめられて嬉しいかもしれない。どっかの大統領が品格のないツイートをする心理も分からなくはない。

 いままでもフラジオレットのイメージは、Andanteとかわりとゆっくりした曲が終盤で盛り上がって、最後にヴァイオリンのソロで消えていくみたいな、か細い音が鳴るというイメージ。しかし、いまやっている曲はallegroでわりとガシガシ弾くイメージの曲なので、なんでこんなところでフラジオレットがでてくるんだろう、という感じだった。
 しかし、言われて見るとなかなか効果的なところにフラジオレットが出てくる。必ずしもフレーズの最後というわけではない。チャラララチャララララッ、と高いラを弾いた後で2オクターブ下がって、ラー、ときたり、そのさらに5度上の、チャラララチャラララミッ、ときて、ラミラ~、と重音になったり
(文書で書くと何のことかわからないけど…)
 適当じゃなくて、ちゃんとそういうところがフラジオレットになるように作曲されている。ヴィオラの場合は「ラ」がフラジオレットの基本で、「ミ」は1/3のところに触れる応用編なのだが、いきなりからどっちも出てくる。

 先生曰く。フラジオレットの場所は決まっているので、音を出した後で探すんじゃなくて、いつもその場所をフィンガリングできるように練習しましょう、とのこと。それで、イケないとは分かっているのだが、その場所にちょっと印をしておく。折込広告でもなんでもいいのだが、紙を指板と弦の間に挟んで、長さをちょうど駒からネックとペグの間の出っ張ったところ(何ていうんだ?)に合わせて折る。これをちょうど半分に折って折り目を付ける。その紙を再び弦の下に敷いて、折り目のところにマジックで印をつける。同じように三つ折りにして、駒から1/3のところにも印をつける。ヴィオラの場合、いちばん細い弦の開放弦がラ。半分のところがその1オクターブ上のラ、さらに1/3のところがその上のミになる。ここを、押さえるとも押さえないとも分からないような微妙な触れ方をすると、微妙な具合にオクターブ上のラとか、その上のミとかが鳴る。最初にイメージしていたみたいに、この微妙な状態でボウイングを続けるのではなくて、チャラララチャララララッ、と鳴らしたらしばらく余韻が続くので、その間にファーストポジションに下がって次の音の準備をする。

 うむ、なかなか理に適っている。

 最初のうちは5ポジもまままらず、当てすっぽうにフィンガリングしていたのだが、折込広告で付けた印のおかげで、成功率が少しずつ上がってくる。そのうち何度もフィンガリングしているので印が消えてしまったのだが、まぁ2回に1回ぐらいは……
 はい。ダメですね。ちゃんと練習します。

 ただフラジオレットそのものは、案ずるよりも生むが易しといった感じだった。

2019年7月13日土曜日

フラジオレットのつづき

 レッスンで5ポジとフラジオレットを教示いただいたので、そのネタで前回の記事を書いていたら、5ポジの話だけで終わってしまった。今回はその続き。

 ブログの記事を書いていると、ついウダウダと長くなってしまう。最近は、ツイッターとかファイスブックとかインスタグラムとか、書くのにも読むのにも時間が掛からないタイプのツールが流行りなんだが、私の場合、ファイスブックにさえ長々と文書を書き込んでしまう。まだ若い頃は写真の趣味があって、よくカメラトランクを担いで旅に出たのだけど、例えばここで夕日を撮りたいと思っても、ちょうどいい時間にバスがなかったりすると、何もないところでただ海を見ながらボーっと2~3時間、待つしかない。そうやって待ちながら自分のテンションを上げていって写真を撮る。そうやって撮った写真のうちの何枚かは、大枚はたいて大伸ばしにした上に額装までしている。そこに自分の少なくとも2~3時間が凝縮されているのだから、インスタグラムなんかでチラッと見るんじゃなくて、じっくり見てほしい、なんて思ったりする。私が死んだら葬儀会場にその写真を飾るように遺言しているので、機会があれば見に来てほしい。
 そうだ、写真じゃなくてブログの話なのだが、いつも拝見しているブログに10周年という記事があったので、自分はいつからブログをやっているんだと思ったら、まだ12年ぐらいだった。このブログの前にも、いまではもうすっかり黒歴史となっているブログがあって、それを始めてから12年。確か、はじめて数年で「四十路テナライストのヴァイオリン練習部屋」という名前に改称しているので、改称してからちょうど10年ぐらいかもしれない。もはや四十路でもないし、ヴァイオリンはヴィオラに替わっているのだけれど、ま、いいか、よく似たものだ。
 ブログが流行りだした頃は、「インターネット日記」なんて乗りで、その日食べたものとか、行ったところとか、手あたり次第に記事を書いていた人もいたけれど、自分はそうではなくて、ヴァイオリンのことしか書かない、と決めて、ブログのネタ作りのために練習したりしたものだ。フェイスブックみたいに「いいね」が付くわけではないので、どれだけ見てもらえているかはよく分からないけれど、誰かが見てくれているかもしれないというのは、練習の励みにもなった。大人になってヴァイオリンをやっている人がこんなにいるのか、ということも、ブログを通して知ることになった。
 そのうち、世間では、オンラインで知り合った人たちが集う「オフ会」というのが流行りだしたのだが、大人になってヴァイオリンをやり始めた人同士の「バヨ会」なってものもやりだして、それがきっかけでヴィオラに転向し、ブログもレッスンも、もう10年以上も続いている。基本的にヴァイオリンのことだけ、最近はヴィオラのことだけしか書かないというスタンスは変えていないつもりで、何年か前の記事を見ると、如何に自分が上達していないかがよくわかる。
 こんなに長い間、レッスンを受けているのに、フラジオレットを教えてもらったのは初めてだった。

 そうだ、フラジオレットの話だった。
 今回も、文章が長くなってしまったので、つづきはまた次回。

2019年6月8日土曜日

ハイポジションとフラジオレット

 しばらくアンサンブルの発表に向けた記事ばかりだったけど、ちゃんとソロのレッスンも受けている。アンサンブルの曲が決まってからは、その曲のレッスンもあって、わりと盛りだくさん。あっという間に45分が過ぎてしまう。

 最初はいつもセヴシック。ソロの曲がニ長調(ロ短調)なので、最初のお経をニ長調にアレンジしている。なんだか宗派の違うお経みたい。ヴァイオリンでも低い方の弦は音が取りにくいけど、ヴィオラの場合は指板の幅も広くて指も大きく開かないとダメなので、C線とかG線はフィンガリングが安定しにくい。そこへさらにニ長調アレンジが付くから、3指がどちらもFisとかCisとか、半音上がる(分かる人には分かってもらえるはず)。ニ長調の場合、Fisは中音なので高めにとらないと長音階なのか短音階なのかはっきりしない音階になってしまう。Cisは導音なので、やはり高めにとらないと終止形が落ち着かない。
 そんなことを気にしながら次は音階練習。2オクターブ。ニ長調の場合はC線の1指から始まってA線の3指で折り返すので、全部ファーストポジションで弾ける。さっきのFisとCisにさえ気を付ければ、それほど難しくはなさそうなんだけど、これも毎回毎回、いろいろ課題が出る。ロ短調はさらに難易度が高い。C線はまったく使わず、G線の2指から始まって、1オクターブ目の後半には既にD線の3ポジに移動。2オクターブ目はD線3ポジの3指から始まって、後半はA線の5ポジに上がって4指で折り返し。
5ポジ
です。
 弾ける人には「たかが5ポジでしょ」というところ。私もこれでアマオケのステージにも載ったことがあるので、5ポジぐらいはできているつもりでいたのだが、これまでレッスンで5ポジを見てもらったことはなかった。つまり「我流」だったのだ。

 この「我流」でも出来ていれば問題はない。別に将来プロになるつもりもないので、ちゃんと音程が合っていればいちおう及第点だ。まだ何だか音程が不安定なので、そこは精進してちゃんと音程が取れるように練習していくしかない…
 と、思っていたのだが、実はこの「我流」がどうやら根本的に間違っていたようだ。3ポジから5ポジに手のひらを平行移動させると、3指まではフィンガリングできるのだけれど4指は物理的に届きそうにない。それで3指をスライドさせて4指の位置をフィンガリングするようにしていたのだが、これにNGが出た。
 ヴァイオリンならこれでいいようだ。しかし、ヴィオラの場合は筐体が大きいので、その筐体の外側から指板に4指を届かせるには、手のひらを筐体の上に持ってこないといけない。ヴァイオリンでいうと7ポジぐらいのときの手の形になる。3ポジから平行に移動するのではなく、親指を指板の下にくぐらせて手首の位置を高くする。なるほどそうすると4指が届く。
 平行に移動させるだけだと、ポジ移動の瞬間にパッと動かせばいいのだが、こういう複雑な動きになるとポジ移動の前から移動後の手の形をイメージしておかないといけない。音階練習もなかなか手を抜けないようになってきた。

 実はソロの曲はバロックっぽい旋律とは裏腹に5ポジが平気で出てくる。基礎練習でありながら、結構実践的な練習なのだ。

 と、今回はハイポジションの話だけでこんなに書いてしまったので、フラジオレットの話はまた今度。

2019年6月2日日曜日

アンサンブルの発表に向けて~曲決定~

 モーツアルトは撃沈だったのだが、先生は先生で曲をいくつかみていただいていた。そのなかに、ヴァイオリン2声とヴィオラという編成に編曲されたドヴォルザークの歌曲があった。編曲が異なるのでイメージもだいぶ違うが、この曲だ。

 

 先生からフラットが二つの変ロ長調のスコア譜を預かる。これをパート譜にするのだが、そのときにシャープ3つのイ長調に編曲せよとのこと。スコアを入力すると曲の感じがよくわかる。入力した音符に従って音が出せるということもあるが、あ、ここはこのパートが主旋律か、とか、ここがオブリガートになっているのか、とか、分からないなりに分かったようなきになる。最初はファーストヴァイオリンが主旋律なのだが、後半はヴィオラが主旋律。美味しいところをもっていく感じだ。セカンドヴァイオリンは終始オブリガート。譜読みは結構たいへんかも。ただハモらせるときっと「あぁ」と納得がいきそうな感じがする。

 出来上がったスコアとパート譜をレッスンに持って行く。パート割も決定、といっても3人なのでたいしたことではないが、先生が予め決めておられた。
 しばらくはそれぞれの受講生のレッスンの中で各パートのレッスンをして、7月ごろから月1回ぐらいアンサンブルのレッスンを入れましょうか、ということになった。

 いよいよ本格化。

2019年5月25日土曜日

アンサンブルの発表に向けて~選曲の続き~

 前回の記事で紹介したモーツアルトのディベルティメントのURLをメールに貼り付けて、他のメンバーに感想を聞いてみた。世間には「モーツアルトは嫌いだ」という人はあまりいないとみえて、好意的に受け止めていただいたのだが、そこで大きな問題が浮上。

果たして弾けるのか⁉

 どちらの方も大人になってから始められた方なのだが、レッスンの入れ替わりのときにちょっと聴いていると、わりとガシガシなんでも弾いておられるようにお見受けしたのだが、メールの返信には「いい曲だと思うけれど、自分に弾けるレベルなのかどうか、とにかく先生に相談してみるしかない状態です」などといったことが書かれていた。ま、それはそうだ。弾けるかどうかは別にして、先に「情熱大陸を弾く」と決めてかかる「ゲリラ・アンサンブル」ではない。勝つ公算がない戦いはできない。

果たして先生のご意見は如何に

 ご多分に漏れず、この曲もネットにフリーの楽譜が上がっている。果たしてヴィオラパートは弾けるのか。動画からもわかるが、ヴィオラパートはとにかく「刻み」。刻みが出来なくてヴィオラが務まるか、とやってみるのだが、これが意外と、「難しい」というより「疲れる」。まるでスポーツをやるような感覚になってくる。最初のうちは軽快に弓を飛ばしていけるんだけれど、続けるうちにウダウダになってくる。これも修行だな。
 ヴァイオリンはというと、ファーストはやはり目立つパートだし、ポジションの高いフレーズも何箇所か出てくる。それなりに難しい。いやしかしそれ以上にセカンドは難しそうだ。ファーストのメロディラインを引き立たせるオブリガートのパートなのだが、ずっとオブリガートなので、メロディが読みにくくて大変そうなのだ。

 いや、それにしてもこれが弾けるといい。「映え」もする。発表会まではまだ1年以上あるのだし、それまでには何とか出来るような気がしてきた。レッスンもしてもらうのだから、いま出来る曲をやるというのではなく、いまは出来ないけれど1年後には出来るようになった、というあたりの選曲がいい。

 ということで、フリーの楽譜をダウンロードして、レッスンのときに先生に相談した。


 みごと撃沈。


 「あ、これは駄目です。出来ません。」
 即答だった。

2019年5月22日水曜日

アンサンブルの発表に向けて~選曲~

 来年の発表会でアンサンブルの演奏をすることは決定。そうなると次は選曲だ。楽器はヴァイオリン二声+ヴィオラ。前々回の発表会のような、ヴィオラ、クラリネット、マリンバだとか、前回のヴィオラ、クラリネット、マリンバ、アルトサックス、ピアノ、ヴォーカルといった、楽器の編成としては何の脈略もなく、男性の受講生が弾いている楽器がたまたまその3つだったとか、そのおっちゃんばっかりの演奏を面白がって寄ってきた人のパートがそれだったという編成に比べると、ずっと選曲はしやすいはず。
 というか、前回までは楽器の編成から選曲することは不可能なので、先に弾きたい曲を決めて、別の編成の楽譜からアレンジしたり、アレンジャーの先生に楽譜を起こしてもらったりしていた。今回はどんやって選曲したものだろうか。

 まず考えられるのはトリオ・ソナタ。通常はチェロとチェンバロで弾く通奏低音を1オクターブ上げてヴィオラとピアノで弾くというもの。場合によってはピアノなしでもいい。ネタにはこと欠かないのだが、ほぼバロック限定なので、好みが分かれるところ。それに、メロディーラインの受け渡しが複雑なものが多く、3人ともそこそこの実力がないと演奏が途切れてしまう。バロックの割には難しいかもしれない。

 それじゃ、パッヘルベルのカノン。もともとヴァイオリン三声プラス通奏低音なので、ピアノに通奏低音を弾いてもらえばばっちりだ。ヴァイオリンのうち一声をヴィオラにアレンジした楽譜もある。ただ、あまりにも王道過ぎて、拙かった時に拙いのがすぐわかってしまう。それに、以前にも発表会でやったことがあるので、ずっと発表会に出ている人にとっては一度聞いたことのある曲になってしまう。

 そこで考えたのは弦楽四重奏。これならネタは豊富だし、モーツアルトのように好き嫌いのあまり別れないネタから選ぶこともできる。パッヘルベルのカノンほど王道感もなく、「なんかどっかで聞いたことある」というぐらいの適度に有名なところから選ぶこともできる。チェロはいないので、チェロの先生にお願いするか、ピアノで補ってもらえばいい。
 たとえばこれなんかどうだろう。

 
 なんか、ちょっと面白くなってきたぞ。

2019年5月18日土曜日

アンサンブルの発表に向けて~誘ってみた~

 前回の記事ではアンサンブルの発表に向けた自分の勝手な思い込みを熱っぽく語ったのだが、如何せん、アンサンブルはひとりではできない。たまたま同じスタジオにヴァイオリンの受講生がいるからといって、みんなが同じようにアンサンブルがしたいと思っているとは限らない。アンサンブルはおろか、

いや、発表会なんて無理無理無理無理…

と仰ることだってないとは言えないのだ。しかし、幸いなことに発表会はまだ来年。1年以上も先のことだから、いまからつもりをしておけば、何なりと弾けるのではないか、と楽観的に思ってもらえるかもしれない。それに、

ひとりでは無理だけど
アンサンブルだったら気が楽だ

なんてふうに思う人もいるかもしれない。実際はアンサンブルの方が難しいのだが…。

 ともあれ、誘ってみないことには始まらない。

 いつものレッスンは、前の人が終わり掛けの時間にスタジオに入ってスタンバイすることになっている。レッスンが終わると、先生に「ありがとうございました」とお礼を言い、次に待っている受講生に「お待たせしました」といって場所を譲る、そんな感じだ。声を掛けるならこのタイミングしかない。

 実際に声を掛けてみると、お二人ともとても好意的だった。
 ヴァイオリンもヴィオラも、基本的には単音楽器。和音が出せない。だからやっぱり「合わせてみてなんぼ」の楽器なのだ。みなさん、そのように思っておられたようだ。先生も好意的で、ぜひやってみましょう、と仰っておられる。メールアドレスを交換して、また連絡することにする。

 次はスタジオの説得。
 こちらの方は多分大丈夫と予想していた通り、大きな問題なく受け入れてもらえた。ただ、アンサンブルのレッスンは初めてのことなので、ちょっと調整がいるかもしれない。こちらのつもりでは、ひとり45分のレッスンから15分づつを拠出して、3人それぞれが30分のソロレッスンを受けて、その間の時間に3人で45分のアンサンブルレッスンをしてもらったらどうか、などと思っている。もし、もう一人メンバーが増えた時は、やはり同じようにソロのレッスンのうち15分を拠出してもらって、アンサンブルレッスンは1時間。そんな調子で、6人か8人ぐらいまでは増やせていけるように思う。さすがにそれ以上になると、レベル別にクラスを分けるなどした方がいいかもしれないが。
 この提案、どこまで聞き入れてもらえたのかは分からないけれど、とりあえず反対はされなかった。

 そんなわけで、最初のヤマは越えた。
 次は曲だな。

2019年5月6日月曜日

アンサンブルの発表に向けて~これまでの経過~

 いつもお世話になっているスタジオでは、2年に1度、「大人の発表会」がある。大人の受講生にとっては、人前で弾く貴重な機会だ。最初の頃は、ソロの発表のあと、先生によるお手本演奏があって、そのあと反省会か交流会かどんな名目だったか忘れたが、とにかくざっくばらんにいろんなお話ができる会があって1日が終わる、というパターンだった。それが、何回目かから、弦楽器は弦楽器、管楽器は管楽器、打楽器は打楽器でアンサンブルを作って、ソロの発表とは別に発表をするようになり、次に、全部の楽器でベートーヴェンの第九のアレンジしたのを弾くというアンサンブルもやるようになった。

 ところが、アンサンブルの中心になるヴァイオリンの受講生が、いろんな事情でガタンと減った時期があって、全体的に大人の受講生も減ってしまい、「大人の発表会」の開催そのものが出来るかどうかということになってしまった。もはやアンサンブルどころの話ではないのだが、受講生としては大事な発表の機会がなくなるというのは、モチベーションにも関わるし、発表会が亡くなったことでさらに受講生が減ってしまうというようなことにもなりかねないという心配もあった。それに、同じスタジオの受講生でも、楽器が違えば話をする機会も限られるし、2年に1度の発表会の日が唯一の交流の機会でもある。たまたま、前の発表会のときに、数少ない男性の受講生同志で、次は楽器の種類が違うメンバーでアンサンブルをしよう、などと企んでいたこともあって、なんとか「大人の発表会」ができないかと、スタジオでもいろいろ検討していただいて、開催に漕ぎつけた。

 そして開かれた「大人の発表会」は、開催場所も開催スタイルも、それまでのものから大きく変わって、「大人の発表会2.0」の様相になった。
 この「大人の発表会2.0」から、アンサンブル発表の様子がだいぶ変わって、それまでの、発表会らしいと言えば発表会らしい発表から、一種の余興的な発表になった。発表会全体も、子供の発表会の大人版、という感じから、大人が大人らしく真剣に「遊ぶ」場というか、「上手に弾く」だけでなく、「楽しく弾く」とか、古株の受講生としては、如何に発表会の雰囲気を創り出していくか、なんてことも意識するようになった。普段、お世話になっているスタジオへの恩返しの場、なんてことも言えなくもない。

 ところで、前回の「大人の発表会」の直前にヴァイオリンの先生が交代になって、新しい先生が、以前の教室で指導されていた大人の受講生をお二人連れてこられた。そのお二人は前回の発表会には出ておられないので、まずはそのお二人に「大人の発表会」に出てもらう、というのが「スタジオへの恩返し」という意味では最大目標だろう。それに加えて、アンサンブルのレッスンという、いままでになかった形態が作れないだろうか。もしアンサンブルレッスンが定期的にあれば、そのメンバーは確実に発表会に出ることになるし、それにもともと和音が出せない楽器なので、やはり合奏してこその面白さというものもある。定着すれば、アンサンブルレッスンを目当てに新しい受講生を迎えることが出来るかもしれない。

 いろんな目論見が絡み合う来年の発表会。
 さてさて、このあとどうなっていくのか?

2019年5月4日土曜日

10連休の過ごし方

 世間では10連休。ご多分に漏れず、うちの会社も10連休だ。一方で、この10連休も勤めている人がいるはず。今朝の天声人語には、そろそろ平日が恋しくなる人もいるのでは、などと書かれていたが、せっかく休めるのだから休みを満喫したいものだ。
 しかし、それにしても気になるのは財布の中身。休みを満喫するにはそれなりに費用もかさむ。平成最後の日となった4月30日の例だと、朝からフェルメール展を鑑賞、そのあと、新世界と心斎橋をうろうろするが、財布の紐は固く結んでいたので、店先に並ぶ商品にもあまり興味が向かず、あまりの人の多さにやや疲れる。お昼を取りがてらカフェで図録を拡げ、午後から映画1本。晩ご飯は家に帰って食べる、というコースで約1万円。内訳は美術館の入館料と図録で4,800円、映画1,800円、交通費1,840円など。もちろん、家でゴロゴロしているより充実した1日だったし、1万円が無駄だったというつもりはさらさらないけれど、給料が家計口座に振り込まれ、わずかなお小遣いで生活する家庭内プロレタリアートが10日間もこんな休日の過ごし方を続けられるものではない。

 それじゃ、ヴィオラでも練習したら、

 それもいろいろ障壁はあるのだが、いまのところ、それがいちばんリーズナブルな過ごし方かもしれない。連休の前半は天気もわるく、出掛けるのも躊躇われたし、窓を閉めていることも多かったので、結構、練習できたはず。お天気の良い後半は如何に。


2019年4月20日土曜日

ヘンデルのヴィオラ協奏曲

 毎年、季節限定で参加しているアンサンブルの方は、「働き方改革」とやらの関係で雲行きが怪しくなり、定期的に練習に通える可能性が限りなくなくなってしまった(前回の記事参照)。それならば、早めに気持ちを切り替えて、練習に精が出るような課題曲を見つけてこなければ…。

 ということで、これを練習することにした。


 これは、以前、このブログでも紹介した「数奇な音楽」のひとつ。G.F.ヘンデルと言えば18世紀の前半に活躍した音楽家だが、当時は作曲した作品が全部、出版されるわけでもないので、埋もれてしまった作品というものもないわけではない。実は、こんな協奏曲も作っていたことが、20世紀初頭にわかった。見つけ出したのは、サン=サースとともに「古楽器協会」という団体を設立し、バロック時代の音楽を研究したアンリ=カサドシュというヴィオラ奏者。歴史に名を留める数少ないヴィオラ奏者の一人だ。ところが、のちになって、これはどうやらカサドシュがヘンデルの作風に似せて作った贋作だということが分かり、歴史に名を遺したヴィオラ奏者は、贋作家として名を刻むことになった。

 それにしても、よく出来た贋作で、まさにヘンデルの作品と見紛う、バロック的な旋律だ。ただ、やはりヴィオラ奏者としていいところを見せたかったとみえて、技巧的にはバロックの域を超える超絶技巧も取り入れている。バロックなら、だいたい3ポジが弾ければたいがいは弾けるのだが、この曲の場合、7ポジぐらいまで使われる。楽譜を見ると半分ぐらいはト音記号だ。ハ音譜を見慣れた身には読みにくい。たぶん、バロック時代の楽器だったら、7ポジのところなんて指板がなかったのではないだろうか。

 そんなこともありつつ、これなら発表会映えもするし、いまから1年かければ、それなりのレベルにはなるだろう、などと思って練習を始め、発表会直前になってなんともならずに玉砕するという、いつものストーリーが始まった感じだ。

2019年4月13日土曜日

「働き方改革」とアンサンブル

 新年度が始まって、予定ではそろそろアンサンブルに合流して、9月の定期演奏会を目指して練習しようか、というところなのだが、ちょっと暗雲が立ち込めている。

 このところ続けて、春から秋にかけて参加し、冬の間は冬眠して、また春から合流するという非正規団員をしているアンサンブルは、会社から電車で2時間ほどのところに練習会場がある。練習は毎週木曜日の7時~9時30分。地理的にはかなりビハインドがある。それに、会社の近くは、東京の山手線ほどではないにしても、1時間に4本とか5本とかの間隔で電車があるのだが、練習会場の最寄り駅は1時間に1本のローカル私鉄。団員の人に聞いても、ほとんどの人はこの電車には乗らず、遠出をするときはクルマで行くか、最寄りのJR駅までクルマで送ってもらう、というのだから、便数が増えるはずもない。
 初めて練習に参加した年は、定時ダッシュで駅まで行くと、2回の乗り換えで7時半には練習会場に着けるという神接続があったのだが、それがダイヤ改正でなくなってしまい、練習に参加できなくなった。しかし、こんどはうちの会社が、年次有給休暇のうち5日間は強制取得だ、などという気の利いたことを言いだしたので、その5日間を1時間単位に小分けして、毎週木曜日は早帰りという必殺技を使い、練習に参加していた。

 ところが、

 働き方改革だかなんだかで導入された国の有給休暇強制取得制度が、時間単位の有給休暇をこの強制取得分に参入することを許していない。もちろん、うちの会社の制度として時間単位で有給休暇を取得することはできるので、毎週木曜日に1時間の休みをもらったうえに、それとは別の5日間を有給休暇にすることはできるのだが、こういう有給休暇も強制的だからこそ取れるものであって、それとは関係なしに、「毎週木曜日は1時間早く帰るから、あとはよろしくね」とヴィオラ担いで帰れるほど恵まれた会社ではない。

 週に1回、時間休をとって英会話教室に通うとか、スポーツジムに通うとか、そういうのも「働き方改革」としては「あり」だと思うのだけど、役所的には駄目らしい。

『年5日の年次有給休暇の確実な取得 わかりやすい解説』
2019.3,厚生労働省・都道府県労働局・労働基準監督署
https://www.mhlw.go.jp/content/000463186.pdfp.20 「Q3」

 さて、どうしたものか。
 いまレッスンでみてもらっているのも、今年の定期演奏家で演奏する予定の曲だし、その曲がホ短調だから、セヴシックもホ短調にアレンジしたり、音階練習もホ短調でやっているのに、その前提が崩れてしまう。このあと、定期演奏会の曲が次々に決まってきたら、それを順番にみてもらおうとか、また去年みたいにその曲紹介を書こうとか、いろいろ思っていた計画が、どれも変更になってしまうし、いや、それ以上に、老後はこのアンサンブルで楽しもうと思っていた人生設計まで変わってしまうんですけど…。

2019年3月16日土曜日

なんちゃってセヴシック

 あいかわらずG線やC線の音程がとれずに苦労している。いったい何年、ヴィオラ弾いているんだ、というぐらい音程が取れない。たぶん、いままでは弾いたつもりになっていただけで、実は弾けていなかったのだと思う。そんなふうに、いままでの自分の努力をすべて否定しまうと、今度は練習の意欲まで落ちてきてしまう。

これまで一生懸命に練習して
これだけ弾けるようになったと思っていたのに、
実は何も弾けていなかった。
きっとこれからどれだけ練習しても
ヴィオラなんか弾けないに決まっている。

練習すればするほど、出来ない、弾けない、進まない、という現実を突きつけられ、練習意欲がなくなってしまうのだ。

これは良くない。
何か少しでも「できた」と実感できることをしなければ、
このネガティブ・スパイラルから永遠に抜け出せない。

といって、あまり簡単な練習を始めてしまうと、それはそれで面白くはない。例えば、いまさら「狩人の合唱」なんてやってみて、弾けたところであまり「やったー」とも思えないし、仮にこれが弾けなかった場合、じゃ「ロング・ロング・あごー」とか、「無窮動」とか、「ぶん・ぶん・ぶん」と「ちょうちょ」の昆虫組曲とか、練習レベルの後戻りスパイラルに陥る危険すらある。いまさらそんな曲を練習している場合じゃない。9月か10月か分からないけど、また今年も定期演奏会のステージに載りたい。そのためには、まず手始めに、PachelbelのChiaconnaが弾けないとダメなんだ。

そうだ

こういうときは、やはり最短コースだ。いま特に苦労しているのは、2指を1指につけた状態で、3指や4指を伸ばしてフィンガリングすることだ。だけど、PachelbelのChiaconnaはホ短調。C線やG線で2指を1指につける指の形は出てこないじゃん。それなら、何調かよくわからないセヴシックをただ盲目的に練習するよりも、ホ短調の指の形を練習した方がいいじゃん。

ということで、セヴシックをホ短調の練習用に改竄アレンジしてみた。
ハ音譜で申し訳ないが、G線は、ソラシラ ラシドシ シドレド なので、2指は3指にくっつける形。C線は、ドレミレ レミ#ファミ ミ#ファソ#ファ と3指も半音高くなる。これなら、ちょっと練習すれば何とかなるかも。それに、練習の難易度が易しくなっている印象もない。

だって、ホ短調の曲を弾くんだから
ホ短調で練習すればいいじゃん

という言い訳にもなる。
楽譜にしてみるとそれらしいんだけど、音を出してみるとなんだか調子が外れる。

ま、いいか。
だって、ホ短調なんだし。

こうなると、もう止まらない。移弦の練習も、音階練習も、全部ホ短調。


どうか、ニ短調とか、ト短調とかがきませんように。



2019年2月27日水曜日

PachelbelのChiaconna

 PachelbelといえばCanonしか思い浮かばないというご仁も多かろう。私もご多分に漏れない。手元にある『音楽中辞典』(音楽之友社,1979)によると
1653-1706 ドイツのオルガン奏者・作曲家。ドイツ各都市のオルガニストを歴任。アイゼナハではJ.S.バッハの父や兄と親交をむすぶ。鍵盤音楽の分野で南ドイツ(イタリア)と中部ドイツの様式の融合に成功。重要なコラール前奏曲、コラール変奏曲などのオルガン曲などのほかに、組曲、カンタータなどがある。
ということなので、どちらかというとオルガン奏者でオルガンの曲を作っていた人、という評価が主で、有名な「パッヘルベルのカノン」なんかは、何かのついでに作ったような曲なのかもしれない。

 いま練習しているのはこの曲。


 弦楽合奏で弾くので、弦楽合奏の動画を見つけてきたが、もともとはオルガン曲のようだ。聴いてみると、17世紀の人が作ったとは思えない、感情表現や情景描写の豊かな音楽で、映画の最後に流れているような、それも悲劇的な映画で、主人公の叫ぶ声が聞こえてきそうな、そんな音楽だ。引用した解説によると、Pachelbelはドイツのいろんな街でオルガニストを歴任していたということだから、たぶん、教会に務めることも多かったのではないかと思う。明確に「宗教曲」とはなっていないが、教会の説法でキリストの最期の物語を大衆に聞かせた後でこの曲を聞かせれば、そのときの弟子や人々の心情をよく理解できるのではないかと思う。

 弦楽合奏に編曲したのはRobert Miller Hartmannという人のようなのだが、この人については詳らかにはわからなかった。まだご存命の方のようなのだが。

 目下の課題は、C線やG線の3指、4指が届かないこと。C線とG線の移弦が上手くいかないこと、C線になるとボウイングまでがなんだか変になってしまうこと。先日のレッスンでは、左肘を内側にグッと入れることだとか、左手首を少し上にすることだとか、立ち方の姿勢だとか、楽器を下げないことだとか、ごくごく初歩的なところに終始してしまった。キリストの最期を物語るまでには、まだだいぶ時間がかかりそうだ。

2019年2月13日水曜日

インフルエンザ

 先月は18日にインフルエンザ発症。22日まで出勤拒絶。病後の回復があまり良くなく、翌週になってまた会社を休むという体たらく。それがやっと普通に会社に行けるようになって調子に乗っていると、この3連休は原因不明の睡魔のために、ほとんど家で臥せってしまうという有様。
あぁ~齢だ
ホントに年齢を感じる。というより、はっきり老いを感じる。譜読みをしていても集中力が持たない。せめてこの齢になるまでに、譜読みぐらいは何の苦も無くさっさと出来るようになっておきたかった。
 などといまから嘆いたところで若返るわけでもなく、時間がかかっても、ゆっくり、しっかり譜読みしていくしかない。
 
 秋に定期演奏会のあるアンサンブルは、通うのが遠いこともあって、冬の間は冬眠。5月ぐらいから通う予定なのだが、先日、定期演奏会の曲のうちひとつがほぼ決まったという連絡があった。カノンで有名なパッヘルベルの曲で、3拍子のホ短調。最初に4小節の主題提示があって、それが2回繰り返され、さらにその8小節がどんどん変奏されていく。8小節づつ練習すればいいから楽勝じゃん、と思っていたのだが、それは、体調も良くて集中力が持続し、ちょっと難しいところがあっても挫けないだけの根性がある人の話。今の自分には、
弾けるところだけは練習しておこう
みたいな軟弱感がハンパない。

 練習して思ったのだが、この曲、結構、C線やG線がでてくる。ヴィオラパートなので当たり前なのだが、いつものセヴシックだとか移弦の練習も、C線やG線でやると、D線で出来たはずのことが出来なかったりする。
 曲の練習も、いまのところあまり面白くないので、つい、そういう基礎練習に流れてしまう。そして、その基礎練習もなかなか巧くいかず、結局、面白くなくなってしまう。

 これじゃダメだな。

2019年1月12日土曜日

弾き初め、初レッスン

 今年はゆっくりと、なんて記事で始まった一年。正月三箇日はケースを開けることもなく、4日になってやっと弾き初め。1時間ほど、セヴシックやら音階やら移弦の練習やらの基礎練習をやった。そうそう、「ゆっくりと」ではなく「じっくりと」練習。その後は3日に1回ぐらい、それも1回30分ぐらいの練習しかしていなくて迎えた初レッスン。さて、どうなることかと思ったのだが、移弦に関しては、じっくりと練習した甲斐があった。
 この移弦の練習はセヴシック1巻の11番を教材にしている。ヴァイオリンだと、レラレラミラミラ…、ヴィオラの場合は5度下で、ソレソレラレラレ…とひたすら移弦を続ける。画像の下の方にヴァリエーションが示されているが、2音づつスラーにしたり4音づつにしたりと、スラーの付け方でいろんな練習をする。不思議なもので、先生にお手本を示してもらうと、こんなものでもモーツアルトみたいに聞こえるのだが、私が弾くとこれが、バタバタバタバタ…と聞こえてしまっていた。

 先生曰く。
肘で移弦するのではなく、
手首を柔らかく動かして移弦する。
 これを練習しましょう、と言われたときは、移弦の練習だとしか思わなかったが、今日言われて見ると、なるほど画像の右上のところに「右手首の練習」って書いてある。右手首を柔らかく使うエクササイズだったのだ。

 移弦は練習の成果もあって割とスムーズにできるようになった。弓を返すところ、特に上げ弓から下げ弓に返すところで手首が固いとか、弓を返した後の音が出始めるまでのところに時間がかかってリズムが乱れてしまうとか、長いスラーになるとリズムがグダグダになるとか、まだまだ課題はあるが、3日に1回の練習の成果としてはまずまず。

 それで気をよくした訳ではないが、次はアルペジオの練習。これは実際の曲を使う。テレマンのヴィオラ協奏曲ト長調第2楽章の中にアルペジオが続くフレーズがあるので、そこを弾く。このとき、移弦しても左手の指をあまり弦から離さないで、すぐに弦を押さえられる場所に待機させておくというのが、去年から課題になっていた。
 これを克服するには、1指から4指まで(当面は3指まで)をいろんな形で押さえた状態にして、順番に指を弦から離す練習をせよとのこと。ふつう、音を出す練習なら、押さえる指を順番に出す練習をするのだが、それとは逆で、離す指を順番に引っ込める練習だ。これなら音が出ないので夜中でも練習できる…のだが…。

 その続きで、この曲を最初から弾かせてもらう。実際に曲を弾いてみると、当然ながら移弦もあるし、アルペジオもある。さっきまでやっていた移弦の練習がそこでちゃんと活かされているか…なんてことは全然気にせずに弾いていると、
そこ、さっき練習したのと同じパターンの移弦ですよね
なるほど、そこは手首を柔らかく、なんていうことを少し意識するだけで音が変わる。
 まだまだ先は長いな。

2019年1月1日火曜日

今年はゆっくりと

 あけましておめでとうございます。
 毎年、新年を迎えると、今年の目標とやらを書くのが、このブログの恒例となっています。昨年の正月に掲げた目標は「年末まで続けること」と「愉しむこと」。そしてこのブログを半月に一度は更新することでした。さてそれは達成できたのでしょうか。そして、今年の目標は。

 最近、テレビを見ていても、コマーシャルの前にこうして気を持たせる演出にイライラすることが多い。特に年末年始なんかはそういう傾向が強くなる。それでも、別に見たいテレビ番組がある訳でもないから、ただなんとなくだらだらと見ているけど、このブログの場合は、最初のパラグラフで半分ぐらいの人が離れていっているだろう。半分と言っても、多く見積もって3人ぐらいかもしれない。

 ともあれ、ブログを半月に一度更新する目標は、とにかく達成。昨年1年間で45記事を書いているので、1カ月平均3~4記事は書いたことになる。内容はウダウダなんだけど、読み返せば、反省点もわかるし、その反省を踏まえて今年の目標も立てやすい。

 技芸的な上達はといえば、牛の歩みほどの進歩もあっただろうか、といった感じ。2月に移弦や弓を返すところでリズムが乱れるということを記事に書いているが、これはまさに12月のレッスンで課題になったことと同じ。いつも先生からは「だいぶ良くなりましたねぇ」とお褒めいただくのだが、ホントに良くなっているのだか。
 しかし、8月の発表会は、まずまず納得のいく演奏ができた。自分では、先生のリサイタルを見たことが成功の一番の要因だとおもう。先生が音楽に何を求めておられるのかがステージから伝わってくる。きっと普段のレッスンでもそれを仰っておられるのだと思うが、理解力がない生徒なので、言葉では「ちゃんと練習しないといけない」と分かっていても、本当のところは分かっていなかった。「間違えたところは10回続けて間違わずに弾けるまで練習する」。先生は100回されるそうだ。その答えがこれか。先生のストイックさがステージから伝わってくる。
 そして、12月には、以前にお世話になった先生が近くの公民館で演奏をされた。楽しかったレッスンが蘇ってくる。その楽しさと、さっきのストイックさが、何の矛盾もなく自分の中で溶け合ったような1年だった。8月からは先生が代わって、特に10月以降は基礎練習に重きを置いてレッスンを受けているけれど、この基礎練習が大事なんだということが、言葉だけでなく、もう少し深い意味で分かってきたように思う。自分の経験で、その大切さが分かればいいのだが、そこは今年の目標かもしれない。

 こうして年末まで続けることはできた。
 あと、楽しむ方に関しては、発表会の余興やら、アンサンブルの定期演奏会では、プログラムの曲紹介を全部書いたりとか、とにかくヴィオラを弾いているからこその楽しみをいくつも経験させてもらった。他の生徒さん、アンサンブルの他のメンバーに申し訳ないほど楽しませてもらった。

 今年は、去年、実感したように思っている、ストイックさと楽しさの両立を、実践の中で実感していけるような年にしたい。とはいっても、まずは練習時間と練習場所の確保なんだが、短い練習時間でも課題を明確にして練習すれば、それなりに成果はでるかもしれないし、時間がない、場所がないをいつまでも言い訳にしないような練習をしていこうと思う。