2018年12月22日土曜日

ライブハウスでジャズを聴く

 ライブハウスでジャズを聴いてきた。
 ヴィオラのレッスンを受けているスタジオで、ヴォーカルの指導をされている先生と、発表会のときにヴォーカルの方のバックピアノを弾かれた方のデュオ。杉山悟史さんというピアニストは、前回の発表会でも演奏されていたので、てっきりヴォーカルの先生といつもデュオをされているのかと思っていたのだが、今回のライブが初めてのデュオだそうだ。スタジオの発表会が縁になったようだ。デュオの動画はないが、こんな演奏をされる。


 ライブハウスというところにほぼ行ったことがないので、まずはどんなカッコで行くかから問題。めっさオシャレなイメージを持っていたので、梅田のホストみたいなカッコでないと浮くのか、なんて思って、会社の女の子に聞いてみると、反対に「梅田のホストってどんなカッコしてるイメージなんですか」と聞かれる。そりゃ、細身の黒のスーツに単色の細いネクタイで、頭髪ワックス、靴も無駄につま先の長いやつ、いやシャツは黒か、いやジャケットじゃなくてベストだったりするのか、などなどと、思いつくままにイメージを伝えると、「それじゃ店員さんに間違えられますよ」とのこと。しかし、ホストには間違えられることはなさそうだ。

 隣町の瀟洒なライブハウス、といっても、ほかのライブハウスと比較しているわけではないが、このライブハウスの主もミュージシャンらしく、そういういみでは演奏する人の気持ちもわかって、お客さんにこんなふうに楽しんでほしいという思いも、演奏者と共有できるのだろう。陣取った席は、ピアニストの指先が良く見える左端の席。お客さんは10人ほどで、残念ながら「多い」とはいえない。しかし、その分、演奏者と濃密に絡み合うようなライブだった。

 クラシックの曲の場合、最初の音が流れると、あとは予定調和のように、曲が最後まで流れていく感じがする。音の組み合わせなんて無数にあるはずなのに、それはそれで不思議に思うこともあるのだが、ジャズの場合は、先がまったくわからない。演奏家同士も、何か最初から決まった演奏をするのではなく、お互いが、まるで会話をするように、例えば、ピアニストが間奏の終わるタイミングをじらしてきたり、ヴォーカルが原曲にないようなフレーズを歌いだしたり、お互いが何かを仕掛け合うような、そんなステージだ。それが聴いているこっちにも何となくわかる。
 ちょうどこんな感じだ。
 子供の頃、親戚のお兄ちゃんが家に来て、ふだんは誰も弾かないピアノを鳴らし始める。それを聞いた叔母さんが、いつのまにかピアノの部屋にやってきて、子供の自分が今まで聞いたこともない歌を歌いだす。歌詞も英語だから意味も分からない。なのに、その空間に吸い込まれるような感覚。いつもみたいに「遊んで」といわなくても、ただ聴いているだけなのに遊んでもらっているような感覚になっていき、いつの間にか「他のもやって」なんてことを言っている。
 そういう感じだった。

 ええわぁ~
 大人の遊び、って感じ。

2018年12月16日日曜日

公民館の音楽会

 これまで何人かの先生にヴァイオリンやヴィオラのご指導をいただいてきたが、いちばんお世話になった先生と言えば、間違いなくこの先生だ。子供がピアノを習い始めたのを追いかけるように、いまのスタジオでヴァイオリンのレッスンを受けるようになった時は男性の先生だったのだが、その先生がイタリアに留学されることになって、そのあとを引き継いで、このひと癖もふた癖もある生徒の面倒を9年間もみてくださった先生だ。習い始めた時はまだ音大の学生さんだった。結婚されてもレッスンを続けてくださっていたのだが、出産のときにスタジオを退職された。きっとしばらくは子育てに専念されていたのだと思う。
 その先生が近くの公民館の音楽会にお越しになられる。

 スタジオの先生は、どの方もプロなので、リサイタルをされたり、楽団に入っておられる先生は楽団のコンサートがあったりすると、必ずフライヤーをスタジオに持ってこられるのだが、この先生はそういうことをされたことがない。生徒の前で演奏するのは緊張するのだそうだ。いや分からなくもないのだが。だからスタジオの発表会のあとの講師演奏以外のステージを見たのは2回だけ。スタジオの奥様から情報を仕入れて、こっそり見にいく。トラなんかで弾かれているので、後ろの方におられるのだが、そういうときは、どんなに大勢がステージに載っていようと、先生だけガン見。見ているものの気分としては、そこは先生のリサイタルで残りの人は伴奏なのだが、黙って見にいっているので、次のレッスンで感想をいうとかそういうこともないまま今日に至っている。

 今回の音楽会の情報もスタジオの奥様から仕入れた情報。
 会場は3階建ての小さなビルの最上階。周りに高い建物がないので窓から琵琶湖が見渡せる。ホールとはいっても、パイプ椅子が70脚ほど並べられた広間で、お客さんは地域の少し年配の方が多かった。

 ママさんコーラスの合唱やピアノのコーナーのあと、いよいよ先生が登場。緑のドレスに包まれた美しい肢体は、まるで人形かお姫様のようだ。容姿の話が過ぎるのは先生に失礼かもしれないが、照明も舞台もない会場なのに、まるでそこにスポットライトが当たっているようだ。会場中の視線が先生に釘付けになっている。
 明るい会場なので、こちらの顔も先生から見える。演奏のときに、いちど、ほんの少しだけれど、あからさまにこちらをご覧になった。
ちゃんと見ておきなさいよ
と言われているようだ。もちろん、その瞬間も、結構真剣な目で見ていた。ボウイングだとかフィンガリングだとかを見ながら、まるでレッスンを受けているような気分になる。演奏曲は、タリスの瞑想曲など、ヴァイオリンのリサイタルで「小品」として弾かれる曲が4曲。ほんとうにあっという間だった。

 演奏が終わったあと、少しお話をすることもできた。先生が退職された後、ヴァイオリンの生徒の中でも大人の生徒がずいぶん減って、残っているのは私だけになったことも、すでにお聞き及びのようだ。その私はと言えば、先生が退職された後、アマオケに入ったり、スタジオの発表会ではバンドをやったりと、ヴァイオリンでずいぶん楽しませてもらっている。これも本当に先生のおかげだ。先生も、私がこうして続けていることを喜んでくださっているように思えた。最後に
頑張ってくださいね、
と励まされた。頑張って上手になってくださいね、ということではなくて、きっと頑張って続けてくださいね、ということだと思う。そりゃもちろん、上手に弾けるようになれば、「先生のご指導の賜物です」といって感謝の気持ちを伝えられるのだが、私にできるのは続けることと楽しむことぐらいしかない。これからもずっと続けていこうという気持ちを確かめることができた音楽会だった。

2018年12月9日日曜日

基礎練習の連鎖

 いつも発表会の後に思い立って始めるものの長続きしない基礎練習が、今回はしばらく飽きもせずに続いている。基礎練習ばかりではなくて、練習前の指慣らしに少しやって、そのあとは曲をやるというスタイルがいいのかもしれない。お馴染みのsevsikなのだが、ヴィオラ用に少しアレンジをしている。それと「No.1」と書かれている下にある小さい楽譜のところも練習メニューに入れたので、もともと24小節しかないもの(左)がA4で2ページの大曲(右)になってしまった。

sevsic sevsik

これと、音階(右写真の3頁目)が目下の課題。

 いろいろと出来ないところがあるのだが、レッスンではあれもこれもと課題を出されるのではなく、いくつかの課題に絞ってレクチャーがある。ある時は、リズムを一定に保つという課題が出され、別のときには元弓を使いましょうという課題が出される。音程もかなり怪しいのだが、そこは目を瞑って、リズムと言われればリズム、元弓と言われれば元弓と、課題を絞って練習する。すると練習したところは一応はよくなる。ただ、別の課題が出るともうその課題はお預けになってしまうのだが。

 改めてやってみると出来ないことだらけだ。
 前回のレッスンでは、「だいぶ良くなりましたね」とお褒めいただいたのだが、自分では左手親指の付け根が痛くて練習が思うように続けられなかったので、そのことを訴えて、それが課題になった。今回のレッスンでは、その問題が解決しないまま、再びリズムが問題になった。前回は16分音符になると走る、というのが問題だったのだが、今回のリズム問題は、移弦や弓を返すところでリズムが乱れるという問題。これはアンサンブルの合わせでも感じていた問題なので、深刻さの程度は軽くない。それでsevsikの中でも移弦の練習を課題に加えることになった。すると、いままでは主に左手の問題にフォーカスしていたレッスンが、右手の課題が前面に出るものに変わる。弓の持ち方からやり直し。

 こうして基礎練習の課題から別の課題が見えてきて、基礎練習が連鎖していく。
 今年が6月方9月まで毎月「本番」があったのだが、しばらく発表会も演奏会もないので、この間に少しでも基礎を改善していかなければ。

2018年11月23日金曜日

裏打

 保育園の園児たちの発表会に賛助出演することになった。
 そこの保育園では、3歳だったか何歳だったか忘れたが、その学齢以上の園児全員にヴァイオリンを教えているという。その教えているのが、いつものアンサンブルの指導もしてくださっている先生なので、そのご縁で毎年、賛助出演をしているそうだ。

 今年はDA PUMPとKing & Princeをやるらしい。世間ではすっかりお馴染みの曲なのだが、おじさん世代には、まず、どんな歌なのか分かっておくところから始めないといけない。YOUTUBEにも動画がいっぱい上がっているけど、なかなかメロディが頭に入ってこない。特にKing & Princeは、歌を聴かせるというよりも、歌っているお兄さんをカッコよく見せるところに主眼があるので、楽器で演奏しようと思ってどんな歌なんだか聴こうと思っても、メロディ以外の情報が多くて歌がイメージに入ってこないのだ。しかし、そこはYOUTUBEの凄いところで、どっちの歌も「弾いてみた」「踊ってみた」系の動画は山ほど出てくる。踊るのはこの際どうでもよくて、弾いてみた系で、しかも楽譜が見られるものがあったので、まずは、これを繰り返し聴いて予習した。





 やっぱり、どっちの曲もリズムが難しそうだ。アレンジされた楽譜を見ると、とにかく裏打ばっかり。メトロノーム相手に練習するのだが、裏打ちしているつもりがいつの間にか表になっている。おじさんにはやはり難易度が高い。しかし、どうやら保育園の先生のリクエストらしいので、おじさんとしては俄然、やる気だけは出てくる。

2018年11月3日土曜日

日日是好日

 発表会と定期演奏会が終わって、何度目かのセヴシックに勤しんでいる。お経を唱えるようなつもりでやっているのだが、実際にはお経ほども上手くはできない。例えば、中指を人差し指にくっつけて小指を伸ばすと、薬指もつられて小指側に動いてしまうのを何とかしたいと思って、そこばかりを練習するのだが、何度練習しても目に見えた改善はない。小指がすぐに出せないのは、薬指を出す時に小指が小さく巻かれているからだと思って、小指を伸ばした状態で薬指を出す練習ばかりをするのだが、小指が伸ばせても抑える力が弱かったり、他の指が本来の場所からずれたり、なぜか知らないが体中を捻って表情まで歪めていたりと、やっぱりこれも上手くいかない。同じところを10回繰り返したところで1分ほどのものなので、毎日少しづつこつこつと続ければいいのだが、つい目先の成果がないことに心が折れて、5分もすると練習そのものに飽きてきてしまう。

 話は変わるが、亡くなった樹木希林さんの映画を観てきた。希林さんが演じるのは茶道の先生。黒木華と多部未華子が従姉妹同士で、ふたりで希林さんにお茶を習いに行くというもの。別に何か大きな事件が起こるわけではないのだが、20歳そこそこでお茶を習いだしてから30を超えるまでの日常が、時にはコミカルに、しかし淡々と描かれている。
 茶道の世界を描きながら、そこに見えたのは、希林さんの役者道というか、通ってこられた人生の道のように思えた。変化がないように見えて、日々、その前の日とはちがう毎日を生きていること、雨の日には雨の音を聴き、雪の日には雪を見て、真夏の暑さも、真冬の寒さも、五感で感じながら、いま、目の前にいる人と共有していく。茶道がそういう自然との対話であるように、演技は物語やその構成要素との対話であったり、その映画なりドラマなりを観る人との対話であったりするのではないかと思ったりした。

 世の中にはすぐわかるものと、すぐわからないものの2種類がある。
 すぐにわからないものは、長い時間を掛けて少しずつわかってくる。

 言葉ではなく、理屈でもなく、希林さんが心と身体で演じてこられたことが、この映画を通じて若い役者さんに引き継がれていくのを感じた。

 茶道の世界がそうであるように、ヴァイオリンの世界も「すぐにはわからないもの」何だと思う。言葉ではなく、理屈でもなく、長い時間を掛けて、心と身体で少しずつわかっていく。そのためにはまず「カタチ」。

 今日も修行だ。

 日日是修行
 

2018年10月27日土曜日

ビデオで反省

 発表会のビデオと、定期演奏会のビデオを、相次いで視た。

 発表会の方は、スタジオの奥さんの旦那さん(ちょっと回りくどい言い方ですが)が、昔はテレビ局にお勤めだったらしく、いつも慣れた手付きで撮影しては編集してくださるものだ。自分だけでなく、全出演者の発表が含まれている。他の人のものは果たしてどれぐらい視てもいいものなのだろうか、と思いながら、まずは自分のものを視る。しかし、いきなり自分のソロの演奏を視るのは勇気がいるので、まずはアンサンブルの演奏を視て心の準備をする。
 ヴォーカル、ピアノ、マリンバ、サックス、クラリネット、ヴィオラという、他では絶対にないアンサンブルなのだが、ヴィオラはアクションが大きい。マリンバもそこそこにアクションはあるのだが、楽器の前に楽譜を置かれていたので、手元はあまり映っていない。ヴィオラは譜面台では隠し切れないぐらいのアクションになるので、ステージ全体を撮った動画だと、ヴィオラだけが演奏されているように見える。こんなに晴れがましかったのか。ま、しかしヴォーカルがあれば、ほとんどのオーディエンスの注目はヴォーカルに向いているはず。音もピアノがどうしても目立つので、他は飾りのようなものだ。そういう状況で、あまり周りの邪魔にならないようにちゃんと弾けている。
 ソロの方は、弾いているその時は結構大胆に弾いていたつもりなんだが、ビデオで見ると、最初から慎重な弾き方に見える。なんとか失敗しないように最後まで… そんな思いが見え透くような演奏だ。やはり演奏には人柄が表れる。演奏は思ったよりもまずまずで、練習のときにスマホで録音したときの音色よりもずっとヴィオラらしい音にはなっている。ただ顔がダメだ。どうしても指が出にくい小指だとか、移弦の難しいところだとかは、全然関係のない筋肉まで使って全身全霊で音を出している。それが顔に出てしまう。必死で弾いているぐらいならいいのだが、なぜか口をパクパクさせたり、ポカンと開けた口を不必要に歪めたりして、なんだか見苦しい。こりゃかなりの減点ポイントだな。

 定期演奏会の方は、演奏会が終わってからは来年の春まで練習を休むことになっているので、わざわざ送ってきてくださった。こちらの方は、後ろの列なので顔は映っていない。ただ前の方が結構小顔だったので、その方の顔の後ろから私の顔の輪郭がはみ出して映っているのだが、口を開けたり歪めたりしているところは映っていない。
 こちらは前から順に最後まで全部、視る。プロのエキストラのおかげで全体としてはとても良くまとまっている。ヴィオラの音があまり聞こえないので、もうちょっと人数がいた方が良かったのかなあと思って聞いてみたら、ヴィオラとはそういうものだ、ということだった。モーツアルトなんか、トップヴァイオリンとの掛け合いで結構おいしいフレーズもあったのだが、やはりあまり目立たない。おまけにピアノコンチェルトなので、舞台の中央はピアノで屋根も全開。視覚的にもヴィオラはまったく見えない。まぁ間違って目立つよりも目立たないぐらいがちょうどいいのかもしれない。
 演奏家が終わって、どこかホッとしている気分で視るためだろうか、ビデオを見ていても、楽しくてたまらないというより、なんとなく終わってホッとしているような様子が伝わってくる。どうすればもっと楽しく演奏できるのだろうか。いや、見ている人に楽しそうっと思ってもらえるのだろうか。

 発表会も演奏会もそうなんだが、やっぱり気持ちに余裕がないとダメだよな。

 ほんとうはもっと繰り返し視て、どこでどうなってこんな演奏になったのか、ということを客観的に細かく反省しないとダメだ、と先生が仰っておられたのだが、それはそれで結構勇気がいることだ。いい演奏だったと思っていたところが実はそうではなかったり、失敗したと思っているところがそれほどおかしくなかったり、記憶と記録は必ずしも一致しない。だからこそ繰り返し視ないといけないのかもしれないか、あの顔はもう見たくないな。

2018年10月8日月曜日

鳩の音楽会

 少し前のことになるが、地元で大手スーパーを運営する会社が主催するコンサートに行ってきた。このスーパー、1957年に靴と鞄の店として開業したものが、いまでは県内に73店舗、近隣府県に約80店舗、中国にまで店舗を展開する大企業になっている。その会社が、収益の地域還元のために設立した公益財団法人があって、毎年、県内出身者や県内で活躍する若手音楽家を対象に「芸術奨励賞」というのを選考し、その受賞者によるコンサートを開催している。スーパーの看板に鳩が描かれているので「鳩の音楽会」というのだそうだ。

 会場は県立のオペラホール。2,000人ぐらい入れる立派なホールだが、満席だ。お世話になっているヴァイオリンの先生も聴きに来られていた。出演者のひとりの関係者だそうだ。出演者のプロフィールを見ると、地元にある県立高校の音楽科出身の方や在学中の高校生が並ぶ。なかなか地元色が濃い。

 そのなかでも、落合真子さんという方のヴァイオリンはなかなか聴き応えがあった。高校2年生とは思えない堂々としたステージさばき。佐渡裕さんのスーパーキッズオーケストラにも所属されていて、国内のいくつかのコンクールで入賞、受賞もされているそうだ。将来は諏訪内昌子さんや五嶋みどりさんのような、日本を代表するヴァイオリニストになるかもしれない。

 楽器としては地味なのだが、打楽器の奏者という方もおられた。ソロで演奏されるときは、おそらくマリンバのような音階のある楽器を演奏されることが多いのだろうけれど、この道では打楽器はなんでもオールマイティに弾けないといけないようで、ドラムのソナタを演奏された。違う方の演奏だが、たぶんこの曲だと思う。
 

 私は県外からの移住者なので、地元愛がそれほど強い方ではないと思うのだが、もしかすると世界的に活躍するかもしれない同郷の人たちがいることは嬉しいことだ。これからもどんどん活躍されて、テレビなんかに出演したり、いろんなところで名前を拝見できる機会が増えるといいと思う。

2018年10月6日土曜日

再びセヴシック

 セヴシックの練習を始めるのはいったい何度目だろう。発表会や演奏会の前は、そこで弾く曲を仕上げるのに精一杯で、出来ないところがなぜできないのかなどと考えている余裕などはないが、それが終わるといつもいつも、
自分はなんて基礎ができていないんだ
ということを痛感してセヴシックを始める。お経を唱えるように無心に弾く。しかし、そのうちにその厳しい修行に耐えられず、世俗の欲を満たすことに次第に心が傾倒し、たいした進歩もないまま、本番で弾く曲をとにかく最短距離で弾けるようになるための練習に勤しむのだが、基礎ができていないので本番で玉砕する。そろそろそういう姿勢そのものを反省するべき時期なのかもしれない。

 ところで、発表会を直前にしたところで先生が交代になって、新しい先生の下でどんなレッスンを受けていくのかという相談を先生としていた。先生からは、セヴシックの中から無理のない範囲で課題を出すので、それを練習しつつ、あと何か好きな曲をされてはどうかという提案があって、それに乗ることになった。

 課題になったのは、お馴染みの「ラシドシ、シドレド、ドレミレ」で始まるNo.1の最初の2行と、いろんな調の音階練習をするNo.12の最初の2行。まずはハ音譜に書き換える。その上で八分音符や16分音符にも展開。さらにこれを全ての弦に展開すると、もともと2行だったところが4ページにもなる。楽しませてくれるわ、こいつ。定期演奏会が終わって、次は何を練習しよう、などといった気持ちになっていたのだが、まずはその気持ちを反省して、修行に勤しむ。そして迎えた最初のレッスン。

 まず指摘されたのは、指を出す時に、例えば開放弦から2指を出す時は1指もいっしょに、1指から3指を出す時は2指もいっしょに、ということ。これが、言われてやると難しい。特に、開放弦から2指を出す時はその2指の半音下に1指を持ってこないとダメなんだが、これが上手く入らない。いままでは、まず2指を押さえて、次に1指を出す時に2指と交換するようにして出していた。それと2指から4指を出す時に3指を出そうとするのだが、これは4指につられて2指からの距離が離れてしまい、本来の3指の場所よりもかなり音程が高くなる。「わかります。わかります。」と仰るのだが、それを毎日練習して出来るようにしましょう、ということになった。
 以前、セヴシックの同じところでレッスンをしてもらっていた時は、小指を使わないときに丸まってしまうのを何とかしましょう、ということで厳しい修行を続けてきて、ま、なんとかなるようにはなった。今回も、日夜勤しめば、いまは出来ないと思っていることも出来るようになるのだろうか。

 音階練習では、下降音階で同じようなことを仰る。ヴァイオリンの場合、上昇音階は開放弦で、下降音階のときは4指でフィンガリングするのだが、ヴィオラだから当面、4指である必要はない。けれど、下降音階で3指を出す時は1指も2指も出しましょう、ということだ。これも急には出来ないだろうから、まずは3指と2指の2本を出して、2指の音になるタイミングで1指も押さえる、ということでもいい。それと高4指を出す時は、3指をベースにして、1指と2指は離れてもいいから3指だけは残しておきましょうとのこと。

 ハ音譜を起こした段階でいろいろ楽しませてくれるわ、と思ったが、思った以上に愉しい修行になりそうだ。はたしてどもまで続くことか。

2018年9月28日金曜日

定期演奏会~祭りが終わって~

 そんなわけで、祭りのような興奮の中で定期演奏会は終わっていった。上手に弾けたかと言われると答えに困ってしまうが、楽しくは弾けたと思う。最初にこのアマオケの演奏会を聴きに来た時に自分が感じた楽しさと同じような楽しさを、この日のお客さんも感じてもらえただろうか。言い訳ぽく聞こえるかもしれないが、わざわざ聴きに来てくださる方には、「上手だったわ~」というよりも「楽しかったわ~」と言ってもらえるほうが嬉しい。上手な演奏を聴きたいのなら、いまやCDすら買わなくてもいい時代だ。しかし、パソコンの画面で聴く音楽から伝わっては来ない、目の前で弾いているからこそ伝わるものはきっとあると思う。

 そんなわけで、「上手な演奏」にはあまり貢献できなかったのだが、「楽しい演奏」にはどれだけ貢献できただろうか。今回の演奏会では、頼まれもしないうちからプログラムの曲紹介を買って出たり、自分の好きな曲を1曲入れてもらったり、新参者なのにずいぶん好き放題にさせてもらった。私個人としては楽しくなければ罰が当たるほどなのだが。できあがったプログラムを見て、メンバーの人たちはどう思っただろうか。私の推薦で入れてもらった曲はメンバーの人たちに気に入ってもらえただろうか。そういうところが本当は大事で、ステージの上全体が楽しい雰囲気になっていてこそ、お客さんにも楽しんでもらえるのだと思う。そういうのは録音を聴いても分からないのだ。

 そんなことで、今年のビッグイベントが終わった。いろいろ反省する。いつもなら、「今日はあそこが弾けなかった」とか「この曲がまだいまいちだ」などと思いながら、次の週の練習までに練習するところなのだが、もうこの曲たちの練習をすることは当分ないと思うと、ちょっと寂しい。当面、本番はないので、気分を入れ替えてセヴシックなんかをやるか…、といつも本番が終わると思うのだが…。

2018年9月27日木曜日

定期演奏会~後半~

 今年の定期演奏会ではMOZARTのピアノコンチェルトがある。ホールでピアノを借りると、前日のうちに調律をしてくださるようだ。少し早めにリハーサルに行くと、ちょうど調律の最中だった。その音は「森」の匂いがした、かどうかまでは聞き取れなかったが、調律師のお兄さんは鈴木亮平っぽい好青年。メンバーの中にも自宅のピアノを調律してもらっている人が多いようで、何人かの方に声を掛けておられた。「少し間が空いていますね」とか「最近ピアノを拝見していませんね」といった会話が多いようだったが、そんなに間が空いているのにお客さんを覚えておられるというのはなかなかすごい。私には出来ない仕事だ。

 さて本番。前半が終わって休憩時間になると、ステージの中央にピアノを出す。
おぉでかい
田舎町の小さなホールとはいえ、学校のピアノよりは一回り大きいコンサートピアノ。屋根を開けると自分の席から客席はまったく見えなくなった。
 普段の練習ではピアノはないので、ピアノと掛け合わせた練習は数回しかしていない。拍が上手く数えられない私としては、ピアノのフレーズから出るタイミングをとったりする練習が欲しいところなんだが、そうも言ってはいれらない。当日のゲネプロでも出るタイミングを間違えているようなところが何箇所かあって、あわてて楽譜に書き込みをしたりしていた。特にヴァイオリンが先に出て、ヴィオラがそれと掛け合うように出ていくところが何箇所かあって、そこはヴァイオリンのフレーズを楽譜に書き込んで、それを聴いて出るようにしておく。ゲネプロでこんなことをしているのだから、なんとも心許ないが、やはりやっておいて正解。おかげで少なくとも本番で飛び出すことはなかった。ピアノで客席から見えないという気楽さもあって、長い休符の間は客席と一緒にピアノの演奏を聴く余裕さえあった。

 MOZARTが終わると、ピアノを片付けて、再び客席から見えるようになる。そして最後のJohn RUTTER。これは正直、かなり弾けない部分があって、特に1楽章と4楽章の急楽章では半分ぐらいはトリアージの対象となった。いつも思うのだが
ちゃんと弾ければもっと楽しい
のに、と今回も思った。しかしそれも、やるだけのことはやったうえでのことなので、勘弁してもらうしかない。

2018年9月26日水曜日

定期演奏会~前半~

 定期演奏会当日は、午前中にゲネプロ、昼食は持ってきている人が多い。本番1時間前に着替え。入口で配布するプログラムなんかは前日に用意をしてあとは配るだけの状態になっている。ステージの上も前日にリハーサルをしているので、椅子も譜面台もそのまま残されている。つまり、一日の流れがすっかりできていて、朝、出掛ける時に、ステージ用のシャツだとか略礼服だとか蝶ネクタイだとか、忘れそうなものを一通りチェックして電車に乗ってしまえば、もうあとはあっという間に時間が過ぎていく。

 10分前に舞台袖に集合。まだ客席にも照明がついている。ステージの照明は本番の半分ぐらいの明るさか。タイミングを見計らってぞろぞろとステージに入る。チェロからコンミスがAの音を取り、そのAで全員がチューニングをする。お、なんだかオーケストラみたいじゃん。そこに指揮者が登場。拍手が沸く。タクトが振られると、Antonio VIVALDIのAlla Rusticaが始まる。選曲をしていて、あと1曲、何かないかというので、それじゃこれは、と私が言い出して決まった曲だ。みんなは気に入ってくれただろうか。いろんな思い出の詰まった曲だが、この日、そこに新しい思い出を重ねることができた。
ああ満足
この曲が弾けただけでも今日は満足だ。

 続いて、Henry PURCELLのAbdelazer。1695年に作られた曲なのだが、先生のMCでは後年の曲とは違う音の展開があって、演奏していて先が読みにくいのだそうだ。確かに何箇所か「なんで自分のパートはこうなるんだ」というところがあって、直感的に弾きにくいとは思っていたのだが、一方で後半に出てくるRutterのような新しい音楽はもっと弾きにくい。新しい曲も古い曲も弾きにくいと文句をいう訳にはいかないので、なんとかしなければと思っていたのだが、やはり熟練のエキストラが入ると、その弓の動きをみながら弾けるので弾きやすかった。大きな事故なく終了…と自分では思う。

 そのあと、オーボエが出てきたり、シャンソンの名曲があったりして、前半はあっと言う間に終わっていった。

2018年9月25日火曜日

定期演奏会~舞台練習編~

 いよいよ明日は定期演奏会、という段になると、頼もしいエキストラが大勢入ってくる。中には指導してくださる先生の伝手でプロの方もおられる。こうなると確かに弓の動きにも活気が出てくる。熟達した人が同じパートを隣で弾いているだけで、それまで弾けなかったところが弾けるようになったり、なんとなく自信なさげに弾いていたところを思い切って弾けるようになったりするような気がしないでもないかもしれない、と思う、知らんけど。
 たしかにリズムとかタイミングとかは取りやすくなる。普段の練習だと他のパートの音からタイミングをとらないといけないが、確実にこの人と同じように弾いていれば大丈夫という人がいれば、そのひとのモーションに合わせて弾けばいい。ただし音程はそうはいかない。タイミングはばっちりでも音が全然違うじゃん、というようなこともしばしば。

 もし、隣にそんな人がいたらどう言ってあげればいいだろう。「いまのところ、音は外れてましたよ」と直接的にいうのは、日本人の気質には合わない。高校のクラブ活動ならそんな言い方もあるかもしれないが、お互い大人なんだから、そこは相手を責めるのではなく、「いやぁ私、全然音取れてないし、隣で聴いたはって迷惑なんと違うやろか」などといった間接的な言い方で、自分は気を付けているのだから貴方も気を付けてね、とやんわり注意を促すのがスマートだと思う。

 そんなわけで、両隣の人が、代わる代わる「今日、私、変な音ばっかり出してるわ」とか「隣で聴いてて気になるんとちゃう」とか「こうやって鳴らしていたら、合っているのか外しているのかわからんようになるわ」などと、しきりに反省されておられる。休憩時間になると、遠くの席で弾いておられる方から、「ヴィオラ、よく音が出ていますね」などとお褒めいただいたり…。そのたびに答えに窮する。「いや、隣の音を聴く余裕もないですよ」とか、「私のは基準にならないんで合わさないでください」とか、「いや、そんなに出すつもりないんですけど」とか言ってなんとかやり過ごすんだけど、たぶん、みなさん言いたいのはそういうことじゃないんでしょうね。

 本番前日でこの調子。
 さてさて、どうなりますことやら。

2018年9月24日月曜日

定期演奏会~新聞取材編~

 兎にも角にも定期演奏会が終わった。6月から毎月本番が続いていたが、演奏する曲の数からいうと最大の本番、聴いているお客さんの数からいっても最大と言える、最後にして最大の本番だった。観客動員およそ100人。といっても舞台の上には30人ぐらいが載っているので、ひとりで3人ぐらいの換算だ。大きな失敗がなければ100人の目がいっせいに自分に向かってくることもあるまい。発表会だと、聴いているのは30人ぐらいでも、舞台の上は自分とピアノ伴奏の先生だけという状態だから、それに比べれば気が楽だと思われなくもないような気がするかもしれない、と思う、知らんけど。

 2週間前から、本番で使う舞台での練習になる。ちょうどそのとき、新聞の取材が入った。私が住んでいる県には虚構新聞以外に新聞社がなく、全国紙のほかは、隣の府の新聞か、クルマで2時間ほどのプロ野球チームの本拠地のある町で球団のオーナーになっている新聞社のものをとっている人が多い。取材に来られたのはそのドラゴン新聞社だった。
 このアマオケは普段から出席率は高いのだが、本番も近いのでなおいっそうみんな練習に来ている、はずなのに、なぜかこんな日に限ってヴィオラは一人。
  • そこ、ヴィオラのCisはしっかり♯をつけて
  • ヴィオラのそこは押さえつけずに弾むように
  • そこのヴィオラが入ってくるところはしっかりとタイミングを合わせて
  • ヴィオラのそこはもっとレガートで

なんか、やたらヴィオラに指導が入るじゃん。隣に弾けている人がいると、その人は弾けているけどもう一人のヴィオラが弾けていない、と個人を特定して指導することになるので指導しにくいのかもしれないが、その日はヴィオラは一人だけなので、「ヴィオラ」と一括りにして指導ができてしまう。「ヴィオラの中で音をあわせてください」などと気を遣った表現をする必要もない。

 できあがった記事を読むと
リズムやハーモニーが合わず四苦八苦することも多いが、本番が近づき熟練のエキストラが加わると、団員たちの弓の動きも活気を帯びてくるという。
と書かれていた。本番2週間前ですでに弓の動きに活気が満ちていないとおかしいのだが、取材した記者にはそのようには見えなかったようだ。

2018年9月13日木曜日

定期演奏会 曲紹介

定期演奏会まであと10日
練習の方は相変わらず牛のような歩みで、もはやこの調子では全部弾けそうな状況ではない。弾けないところは弾ける人に任せて、弾けるところだけ練習する、という方針に切り替える。だいぶ練習する箇所か少なくなった。

 そんなことで、演奏ではあまり貢献できないのは織り込み済みだったので、プログラムの曲紹介を買って出た。FACEBOOKでは1曲ずつ紹介しているが、こっちでは一挙に公開。自分でいうのもなんだが、結構うまくまとまっていると思う。



A.ヴィヴァルディ 
協奏曲 「Alla Rustica」 ト長調 作品51-4 
Concerto for Strings Orchestra “Alla Rustica” in G major
Op.51 No.4 : Antonio VIVALDI
Presto / Adagio / Allegro

ヴィヴァルディ自身が書いたこの曲の手書き譜は、イタリア・トリノの国立図書館にあります。そこには「Alla Rustica」(田舎風、農民風、田園風)という標題が付けられているのですが、それが具体的に何を意味しているのかは想像するしかありません。
ヴィヴァルディと言えば『四季』があまりにも有名ですが、彼は、このように作品に標題を付けて、さまざまな場面、風景、心情を描写する標題音楽の先駆けともいえるでしょう。この「Alla Rustica」の三連符(9/8拍子)のリズムには農民舞曲の印象が深く刻まれています。収穫を祝う秋の祭り、村の広場に集う人々、「年頃になったあの娘は誰と踊るんだい」、そんな会話まで聞こえてきそうです。
今年のサザナミ祭りはこの曲からスタートです。



H.パーセル 「Abdelazer」組曲 Z.570      
“Abdelazer or The Moor's Revenge” Suite  Z.570 : 
Henry PURCELL. 1695, London.
Overture / Rondeau / Aire / Aire / Menuett / Aire / Jigg / Hornpipe / Aire

パーセルは、長年に渡って英国王室に仕え、生涯のほとんどをロンドンで過ごしていたと考えられています。晩年、彼はいくつかの劇音楽をこの世に送り出しています。当時のイギリスには、オペラ歌手を養成する十分な環境がありませんでした。私たちが知っているオペラは、台詞のほとんどに曲がつけられていますが、パーセルの劇音楽は序曲、幕間曲、舞曲といくつかの歌曲に限られていました。「Abdelazer」は、彼が亡くなる1695年に作られた舞台劇で、彼は序曲といくつかの舞曲を残しています。
この頃の貴族たちは「たしなみ」として、何種類ものダンスのステップを習得しなければなりませんでした。舞踏会の成否が「お国」や「お家」の一大事にもつながるのですから無理もありません。音楽家の作る舞曲は、その決められたステップに合うように作られるもの。今日のように、音楽家の自由な発想で曲が作られ、それに合わせて踊りを考えるものではなかったようです。音楽家も「お国」や「お家」の一大事を背負っていたと言えるかもしれません。



W.A.モーツァルト 
ピアノ協奏曲 第12番イ長調 K.414   
Piano Concerto No.12 in A major, K.414 : 
Wolfgang Amadeus. MOZART, 1782, Wien.
Allegro / Andante / Allegretto

モーツアルトは生涯に27曲のピアノ協奏曲を書いています。そのうち本日演奏するこの曲を書いたのは彼が26歳のとき。生活の拠点をウィーンに移し、そこの住民(貴族たち)を相手に音楽家としての活動を始める時期です。その頃、彼はピアノの名手として自分をプロモーションしていくことを考えていたようです。この曲が書かれる前年には、皇帝ヨーゼフ二世の前で、当時、ピアノの名手として知られていたムツィオ・クレメンティと演奏を競い、技巧的というよりも芸術的で趣味のいい演奏だったと評価されています。
この曲はピアノ協奏曲ですので、ピアノが主役ではありますが、ピアニストの技巧を見せつけるだけの曲ではありません。他の楽器はただピアノを引き立てる伴奏役でなく、ピアノと弦楽器がまるで会話をするように曲が構成されています。特に印象深いのはピアノの登場シーン。パーティ会場の華やいだ雰囲気、着飾った人々の会話が弾むところに、いっそう美しいドレスをまとったお姫様としてピアノが登場する。そんなイメージで曲が始まります。
モーツアルトが活躍した時代、ピアノはまだ今日のような完成した楽器ではありませんでした。地域によって、また職人によって様々な様式のものがあったようです。モーツアルトのお気に入りはヨハン・アンドレアス・シュタインの製作するピアノ。シュタインだけでなく、このころのウィーンで使われていたピアノは、重厚さよりも華麗さ、荘厳な和音よりも、わずかな指の力で軽快な美しいパッセージを奏でることに向いていたものでした。まさにそんなピアノのために書かれた曲。いえ、シュタインのピアノこそがモーツアルトのために作られた楽器だったのかもしれません。



J.ラター 弦楽のための組曲            
Suite for Strings : John RUTTER. 1971
A Roving / I have a bonnet trimmed with blue 
/ O waly waly / Dashing away

ジョン・ラターは今年73歳。いまもなお現役の作曲家として、指揮者として、あるいは音楽プロデューサーとして活躍し続けています。
イギリスの作曲家の中には、過去の音楽からインスピレーションを受けて作曲する伝統があります。ジョン・ラターもそんな作曲家の一人で、グレゴリオ聖歌からジャズやビートルズまで、さまざまな分野の音楽が、彼によって新しい命を吹き込まれました。
この組曲のモチーフになっているのは、いずれもイギリスで歌い継がれている古い歌ですが、1曲目の「A-Roving」はまるで映画のエンディングを思わせる壮大な曲に生まれ変わっています。2曲目の「I have a bonnet trimmed with blue」の原曲には、青い縁取りの帽子の少女が、長い航海に出た若者の帰りを、ポルカのステップを練習しながら待つという歌詞が付いています。「O waly waly」は、広い川の岸辺で、せめて二人が乗れるボートをくださいと歌う歌ですが、まるでディズニー映画のお姫様と王子様が躍るシーンの挿入曲のように美しいメロディに仕上げられています。そして最後の「Dashing away」では、三連符(6/8拍子)の激しいリズムが、サザナミ祭りをフィナーレに導きます。



 収穫を祝う村の祭り、お国の一大事を賭けた貴族の舞踏会、モーツアルトの底抜けに明るいお姫様のパーティ、ディズニー映画のお姫様と王子様の踊り。別にそんな趣旨で選曲されたわけでもないのに、なんとなくストーリーが出来上がってしまった。曲の紹介ができると、すっかり弾けたような気になってしまうのだが…。

2018年9月8日土曜日

再び、MOZARTは楽しく

 レッスンがあった。新しい先生の2回目。前回は発表会の前日だったのだが、それが終わったので、これからさき、どういうレッスンをするのかという相談だ。とりあえず、今度の定期演奏会の楽譜と、セヴシック、小野アンナを持って行った。今回は、事前に何をするか決まっていないので、とりあえずは定期演奏会で弾くモーツアルトを見ていただくことにした。

 いろいろとご指導がはいいたのだが、ひとことでいえば、楽譜を必死で追いかけるのではなくて、モーツアルトを楽しむように弾きなさいということか。スラーは最初の音を大きく後の音は添えるように弾くとか、シンコペーションは鋭く刻むだとか、押さえつけるような弾き方は駄目だとか、スタッカートはもっと軽やかにだとか。
 アンサンブルなので、自分一人が落ちても止まることはないので、一音ずつしっかり出そうとするのではなく、弾けないとことは霞んでおけばいい、なんてことも割とはっきりおっしゃる(そういわざるを得ない状況なのかもしれないが)。完全に弾けていなくても、拍の最初が揃えば何んとなく弾けているようには聞こえる。そのうえで、多少目立つところだとか聞かせどころはしっかり押さえて、ということから、前述のようなことを仰っておられるのだと思う。

 4指を使うのが苦手なので、移弦やポジション移動でなんとかしのごうとするのだけど、速いパッセージでは移弦に時間が掛かってリズムがあっていない。比較的ゆっくりのフレーズの場合は、ポジション移動で音程が不安定になるより、さっさと移弦した方がいい、などなど、いまさらながらいろいろ課題がみつかる。たぶんどの曲にも共通する課題だと思う。こういうところを少しずつ良くしていかないといけない。

 セヴシックの宿題が出た。
 いままでも持ってはいたのだが、どう活用したらいいのかが分からず、ただお経を唱えるように弾いていただけだったのだが、大事なのはここ、これを弾くならポイントはここ、といった指針ももらえたので、だいぶ練習しやすくなったように思う。
 いつもの如く、発表会が終わると基礎の大切さを痛感するのだが、これもいつもの如く、基礎の練習は長続きしない。今回は何か変化があるのだろうか。

2018年9月1日土曜日

発表会 まとめ

 そんなわけで発表会も無事に終わり、定期演奏会に向けて、何度目かのシフトチェンジをしているところ。毎週の練習が2週続けてなかったうえに、しばらくは発表会の曲ばかり練習してきたので、弾けたはずの曲も弾けなくなっている。別に曲が突然難しくなったわけでも、要求水準が高くなったわけでもないのだが。そのうえ、弾けなかった曲は相変わらず弾けず、残りの期間だけが短くなってしまった。そろそろ、弾けない箇所のトリアージをして、黒いタグをつけるべきところは、しかるべき練習のテーマで練習するようにしないと、限られた資源を有効に配分できず、助かるところも助からない。

 それはさておき、そういえば発表会で何を弾くのか、まだこのブログに書いていなかったので、いちおう紹介。お手本演奏の動画から、どんな演奏だったのかを想像してお楽しみください。

 まずは、ソロの曲は、Georg Philipp Telemann の Concerto in G major for Viola,  TWV 51:G9。第1楽章と第4楽章をピアノ伴奏で演奏した。
 
 何度も書いているが、ヴィオラの曲というのは少なくて、もとからヴィオラのために書かれた曲で発表会栄えする曲としては、ほとんどこの曲しかないのではないだろうか。ヴィオラ弾きにはお馴染みかもしれない。同じようなことを考える人が多いと見えて、発表会用にピアノ伴奏とヴィオラのソロで弾けるような楽譜も市販されている。

 余興の方は、「ヴォーカルとピアノ、マリンバ、クラリネット、サックス、ヴィオラのために編曲された、和田アキ子の『古い日記』 馬飼野康二作曲 木下道子編曲」と「ヴォーカルとピアノ、マリンバ、クラリネット、サックス、ヴィオラのために編曲された、ささきいさおの『銀河鉄道999』 平尾昌晃作曲 木下道子編曲」の2曲。



 「古い日記」はヴォーカリストのリクエスト。ジャズをされておられる方で、私よりもかなりご年配なのだが、
あのころは…Ha
とたっぷりの声量で聴かせてくださる。
 「銀河鉄道」の方は、ゴダイゴの方をリクエストしていてのたが、何の手違いか、編曲が仕上がってくるとこの曲になっていた。しかし、これもなかなかの仕上がりで、特にマリンバの響きは車輪がカタンカタンと線路をたたく音のように、クラリネットやサックスが汽笛や蒸気を吐く音のように、そしてヴィオラがドリフト音やSLのアクションを表すかのように、なかなかいい感じに編曲されている。
 録音は聴いていないけど、たぶん、それなりに弾けていると思うので、このまま録音は聴かないようにしようと思っている。

2018年8月28日火曜日

発表会 余興編

 いつもお世話になっているスタジオは、ヴァイオリン・ヴィオラ以外にも、いろんな楽器のレッスンが受けられる。個人営業の音楽教室で、しかも新幹線は素通りするし在来線の特急も止まってくれない田舎町で、こんな教室は珍しいんじゃないかと思う。
 それで、2年前に、そういう素晴らしさを最大限に活かして楽しもうというので、いつも発表会に出てくるおじさんに声を掛けて、ヴァイオラとクラリネットとマリンバという、楽器的には何の脈略もないアンサンブルを作って、余興的に1曲、発表会で弾かせてもらった。それがウケて、今回は楽器も増え、ヴォーカルも入ることになった。

 人数が増えると、メンバー間の調整がたいへんなのだが、それでも全体練習を2回することができた。うち1回は先生にも来ていただいてレッスンも受けられた。曲もプロのアレンジャーの方に編曲していただいたものだ。

 本番の方は、最初のところでリズムをカウントしている途中からいきなりピアノが始まってしまうというハプニングから始まったが、それを引きずることもなく、楽しげな雰囲気の中で終了。先生曰く、
レッスンのときはどうなるかと思ったけれど、どこで練習されたんですか?
とのことだった。本番にはいろんな魔物が棲んでいるのか。時には練習で出来たはずのことができなくなったりするのだが、たまには練習で酷かったものがそこそこに弾けることもあるのかもしれない。

 アンサンブルとはいっても、各パートはひとりだから、フレーズによってはほかのパートに伴奏させてソロをやっているようなところもある。そういうところも含めて楽しく演奏できた。正直言うと多少の事故はあったのだが…。
最初は駄目でも終わりよければ良し。
というところか。

2018年8月27日月曜日

発表会 無事終了編

 発表会が終わった。
 6月から9月まで、毎月、演奏会やら発表会やらがあるのだが、この発表会は比較的ウェイトの大きい発表会と言っていい。先月のアンサンブルの発表会の前は、もちろん、発表会で弾くアンサンブルの曲の練習もするのだけれど、何回か弾いて、間違えやすいところを繰り返したりした後は、違う曲の練習もしていたい。けれど、今回の発表会は、この2週間ほどの間、ほとんど発表会の曲ばかりの練習をしている。来月の定期演奏会の練習が、本当なら毎週木曜日にあるのだが、お盆や台風で2週続けて休みになったこともあって、弾いて、録音して、聴いて、また弾く、みたいなことをとにかく繰り返してきた。

 録音してみると、自分で思っている以上に酷い音だった。しかし、これをいまからどうすることもできないので、とにかく最初だけでも「おっ!」と思わせるような音を出そうと、最初ばかり繰り返し弾いて、録音して、聴いて、反省して、また弾く、ということを繰り返した。ポジションを変えたりとか、そういう細かいこともやってみた。何度も聴いているうちに自分の音に対する免疫ができた所為もあるのだが、最初だけはだいぶ良くなってきたように思わないわけでもないような気がする。ま、とにかく最初は大事だ。話芸でいえば「つかみ」ってやつだ。どんな長い演奏でも最初のフレーズでだいだい印象が決まってしまう。

 これは本番でも意外な効果があって、最初が弾けてしまうと
よし、弾けた
という心の余裕が出てくる。それがわるいはずはない。比較的長いピアノの前奏の間も、考えているのは最初のフレーズだけ。その音が思ったように出ると、もうあとはその音に自然とくっついてくるようなものだ。これまでいろんな曲を弾いてきたが、これは不思議なもので、最初の音が出た瞬間から、「最後はこう終わらなければいけない」という必然を感じる。あとは、その必然の流れに逆らわず弾いていけばいい、はず。
 今回は、出来ないところを何度も練習して、誤魔化しではなく、全部のフレーズをちゃんと弾けるように準備してきたし、「あ、この先がいつも間違うところなのよね」なんてところもなかった。それも落ち着いて弾けた理由だと思う。

 あとは、もっとアグレッシブな演奏をしたかった。
 途中まで、大きな事故もなく演奏できると、中盤以降、どうしてもこのまま間違えずに最後まで弾きたいという気持ちが強くなってくる。それが演奏をこじんまりとしたものにしてしまったのではないか。音色はあいかわらずあまりヴィオラらしくないし、付点音符のリズムは最後まで直せなかったし、音程も結構ひどい。多分、録音を聴いたら「まだ練習中ですか」という感じで、全然仕上がっていないのだと思う。

 ま、それでも最後までしっかり弾けたし、何か悔いの残る演奏ではなかった。音色もリズムも音程も、練習で出来なかったことは本番でもできない。だけど、練習してきたことはきちんと発表できた。途中で間違えてオロオロするような無様な人格を晒すこともなかった。出来なかったことは2年先までに練習を重ねて、次はもっと堂々と演奏できたらいいと思う。

2018年8月18日土曜日

ピアノ合わせ

 発表会を前にしてピアノ合わせがあった。
 ピアノでもなんでもそうなんだが、ひとりで弾いているときは弾けても、何か他のパートと合わせるとなると突如、難易度が上がってしまう。ピアノの先生によると、聞こえてくる音の量が増えるので、頭の中でそれが処理しきれず、咄嗟に「速い」と感じてしまうのだそうだ。アンサンブルでも、本番になるとどんどん速くなってしまうのはそのためかもしれない。録音をさせてもらったのだが、聴き返していてもなんとなく必死感が伝わってくる。実際、だいぶ必死だった。余裕を持って弾いていると、伴奏のおかげで
自分が巧くなった
ように錯覚するところもあるのだが、録音を聴いても、どこでそんなふうに思ったのか、記憶の断片すら蘇ってこない。

 いつも聴いている音源は弦楽アンサンブルの中からソロのヴィオラが浮き出してくるのだが、ピアノ伴奏となると、ソロが伴奏に溶けるところがない。アレンジの仕方にもよるのかもしれないが、アンサンブルとソロの掛け合いみたいな部分はなくて、ピアノはあくまでも伴奏といった感じになる。ところが、そこはさすがに楽器の王様。いざピアノが鳴り出せば存在感はハンパない。しかも弾いているのはプロ。こっちは素人でかなり背伸びした選曲でもあるので、
伴奏に圧倒されてしまう
感じだ。

 本番までしばらくあるので、録音したのを聴きながら演奏する練習をしておきたい。それと速くならないようにだな。そうだ、」カラオケを録音させてもらったらよかった。

2018年8月15日水曜日

VIVALDI「Alla Rustica」Op.51-4

 アマオケの定期演奏会で思い出深い曲を演奏することになった。
 Antonio VIVALDIによる弦楽のための協奏曲 「Alla Rustica」 ト長調 作品51-4。
 この曲の直筆譜は、イタリア・トリノの国立図書館にあるそうだ。そこには「Alla Rustica」(田舎風、農民風、田園風)という標題が付けられているのだが、それが具体的に何を意味しているのかは想像するしかない。個人的には、収穫を祝う秋の祭り、村の広場に集う人々、「年頃になったあの娘は誰と踊るんだい」、そんな会話まで聞こえてきそうだ。時代はまったく違うが、ルノアールの「ブージヴァルの踊り」のような情景が目に浮かぶ。ワルツを踊っているような絵なのに、なんて突っ込みが入りそうだが。

 これは2回目の発表会のときに弾いた曲だ。ファーストポジションだけで弾ける曲なのでなんとかなるだろう、なんて思って選んだのだが、思うようにはいかないものだ。
 ちょうどその頃、世間では、ネットで知り合った人と実際に会う「オフ会」というのが社会現象になっていたのだが、ヴァイオリンを担いだ人たちによるオフ会には、のちに「バヨ会」という名前が付けられるようになる。最初のバヨ会で、それまでネットでしか知らなかった人といっしょに弾いた曲がこの曲だ。

 そのバヨ会の会場は、私が住む町の中心街。彼はクルマを1時間ほど駆ってきてくれた。ヴァイオリンだけでなく、なにやら放送局でしか見たことのないようなマイクだとか、録音機器だとか、いろんなものを持ってきていた。上手く弾けたら録音してネットにアップしようという計画だった。会場は確か3時間ほど押さえていたと思う。延々この曲ばかりを弾くのだが、第1楽章が最後まで通らない。まあ無理もないことだ。計画は縮小。最初の4小節だけでも録音して残しておこう、ぐらいの目標になって、まあとにかく録音はできた。

(ここから追記)
 その後、1ヶ月の間に3回の練習をして、最後に録音したのがこの動画。
 だいぶ成長している。たぶん、いまもこのレベルと変わらないと思う。

(追記ここまで)

 この1件や、ほかのこれと同じようなことがきっかけになって、その後、あちらこちらでこういう「バヨ会」が開かれるようになり、参加者も増えてきた。カノンやドッペル、それにこの「Alla Rustica」もバヨ会の重要なレパートリーになっていた。普段の練習も、こんどのバヨ会でカノンが弾けるように、だとか、いつかドッペルが弾けるように、などバヨ会を意識したものになった。

 マイクを持ってきてくれた彼も、よくバヨ会に来ていた。レパートリーが増えてきて、ヴァイオリンだけでは弾けなくなってきたので、ネットでチェロを弾いている人を探して誘い出したりもした。ヴィオラはさすがに探し出せなかったのだが、マイクのその彼が通販で安いヴィオラを買っていたので、彼をヴィオラ係にした。
 ところが、その彼がヴィオラではなくやっぱりヴァイオリンをしたい、というので、私が彼からヴィオラを借りることになった。目論見としては、このヴィオラを順番に回して「ヴィオラ当番」にするつもりだったのだが、だれもその役を引き受けてくれない。「返すのはいつでもいいですよ」なんて言っている彼に、「半額で売れ」というと、意外なほど安い値段を提示してきたので、即決で購入。そこから私のヴィオラ人生が始まった。

 最盛期は2ヵ月に1度ぐらいの割合で、どこかでバヨ会をしていたのだが、そのうち、結婚、出産、引っ越し、親の介護など、いろんなことでヴァイオリンから離れたり、ヴァイオリンはやっていてもバヨ会からは離れたりする人も少なくなかった。インターネットの世界も、一時は隆盛を極めたブログが廃れ、ツイッターやフェイスブック、インスタグラムとメディアが変わっていく。こういうのには「好み」というか「向き不向き」というか「適正」というか、そういうものがあって、ブログで自分を表現してきた人がSNS系のメディアでうまく情報発信できるとは限らない。私の場合がまさにそれで、ブログから他のメディアへの乗り換えはけっして上手くはいかなかった。
 そんな事情があって、バヨ会そのものも私の周りでは廃れてしまったのだが、クルマで1時間かけてマイクを持ってきた彼と、そしてこの「Alla Rustica」との出会いは、確実に私の人生を豊かなものにしてくれたと思う。

 彼は若くしてこの世を去ったので、定期演奏会を聴きに来てくれるように誘うこともできないが、きっと彼に届くように弾こうと思う。

2018年8月13日月曜日

録音してみる

 発表会が近づいてきた。
 ひとつ前の記事に書いた通り、これまでお世話になってきた先生は退職され、新しい先生に交代になることになっている。その先生の最初のレッスンが発表会の前日。その前に、ピアノの先生との合わせがあるのだが、そのピアノの先生も、昨年までは娘たちがレッスンを受けていた先生だったりしたのだが、今年は違う先生に交代になっているので、ピアノ合わせで「初めまして」ということになる。そういう時にヴァイオリンの先生がいてくださると心強いのだけれど、その先生はご退職。

うむ。ちょっと気が重いぞ。

 一足早く本番を迎えるような気分だ。
 それで、自分がどれぐらい仕上がっているのか、録音して確かめることにした。う~ドキドキ。「さあ、いまから録音するぞ」というだけでてんぱってしまっている。これで本番は大丈夫なのか?
 ともあれ、録音してみたのだが、耳のすぐ近くで楽器が鳴っているのと、録音して聴いてみるのではこんなに音が違うのかと愕然。たぶん、発表会ではこの録音した音に近い音になるのだろうと思うと、聴いている人に申し訳ない。演奏時間は5分ほどになるのだが、その間、長々と練習に付き合わしているみたいだ。

 先月は、いつもお世話になっているスタジオの「こどもの発表会」と、数ヶ月に1度の割合でアンサンブルレッスンを受けてきたスタジオの発表会があった。いつも思うことなのだが、発表会というのは、それぞれその人の人柄が見えて興味深い。いつかこのブログにも書いたが、小さい子供が小さいなりに、易しい曲でもその曲なりに、「聴かせてやろう」というアグレッシブな演奏をしてくるのには驚く。その点、大人の方は「間違えないように」などといったことを考えて、演奏が小さくまとまりがちだったりする。その辺をどのように考えて舞台に立っているかは、最初の音を聴けばわかってしまう。この分だと、私の未熟な人格を晒してしまうことになる。

よく先生が
最初がダメなら全てダメ
と仰っておられたことがよくわかる。そりゃ無理もない。ステージに立ってライトを浴びれば、誰だって少なからず緊張する。「いつもどおり」「いつもどおり」と呪文のように唱えて弾き始めれば、そんなアグレッシブな演奏もできない。どうすればこの呪縛から解かれるのか。結局は発表会のたびにぶち当たって永遠に乗り越えることができない壁が目の前に立ちはだかることになる。

 いつものスタジオの子供の発表会を見ていると、ヴァイオリンの生徒たちは、どことなく先生の思いを背負ってステージに立っているような雰囲気がある。子供たち自身は、「先生に、最後はいいとこ見てもらおう」なんてことは考えていないと思うのだが、先生に「グッ」と背中を押されるような感じで、「大丈夫」という確信をもってステージに立っている。だから、あんなに自信をもってアグレッシブな演奏ができるのだろう。

 アンサンブルの発表会は、そこのスタジオの生徒のソロの発表があって、最後にアンサンブルクラスの発表なのだが、演奏の前に生徒自身が曲の紹介をしたり、なぜその曲を選んだのかだとか、どういうきっかけで、あるいはどういう思いでヴァイオリンをしているのかといったことを話してから演奏が始まる。演奏だけでなく、このMCからも人柄が見えてくる。

 とにかく、ステージに立てば、少なからず自分の人格を晒すことになるのだ。
 つまり、録音を聴いて改めるべきは技法ではなく、心掛けということか。

2018年7月22日日曜日

いつもていねいに。

 いつもお世話になっている先生が楽団のオーディションに合格された。先生と同じ大学の出身で、世界的に活躍する有名指揮者が、若手の育成を目的に作られた楽団で、卒団された後に有名なオーケストラで主席をされるような方も多い。これは、いまのうちにサインをもらっておかなくては。

 この楽団、とにかく公演が多く、おそらく毎日練習漬け、専用の寮もあるらしいので、帰ってからも気兼ねなく練習ができる。道楽でやっている身には羨ましい環境なのだが、その道で食っていく人にはなかなかハードな世界じゃないかと思う。その辺はストイックな性格の先生にはいい環境かもしれないのだが、そうなると、この道楽者の面倒を見るために、わざわざ何時間も電車に乗せるわけにもいかない。先生にはかれこれ4年近くもレッスンを見ていただいてきたのだが、今回のレッスンが最終回となった。

 先生と呼ばれる職業の中でも特に誰かに何かを教える職業の場合は、授業中だけとか、学校にいる間とか、レッスンのときだけでなく、いつでも「先生」なんじゃないかと思う。この先生は、「こうしたらもっと上手に弾けますよ」とか「こうすればいい音が出ますよ」みたいな、ハウツーを教えてくれる「インストラクター」ではなく、先生ご自身の音楽への取り組み方から、じゃ、このおじさんはどのようにこの道楽に向かい合えばいいのか、なんてことを考えるときのヒントをもらってきた、まさに「ティーチャー」としての先生だったように思う。

 こんなふうに思うようになった転機は、たぶん2回あった。
 1回目は子供の発表会をみた時。子供が、子供なりに「聴かせる」演奏をしていることに、少々の驚きを感動を覚え、自分もあんな風に弾きたいと思った。2回目は先生のリサイタルを聴いたとき。このときの感情はうまく言語化できないけれど、先生の演奏を聴いて、「だからいつもレッスンであんなことを仰るのか」とか「だから子供たちの演奏がこうなるのか」などといったことが、何か1本の糸で結び付いて、強烈な「先生ワールド」が見えたように思えた。

レッスンでいわれることはいつも一緒だった。
ゆっくりでいいからていねいに
最後に見てもらうにあたって、今度の発表会の曲を、ていねいに練習してきたつもりだ。通して弾こうとして弾けなかったところは、間違えずに弾けるようになるまで繰り返し練習してきた。なぜ間違えたのかを考えて楽譜に書くようにもしてきた。先生によれば、暗譜するぐらい練習するのはいいことだけれど、暗譜そのものには意味がない、ということだ。暗譜がなかなか出来ないので、全部、ドレミのふりがなを振って、それで歌ったりもしてきたのだが、先生ご自身はそんなことをせずに、楽譜の形で覚えている、と仰っておられた。
 ともあれ、だいぶ弾けるようにはなった。練習の成果もあって間違えずに弾けたので、それは褒められた。だけど、間違えないように弾こうとして演奏が小さくなってしまっているという。おや、これは子供の発表会で感じたことからは逆の方向だ。いや、子供たちはまだこの先にいるのかもしれない。間違えずに弾けるようになったので、やっとこの先生のレッスンを受けられるようになった、ということかも。しかし、その時には最終回だった。

 なんか他の曲も診ましょうか、ということになったので、アンサンブルの定期演奏会で弾くMOZARTを診てもらった。これまでにくらべると、しっかり、ていねいに譜読みしてきた曲だ。だけど、弾き終わった後で、
しまった。ゆっくりでいいからていねいに、が実践できていない。
と反省。最初が全音符だから、ついつい音源で聴いたテンポ通り弾いてしまう。それがあかんと何度も言われてきたのに。ただ、今回は「いつも言っているでしょ」とは仰らず、「しっかりがんばってください」と励ましていただいた。

 最後に、楽譜にサインしてもらった。といっても、名前を書いてもらっただけなのだが、その傍らに「いつもていねいに」と書き添えられていた。4年近くかけて、やっと、この「ていねいに」の意味が解かりかけてきた。これからも「ていねいに」弾きなさいという、本当に単純なメッセージなのだが、「はい。肝に銘じて続けていきます」

2018年7月7日土曜日

しっかり譜読み

 7月になった。今月はアンサンブルレッスンを受けているスタジオの発表会。来月はいつものスタジオの発表会。その次は定期演奏会。ついでに先月はロビーコンサートがあったので、怒涛の4か月の真っ只中といったところ。練習も短い時間にいろんな練習がごった混ぜになって、何をしていいやら、という感じになっていた。それが最近、少し整理できて来た。

 まず、定期演奏会の曲はいっぺんにやろうとしない。作曲された年代が古いものから順に、そこそこのレベルになるまでは次の曲に手を出さないようにした。そこそこのレベルというのは、ひととおり間違えずに弾けるようになるレベル。その先はみんなで練習しないと練習できない、というところまで。それと重要なのは「ひととおり間違えずに弾く練習」をしないこと。弾けないところが何処なのかを見定めて、そこだけを何度も弾けるようになるまで練習する。「何度も」「弾けるようになるまで練習」ではなく「何度も弾けるようななるまで」「練習」。先生も
100回通せとは言わないけれど、そのフレーズを10回連続で躓かずに弾けるようになるまで他のフレーズに行ってはいけない。
と仰っていた。せめて5回ぐらいは(←回数減らすな!!)続けて弾けるようにしておきたい。ともあれ、他のフレーズに行ってはいけないのだから、他の曲に行くのはもってのほか。しばらくはパーセルばかりを練習して、最近、やっと2曲目のモーツアルトの譜読みが始まった。
 ちょっと気になるのは、ひとりで弾けるようになってもアンサンブルになると弾けなくなること。他から予想していなかったメロディが聞こえてくると動転してしまう。これを克服するにはちゃんと他のパートと合わせて譜読みをしないといけない。自分が弾いている音が他のパートの音とどのように掛け合わさるのかを、ひとりで弾いているときも意識して、ということなのだが、これはかなり難しい要求だ。とりあえず、スコア譜を見て、他のパートの特徴的な旋律はパート譜に書き込むようにしたのだが、果たしてその成果は??

 発表会の曲も、前回のレッスン以降は楽譜を見ながら弾くようにしている。どこが弾けないのかを「だいたいこの辺」とかで済まさずに、「この音からこの音に行くところでポジション移動があって音程が乱れる」とか「ここの移弦にもたついてタイミングよく音が出てこない」とか「ここの小指の音が平べったくなってしまう」とか、気づいたことを楽譜に書き込んで、そしてそこばかりを練習する。

総じて
こういうのを「譜読み」っていうんだな
といった感じだ。「譜読み」が今年のマイ流行語大賞になるかも。

2018年6月24日日曜日

アンサンブルの発表会に向けて

 いつものスタジオのレッスンとは別に、数ヶ月に1回の割合で受けているアンサンブルのレッスンがある。こちらの方も発表会というのがあって、他の受講生はそれぞれソロの発表をされて、最後にアンサンブルの発表ということになっている。初めてのところなので勝手は分からないが、たぶん、内輪の「弾き合い会」的な要素の強い発表会ではなかろうかと思う。そのあたりは、毎週、練習に行っているアンサンブルの「演奏会」とは様相が違う。演奏会というのは、基本的にはメンバー以外の聴衆を入れて弾くものだ。発表会の方は、たぶん子供の受講生ならお父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃんが総出で聴きに来るが、そういう人たちは自分の子供なり孫なり以外の演奏にはあまり関心がないから、アンサンブルの発表のときには果たして聴衆はいるのか???

 しかし、だから演奏会の方が発表会よりも演奏のレベルが高いわけではない。発表会で弾くのは1曲だけだし、数ヶ月に1回とはいえ、その1回のレッスンでは2時間の間、その1曲だけを練習する。毎週通っているアンサンブルの方は、指導される先生のキャラクターもあるのかもしれないが、同じ曲を何度も弾くようなことはしないし、同じフレーズの練習を、そこが出来るまでやる、というようなこともない。中には結構、上手な人もおられるので、いちおう最後まで通せるけれど、たとえば音程がぴったり合うとか、そういうことはあまりない。ところが、2時間の間、1曲だけを弾く方のレッスンは、出来ないところは繰り返し練習させて、音程もリズムもぴったり合うまで指導される。どっちも私にとっては結構ハードなタスクだ。

 その数ヶ月に1度のハードなレッスンが、先日のロビーコンサートと重なってしまって、1回お休みになった。その分を補うために、はじめてそこのスタジオで個人レッスンを受けることにした。
 初めてのことなので、アウェイ感満載。入り口で靴を脱ぐのはアンサンブルレッスンのときと同じだが、そのあと果たして部屋に入っていいのかどうか(たまたまその日の先頭だったので入っていいみたいだった)、入ったら今度はどこで待っていればいいのか(あとでわかったが、外で待っていないとダメだったみたいだ)、レッスンが始まると、立って弾くのか座って弾くのか、どこに座るのか、最初は曲を通すのか、ぜんぜん別の指示があるのか、おろおろするばかり。

レッスンを受けてわかったことは、
ハモるとキレイ
ということ。先生と二人なので、きれいにハモればノイズなくハモる。大勢でやっていると、いくら同じフレーズを繰り返し練習しても、こんなレベルでハモることはない。毎週何曲も通すだけのアンサンブルだとなおさらで、本当はキレイな和音を聴かせるところでも必ず濁った音がする。ところが二人で弾いていると、ハモっているときとハモっていないときは、はっきりわかる。それでハモっていないところは、普段は自分がハーモニーを濁しているということだ。

 個人レッスンは初めてなので、先生も気を遣っておられるのか、あまり厳しいことは仰らず、ハモっていないところを何箇所か拾って、「この部分、もういちど弾きましょうか」という感じでソフトに、「ここ、ちゃんと音程を合わさないとダメですよ」という趣旨のことを仰る。普段からソロのレッスンを受けておられる方に様子を聞いていると、ちょっとでも音程が合わなければ目からビームが飛んでくるのではないかと思われるほどハードなレッスンのようなのだが。たぶん、2度目のレッスンになると、前のレッスンのときに言ったことが直っていないので、やや厳しさが増し、3度目になると、何度言っても直らないのでさらにハードになっていくのだろう。もういちどこの先生の個人レッスンを受けることがあるかどうかは分からないが、違う先生のレッスンを受けるというのは、結構、勉強になるかもしれない。

ちゃんとした「譜読み」を目指して

 いつものスタジオの発表会まであと2ヶ月。まだ先と思っていたものがかなり近づいてきた。曲は1曲(第1楽章と第4楽章なので「2曲」という捉え方もできるが)だけだし、ほぼ暗譜もできている。ただ、この「ほぼ」というのが曲者だ。
 レッスンでは、たいてい、最初に、この曲を最初から最後まで通して弾くように指示がある。そういうときにちゃんと通せない。レッスンでちゃんと通せないものが本番で通るはずがないのだが、どれだけ練習してもちゃんと通せないのだ。これは練習しているときも一緒で、「よし、最初から最後まで通すぞ」と勢い込んで弾き始めるのだけれど、必ず途中で引っかかる。アンサンブルのときの癖で、そういうときには頭の中でリズムだけとって先に進もうとする。それができれば、甘々基準ではあるけれど、「いちおう最後まで通った」ということになる。頭の中にリズムが描けなかったり、描けていても戻れなかったりすると、しばらく前まで戻ってそこを弾き直す。先生によると
駄目ですよ。そういう練習は。
ということだ。曰く、それだと何処で躓いたのかが自分の印象に残らない。曰く、何回やっても実は同じところで躓いている。曰く、躓いたところには楽譜にマークをして二度と躓かないようにする。曰く、100回通せとは言わないけれど、そのフレーズを10回連続で躓かずに弾けるようになるまで他のフレーズに行ってはいけない。曰く、楽譜を見てもどこを練習してきたのかが分からないけど、いつも同じところで躓いている。

 そんなことで、先週から練習の方法を変えて、徹底的に楽譜を目で追って練習するように切り替えた。それまでは、ほぼ暗譜していることをいいことに、譜面台も用意せずに練習していたのだが、それでは駄目だということだった。譜面を見る時はちゃんと見て練習しましょう、ということだった。
 躓いたところには丸印を付ける。どうして躓いたのかを考えてやり直す。10回間違わずに弾けたら次のフレーズ。間違ったら回数をクリアしてそこからまた10回。これがなかなか10回続かないので、基準が甘くなってとりあえずは5回ということにしてしまったのだが…。

 そんなことで本番までになんとかワンステップ上のランクに持って行かなくては。
 そういうえば、今年の目標は「愉しむこと」だったのだが、いつの間にかこうして技芸の上達に励んでいる。

2018年6月16日土曜日

定期演奏会に向けて

 アンサンブル練習に向かう電車で先生と一緒になった。開口一番、先週のロビーコンサートは楽しめましたか? と聞かれ、楽しめたけれど、上手く弾ければもっと楽しいはず、と欲も出てきたと答える私。他のメンバーがどうとかいうのは関係なくて、自分にもっと才能があれば、奇跡の指や奇跡の耳があれば、どんなに楽しいだろうかと思う。

 練習の方は、定期演奏会に向けてシフトチェンジ。まずは譜読みなのだが、ただ楽譜とにらめっこしながら音を出すことだけでなくて、ネットで音源を探して曲の雰囲気を知っておくとか、覚えるまで聴き込むとか、素人は素人なりにやっておくことはあると思う。最近、そういうことがあまりできていなかったので、反省して、定期演奏会の曲を聴き込むことにした。



 作曲された年代の古いものから順に。まずはパーセル。この時代の音楽は、なんとなくパターンさえ覚えれば旨くいきそうに思えるのだが…



 モーツアルトにはモーツアルトの楽しさと難しさがあるように思う。パート練習で特区調的なフレーズをいくつか弾くだけで、「あぁ、モーツアルトだなぁ」と思えるところはモーツアルトの偉大さか。



 ロビーコンサートでも弾いたが、定期演奏会でも再び演奏するそうだ。リベンジだな。



 新しい曲になるほど、展開も複雑になるし、高度な技巧も求めてくる。それまでにあったものの模倣ではなくて、常に新しいものを追い求めているからなのだろう。これは4月からやっているのだけれど、いまだ最後まで通せない。

 と、まあ、いちいちネットを探し回らなくても、このページさえ見れば聴き込みが出来るようにという、いたって個人的な事情で書いた記事でした。

2018年6月10日日曜日

ロビーコンサートの反省

 県内の町のホールで開催されるロビーコンサートに載ってきた。昨年も載っているので、これが2回目。昨年の様子を見ていると、その前の年の定期演奏会の曲からいくつかチョイスして、そこにちょっと簡単なのを足して演奏しているみたいだったので、気を緩めていたのだが、その油断を突かれてしまって、まさかの全曲入れ替え。日曜日が本番というのに前の週の木曜日に楽譜を渡されるというようなこともあって、結構ハードな選曲だった。とは言っても、全体的にそんなにハードルは高くはないはず。バッハの「主よ、人の望みの喜びよ」だとかパッヘルベルのカノンだとか、すっかりおなじみの曲もある。カノンは、毎年、団員の上達を測るためにベンチマーク的にプログラムに入れているらしい。そういえば、去年もここで弾いたように思う。

 会場は、この町では最大級の立派な建物なのだが、何度もいうがホールではなくロビーなので、そんなに大勢の椅子を並べることもできない。見たところ、出演者と客席の椅子の数が同じぐらいか。しかし、空席もなく、立ち見まであるというのは大した集客力だ。どういう手続きをしてどれぐらいの費用を出せばこの場所を押さえられるのか定かではないが、毎年、こうして定期的にコンサートを開くためには、練習以外にいろんな段取りもあって、結構たいへんなはず。出演者の大部分は助っ人なのだが、そういう段取りだとか、客集めのお手伝いにはならないばかりか、むしろそういう助っ人が多ければそれだけ手間はかかってしまうはずなので、よくやっておられるなぁ、と感心する。

 それで、ちゃんと助っ人になれたのかというと、いちおう、このアンサンブルにはヴィオラがいないので、その意味ではお力添えできたはず。ガードレールに当たるぐらいの小さな事故はいくつもあったが、道路から飛び出すような大きな事故もなく、いちおう無事に終わった。練習と違って、時間が来ると嫌でも終わる。

 弾けないのは、ひとえに練習が足りないからなのだが、今回は、譜読みを丁寧にしないといけないと実感。いや、そもそも「譜読み」ってどこまで出来たら「譜読みした」ことになるのかについて、いままでずいぶん甘々な基準だったように思う。音符の並び方の音楽的な意味だとか、何かそういうところまで読み取って、やっと譜読みなんではないか、などと思ったりする。英語の長文を読むときに、日本語に訳せれば「読んだ」ことになるのかと言えば、そうではなくて、日本語の文章と同じように、説明文なら作者の主張とその論拠を理解して、それに対する自分の意見を持てるようになって、小説なら、描かれている情景を思い浮かべながら、登場人物の気持ちに思いを馳せ、それに対する共感や反発を感じるようになって、はじめて「読んだ」ということになる。譜読みも同じで、たとえば複数のパートが掛け合いをするなら、自分の弾くフレーズがどのパートのどのフレーズから導き出されるのか、自分のパートがどのように他のパートにつながっていくのか、ちゃんと分かっていないとダメだし、ゆっくりしっぽり聞かせる曲なら、和声の構造だとか展開だとか、そういうことも大事なんだと思う。どうもいままでは、英単語の意味を調べるだけで「読んだつもり」になっていたようだ。

 

2018年6月3日日曜日

ヴィオラの音

 来週はロビーコンサートの本番なので、今日のレッスンはその曲から見ていただくことになった。これは、自分としてはやや妥協。先月の記事にも書いたのだが、アンサンブルといつものスタジオのレッスンでは、練習の方向性が違っていて、あまり一緒にはしたくなかったのだ。アンサンブルの方は、とにかく曲が多い。それに、来週が本番だというのに、その3日前の練習でもう1曲、楽譜を渡します、といった調子。先生も
本番は上手な人が来てくれるので大丈夫
という変な確信を持っておられて、本当に大丈夫なのかどうかはよくわからない。いつものレッスンは、とにもかくにも発表会という目標があって、そこは一人で弾くわけだから、間違えてでも何してでも最後まで弾かないといけないのだが、最近はハードルが上がっていて、子供たちの発表会に行くと、途中で間違える子はいないし、上手というより、どの子も聴かせに来ている感じのアグレッシブな演奏をする。それを聴かされると、自分もという思いになるし、となると、普段のレッスンでも
1点狙いの濃厚なレッスン
を期待するところになる。
 ところが、これがあまり思うようにいかず、いつも言われることは同じで、全然前には進まず、ひと通り弾いて、聴いてもらって、前回と同じコメントをもらうと、もうやることがない、というような状態になってしまう。もちろん、前回言われたことは少しでも克服しようと練習もするのだが、ただでさえ限られた練習時間を、発表会用の練習とアンサンブル用の練習に振り分けるのだから、2週間後のレッスンで聴いてもらって
はい解決 それじゃ次はここに気を付けて
とはならない。ましてや、本番が近づいてきて、しかも曲が大量で、そこそこの難易度もあるので、練習時間の配分も7:3ぐらいでアンサンブル中心になってくる。

 そんな状況だったので、前回のレッスンのときに、次の本番の前に1回、レッスン入れましょうか と仰っていただいたのは、助かったような、負けたような、なんかちょっと複雑な思いだった。

 ともあれ、発表会で弾くいつもの曲は後回しにして、ロビーコンサートの曲を聴いてもらう。と、いっても、本番は上手な人が来るから大丈夫、と言われているレベルだ。先生も笑うしかない、といった表情で、こちらも、
楽しんできます
としか言いようがない状態。もっと早く見せてくれたら、なんとかなるんですけど、もう来週だから、ここは弾いているふりだけしておいてくださいということになった。随分酷い言われ方のように思われるかもしれないが、そういわれても仕方のない出来だ。

とはいっても、すべての曲がこんな調子ではない。中には比較的ちゃんと弾ける曲もある。他に何か見てほしい曲ありますか、ということだったので、シャンソンの名曲「愛の讃歌」を見てもらう。これは、練習の最初の方でウォーミングアップ的にやるのだが、主旋律はヴァイオリンで、ヴィオラは、
レーファーソーーーミーーー
というような、ひたすらロングトーンが続く。そこに「あなたーーの燃ーえるー手でーーー」という旋律が載るのだが、これが結構、弾いていて気持ちがいい。気持ちがいいのだけれど、もうちょっといい音色で溶け込むように弾いてみたい。先生によれば、そういう思いがきつすぎて
響かせよう
と体中、かちんこちんになっているから、弦の自然な響きが押さえつけられてしまって、かえって響かなくなっている。そういわれて弾いてみると、
ほら、だいぶ良くなったでしょ
ということになった。実は「ほら」といわれるほど自分では分かっていなかったのだが、確かに、なんかこの音じゃないんだけどなぁ、というモヤモヤ感はなかった。たぶん良くなったのだと思う。

この調子でいつものレッスンで見てもらっている曲を弾く。C線やG線は軽く弾くだけで自然と響くけれど、高い音はやはり弓毛で弦を掴みに行くところを意識しないと「へなっ」とした音になる。私の場合、弦によって音が違いすぎるということも、初めて指摘された
自分では分かっていたのだが、理論的にも少しわかった。

 あとは、とにかく丁寧に
 リズムもやや雑なのだが、一番目立つのが移弦。移弦だとか弓の返しのタイミングが左手と会わないから、楽譜にない音が途中に混ざってしまう。あるいはそこで慌てているみたいな印象の演奏になっている。それを回避するには、覚え方はどんな覚え方でもいいので、楽譜を覚えて、次の音が何かぐらいは意識して、例えば次はこの絃に移弦するということを意識したら、自然と右肘が動くんだけど、それが、楽譜を見て慌てて移弦している感じだからダメなんだ、とのこと。

 ま、とにかく練習なんだけど、やみくもに練習するのではなく、ポイントがいくつか出てきたので、ちょっとやり易くなった。といっても1週間ではなんともならないので、忍者の里でステージから消える術を練習するか、狸の里で化ける練習をするか、そんなことで来週は乗り切ろう。
 

2018年5月27日日曜日

演奏ノート

 レッスンの状況。
 少しずつは前進しているが、あまり目に見えて前進はしない。後退はしていないだけでも良しとするか。
 先生はいつもそうなのだが、今日もあまり多くを仰らない。ひと通り弾かせて、音程をもっとしっかりとりましょう、特に臨時記号が付いているのと付いていないのの区別がつかない、3指にシャープが付くときに上がりきっていない、という音程に関する指摘と、付点音符のリズムが3連符になっているというリズムに関する指摘。うむ、だいぶ前にも同じことを聞いたぞ。でも練習の仕方は間違っていないので、この調子で練習を続ければ、それなりの演奏にはなりますよ。はい終わり。目指すところの遠さだけは分かった。
 そのあと、アンサンブルの練習の仕方で悩んでいるところをいうと、どんな文脈からだったか忘れたが、先生の演奏ノートの話になった。演奏が終わると必ず、どこで、どういう状態で、どうなったか、その原因は何か、といったことを書き連ねられるそうだ。原因というのは、例えば練習不足ということなのだが、ただ単に練習不足ではなくて、どういう練習が必要だったかとか、そういうことまで分析して書くのだそうだ。
私たちはプロですから
プロの方がみんなそうしているのかどうかは分からないが、先生のストイックさの一面を見たような気がした。きっと、この前のリサイタルでも、聴いている観客が満足したかどうかなんて関係なく、自分はここが満足できなかった、というようなところが必ずあって、それをノートに書き連ね、そこに書いたとおりに翌日からストイックな練習をされているのに違いない。
 私なんかの場合、何を書いていいかもわからない。ま、そこは先生に言われた通り「音程とリズム」と書けばいいのか。さしずめ今日のレッスンだったら、C線でFISを押さえる練習ばかりするとか、付点音符と三連符を正確に弾き分ける練習をするとか、そういうことなんだろう。
 はたしてどれだけ実行できるか?

2018年5月13日日曜日

練習の目標・方向性

 ひとことにヴィオラのレッスン、ヴァイオリンのレッスンといっても、受講生によって、あるいは先生によって目指すところは違うんだ、ということが最近、わかってきた。いや、より正確に言うと、目指すところはそれほど違いはないのかもしれないが、そこへの道程が違うのだとおもう。

 ヴァイオリンのレッスンを受け始めたころは、ヴィヴァルディのA-MOLが弾きたいという私のリクエストに応じて、曲の前から順番に、どうしたらそれぞれのフレーズを弾けるようになるか、というレッスンだった。A-MOLが弾けた後は、カノンだとか、次の発表会の曲だとか、とにかく新しい曲が弾けるようになることが、いつも目標にあった。
 そういう目標の立て方になんとなく違和感を覚えるようになったときに、たまたま先生が退職されて、新しい先生のレッスンを受けるようになり、自分でも目標が定まらない中、わりとストイックなレッスンが続いてきた。前回の記事にも書いたように、それから3年がたって、やっと先生が仰っておられることの意味が分かってきて、それで、いままでの目標の立て方と、この先生との間で立てるべき目標の立て方の違いのようなものも、なんとなく言葉にできるようになった。8月の発表会までにどこまでカタチにできるのか。

 アマオケの方はまた違う。これもメンバーや指導者によって変わるのだろうけど、いま通っているところは、とにかく曲が弾けるようになることが目標だ。もちろん、メンバーの中にはある程度の上位者もおられるが、私を筆頭に、とにかくその曲ばっかり練習してなんとか弾けるようになる、というレベルを目標にせざるを得ない人もいる。そういう人をすくいあげて、みんなで弾けるようになる、というところが目標なんだと、自分では勝手に解釈しているので、1曲1曲のクオリティを追い求めるのではなく、とにかく全曲さらっとさらって、ちゃんと弾けるようにする。その「ちゃんと」の意味は、ちゃんとついていける、とか、途中で弾けなくなっても何処を弾いているかちゃんと楽譜を追えるとか、ちゃんと復活できるとか、最後のところだけでもちゃんと音を出して、全部ちゃんと弾いたかのように、ちゃんと澄ました顔ができる、とか、そういう「ちゃんと」のダイバーシティを求められる。しかし、本質的にはヴィヴァルディのA-MOLを必死に弾こうとしていたころのレッスンと同じ方向性だと思う。こっちのゴールは9月の演奏会。果たして完走できるのか。

 このアマオケとは別に、いつものスタジオとは別のスタジオで、アンサンブルのレッスンを受けていて、これの発表会が7月にあるのだが、これはアマオケともいつものレッスンとも様子が違う。1曲だけをものすごく丁寧にするところは、いつものスタジオと同じなのだが、アンサンブルなので、音程やリズムを合わせていかないといけない。自分が弾ける速さでゆっくりと、という訳にはいかない。こちらのレッスンは2~3カ月に1回というペースなのだが、ほかのメンバーは同じスタジオでソロのレッスンも受けておられるので、月に何回かは同じ先生のレッスンを受けておられるはず。音程とリズムを合わせるためにも、練習の方向性を合わせていかなければ、といまさらながら、やや焦らないわけでもない。

 最初にもいったが、たぶん、最終的にはどの練習でも目指すところは同じなのだと思う。ただ順番が、1曲を丁寧にやったあとで、何曲あってもちゃんと弾けるようにするのか、まずは何曲も課題があってそれがひととおり弾けたあとで、1曲ずつのクオリティを上げていくのか、そういう違いなのだと思う。

2018年4月29日日曜日

左手が追い付かない

 先生のコンサートを聴いてから初めてのレッスン。コンサート前は誰でも気が立つものでレッスンも厳しくなりがちだったけれど、コンサートが終わっても相変わらずレッスンは厳しい。厳しい理由は他にありそうだ。
 コンサートで感じた先生のストイックなところは、昨年、子供たちの発表会を聴いて感じた「攻めてくる」演奏につながっているのかもしてない。「間違えないように弾く」というような「守りの演奏」ではなくて、「聴かせる」というような演奏だ。今日のレッスンでのお話を聞いていても、先生が発表会に求められているのはそこなんじゃないかと思った。いままでもきっと仰っていたのだと思うが、子供たちの発表会と先生のコンサートとレッスンで仰ることがつながったときに、
そういうことか
と心に落ちるものがあった。それにしてもそこまでの道程は厳しい。

 毎度のことだが、レッスンで仰ることはとても基本的なことで、それも毎回それほど変わらない。しかし、基本的なことほど理解するのには時間がかかる。今日も言われることは、速く弾くのではなくて、ゆっくりちゃんと弾く練習をしましょう、ということだった。これ、太字にしているけど、前にも言われているよな。ただ「ちゃんと」と意味が分からないまま、ちゃんとしようとしても、ちゃんとはならない。先生が仰るには、左手が遅い、ということだったので、何度も練習をして、次は何の音か迷わずに指が動くようにしてきたのだが、それは半分合っていて半分間違っていた。

 まず暗譜しようという姿勢は褒められた。暗譜がしっかりしているところはそれなりにしっかり弾けている。とくに緩楽章の最初と最後は、聴いていても「暗譜してきたんだな」ということが分かるということだった。ただ、最初のあとから最後の手前までは、まだしっかり暗譜ができていない。これはしっかり暗譜すれば良くなるように思ってもらえたようだ。
 これに気をよくして急楽章の方を弾いてみる。
 嗚呼、弾けない。
 いろいろ不本意な演奏。だいたいこういう場面では、練習10回やっていちばん下手っぴだったときの音になっているものだ、しかし、頭の中には、練習10回やっていちばん上手く弾けたところがあるもの。先生によれば、
それはまぐれです
とのこと。はい仰る通り。あまりにも的確なご指摘だったので、瞬時に理解できた。疑問の余地はまったくない。

 それはさておき、今日わかったことは、左手が遅いというのは、テンポではなくて、右手の動きに比べて遅いということだ。そこを注意しないでいくらゆっくり練習してもだめだ。そうだ、音を止めて練習しなさい、ということも仰っておられた。そういうことか。
 つまり、右手が弓を返したり、弓を動かし始めたり、音の出初めのところのインパクトを掛け始めているときに、左手がまだその音のフィンガリングを完了していないということだ。だから、レーーミーーファーー、となるべきところが、レーーレミーミファーとなったり、ッレーーェミーーィファーーとなったりする。ただそれも素人には聞き取れたり聞き取れなかったりするので、ほら、いまのところ、と先生に言われて、なるほどホントだ、と思うときと、えぇそうですかぁ、と思うときがある。これが良くない。自分の音を聞くときはちょっと厳しめに、どこがダメか、もとい、どこを直せばもっと良くなるか、小さなところまで耳を澄ませて聴くようにしないとダメだ、と仰る。やはりなかなかストイックだ。

 発表会は8月の終わりなんだが、そういう時は7月の終わりぐらいに思っていていい加減。それじゃ6月の終わりまでにはテンポ通り弾けるようにしないと、どう弾きたいかというような味付けはできない。6月の終わりまでにテンポ通りということは、5月の終わりまでにゆっくりでいいからちゃんと弾けるようになっていないといけない。
 そう、ちゃんと弾く
 ちゃんと、というのは、右手と左手のタイミングがちゃんと合っていて、次の音の準備もしっかりできるようになり、そのためには暗譜がちゃんとできている。そういう状態にあと1ヶ月でもっていく。

 うむ。とにかく練習だな。

 

2018年4月15日日曜日

先生のコンサート

画像に含まれている可能性があるもの:雲、空、屋外
会場正面
 先生のコンサートを聴いてきた。
 隣町の郊外だったので、家に帰ってくるのに2時間近くかかる。そう、もう2時間前のことなのに、なんだか、いまでも、ものすごく興奮している。

嗚呼、よかった。
素晴らしかった。

 それ以上に言いようがないのだが、本当に良かった。
 客席200の小さなホールは満席。当日券を当てにしていった私は、ロビーでキャンセル待ちをすることになった。たまたまスタジオのご主人が来られ、奥様が急に来られなくなったとのことだったので、入場できた。これは有難いことだ。先生のコンサートが満席になるというのは、それはそれで嬉しいが、自分が入れないのは悲しい。そこに空席ができてしまうのも残念なのだが、その空席を自分が埋めることができた。
 ステージに登場した先生はとても綺麗だった。
 曲はちょっと難しい。前半はそんなことに気を取られていたりしたが、そうだ、曲を聴きに来たのではなくて、先生を見に来たんだと、気を取り直し、先生の呼吸を感じながら聴き入る。こういうのは小さな会場ならではなんだが、それも、レッスンでいつも「ちゃんと息をしましょう」といわれている私以外にこんな聴き方をする人もいないだろう。
 そんな聴き方をしていると、先生がますます綺麗に思えてくる。
 演奏はもう異次元だ。こんな先生に、なんど言っても同じことばかり注意されて、ちっとも上達しないおっさんのために45分も時間を使うのは浪費のようにも思える。きっとその45分があれば、相当ストイックな練習をされるのだろう。いや私も、その45分が浪費にならないようにストイックに練習をしなければいけないのだが、いやいやそれこそ次元が違う
 演奏だけではなく表情からも、ストイックな練習をされてきたことが伝わってくる。いまの演奏に満足していないのか、自分の演奏を冷静に批判的に振り返っているのか、演奏が終わったときもツンとした感じで、笑顔はない。それが急に変化したのは、プログラムが全部終わってアンコールがかかった時だった。舞台から挨拶をされる先生の声が震えていて、いまにも泣き出しそうなのを必死にこらえて話しておられる。いちど表情を崩すと、もう、ちょうどいい感じの笑顔なんて作れなかったのかもしれない。

 ホールの大きさに関係なく、ライブというのは、必ず聴衆の思っていることが演奏者に伝わり、演奏者の考えていることも聴衆に伝わる。それが互いに共鳴し、そこにいる全員が演奏者のように、そしてホール全体が楽器のように鳴り響く。これがライブの醍醐味だと思う。YouTubeで聴くのとは全く違うし、どんな高価なステレオセットを使ってもこれには敵わない。

 なんども言うが、良かった、素晴らしかった。そして先生は綺麗だった。写真に撮って「ほら綺麗でしょ」というものではなく、そこに見えるもの、聞こえるもの、空気の感触、そのほかすべてのものが先生の美しさのためにあるようなステージだった。

Bravo!

2018年4月9日月曜日

コンサートにお花を

 来週は、いつもお世話になっている先生がコンサートをされる。オーケストラのひとりとかじゃなくて、チラシに先生の写真がドンと載るようなコンサートだ。これは嬉しい。なんで、って特に理由はないが、すごいことだと思う。
 先週、たまたまコンサート会場の近くに用事があったので、帰りに会場近くのお花屋さんを探して、差し入れをお願いしてきた。もちろん、電話でも頼めるのだが、やはり実際にお花屋さんを見て、店主の顔を見て注文したい。こういう花をこんなふうに、とこと細かくお願いするほど花の知識もないので、細かいことはお花屋さん任せになってしまう。それで、コンサートのチラシを持って行って、
この先生に贈るんです
と言えば、写真のイメージで良いようにしてくれるのではないか、などと考えて、実際にそうした。先生はまだ若く、歳だけでいえば親子ほども離れている。きっと色目の良いカーネーションなんかを使って、可愛らしく華やかにアレンジしてくれることだろう。なんて思いながら注文票に電話番号とかいろいろ書いていたのだが、どうやら店主は二人の関係が気になるようだ。父親なのか、父親の友人なのか、パトロンなのか、いやあるいは所謂パパなのか。それによって花の感じも変わるのだが、どうもそこを測りかねたように
ヴァイオリンですか・・・
といってこちらの反応を覗っている様子。いや、その前に写真を指差して「この先生」って言っているのだから先生と生徒でしょ、と言いたいところだか、そこはあまり考えずに、「習っているんですよ。四十の手習いで。」と言うと、うしろで作業をしていた、奥さんだか、娘さんだか、アルバイトをしている娘だか、どうもそのへんの関係の定かでない女性もいっしょに破顔一笑。どうやらお花のイメージも決まったようだった。
気に入ってもらえると嬉しいのだが。

2018年4月1日日曜日

フレーズ感と呼吸

 レッスンにいく道の途中、まるでアニメ映画の背景のような景色に遭遇。今日は上手くいきそうだ。

 毎度のことだが、アンサンブルで大量に渡される楽譜を除けば、いつものレッスンは、とにかく1点主義。この曲を、と決めればその曲ばかりを練習する。その曲は弾けるようになるのだが、ほかの曲は弾けない。その分、その曲に好きなだけストーリー作りができる。いま弾いている曲にはまだストーリーが付いていないのだが、何かこの景色を背景に、二次元の若者が演じる物語は想像できないものだろうか。

そんな都合のいい話、あるわけねっし。

いや紙兎のロペじゃなくて…。
 今回のレッスンで明らかになった課題は呼吸
 弦楽器は息を止めていても音は出るが、呼吸が曲にあっていないとフレーズ感が出てこないというのだ。合奏で合わせたりするときもとても合わせにくいらしい。特に緩楽章を聴いていると、ずっと息を止めているみたいに見えるようだ。そうなると聴いている方も息が止まる。
 さぁいまから息を吸って、ここまできたらこれぐらい吐いて、などと考えながら呼吸することは、普段はない。だけど、それを意識してやりましょう、ということだ。特にここで吸ってここで吐いてというご指導はなかったが、それぐらい自分で考えろということなのだろう。

 急楽章の方はもっと技術的な課題が明らかになる。
 右手と左手が合っていないというのは前回のレッスンでも指摘があった。ちゃんと準備ができてから右手を動かすようにというのも、以前から言われていることなのだが、これが出来てない。
 まず、下降音階のときは次の音の分も先に押さえておく。いままでは、これから出す音だけを押さえていたので、例えば、弓を止める、3指を離す、1指を押さえる、弓を返す、弓を動かす、という一連の動作が冗長で、バタバタとしている感じがあるし、それでいて弓の動きと指の押さえのタイミングが合わず、鳴り出しがはっきりしないフレーズになってしまっていた。まずは、弓の動きをいったん止めてこの一連の動作が出来るようにする練習をしないといけないのだが、そのときに、新しく押さえる指は前の音を出している間に先に押さえておいて、音の変わり目の瞬間は指を離すだけでいいようにしておく。
 理屈は分かるのだが、音を出している間に次の音のことを考えると、自然と体が次の音にシフトして、間違ったタイミングで次の音を出してしまう。これの克服は結構大変そうだ。しかし、これが克服できれば音のつながりはより良くなってフレーズ感が出てくるのか?

 レッスンの帰り。またあの桜の道の前を通る。ここで展開される物語を考えてみた。

 桜のトンネルをヴィオラを抱えた女の子が走ってくる。思いを寄せるオケ部の先輩は3歳からヴァイオリンをしている。いっしょに練習しているときの先輩の呼吸なんて、いままで考えたこともなかったけど、あの呼吸のおかげで弾けていたんだ。今日から自分も同じように呼吸してみようと、先輩の呼吸を読み取る。少し先輩に近づけたような気がした。

2018年3月20日火曜日

今夜、ロマンス劇場で

 今日は映画の話。
 年金生活をするようになったら、毎月映画1本と本3冊という生活をしたい。もちろん、コンサートも聴きに行ければいいが、私の住んでいる田舎町ではそうそう立派なコンサートもない。立派なコンサートホールはあるのだが…。そんなことを思いながら映画を観てきた。
 公開から1ヶ月が過ぎ、レイトショーだけで上映されている映画は観客も少なく、さながら、この映画で坂口健太郎が演じる健司がひとり昔の映画を観ている様子を体験できる。いい映画だった。いちど観てから、印象に残ったひとつひとつのシーンを反芻し、そこに込められた意味を考えてきた。なぜこんなにも私の心を捕らえているのか。理由を知りたかった。それで2日続けてレイトショーに通うことになった。

 ここからはネタバレあり
 ネタバレしても観る価値はあるのだが、知らずに観たい人は観てから読まれたい。



 この映画の大半は、加藤剛が演じる老人が看護師に聞かせるシナリオとして語られる。老人は言う。「いまの若い子が楽しめるようなものじゃないよ」と。そうだ。この映画は、綾瀬はるかが演じるお姫様が美しいから好きになりました、というような、若い人好みのヘボいラブストーリーではない。坂口健太郎が演じる健司は、老人が、自分自身をモデルとしてシナリオの中に描き出した架空の人物で、そこに登場する塔子も龍之介も、やはり実在の人物ではない。私のような若い人以外が観ると、加藤剛が主演に見えてくる。

 美幸のことは、石橋杏奈が演じる看護師(これが「若い人」代表)の話の中に、老人の孫娘として登場する。姿を見ることができ、会話をすることができるという意味で、美幸は実在の人物なのだが、触れると消えてしまうという脆い実在だ。彼女は映画だ。古い映画に出てくるお転婆姫でも、そのお転婆姫を演じる女優でもなく、彼女は映画そのものだ。美幸が健司の家にやってきたシーン。健司が映画の説明をしようとすると、モノクロの美幸は「知っている。私たちのことだろう。」と答える。ロマンス劇場の映写室で古い映画を観る美幸は、年老いた館主にこう言わしめる。「人の記憶に残れる映画なってほんの僅かだ。あとのほとんどは忘れられて捨てられてしまう。誰かを幸せにしたくて生まれてきたのに。」と。それは、映画である美幸の気持ちだ。彼女の望みは、人々の記憶に自分が刻み込まれること。

 老人の病室に現れた美幸は実在なのだが、シナリオの中に登場する美幸は、その実在の美幸をモデルとした架空の人物だ。彼女が銀幕から飛び出してきたのは、シナリオの中に書かれていることであって、実際に飛び出してきたのかどうかはわからない。しかし、老人と映画の出会いはこれぐらい衝撃的だったのだろう。

 飛び出してきた美幸は、老人をモデルにした健司を悪し様に扱い、健司が徹夜して描いた絵を無茶苦茶にし、健司がみんなから殴られたり、爆弾魔にされたりするきっかけを作って、健司を振り回す。私は映画関係者ではないのでこの仕事のことはわからないが、どんな仕事でもこんなことはしばしばある。そして時に仕事は理不尽な命令をする。それで、その仕事が嫌になって、もう関わりたくないと思う。だけどその仕事が巧く運んでいないと気になって、進んで手を貸してしまう。自分が手を貸して無事に仕事が運んでも、仕事は「ありがとう」とは言ってくれない。横柄に「褒めて遣わすぞ」というだけだ。健司はその仕事がどんどん好きになる。あるときはかき氷を分かち合う恋人を演じて、あるときは王子様を演じて、自分の思いを遂げようとする。健司の仕事愛は、ますます深まって、他のどんな思いも入り込む余地がなくなっていく。
 塔子は女性として魅力的な生身の人間であると同時に、社長令嬢という、自分の地位や将来を約束してくれる存在として、このシナリオに描かれている。その塔子さえ入り込む余地がないのだ。そして、それは龍之介のような、誰もが注目する派手な「カッコよさ」とも無縁だった。
 地道に、しかし情熱的に仕事を続ける健司。だけどそのゴールは見えない。自分が作りたい映画がどんな映画なのか。自分のやりたい仕事がどんな仕事なのか。いつも結末の定まらないシナリオを抱えて、美幸と向かい合い、美幸を追いかける。それは、真実の映画を作りたい、人々の記憶に永遠に残る映画を作りたいという健司の、いや、このシナリオの作者である老人の若い頃から抱き続けた仕事への思いなのだ。

 しかし、どれだけ仕事に情熱を注いでも、仕事が自分から離れていく時がある。老人の人生の中では、それはもしかすると、映画の斜陽化だったかもしれない。どれだけいい映画を作っても、映画館に来る人はどんどん減っていく。いっしょに映画を作ってきた人が映画から離れていく。映画以外の「普通の」仕事をするべきだ、そう思うこともあった。自分の思い描く理想の映画を作ることができないのなら、この瞬間に映画なんてこの世から消えてしまえとさえ思ったこともある。そんないろんな考えが逡巡した最後に出した答えは、これからも映画とともに生きていくこと。「貴女でないとダメなんです」という健司の言葉に、映画の仕事を続けていこうという強い決意が込められる。

 老人のシナリオはここで終わっている。しかし、彼はすでに構想を持っていた。そして、それは彼が若かった時から探し続けてきたゴールであり、そのゴールの先に、もうそれを超えるゴールのない、映画とともに歩んできた人生の終着点だった。それは、自分とともに歩んできた美幸との、つまり映画の仕事との別れをも意味していた。

 ふたたび書き始めたシナリオの中で、老人は、健司と美幸のその後の人生、つまり映画とともに歩んできた自分自身の人生を描き、そして健司の最期を描く。映画を観ていると、実在する老人の最期のように思えるかもしれないが、このシーンはシナリオの中に登場する健司の最期と考えた方が、ストーリーがしっくり入ってくる。このシーンで美幸は健司の手を握り消えていく。消えたその先は銀幕の中だ。銀幕の中に消えた美幸に、老人は、美幸がいちばん望んでいるものをプレゼントする。

 大広間の扉が開き、そこに健司が入っていく。この扉は映画の世界の入り口。一足早くそこに戻っていた美幸が正面にいる。シナリオに登場した塔子も龍之介も、自分の出番をいまかいまかと待っている。健司が王子様のように差し出したバラの花を美幸が受け取ると、モノクロだった美幸がみるみる美しい色で染められ、舞台がすべてカラーになる。モノクロ映画がカラーでリメイクされたのだ。モノクロ映画でお城から飛び出していったお転婆姫は、今度は銀幕から飛び出し、生身の人間とのロマンスを賭けた大冒険を演じるだろう。そしてその映画が、観る人の記憶に永遠に刻まれる。これが、老人と美幸がいちばん望んでいたことであり、老人が美幸に贈った最後のプレゼントなのだ。

 銀幕にエンドロールが流れる。キャストが紹介され、スタッフが紹介される。こんなにもたくさんの人がこの映画に関わっていたのだ。その中に、健司に自分を重ね、美幸に自分の仕事を映し出す人もいるに違いない。その人たちの情熱が、映画を観終えた後も私の心を捕らえて離さない。自分にもこんなに打ち込める仕事があったなら…

 あぁそれにしても…

 綾瀬はるかが綺麗だった。 ←結局ここ


 

2018年3月12日月曜日

フレーズ感

前回のレッスンでは、ふわふわと弓が浮いている感じを指摘されて、
フレーズ感がない
ということだった。それで、
それまでの練習の延長上に本番はない
ということがわかった。それ以来、気持ちも練習方法も一新。練習第2章の様相だ。もっとも第何章なんだか正確にはわからない。

多少、音程は合っていなくても、
弓を吸いつけてしっかりと音を出せば
それらしくは聞こえる
というありがたいご指導に甘え、ボウイングに専念するぐらいのつもりで練習する。まずは開放弦でひたすら四分音符を繰り返す。そのとき、出来るだけ弓を返すところが分からないように弾こうとしてみる。返すところが分からないというには無理でも、せめて音が途切れる感じがしないようにと試みる。ところが、アップボウから元弓で返してダウンボウにするところがどうしても巧くいかない。音階をつけてもやはり同じで、実際に曲を弾いていても、アップボウのあとでフレーズが途切れてしまうような感じになる。
あぁ、こういうことを仰っておられるのか
と妙に納得。出来ていないことが分かっただけでも進歩だ。

緩楽章はそんな感じで課題がひとつ見えてきたが、急楽章の八分音符が続くところなんかは課題も見えてこない。レッスンで先生が「いい見本」と「わるい見本」を見せてくださったときはわかったように思ったのだが、自分でやってみるとなんだかよく分からないのだ。確か、弓なんてほとんど動かしていないのに、とんでもない深い音色の音が出てきていたんだけど、それがどんな音だったかも思い出せない。

ともあれ、課題が見えていると練習は面白い。アップボウのあとの弓の返しが問題だと思えば、まず開放弦でそればかり練習する。少し改善したと思ったら気になるフレーズを弾いてみる。良くなったと思ったらとりあえずは良し。あまり良くなっていないときは開放弦でまたいろいろ試してみる。開放弦をひたすら弾き続ける練習でも、少しずつでも本番が近づいているように思えればたのしい。
課題が見えない方は、なかなかこうもいかない。どうしたらいいかわからず、すぐに練習が嫌になる。するとますます課題が見えなくなって、練習が捗らない。
うむ、まずだな。

2018年2月27日火曜日

弓を吸いつける

 重音の部分を重点的に練習して臨んだレッスン。
 
 冒頭で「楽譜を買いました」といって、前回の記事に書いたいろいろを説明したのだが、やはり「ト音記号が読めない」というのは分かってもらえない。特にそれを責められるわけではないが。ともあれ、買ってきた楽譜を見せると、それを見ながらレッスンをしていただけた。いままでは、譜面台のスコア譜をチラッとみながら、ほとんど楽譜を見ないでレッスンされていたので、なんだかこれだけでも新鮮。弾いている間は先生の顔を見る余裕はないのだけれど、たぶん先生は楽譜の方を見ておられるだろうと思っているので、緊張感がやや和らぐ。ただ、だから上手く弾けたというわけにはいかなかった。

 音楽の先生だから、たぶん楽譜を見ればどんな曲かは瞬時にわかられるんだと思う。弾いている曲がそのイメージと違うとそこでストップ。
フレーズ感がない
これは前にも別の曲で言われたことがあるのだが、この曲に関しても楽譜通りに弾くというところから一歩先に進んだかも。ま、先生にしてみれば、それも「楽譜通り」のうちなんだろうけど。素人的には「楽譜通り」と言われれば、まず音程をあわせてその通りにというイメージがあって、音が鳴り始めたらすぐ次のことを考えてしまうのだが、それがすぐに音を抜いてしまう癖になっていた。別の曲ではできていたことも曲が変わればまたやり直しというのは、素人にありがちなのか。とにかく一音一音を大事に最後まで弾く。そういわれると中膨らみするのも私の癖のようだ。最初から大事に弾く。大事と言われてそうっと始めるのはまたよくない。

 短い音は、弓をあまり使わず、腕の重みをしっかり載せて音を出す。先生が良い例と悪い例をされると一目瞭然。悪い例は明らかに子供っぽい。実際は子供の方が上手いのだが。

全体的にもっと
弓を吸いつけて
弾く。久しぶりに聞くが、よく言われていたことだ。押さえつけるのとは違う。以前はそれがなかなか出来なかったのだが、果たして出来るようになったのか。次回レッスンまでの課題。

 ただ音程を取ることから曲の表現に一歩踏み込んだと思ったが、結局はボウイングという基本に立ち返った練習を繰り返すことになった。ただ基礎練習でも、それでこの曲のこの部分がこんなふうに良くなると思えば精も出る。
 練習だな。練習。

2018年2月25日日曜日

楽譜の購入

 前回のレッスンのあと、発表会用の曲の楽譜を購入した。パブリックドメインなので、楽譜そのものはネットにあるのだが、もとのものはヴィオラのソロを弦楽アンサンブルで伴奏するものなので、ピアノ伴奏譜がなかった。購入したものはヴィオラのソロをピアノで伴奏するようにアレンジされている。別の曲の楽譜を探しに行って、楽器屋さんで偶然見つけた。

 これで発表会はばっちりだと意気揚々帰ってきて問題が発覚。いままで見ていた楽譜はすべてハ音記号で書かれていたのだが、買ってきた楽譜は一部、ト音記号の部分がある。ヴィオラをやらないひとには、よくもハ音譜みたいなあんな変な楽譜が読めるなと思われる向きもあるかもしれないが、いちどこれで慣れてしまうとト音記号が読めなくなってしまう。少なくとも私の場合は。横に階名を書いたりしてみたのだが、やはり上手くいかない。
 それで、コピーを2枚とって、片方からト音記号の部分を抜き出し、下の2線を重ねるようにしてもう一枚に重ねて貼り付け、もともと書かれていたト音記号の譜面を消してしまう。

 ハサミや糊を使っているのがなんか原始的。スキャンして、せめてペイントでも使ったらもうちょっと楽なんじゃないの。はい、仰る通り。あとで気付きました。

 内容にも少しアレンジが入っていて、ひとつはカデンツァが書き加えられていること。それも「これでもか」っていうぐらいハイポジションを使わないと弾けないようなカデンツァ。そして、重音が増えていること。

 前回のレッスンでは、重音がちゃんとハモっていないのを何とかしてくるようにという宿題があって、重点練習課題にしていたのだが、それが増えてしまった。それに加えて、ポジション移動させながら華麗にカデンツァを弾き切るという練習課題が増えてしまった。
 しかし、ここはめげないで、本番までにひとつづつ課題を片付けていくしかない。弓を弦の上に置いてから弾くという課題はクリアできたじゃないか。付点音符のリズムだって、この調子でやっていけばきっとできるさ。

 そんなわけで目の前の課題に無欲で取り組む毎日。
 そして迎えたレッスンでは…  この続きは次の記事で。

オリンピックに思う

 いつもお世話になっているスタジオの発表会は2年に1度。前回はリオデジャネイロ五輪の年、その前はソチ五輪の年というように、毎回、オリンピックの年と重なる。「がんばれニッポン」なんてCMもさかんに放送されるから、つい日本選ー手がメダルを獲ったかどうかばかりに関心が向いてしまうが、どの選手もその国を代表するアスリート。たとえこけようがビリになろうが、私のような素人がああだこうだと言うこともない。それよりも、選手たちの表情だとかインタビューだとかを通じて、まるで自分もオリンピックに出場しているかのような疑似体験が出来ることは、テレビという文明の利器の賜物。最近はどの局でも、かつてオリンピックに名前を刻んだ元選手が、素人にもわかりやすく解説をしてくれるので、選手の心にまで手が届くのではないかと錯覚してしまう。もしかすると、遠い異国でも同じようなことを思っている人がいるのかもしれないと思うと、少し世界が小さくなったように思える。

 さて、もうそのオリンピックも終わろうとしているのだが、今年のオリンピックでは相反する二つのことを感じた。

 ひとつは、オリンピックに出たいと思っているだけではオリンピックには出られないんだということ。オリンピックに出てメダルを獲りたいといういう人だけがオリンピックに出場し、金メダルを獲りたいという人だけがメダルを獲得し、金メダルを獲ってどうしたいのかを知っている人だけが金メダルを獲れるということだ。かつてマラソンの高橋尚子選手が、オリンピックの前に「見ていてください。見終わった後でなんだか走りたくなるような走りをします」といった趣旨のことを言っていた。羽生結弦選手の演技を見ていると金メダルだけでは語れないドラマを感じる。キムヨナの滑りもそうだった。みんな金メダルのその先を見ているように思う。
 そう思うと、発表会でなんとか無難にそつなく弾こうなどと思っている自分が恥ずかしくなる。そんなことでは、「上手ね」とさえ言ってもらまい。「どや」と言わんばかりの演奏をするつもりで、やっと「上手ね」って言ってもらえ、何か感動のひとつでも与えられるかというような演奏を目指して、やっと「楽しそうだ」と思ってもらえるのかもしれない。

 その一方で、メダルなんてまったく考えずに、だた目の前にあることに無欲に取り組んで活躍する選手もいる。浅田真央選手やミキティばかりが注目されていた時の鈴木明子選手の演技などは、メダルとは何も関係なしに感動を覚えた。今回、銀メダルを獲った宇野昌磨選手なんかを見ていると、無欲を絵に描いたようだ。カーリングで銅メダルを獲った選手たちもそうだ。銅メダルを獲った3位決定戦もハラハラして見ていたが、個人的にはその前の準決勝で、最後、同点にまで追い上げたところなんかは感動ものだったと思う。
 発表会でも、こんなふうに、ただ無欲に演奏したいと思っていた時期もあった。しかし、いざステージに立つとつい「上手く弾いてやろう」なんて欲が出てしまうのだ。そういうところはアスリートたちとは違って心が出来ていない。

 共通して言えることは、金メダルは獲りに行くものではないということかな、と思う。金メダルを狙うのではなく、その先の目標を見据えて、目の前のことに無欲に取り組む。そういうことなんじゃないかと思う。
 発表会でいうとどういうことなんだ?

 なんだかとりとめのない話になってしまったので、韓国のソプラノ歌手、ホアン・スミさんのオリンピック賛歌を貼り付けておく。開会式でものすごく感動した。そうそう、開会式でオリンピック委員会の委員長だか誰かが言っていた。選手たちはここにいるだけですでに勝者なのだ、と。
 だから発表会も、うん~と…。

2018年2月10日土曜日

開放弦と移弦の練習

 先月のレッスンで、弓を弦の上に置いてから弾き始めることと、リズムをしっかりとることを改めて指摘され(いや、もう何度も指摘されていますが)、こうかな、ああかな、と試行錯誤を繰り返している。弓を置いてから、というほうは、「こういうことか」というのが分かって、やってみたら、前回のレッスンで「だいぶ良くなりましたね」と褒められた。次はリズム。とくに付点音符のリズムが良くない。頭の中で「タッカ、タッカ」と唱えてそれに合わせるのではなく、「タタタカ、タタタカ」と実際に区切って音を出して練習するようにとのこと(これも前から言われているのですが)。

 そこでこんな練習メニューを考案。
 この楽譜はダウンロードフリーです。

 電子メトロノームで ピポポポピポポポ と細かく音を刻みながら、それに合わせてこれを弾くのだけれど、いつの間にか ポピポポポピポポ というリズムになっていたりする。こんな簡単なことでもなかなか一筋縄ではいかない。
 どうも弓の返しと移弦を一緒にやるところでもたついているようだ。4つ目の音を丁寧に弾きすぎているのかもしれない。もたつかないように焦ると音色が崩れる。ただでさえあまりいい音色ではないのに、ギロギロとか スカッとか、なんだか良くない。

 ああだ、こうだと気にしていると、これだけで15分ぐらい経ってしまう。
 気が付くようになっただけ前進はしているのだが……


2018年1月20日土曜日

Mozartを堪能

 となり町に、アマチュアアンサンブルの演奏会を聴きに行ってきた。

 うちの町もいちおうは県庁所在地なのだが、こっちは政令指定都市で府庁もある。府といってももともと都なので、政令指定都市を返上して都になることなんて考えてもいない。お寺や神社ばかりの印象もあるが、実は、佐渡裕や葉加瀬太郎など錚々たる音楽家たちが卒業した奇跡の市立高校もある。佐渡裕は高校卒業後この町の市立芸大に進学してそこを卒業するが、その芸大は私が師事してきたスタジオの歴代諸先生方の出身校だ。いまは市の外郭団体による運営になったが、かつては市直営だった楽団もある。金勘定だけで市営楽団を解散させるようなことを考える町とは違って、音楽に対する理解の厚い町だ。
 演奏会があったのは、その町の音楽活動の拠点ともいうべきホール。大小ふたつのホールを備えたそこは、クラシック専用ホールなので、演歌歌手やバンドのライブはない。演劇や講演会もない。なのに週末はふたつともホールが使われていることも珍しくなく、1ヶ月に20以上の公演が催される。公演がない日は市内の公立学校の合唱大会などが開かれることもあり年中フル回転。箱モノだけではなく中身を伴った立派なホールだ。うちの町にもオペラが上演できる立派なホールがあるが、何も公演がない週末もあって有効活用されているとは言い難い。ちょっと見倣ってほしいものだ。

 このアンサンブルの演奏会は何度か聴きに行っているのだが、とにかくレベルが高い。セミプロ級だ。たぶん、大学のオーケストラとかで経験のある人が母体になっているのだと思っていたが、あるいはそれも普通の大学ではないかもしれない(個人の想像です)。

 演奏会の曲目はオール・モーツアルト。ぜったい外れない曲目で、ぜったい外れない演奏。こんな演奏会が外れるわけがない。いちばん良かったのは、アンコールで弾かれたディベルティメント。別のアンサンブルの演奏だが、動画があったので貼り付けておく。


 アンコールなので第1楽章だけだったが、女性のメンバーはこの動画のようなドレスで演奏するステージもあった。普通の大学のオーケストラの演奏会でも、そんなドレスでステージに載るところがあるのだろうか。

2018年1月13日土曜日

コンサートは音だけじゃない

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、座ってる(複数の人)、室内
 昨年は何度かアンサンブルのステージに載ったが、そのたびに大学オーケストラのメンバーの応援があった。その大学オケのひとつが定期演奏会をするというので出掛けた。うちの家から快速列車で約2時間、新幹線の駅でいうと5つ目(新幹線を使うと1時間と少しで行けるけどお値段は倍以上)の駅を降りると、目の前に世界遺産の立派なお城が見える。目的の大学は、そのお城の裏手の、名門旧制高校の校地にある。名門だけあって、校地にはいくつかの立派な建物が残っていて、そのうちのひとつである講堂が演奏会の会場になっている。 

 その講堂に近づくと、会場誘導をしている男子学生に声を掛けられた。みると、昨年、保育園の発表会で隣で弾いていた学生ではないか。覚えていてくれるのは嬉しいことだ。これだけでも楽しみにしていた甲斐があった。

 名門校だけあって講堂も立派な造りだが、いわゆる「ホール」ではない。みなさんが通っておられた学校の講堂や体育館をイメージしてもらえればいい。入口の外側で上履きに履き替えて、ドアを1枚開ければすぐ客席。小学生なら体育座りで先生のお話を聞くところだが、今日はパイプ椅子が並べてあった。
 ホールとの違いは窓があること。唱歌や童謡のメドレーがあったのだが、そのとき、冬の柔らかい日差しが2階の窓から射し込み、あるときはまるで里山の雑木林で木漏れ日を浴びているような、またあるときはヤシの実が流れ着く浜辺で波の音を聞いているような、そんな錯覚さえ覚える。

 昨年、私がステージに載った定期演奏会では、ここから来てくれた学生さんのおかげで本当に演奏がしやすかった。ボウイングのモーションがきれいなのだ。だから、見ていると「次はこうくるな」というのがよくわかって、こっちの身体も自然と真似をして動く。その学生さんとは違う学生さんなのだが、ホントに芸術的なボウイングをしている学生がいた。腕だけではない。腰でボウイングをしているようだ。まるで魔法の杖のように、弓が意思を持って動いているのではないかとさえ思える。唱歌のメドレーの最後は「八木節」だったのだが、このときなどは、本当にお祭りのような弓の動きだった。

 最初のステージは、ラターの弦楽組曲。


 見ていただいた通り、弓の捌きが揃えば結構きれいだ。慣れた弓の捌きをすればかなりポイントが高くなる。

 そして唱歌メドレー。

 最後のステージはヴィヴァルディの「四季」。
 この曲も、こうして外の気配を感じるところで聴くと新鮮だ。木々の緑は見えるし、実際には聞こえないが小鳥の声さえ聞こえそうな会場なのだ。朗読されたソネットのように「春がやってきた、小鳥は喜び囀りながら祝っている」という情景の中で聴いているようにさえ思える。

 コンサートを聴くというのは、音だけ聞いているんじゃなくて、ステージの上の人とも他のお客さんとも、いろんなものを共有しているんだと思った。目に見えるものだけでなく、五感だけでもなく、本当にいろんなものを「体験」として感じ取ることなんだなと思う。

 本当にいいコンサートだった。

2018年1月7日日曜日

今年の初レッスン

 正月休みは終わっているけれど、まだなんとなくお正月の空気が漂う3連休の初日に、さっそく今年最初のレッスンがあった。新年のあいさつが終わって、先生から、忘年会はどうだったというご質問。年が明けても覚えていてくださったんだ。

だいぶ上手になりましたね、っていわれました。
いや、そうじゃないんですけどねぇ。

これには先生も苦笑。「でも、そういうストレートな感想、大事ですよ。」と先生の仰ることも比較的ストレートなんですけど…。ま、しかし、いちおうは褒められているので、それはそれで素直に受け取って、練習すれば、かなりヘタッピだったものでも多少は進歩するんだと思って、今年も練習に励むしかない。少なくとも、「去年の方が良かったですね」と言われないように。

 さてさて、去年の最後のレッスンで「発表会はもう少しテンポのある曲の方がいいですね」と仰っておられたので、そういうのを選んで練習してきた。

テレマンです。

というと、「また、そんな難しいのを持ってきて~」と言葉にはされないけれど、そういう反応。いや先生、そういうのがいいと仰ったじゃないですか。ともあれ、いちおうレッスンで診てもらうことを念頭に、多少の(いやだいぶ)練習はしてきた。その成果や如何に?

 まず緩楽章の第1楽章。
 なんか「のーん」って感じですね
曲の盛り上がりとか、ストーリーとか、そういうのがなくて、ただ「だらー」と弾いた感じ。お、先生、音楽性について仰っておられるじゃないですか、と思ったのだけど、そういうこともでもなさそう。緩楽章でのご指摘は

弓の配分を考えましょう

ということだった。音程だとか他にもいろいろあるのだけれど、弓の配分は最初に考えておかないと、あとでそれを直すことが出来ない。アヴェ・マリアのときは、弓にチョークで印をつけて、その印を見ながら弾いたりしていたものだが、そのうちそんな印を見ることはなくなった。見なくてもちゃんと配分できるようになったのかどうかは定かではないが、それと同じことをせよ、ということのようだ。

 第2楽章は有名なのだが、ある理由でやめた。発表会は持ち時間が5分ほどなので、テレマンだったら楽章2つぐらいが限界。第1楽章は緩楽章で第2楽章は急楽章だから、この組み合わせでもよかったのだが、第2楽章は、ヴィオラのソロが弾き終わってからしばらく伴奏が続くので、そのあいだ、どんな顔してステージに立っていたらいいかよくわからない。聴いていても「あれ、いまので終わり?」って感じになりそうだ。それで、同じ急楽章で第4楽章を弾こうと思っている。これは最後の楽章だから「はい、ここで終わりね」って感じでちゃんと終わる。
 ともあれ、弾いてみた。だいぶゆっくりだ。メトロノームと格闘してきただけに、明らかにリズムがおかしいというところはなかった。だけど、聴いている先生の顔は冴えない。前半を弾いたら「もう言うことはいつもいっしょなんだから~」という雰囲気が伝わってくる。

おとがくさん、いつもそうなんですけど
弓をちゃんと置いてから
弾かないから、それで8割ぐらい損していますよ。

 それで8割も失っていたのか。じゃ、いつも言われていたリズムだとか音程だとか、全部完璧にしても20点しか取れないじゃん。
 弓をちゃんと置いてから弾き始めないから、いつから弾き始めたのかが分からない。いつから弾き始めたのかが分からないので、リズムがあっているのかどうかわからない。つまり間違っているように聞こえる。特に移弦のときに、弓が流れているみたいで、そこでリズムが崩れてしまう。それに、どこから弾き始めたのか分からないので、弓の配分もいい加減になる。
 打開策としては、開放弦で練習すること。
 練習の最初の5分は開放弦、なんてことも考えたのだが、時間で区切るのではなくて、ここまでできたらフィンガリングをつける、みたいにやらないとダメとのお達し。

 今年もまた言われることはいっしょなんだが、いつもより気になったので、カラオケボックスで練習。音の出る瞬間を意識しながら弓を動かしてみると、いままでのだらだらした感じがなくなって、なんかきびきびした感じに聞こえてくる。

もしかするとこういうことかもしれない
でも違うかもしれない

とりあえず、次のレッスンまではこれで練習してみるか…

2018年1月4日木曜日

弾き初め

 最近はお正月といってもどこの店も開いていて、なんだか「お正月」という気がしない。子供の頃は、百貨店も4日から(そういえば毎週木曜日は休みだったっけ)で、3日まではどこの店もシャッターが閉まっていて、門松を描いたポスターに「新年は 日から営業します」と書かれているその空欄に、それぞれのお店が「4」だとか「5」だとか数字を書き込んでいたっけ。おせち料理はスーパーで買うのが当たり前、お店も元旦から開いていて、みんな気忙しく働いているところに、優雅な琴の音色だけが偽善的にお正月気分を醸し出す風景が、すっかりお正月のスタンダードになってしまった。果たして、この国はこれで豊かになったのか。ともあれ、私自身は今日までお正月休み。別にどこに行くというわけではないが、ゆっくりさせていただいている。きのう、お正月も関係なく24時間営業のカラオケボックスで弾き初め。いつもよりお客さん多くて忙しそう。心なしか店員さんの元気がないように思えたので、アリバイ的にひとこと。

お正月も働いていた人は、
どっかでゆっくり休んでね。

 去年の定期演奏会が終わったあと、ゆっくりな曲でも「とりあえず弾ける」ではなくて「ちゃんと弾ける」レベルまで仕上げたいと思って、しばらくグノーのアヴェ・マリアを見てもらっていたのだが、結局、ちゃんと弾けるレベルにまでは達することなく、忘年会の本番を迎える。

だんだん上手くなってきましたね~

とお褒めの言葉をいただくのだが、いや、目指していたのはそれではない。もともとこの曲、「発表会映え」のする曲ではないのだが、このレベルから今年の8月の発表会までにどれだけレベルを上げても、

うぉ~

というレベルまで上げていくことは出来なさそうだし、そうなると「なんだ、簡単そうな曲だぁ」という印象で終わってしまう可能性が高い。それに、アンサンブルの練習が始まればそっちの曲に練習時間の多くが割かれることも容易に想像できる。去年の最後のレッスンで先生も「発表会はもう少しテンポのある曲の方がいいですね」と仰っておられた。裏を返せば「アヴェ・マリアでは駄目ですよ」ということのようだ。

 そんなわけで、ヴィオラの名曲の中から、「ヴィオラと言えばこれでしょう」という定番を引っ張り出してきて、ネットで楽譜をダウンロード。知っている曲なので、譜読みは楽なのだが、いつもそれでNGが出るので、知らない曲だと思って譜読みをする。
 いくつかのフレーズに分けて練習をする。いちおう、それぞれのフレーズを通すことはできるのだが、弾いてみて一発で通せた試しがない。15~20小節ぐらいのフレーズを5回ぐらい繰り返したら、5回目ぐらいにやっと通せるという感じ。次はひとつの楽章を最初から最後まで練習して、5回目ぐらいにはやっと通せるというレベル。その次は3回目で。それから1回目で通せるようにする。そのあとテンポアップをしていって、発表会で弾く速さで通せるように…

 なんとも遠大な計画だ。

 今年の初レッスンは今週土曜日。
 はたして、心地よく発表会の年のスタートが出来るかどうか。



2018年1月1日月曜日

今年の目標

 あけましておめでとうございます。
 昨年は、こんな独り言みたいなブログにお付き合いいただき、ありがとうございました。今年も、ほぼ「文字数制限のないツイッター」として、呟き続けると思います。昨年は、月によっては「1回だけ」というような更新頻度でしたが、それでも毎月更新できました。今年は、たまに読みに来てくださる方が飽きないように、せめて半月に1回ぐらいは更新したい(←希望的目標)です。

 さてさて、ブログのことではなくて、リアルの方の目標だが、ここ数年は
年末まで続けること
という不動の目標に毎年取り組んできた。そして、ここ数年、その目標は毎年、達成している。「続ける」ということがどれだけ大切で、しかしどれだけ難しいかは、改めていうまでもないのだが、昨年は、アンサンブルにも参加して、続けている内容もさらに深まったと思う。
 今年もまた5月ぐらいからアンサンブルに参加して、9月か10月の定期演奏会に載りたい。昨年、載ったロビーコンサートだとか、保育園の発表会も楽しみだ。他に、今年は、いつもレッスンを受けているスタジオの発表会と、3カ月に1度ぐらいアンサンブルレッスンを受けているスタジオの発表会もある。練習しなければいけない曲数も、数年前に比べるとものすごく増えている。アンサンブルに縁のない頃は、1年かけて1曲を弾くという感じだったのだが、昨年はついに初見でステージに載る(←ほとんど弾けなかったけど)というところにまで行き着いてしまった。
 こうなってくると、技量的にはこれまでとはまったく違うものが求められる。弾く曲を人よりもたくさん練習して、なんとか他の人の足を引っ張らないようにするというのではなく、どんな曲でもそこそこに弾ける基本的な技量が必要だ。たとえば楽譜を読む力だとか、ロングトーンできれいな音を出す力だとか、重音になったときにどっちを弾くかを瞬時に見分ける力だとか、超絶フィンガリングをいかにもやっているように見せる力だとか、自分の弾けないところを弾いていると見せかける力だとか、間違って音を出しても顔に出さない力だとか…。 ま、とにかく、「この曲だけは弾ける」という、その曲にしか通じない技量ではなくて、どんな曲にもも通用する汎用的な技量ということなのだが、これまで10年以上、教本で地道に練習するという道を外れてきたことのツケがここにきて出てきたといえる。
 そんなことも踏まえて、今年の目標は
愉しむこと。
発表会のステージもあるのだが、「上手」と思われるより「愉しそう」と思われたい。そりゃ上手に越したことはないのだが、それは上手に弾ける方が愉しいからで、上手に弾くために愉しくするのではない。
 子供のレッスンだと、これまでよりも難しい曲が弾けるようになるとか、これまでよりも上手に弾けるとか、技芸の上達という目標があって、そのためには愉しくしないと続かないし、家でも練習をしないから、上手になるために愉しくすることがあるかもしれない。愉しむことは、上達のための手段だとかストラテジーであって、目的、目標はやはり上手に弾くことだろう。
 でも大人は違う。昨年、いろんな方のお話を聞いて、やっぱり上手に弾けたら、上手に弾けないよりももっと愉しいだろうな、ということが分かってきた。テレビに出てくるような五嶋みどりさんだとか、諏訪内晶子さんのような、「上手」を極めた人は、さらにその「上手」を極めようと、苦しい練習に励んでおられるイメージがある。でも、それが私たちのような素人をを含めて、ヴァイオリンやヴィオラを弾く人、全員に課せられた使命ではない。昨年、出会った人はみんな私よりも上手な人ばかりだが、さらに上手になろうという努力に増して、少しでも多くの人と一緒に愉しもうという努力をされているように思えた。上手に弾ければ、いろんな人と弾く機会もできる。難しい曲が初見で弾ければ、急に呼ばれてステージに載っても大丈夫。だから上手に弾きたいと思う。上手に弾くことが目的なのではなく、愉しむことが目的で、上手に弾くことはそのための手段だとかストラテジーになっている。

 だから、今年の目標は愉しむこと。愉しめるように上手に弾くこと。

 もし、機会があれば、リアルでも一緒に愉しんでください。