2015年12月23日水曜日

楽譜への固執

 そんな訳で、自分の中では来年の発表会の曲が決まった。第一楽章の前半ぐらいは、
たぶん、この人はこんな曲を弾きたいんだろうな
ということがわかる程度には弾けるようになった。聴く人の豊かな想像力と音楽への造詣、前向きな考え方と、共に音楽を愛する人に対する慈しみがあれば、きっと素晴らしい演奏だと思っていただけるに違いない。

 レッスンでもまあまあ弾けた。
 今回は、呆れられたりはしなかった。

 だけど、リズムに関しては相変わらず厳しい。まず、付点音符が三連符になっているという指摘。これは難しい。電子メトロノームには付点音符と三連符のビートを取ってくれるモードがあって、三連符はピッポピッポピッポ、付点音符はピッッポピッッポピッッポと鳴るのだけれど、これ、全然区別つかない。
 これまで付点音符といえば、タッカタッカ、とリズムを取っていたのだが、それではダメで、いちばん小さい音符を基準に細かく区切って、タァァカ タァァカ、というように弾きなさい、とのこと。
 んじゃ先生、ここはどうするんですか?
それは

タァァァアァァァ タァァカタァタァ タァァァアァァァアァァァアァァァ アァァァアァカァ タァァカタァァァ タァァァアァァァアァァァタァタァ (以下省略)

ですよ。
あ、だめだこれは。
聴き覚えではダメだし、でも譜も読めないし。先生が仰るには

聴いている人がこの通り譜が書けるように弾かないとダメです。

とのこと。ここがプロとアマの決定的な違いのひとつかもしれない。アマは(というか自分を基準にすれば)、演奏を聞いて譜を取ることなんてない。いい曲だなぁ、と思ったら、まず誰かが書いた楽譜を探すし、自分で譜を起こそうなどとは滅多に考えない。

 でも、これ、葉加瀬太郎もこうして楽譜を起こして弾いているのだろうか。ジャズなんかはどうなんだろう。ちょっと旧いけど宇多田ひかるとかは、自分で作曲するときに楽譜を書いていたのだろうか。誰かの歌を聴いて譜を起こしたりするのだろうか。
 まぁするんだろうな。
 それ以外に、思いついたアイデアを固定して、誰かと共有する手段てないもんな。いやもちろん弾いてみるとか、録音するとか、いろいろあるだろけど、いちおうこれが共通言語だもんね



2015年12月3日木曜日

Handel Violin Sonata no.4

 何気にYoutubeを見ていて素敵な動画を見つけた。


 第1楽章ならゆっくりだし、発表会晴れしそうな気がする。ネットで無料楽譜を探したら、あるある。便利な世の中になったものだ。まずはその楽譜にイタリア語のフリガナ(ドレミのことね)を振って、1オクターブ下をビオラで弾いてみる。

 なんじゃこりゃ。

 意外と弾きにくいものだ。ゆっくりだけど32分音符がところどころに置かれていたり、この前のテレマン以来の鬼門になっている付点音符がてんこ盛りだったり。自分で弾いていて何弾いているか訳が分かんなくなってくる。音源を何度も繰り返し聞いて、なんとかリズムを覚えようとするのだが、なかなか覚えられない。

 そうこうしているうちにレッスンの日が近づいてくる。
 しょうがねぇ。第1楽章の前半だけでも聴いてもらうか、と思って弾いてみるのだが、先生、ちょっと呆れ顔。もうちょっと練習してからレッスン来いよ、と顔に書いてあるのだが、

まだ、大丈夫ですよ。
時間ありますから。

と慰めの常套句。
先生が仰るには、聴き覚えじゃなくて、ちゃんと楽譜見て、楽譜通りに弾けるようにしましょう、とのこと。こういう曲は楽譜が全て。その辺はシャンソンだとかアナ雪とは違う。楽譜に書かれたものを音に出して、その音だけで聴衆に訴求する。リズムも感覚とかじゃなくて、手を叩きながらまず歌ってみて、取りにくいところは細かく区切りながら正確にとる。付点音符も「タッカタッカ」じゃなくて「タアアカタアアカ」と刻んでリズムを取る。
 うむ。
 仰ることは分かるのだが、これだけリズムが複雑だとそれも面倒な感じ。

 ま、しかし、メトロノームで八分音符を刻みながら練習してみると、上手くリズムが取れないところは何箇所かに絞られてくる。

 それと並行して、ヴィオラ譜の採譜。ト音記号を見ながらそのオクターブ下を弾くとなると、音符が線の上にある時と線の間にある時の指の動きが反対になってしまう。線の間にある時は開放弦か、2指、ときどき4指という法則性があるのだが、線の上にある時が開放弦になったりする。やはり、ちゃんとオクターブ下げてハ音譜で採譜しなければ。

 採譜したらいっかい再生してみる。これも便利な世の中だ。

 そんなことで、まだ前半だけだけれど(それも第1楽章の前半ね)、
何となくやけど
どんな曲を弾きたいかはわかるわぁ
と、言ってもらえるレベルを目指して練習する。あとは心の耳で聴いてください。聴く人の人格と教養によって如何様にも素晴らしい演奏になることでしょう。


2015年11月29日日曜日

シャンソン

 10月のアンサンブルの本番までは、レッスンでもアンサンブルの曲を見ていただいていた。本番が終わったのでネタを変えなければいけないのだが、ヴィオラというだけでピンとくる曲が限られてくる。チェロの曲をオクターブ上げるか、ヴァイオリンの曲をオクターブ下げるか・・・・

 うちのスタジオの発表会は2年に1回で、前回は昨年8月。その時はバッハの無伴奏チェロ組曲1番のプレリュードをオクターブ上げて弾いた。もちろん無伴奏。ステージの上は私だけ。いままでは先生にデュオをお願いしたり、ピアノで伴奏をお願いしたり、もっとも豪華だったのは弦楽四重奏にしていただいたり。とにかく先生方にお世話になりっぱなしの発表会で、それはそれでいい思いをしてきたのだが、こうして無伴奏で、たった一人弾くというのもなかなか捨てがたい魅力だった。
 それで今回も無伴奏で何か弾けないかと思案した。

 頭の中に思い浮かんだのは、まだ高校生だった頃にラジオで放送されたピエール・ポルトの演奏だった。当時はリチャード・クレイダーマンだの、フランク・ミルズだの、モール・モーリアだの、イージーリスニング全盛期。そんな中で来日したピエール・ポルトのライブが、1時間ほどに編集されてエフエムで放送された。わずかなお小遣いから奮発して「クロームテープ」というちょっと上等のカセットテープ(たしかTDKのSAというやつだった。ここに写真が。)でエアチェック(ラジオ放送を録音すること)した。そのセットリストに「枯れ葉/愛の讃歌」があった。

 ラジオなので映像はないが、おそらくステージの中央にピエール・ポルトの弾くスタインウェイのピアノがあって、そこにピンスポットが当たり、拍手が鳴りやんだ一瞬の静寂の後に、木枯らしの吹くような旋律があって、シャンソンの名曲「枯れ葉」がピアノソロで奏でられる。まるでステージに美しいアルトを聴かせてくれる歌手が立っているかのようなピアノの旋律。「枯れ葉」のメロディで感情が窮まったところから「愛の讃歌」のサビの部分が始まる。そして再び「枯れ葉」。さっきよりも感情の起伏の大きさを思わせるアレンジ。再び感情が窮まったところで、ストリングスが華々しく「愛の讃歌」を奏でフィナーレを迎える。

 これをヴィオラで弾きたい。

 その時のカセットテープは場所を取って邪魔だという理由で捨てられてしまったが、記憶には鮮明に残っている。楽譜を買ってくれば、ちょっとした挑戦にはなるがなんとか音は取れるだろう。

 そんなことを考えて楽譜を買ってきて、楽譜ソフトでヴィオラ譜を起こして見た。一部ではあるが、ソロで弾いてそれらしく聴こえる楽譜もできた。

だけど何か物足りない

 思うに、こういう曲というのは楽譜では表し切れないメタメッセージが多いのだと思う。
 例えば、1年ほど前なら、小さい子供たちの前でアナ雪を弾いてやれば、みんな興奮して歌いだしたり、手をくるくる回して出ても来ない氷の結晶が出ているのを想像して喜んだりしたものだろう。子どもたちを興奮させるそういったものは楽譜には書かれていない。音として聴こえるものではなく、聞えた音から記憶や経験が呼び出され、心の目や心の耳で視たり聴いたりして興奮しているのだ。
 「枯れ葉/愛の讃歌」も、私にとってはいろいろなメタメッセージの詰まった曲だ。もし、いまそのカセットテープが残っていれば、音を再生して聴くまでもなく、レタリングに似せて書いたタイトルの文字を見ただけで、その頃の淡い思い出が蘇り、そこから自分がピエールポルトのようにピンスポットを浴びてステージでただ一人この曲を弾くところを想像したりして興奮する。しかし、聴いている人とは誰一人そのメタメッセージを共有していない。若い先生は「イージーリスニング」という言葉も御存じではなかった。
 それに自分の思い入れは少々偏っている。たいていの人にとってはこの曲のイメージは越路吹雪だと思う。エディット・ピアフという人もいるかもしれない。それをテレビで見たとか生で見たとか、そういう思い入れがあってこその曲だと思う。ディナーショーを聴きに行って、最後の最後にこの曲を聴いたなどという人のこの曲に対する思い入れなどには、私は思いも至らない。

 そんな訳で、この路線はボツ。
 さて、何を弾こうかしら。

2015年11月19日木曜日

再びセヴシック

 近況を報告しようと思ってブログの更新画面を開けると、たまたま10000ページビューだったので、もっぱらそのことだけの記事で終わってしまった。
 アンサンブルの本番までは、いつもの練習もアンサンブルの曲が中心。自分には難易度の高い曲だったし、弾けないと迷惑も掛かる。だけど弾きたいという思いが強くて、とにかく練習の毎日。ほぼ毎日といっていい頻度で朝練をしたり、休みの日は家に誰もいない時間を見計らって練習したりしていたのだが、本番が終わってしまうと練習のネタがなくなってしまった。本番までは、終わったあとのことを考える余裕なんかなかったからだ。

 本番が終わるといつものことなのだが、基礎練習をする必要性を痛感する。それで、本番後、最初のレッスンのときに、以前見ていただいていて最後まで行けていないクロイツェルを、ト音記号でハ長調の楽譜を見ながら5度下のヘ長調でヴィオラで弾くところを見ていただいた。

※ヴィオラやっている人にはすぐわかると思うのですが、分からないときはもう一度読んで、それでもわからないときはスルーしてください。

その時、先生から、左手の小指を巻いてしまうことについて、ぜひ巻かないようにしてください、というご指導があった。なんでも、先生も大学生になるまで小指を巻いていたのを治した経験があるそうだ。その話を聞いて、なんでも小さい時からやっているのと大人になってから始めたことの差にしてしまってはいけないと思った。大人になってからでも努力すれば出来る。それにそこを治せばいろんな曲が弾きやすいはず。それも前から思っていたのだが、改めて先生からもそう言われたので、腰を据えて取り組むことにした。

 まず試みたのはクロイツェル。音程は二の次で、小指を離しているときにその小指を指板の上に浮かしておくことに重きをおいて練習する。何箇所か、意識していても小指を巻いてしまうところがあることが分かる。
 そこで日常生活から体質改善を図ることにした。ちょっとでも時間があれば、小指と薬指を独立させて動かす訓練をする。寝るときは小指だけを折った状態で左手を枕の下に入れて寝る、なんてことも試みた。

 こういうものは短期的に変わるものではない。次のレッスンのときも相変わらずだったのだが、先生にどうやって治したのか聞いてみることにした。

そりゃ意識して練習するしかないですよ
小指だけ折って枕の下に入れて寝るとか、
そんなことしても治らないです。

と、こっちからいう前にばっさり言われたので、日常生活改善プログラムは中止。

 そのあとから、クロイツェルではなくセヴシックで練習するようにした。こっちの方が純粋に運指練習が出来る。D線(ヴィオラの場合は第2線)で練習するのだが、どうしても小指を巻いてしまうところは小指でA線(第1線)を押さえておくことにした。浮かせるのは難しいが、押さえておくことはできる。その状態で薬指や中指を自由に動かせれば、かなり体質改善になるはずだ。

 本番以降、朝練も2日に1回ぐらいに減っているが、そのうち10分ぐらいはこの練習をするようにした。成果は・・・・ まだ目に見えてこないが、これもアハ体験みたいに、小さな変化が重なっていつかは出来るようになるかもしれない。

10000ページビュー達成

 このブログがgoogleに引っ越してから1万ページビューを達成しました。開設から1051日目にして1万ページビュー。1日平均10ページビューあるということですよね。ページビューってどう数えているのか分からないのですが、すごいことだと思います。いつも見てくださるみなさまに感謝の意を込めて、普段は関係者しか見ることの出来ないページの一部を公開します。



2015年10月30日金曜日

エドヴァルド・グリーグ

こほっ!

 いままでよりも美味しいものが食べられて、いままでよりも広い家に住み、いままでよりも着飾って、いままでよりも楽しいことができて、いままでは持っていなかったいろんなものに囲まれて生活する。科学と経済発展が人間を物質的には豊かにしたのだけれど、その科学と経済発展が人間を支配し、その支配のもとで人間は存亡の危機に立たされている。その原因は人間自身が創りだしたものと、人間自身の能力の間のギャップである。
 いまや人間は、科学が生み出した大量破壊兵器によって自らを存亡の縁に追いやり、経済発展を求めて環境を破壊し、資源の枯渇を招き、貧困と抑圧をも解決できないでいる。この問題を解決するためには、人間自身が創りだしたものと、人間自身の能力の間のギャップを埋めていかなければならない。これこそが生涯学習社会を創出しなければならない理由なのである。
 
などと大上段に言われる生涯学習社会の意義と、自分がいまやっているお稽古事というか、くだらないお遊びというか、その間にあるギャップをどう埋めようかしら… 
書架の片隅にある埃をかぶった古い本からそんなことを思ったりしていたのだが、この動画を見て、もしかすると、自分がやっていることも人類の大きな問題の解決に役に立つのかもしれない、などと思えたりした。



 理屈抜きで楽しそうだ。
 人間はだれもがより善く生きようとしている。より善くとは、物質的な豊かさだけをいうのではない。この動画のような生き方もより善い生き方なのではないだろうか。
 来月、この曲がお気に入りのアマチュアアンサンブルで演奏される。

2015年10月24日土曜日

Shall we ダンス?

 役所広司の「Shall We ダンス?」を見て、大学の教養科目で聞かされたことを思い出した。

 第一の問題は、われわれが「進歩」と称するもの…それが次々に惹起する変化に世界の人々がひどく混乱し、歩調を合わすことができないのではないか。自分たちがしていることの意味と結果をまだ十分に把握しきれていない…しだいに現実の世界と反目するようになってきている。
 第二の問題は、奇怪で悲惨な運命が「ホモサピエンス」を襲う以前に…ギャップを埋めることができるか…たとえ名もなく貧しく生きようとも平均的な人間は生来…「学習する」能力を有している…これに刺激を与えることによって、現在は比較的低い水準にあるその能力をはるかに高くすることができるのである。
 必要なのは、われわれすべてが自分たちの眠っている潜在的な能力を呼び起こし、今後それを目的に向けて賢明に使っていくことを学習することである。

「ローマクラブ第6レポート『限界なき学習』」
J.W.ボトキン他 著 大来佐武郎 訳 ダイヤモンド社,1980

 学生のころは分かっているようで分かっていなかった。こういうのを授業で聞かされて、「そうだよなぁ、こういう人類的課題を解決するためにオレ勉強しているんだよなぁ」なんて思っていた。そのころは「生涯学習」なんて言われてもイメージが持てなかったし、「学習」といえば先生に何か教えてもらって、試験受けて、点数付けてもらう、ってことしかイメージしていなかった。そして、それがものすごい人類課題の解決につながっているんだと思っていた。
http://www.amazon.co.jp/より

 いままで自分がヴァイオリンを弾いていることを「生涯学習」などと考えたことはなかったのだが、書架の隅っこにある本を見て、もしかして、これ、あのころ自分が「けっ」とか思って、心のどこかでバカにしていた「生涯学習」かもしれないなぁ、などと考えたりした。

 大人になって分かったこと。

勉強って面白い。

 それは人間に備わった本能だから。食欲や性欲と同じように、人間は自分自身が人間であるために勉強しようという意欲を持っている。言葉や文字がなく狩猟や採集で生きる糧を得ていたころから人間は、雨はなぜ降るのか、花はなぜ咲くのか、と考えを巡らせていたに違いない。それは、そのことを理解することが彼らの生活を豊かにすることに結びついていたから。

 学校の勉強が面白くないのは、いい大学に行っていい会社に入っていいお給料をもらうための勉強だから。おカネのためにやることはたいてい面白くないと相場が決まっている。

 人間の知性が科学の進歩に見合っていないから、人類は科学をコントロールできていない。そのことが人類的な悲劇を惹起している、という30年以上前の言は、いま、この時代になってみるとものすごくよく分かる。自分が歳をとったからなのか、世の中がそうなってきたからなのかは分からない。30年前なら、核戦争の脅威だとか、空から恐怖の大魔王が降りてくるという大予言だとか、そういうことが人類的悲劇だと思っていた。
 冒頭に引用したテキストが言いたかったのは、人類の叡智をおカネ儲けのために使うのではなくて、商業主義から人類を解き放つために使うべきではないかということだったのではないかと思う。

 自分のヴァイオリンや役所広司の社交ダンスが、どうやってこんな大きな人類的課題を解決するのかは、映画を見てもよく分からなかったけれど、勉強って面白い、人間は自分自身が人間であるために勉強しようという意欲を持っている、というのは実感できる。それでおカネ儲けになる訳じゃないけれど、ほら、自分の生活を豊かにしているじゃん。

2015年10月12日月曜日

本番終わる

 アンサンブルの本番が終わった。
楽しかった。
 ソロの発表会とはまったく違う興奮があった。これはハマる。

 まずは前日。プロの方や賛助出演の学生オケの方も来られてステージ練習。昔からアンサンブルにおられる方によると、この前日練習がいちばん面白いらしい。本番はいろんなことが起こるので、とても楽しんでいる余裕はないとのこと。おいおい。

 ヴィオラパートにも頼れる方が来られてトップの席に座られる。とにかくその人と同じように弾く。いままでの練習で、他のパートは「ここは上げ弓だ」「ここはスラーだ」とパート内で相談して、それぞれ楽譜に書き込んでいるときに、ヴィオラパートはお菓子食べながら楽しくおしゃべり。「いいんですか?」と聞くと、「いま決めておいても、どうせ前日練習で変わるから」とのこと。うーん、新参者の私には、説得力があるのかないのかもわからない。
 そして迎えた前日練習。予て言われていた通り、トップに合わせてボウイングしようとするのだけど、楽譜は見ないといけない、指揮は見ないといけない、トップのボウイングは見ないといけない、となると、なんか自分が何しているのか分からなくなってくる。それにボウイングが変わるとフィンガリングまで怪しくなってくる。
 今回の本番では、ヴィオラは何と7人の大所帯。こんなマイナーな楽器を7台も同時に見ることは珍しいのだが、その中には賛助出演の方もおられて、いったい誰にボウイング合わせたらいいの? ってことを仰っておられる。少なくとも私ではありません。古株の人は「うちのアンサンブルもとうとうボウイングを気にするところまで来たか」などと感慨深げ。気にしていないのはヴィオラだけだったりするのだけど、その会話を聞きながら、
明日は何も気にしないぞ
と心に決める。

 その日、帰ったのも遅かったのだが、本番前の軽い躁状態で眠れず(遠足の前みたいなやつね)、ちょっとふわふわした感じで当日を迎える。このふわふわした感じが、いつもの発表会とは全然違う。発表会のときは、練習でまったく弾けない、というところは基本的にはすべて解消して、とりあえず一度は完璧に弾けた、という状態で本番を迎えるのだが、アンサンブルの場合、メンバーひとり一人が弾けるかどうかにはお構いなしに本番を迎える。今回の私の場合でいうと、弾けないことを前提に本番を迎えているのだ。そして、そういうところはもう弾けないものと悟りきっている。まったく焦っていない。

 控室の準備をしたりプログラムの折込を手伝ったりと、これもソロの発表会にはないような準備が進んで行く。そのうちに、ふわふわしていたのが、だんだん足が地面に付いてきて、だけど普段と比べるとはるかに高いところに自分がいる気分になってくる。弾けなかったらどうしよう、じゃなくて
弾けなくても大丈夫
という確信からくる余裕が、調和のとれた興奮状態と緊張状態を作り出してくる。いい感じになってきた。

 こんな感じでリハーサルを迎える。ここの先生は普段からあまり細かいことは仰らないのだが、リハーサルでは、
大丈夫 楽しんでください
というようなことを仰っている。こういうのは助かる。弾いている方は、弓がバラバラなのも分かっているし、弾けていないところがあるのも分かっているのだが、そこを本番前にどうこう言われて何とかなるものでもない(なんとかしろよ!ってか?)。私は落ちますからみなさんよろしく、それと弓が気になる人は私に合わせてください、と心の中で呟いて楽しむことに決めた。

 略礼服に蝶ネクタイというウェイターのような衣装に着替える。女性は白のブラウスに黒のボトム。なんか美人が多くて緊張してくる。
 ここのアンサンブルは年配の人が多くて、お孫さんとかが見に来たりしている。お孫さんの発表会をお爺ちゃん、お婆ちゃんが見に行くのとは反対だ。あとで聞くと150人以上は入ったらしい。普段の発表会だと、数十人のオーディエンスの前で緊張してしまって、練習で出来たはずのことが出来なかったりするのだが、今日はその四・五倍のお客さんの前でも、不思議と緊張していない。 最初はゆったりした曲から始まる。この曲の途中で、ちょっと弓が震えたところがあったのだが、
誰もあんた見てないよ
と自分に言い聞かせると、すぐにその震えは止まった。

 難曲、ブランデンブルク協奏曲。油断していると、練習でノーマークだった場所で楽譜を見失ったりもしてしまったし、やっぱりここは弾けなかったよね、というようなところもあったのだが、最後まで気持ちをキープして弾ききることが出来た。客演のあるオーボエコンチェルトは、いままでで一番いい出来栄えだったと思う。
 前半が終わると、誰もが「山場は越えた」という感覚になってくる。どの方の表情にも余裕がある。
 後半は、個人的には結構気に入っているテレマンから。比較的短い曲が何曲もある組曲なので、変化があって面白い。それと、鍛冶屋のポルカだとか、モーツアルトのドイツ舞曲といった小品が続く。こういうのは笑って弾かなきゃ。
 最後はチキチキバンバン。この曲はヴィオラが「ジャカジャカジャンジャン」と弾いて締める。
ドヤ顔 決まった!

 終わってみると、新参者の私がいちばん楽しんでいたように思える。いいの、いいの。楽しみは減らない。思えば5月ごろに見学をさせていただいてから、アンサンブルのみなさんには本当にお世話になった。こうして自分が楽しんでいることは何よりの恩返しだと思う。今日、初めて会った賛助出演の大学生も、ずいぶん遠い田舎町で年配の人ばかりのアンサンブルに来て、最初はちょっと不安だったり戸惑いがあったりしたかもしれないけど、いっしょに楽しもう、という気持ちが伝わればステージの上がひとつになってくる。そういうのが客席にも伝わっていくと思う。

 アンサンブルの練習に参加するようになった最初のうちはぜんぜん弾けなくて、どうなることかと思ったものだ。こんなに弾けないのに、温かく迎えてくださるみなさんに何とか応えようと、この数ヵ月間、睡眠時間を削って人知れず練習に勤しんだりもした。アンサンブル練習の場所が遠いのはたいへんだったが、行くのが面倒だと思ったことはなかった。こうして終わってみると、本当に来て良かったと思う。
 何かを楽しもうと思うと、何かちょっとは無理をしないといけないものだが、片道2時間弱の距離を毎週というのを、この先もずっと続けるのかとなると、ちょっと気が重い。今日の本番まで、と思うからこそ続けることも出来たのだが、いったんは退会して、またやるかどうかは考えてみようと思う。
 お世話になったみなさんにお礼を言って、この数ヵ月間、通い続けた街を後にした。
 いい街だった。
 次は移住かな?

2015年9月22日火曜日

バヨな連休

 有難いことにシルバーウィークはカレンダー通りに休んでいる。世間には土日祝関係なしのブラックウィークを過ごされておられる方も多いことだろう。休みの前後に仕事が立て込んだぐらいで文句は言うまい。

 先日のホール練習で、本番に向けてテンションが上がってきたところ。アンサンブルとしては完成度は上がってきているのだが、自分はどれぐらい誤魔化せているのか完成してきているのか何とも心許ないところだ。

 本番では結構な大曲を3曲弾くのだが、それ以外にもいくつかの小品がある。アンサンブルの他のメンバーは、わりとすんなり弾いているのだが、これがなかなか手強い。弾ける人からすると「これぐらいならすぐ弾けるでしょ」という感じなのだが。
 たまに居残り練習をしているときに、パートが揃わないからと言って、その場で楽譜を渡されて、すぐに弾いてしまうという芸当をする人がいる。
 ヴァイオリンが弾けるというのは、こういうことなのかもしれない。いつか自分もそんなふうになるのだろうか。

 写真の曲は、同じ音の繰り返しで簡単そうに見えるのだが、同じ音ばかりなのでいま何処を弾いているのかすぐに見失ってしまう。先日のホール練習では「ここだけは弾こう」と思うところにマル印を付けて臨んだのだが玉砕。帰ってから4小節ごとに区切りを入れたり、主旋律を書き込んだりしたのだが、果たして弾けるようになるのか…。

 さてさて、今日は通常のレッスン日。前回は都合がつかなくて1回お休みにしたので、1ヶ月ほど間が空いている。この1ヶ月にどれほど上達したのか‥‥

 いちおう完成に近いのだけれど奥が深いマルチェロを見ていただくことにした。

 第1楽章は「だいぶ弾けているんじゃないですか」という合格点をもらった。ときどき弓順が気になってちゃんと左手の指が出なかったりするところがあるので、気になるところは全部、弓だとか指だとかを楽譜に書き込んでおくようご指導があった。
本番は何が起こるかわかりませんからねぇ
む。深い。

 続いて第3楽章を見てもらう。のっけからサードポジションの音程が甘い。さすがにこれは自分でもわかるのだが、出してしまった音はもう戻せない。音程だけでなくリズムもいい加減。
この楽章は他のよりも難しいですから、
もうちょっと時間を掛けて練習をした方が
いいですね。
と、わりとストレートなコメント。やはり誤魔化せていなかったか。

 短期的に何とかなりそうな課題もある。例えば、スラーのうしろの方が短くなって、すぐに弓を変えそうとしてしまう傾向があること。そこからリズムか崩れてしまう。二つ目の音を丁寧に弾くこと。うむ。これは出来そうだ。
 16分音符が続くところ、最初の音を疎かにしない。これも16分音符だから次の音を早く出そうと思っているのが仇になっている。
 曲の途中で出てくる4分音符を最後まで弾く。あぁこれも同じね。やっぱり次の音を早く出そうと焦っているから、なんか最初だけバッと出してすぐに消えちゃう感じになってしまう。
 あとは気持ち。こういう音を出したい、という気持ちがあれば、テクニックとかそういうことではなくて、自然とそういう音色になるものらしい。そういうものか。

 しかし、すぐには何ともならないのは小指。
 問題なのは小指の押さえ方ではなく、小指の離し方
 離す時にグリサンドっぽくなってしまっている。横にずらしながら離すのではなく、しっかり上に挙げて離す。だけど、その挙げた指をクルッと巻いてしまうのではなく、離した場所のすぐ上に置いておくこと。
 なんでも、先生も大学生になるまでこれができなかったらしく、大学生になってそればっかり練習して出来るようになったらしい。そういう意味では、子供のときからやらないと、というのがいい訳にはならない。
 本番までに何とかなるというものでもないのだが、これが出来ると随分いろんな曲が弾きやすくなるのではないだろうかと思える。音を出す必要がないので家でも練習できる、と言われたので、これはやらなければいけない。

 そんな訳でどんどん本番が近付いてくる。次回のレッスンはアンサンブル本番の前日だから、アンサンブルの練習優先でお休み。ということは、次に先生にお会いするときには本番も終わっていて、その感想を求められるということか。そして、来年の発表会を目指した選曲が始まる。



2015年9月20日日曜日

ホール練習

 このところ忙しくて練習日記の更新があとまわしになっている。もう1ヶ月も更新していない。何が忙しいって、そりゃもう、仕事でも家庭サービスでもなく練習ですよ。練習。ライフワークバランスって、仕事と生活のバランスっていいながら、実は会社の仕事と家の仕事のバランスだったりしてるように思うけど、本当のワークライフバランスというのは、嫁さんに「ええな、あんたは好きなことできて」なんて言われながら趣味を続けるという不断の努力の上に築かれるものだ。

 さてさて、アンサンブルの練習もいよいよ本格化。今日はほぼ一日、ホールでの練習があった。朝からテンション全開で結構、体力を消耗した。それもそのはずで、9時から4時まで、昼休み1時間をはさんで、ほぼずっとヴィオラを弾く、などということは、それほど滅多にあることではない。ひと昔前はバヨ会とかでそういうこともあったが、いまから思えばゆる~い感じだった。ホールの練習で、指導してくださる先生がいて、そこそこのボリュームがある曲を続けざまに弾くというのは、いままで経験したことのない世界だ。

 まずはホールの響き方の確認。客席定員500人ほどの小さなホールだが、いつも練習している部屋に比べればステージはかなり広いし、天井も高い。いつもと違って周りの音は聞こえにくく、自分の音ばかりが聞こえる。響きで誤魔化されることなく、音程がいい加減だったり、適当だったりするところが、ストレートに聞こえてくる。
あ、やべ
と思ってちょっと音量を落とす。たぶん他にもそういう人がいるのだと思う。ますます周りの音が小さくなる。
 しかし、これも一日弾いているうちにだいぶ慣れてきた。やはり本番の現場で練習してみるものだ。後半はあまり気にせずに弾くことが出来るようになった。けっして自分が上手になったわけではないのだが、自分の出す適当な音に慣れてきたということだろうか。

 このアンサンブルは指導してくださる先生がいて、先生の指揮で練習する。いままでは練習時間も限られていて、「大体出来ている」というところで、次々曲を替えていかれていたのだが、ホール練習でしかも時間がたっぷりあるとなると、そういう適当なところでは先に進めてはもらえない。曲を通してなんとなく弾けているという感じではなく、ダメなところはダメで何度も繰り返して練習する。
 そして最後にその曲の全楽章を通して弾く。場所は本番と同じだから、気分的にも本番さながらだ。やり直しはなし。こういうことで少しずつ本番に近づいてくる感じがする。

 いままでの本番といえばスタジオの発表会だったのだが、これはせいぜい演奏時間5分ぐらいのもの。アンサンブルもあるにはあったが、2曲弾いて5分というぐらいの小品だった。今度は1曲が10分から20分の大作。それが3曲もあるし、他にもいくつかの小品がある。それだけの時間、適切な度合いの緊張を維持するのが結構たいへんなように思う。こりゃ
人格が試される
といっても過言ではない。これまでの発表会でも、その都度これが試されてきて、合格したためしがない。たいてい、練習で失敗したり成功したりするところは悉く失敗に終わり、失意のうちに発表会を終えてきた。さて今回はどうなることやら。

 何はともあれ、ちょっと背伸びして挑戦してみた新しい世界。どれぐらいの背伸びだったのかが、間もなく明らかになる。
 

 

2015年8月16日日曜日

パレート8:2の法則

 アンサンブルの本番に向けて練習を始めてから3か月。本番までの日程の8割ぐらいを消化した。全体の8割ぐらいは弾けるようになった感じなのだが、まだ弾けない残りの2割を、残りの2割の日程で消化できるかというと覚束ない感じだ。私はこれを「パレート8:2の法則」と言っている。

 パレートは19世紀末から20世紀にかけて活躍したイタリアの経済学者で、所得分布の統計的観察から「パレートの法則」という法則を見い出した人で、私が理解している範囲ですごく簡単にいうと、世の中、2割の金持ちが8割の富を独占していて、残りの2割の富を8割の人間が分け合っているというものだ。
 これを応用して、世の中、8割の成果を挙げるためには2割の努力で済むが、残りの2割の成果を挙げて仕事を完成させるには8割の努力が必要だという経験則にを「パレート8:2の法則」と言うことにした。

 要領のいい奴は、だいたいできたところで「もうほぼ完成です」と言って上司を満足させ、あとは深追いせずに、もうそこで出来たことにしてしまう。効率性からいうとこれも非常に合理的な方法だ。
 しかし、仕事の内容によっては、8割では許されないものもある。だいたいできたところで「あとはよろしく」と頼まれて、完成させるまでさんざん苦労しているのに、自分の成果にはならない、という苦労を経験しておられる方も多いことだろう。

 しかし、世の中、この2割が大事なのだ。
 いま佳境を迎えている高校野球でも、そこそこに練習をしていれば8割ぐらいの打者をアウトにすることはできる。残りの2割をアウトにできるかどうかで勝負が決まってくる。
 アンサンブルでも、比較的簡単なところとか、ユニゾンのところとか、あまり自分が目立たないところは、少し練習すれば弾けるようになるのだが、パートソロのところとか、ここは聴かせどころ、というフレーズに限って、いくら練習しても弾けるようにならない。そこさえ弾ければいいのに、と思うのだが…。

 とは言っても、やはりある程度弾けるようになると練習も面白くなってくる。

 最初のうちは、いくら練習しても先が見えなくて、1時間続けて練習するのが苦痛だったのだが、最近は2~3時間があっという間に過ぎてしまう。まず、レッスンで指導いただいたように、付点音符のところとか大移弦とかをゆっくりと練習。それから録音に合わせて弾く練習。そして弾けなかったところをもう一度。そんなことで1時間。これを3曲分。練習しても練習しても、弾けないところはなかなか弾けるようにはならないというのは、最初のころと同じなのだが、それでも、「ここさえ弾ければ」と思うと、自分を奮い立たせることもできる。

 盆休みの間にもうすこし完成度を上げたいところだ。




2015年8月10日月曜日

Marcello

 正直に言うといままで名前を知らなかった作曲家なのだが、この曲は知っていた。
 ちゃんと弾くとこうなる。



 映画音楽に使われて有名になったらしいのだが、私はイージーリスニング(この言い方も旧い響きだが)で聴いて覚えている。

 いま、アンサンブルで課題になっている曲は、ずっと苦労しているブランデンブルクときのうの記事で紹介したテレマン、そしてこの曲だ。その中でこの曲がいちばん短く、譜面はいちばん簡単そうに見える。
 しかし、聴いてもらった通り、音色は結構微妙な(趣深く、何ともいえない美しさや味わいがあること。また、そのさま。みみょう。コトバンクに掲載されたデジタル大辞泉より)ものを要求される。ブランデンブルクやテレマンのように、リズムや速さで適当に誤魔化しながら弾くことが出来ない。


まず初っ端。主役のオーボエはお休みで、弦楽器がユニゾンで弾くところなのだが、先生曰く、この4小節でソロのやる気が決まる、という恐ろしいフレーズ。
 問題なのは随所にある大移弦 ※隣の弦じゃないところに移弦することね。
 どうしても、ギッコッ!となってしまいがちだ。前回の練習で何度もNGがでた。アンサンブル練習も、譜面通りに弾ければいい、あるいは弾けているように聴こえたらいい、というところから一歩先に進んでいる。こっちとしては、ブランデンブルクにかなり気を取られて、まだ譜読みも怪しいのだが・・・

 そういう状況だと、どうしても「早く周りに追いつきたい」という思いから、基礎練習が疎かになりがち。練習のときの録音を聴きながら、それに合わせるというような練習をしていると、速さだけは合わすことが出来るのだが、音色を合わせることが出来ない。

 そこで先生のアドバイス。
 ゆっくり弾きましょう
 速く弾くのはアンサンブルのときだけ。ひとりで練習するときはゆっくり弾くのですよ~、ということだ。大きく移弦をすると音色は崩れがち。まず、移弦前と移弦後のちょうど間ぐらいのところで右肘を固定しておいて、手首の形に気を付けながら、肘の先を出来るだけ小さく動かして移弦する。弓を返すところは慌てないで、弦の上にしっかり弓が載ってから動かし始める。自分一人の練習だから、他の人とリズムがあっていなくても構わない。
 ゆっくりでこれが出来るようになったら、速く弾いても出来るはず、ということだ。



 第一楽章の終盤に差し掛かるところ。動画では1分12秒ぐらいからのこのフレーズも、ヴィオラの微妙な弓さばきが求められる。主役のオーボエを引き立たせるように、そしてもの哀しい雰囲気を醸し出すように、静かに、しかし針のような細い線が確実に観客席に届くように弾く。
 だいたいフォルテは何も考えずに思いっきり弾けばいいのだが、ピアノは難しい。「弱く」ではない。「小さく」でもない。弓を軽く持って「フニャフニャー」と弾くのではなく、しっかり弦に重みを乗せながら、少し弓を倒して弦に触れる毛の面積を少な目に、そして指板寄りを弾くことで音量は控えめに、しかし鋭さを保って、音を短く切りながら弾く。
 むむ…、譜面通りに弾くだけなら簡単なのだが…。



 そして第三楽章の最初。ここもオーボエ以外で音を出しているのはヴィオラだけ。
 アンサンブル練習でここは開放弦禁止令が出てしまった。
 他の箇所で出ていないのが不思議なんだが、ま、そこは先生もあまりハードルを上げるととんでもないことになるのは分かっておられるので、あまり無理は仰らない。しかしここだけは開放弦はダメ。
 じゃ4指でということになると、それはそれでまたたいへん。音程は定まらないし、音色は崩れるし。
 そこで先生の指示はサードポジションで、ということなのだが、これがまたたいへん。なんと、うちのアンサンブルのヴィオラ担当は、全員、サードポジション忌避気味だということが判明。特にG線やC線のサードポジションは指が遠い。
 そこを何とか弾くと、もうそこで力尽きてしまって、そのあとが続かないという始末。

 むむ…、譜面は簡単でもなかなかスッとは弾かしてもらえない。

2015年8月9日日曜日

付点音符

 難曲ブランデンブルクはなんとかカタチになってきた。弾けるところに印をするより、弾けないところに印をする方が楽になってきて、あとはその弾けないところのうち「もうここは弾かない」とあきらめるところと、「ここはなんとか弾かなくては」と踏ん張るところを峻別するところまで来た(キリッ!

 それで今月は、そのブランデンブルクのために後回しにしてきた他の課題曲を中心に、ブランデンブルクと同じレベルまでなんとか持って行く。

 ブランデンブルクは、ヴァイオリンが弾いているメロディがそのままヴィオラやチェロにまで降りてくる。同じ旋律がいろんなところからカタチを変えて現れてくるのが楽しい曲だ。しかも人数の少ないヴィオラが3パートに分かれる。私のパートにはちゃんと弾ける人が他におられるので、さっきみたいな甘々の目標でもなんとかなりそうなんだが、他の曲に比べるとヴィオラ泣かせの曲だ。

 そんな訳で他の曲は後回しになっていたのだが、そろそろそうとばかりも言っていられなくなってきた。

 まずはTELEMANN。

 ヴィオラ弾きとしてはト長調のヴィオラコンチェルトで有名な作曲家だが、今回弾くのは「Ouvertuere "La putain"」。これもト長調で、軽快な明るい曲だ。

 この曲を弾くにあたって課題なのが付点音符。バッハやヴィヴァルディにはそれほど出てこないのだが、テレマンにはやたらに出てくる。

 写真は付点音符の多いところを抜き出しているのだが、ご覧のとおり、付点四分音符と付点八分音符が、まるで付点音符のエクササイズのように出てくる。この付点音符のリズムがなかなか取れない。アンサンブルで弾いていて、まわりとタイミングがあっていないのは分かるのだが、自分が早いのか遅いのかがよく分からない。

 最近、レッスンの方もアンサンブル曲ばかりを見ていただいているので、今日のレッスンでは、この付点音符の練習の仕方を教授してもらうことにした。

 まず、感覚で弾かないこと

 えーーーーーー、そうなんですか。

 私は感覚で弾くものだと思っていました。例えば、スキップをしながら弾くとか、いやスキップしたら弾けないから、せめてスキップしながら歌って、リズムを身体で覚えたうえで弾くとか、そういうものかと思っていたのですが、さに非ず。

 付点八分音符が出てくるところは32分音符に分解して、タタタたタタタたタタタタタタたぁ と弾いてみる。アンサンブル練習のときは「ゆっくり」という訳に行かないから、普段ひとりで練習するときにしっかりそういう練習をしておく。その練習で躓くところは、スピードが上がったときにも必ず躓く。だから、まずはゆっくりの練習で躓かないところまで練習する、という訳だ。

 はい。王道ですね。

 ブランデンブルク以外の曲も、「こういうところがいい」というところはそれなりに難しい。ブランデンブルクほどヴィオラ泣かせではないにしても、けっして甘くはないようだ。
 

2015年7月19日日曜日

ふりがな

アンサンブル練習の帰りに団員の方と同じ電車に乗った。このアンサンブルは地元の方が多く、電車で通うのは少数派。一緒になったのはいつも超絶技法!を披露してくださる方なのだが、楽譜を拝見すると、全部に階名と指番号が振られていた。

 練習のときに、いきなり楽譜が配られて、初見大会よろしく練習することがあるので、みなさん、音符を読んで初見で弾けるものと思い込んでいたのだが、それぞれ見えない努力をされているのだと、そのときに思った。

 ヴァイオリンを弾く人の中には、相当長くされておられて超絶上手い人の中にも、ドレミが頭の中にない、という方もおられるようだ。目に入った音符が頭の中で指番号に変換され、それで身体が動く、という具合だ。
 私も、ト音譜にはよく指番号を振っていた。ト音譜の真ん中のドよりも高いところとか、下線のドより低いところとかは、ドレミなんてまったく頭の中にはない状態だ。

 それがハ音譜になって、それまでは小学校で習った知識でなんとか一部は読めていたものが、まったく読めなくなった。それで仕方なく、音符に全部ドレミを振るようになって、音符→ドレミ→身体 という回路がだいぶできてきたところだった。

 そうは言っても、反射的に動けるのは、ハ音譜の真ん中のドからラぐらいまで、それもファーストポジションだけだ(←ほとんどD線だけ、キリッ)。それも、音符→ドレミ というプロセスが弱く、フリガナのドレミを見て身体を動かしているという状態だった。
 自分としては、次は、フリガナを見なくても音符からドレミを連想できるようにして、それで自動的に身体が動くというところを目指していたのだが、これはかなり時間が掛かりそう。時間が掛かるけれど地道にやっていかなければ、と思っていたのだが・・・

 このところ、レッスンでもブランデンブルクを見ていただいていて、運指と練習方法についてアドバイスをもらっている。それでフリガナの振り方の話題になって、先生からも指番号を振るようにご指導があり、それまでは指番号を振ることをなんとなく「後退」しているように思っていたのが吹っ切れた。高いところは赤、低いところは青、なんてことも先生からアドバイスしてもらった。

 アンサンブル練習の帰りの電車で見せていただいた楽譜には、オレンジ色のペンでフリガナが振られていたので、それに倣ってオレンジ色で書くことにした。キラキラ星の指の位置を基準に、半音高いところは赤、半音低いところは青、と色を変えていく。
 いままでドレミを振るときも、移弦をしたらフリガナを書く位置を変えていたので、その方針はそのまま。
 全部に振るのではなく、集中的に練習するところから振っていく。そこばっかり弾いてみて、運指を定めて、フリガナを振って、またそこばかり練習して、それで今度は通して見る、といった具合だ。

 ちなみに私は、音符に振ってあるドレミを「イタリア語のフリガナ」、指番号はを「アラビア語のフリガナ」と呼んでいる。

2015年6月29日月曜日

演奏は芝居だ

 アマチュアアンサンブルのコンサートを聴きに行った。このアンサンブルを聴くのは3回目だ。
 ずいぶん前に、会社の取引先の方が所属されておられるアマオケのコンサートに行って、プログラムにチラシが挟まっていたので聴きに行ったのが1回目。その時もそうだったが、選曲が自分好みなのだ。場所は今回も隣町のクラシック専用ホール。チェロはプロの先生が客演で演奏された。

 アマチュアといってもここのアンサンブルのレベルはかなり高い。セミプロ級だ。初めて聴いたときから「すごい」とは思っていたが、実際に自分もアンサンブルで弾いてみて、このレベルで弾くのはかなり難しいということがわかった。ほとんどの方は大学のオケの経験があるのではないだろうか。あるいは音大の方もおられるかも、というぐらいのレベルだ。

 選曲もなかなか魅力的。

 客演の方が登場されるのは3曲目。ヴィヴァルディの「二つのチェロのためのコンチェルト」だ。先生は真赤なドレスで登場。きれいな方だ。そして、二つのチェロだからもう一人のソリストがおられる。それはアンサンブルの方なのだが、客演の先生がレッスンをされておられる生徒さんだということだ。

 なんか、めちゃくちゃ 羨ましいぞ
 こんなきれいな先生と、セミプロ級のアンサンブルをバックにして、ステージに二人並んでチェロ弾くなんて・・・

 いや失礼。
 ちょっと違う方向に筆が進んでしまったが閑話休題。

 この日はこの曲が一番印象に残った。何が印象に残ったかというと、プロの人って顔で演奏するんだ、ってこと。この曲はト短調の重い旋律なのだが、演奏が始まるぞ、と言うときには「来るぞ」という顔が出来ている。気持ちが出来ているのだと思う。歌詞も何もない曲なのだが、ただ音が並んでいるだけではなくて、そこにストーリーがイメージされていて、そのストーリーを演じる役者として演奏しているのだと思う。

 この曲の場合だと主役が2人いるのだが、もう一人の方も先生と同じ顔になっている。まさかレッスンで顔のつくり方を教えてもらう訳ではないだろうから、顔が同じということは気持ちが通っているということだろう。何処のフレーズをどう弾くか、だけではなくて、どう聴かせるのか、というようなことも、きっと何度も話されたことだろう。

 こうして演奏されているとき、先生は、となりの生徒は、いったい何を考えながら弾いているのか、いちど詳しく聞いてみたいものだ。

 私なんかだと、台詞を覚えるだけでレッスンが終わってしまうところだ。本番も台詞を言うのに必死で、演技なんて構っていられない。それに私なら、長いセリフとかのあとにドヤ顔が入ったりしてしまう。それでは芝居にならない。演奏しているふりをするという意味では芝居になるかもしれないが・・・

 

2015年6月14日日曜日

そして弓を買う

 平日の会社帰りに楽器店に寄り、出された弓を工房で借りている弓と弾き比べる。楽器店のものの方がよいと思ったのだが、ひとまず結論は出さずに検討することにした。

 こうして迎えた週末。
 工房に申し訳ないと思いつつ、もう一度、楽器店のものを弾いてみようと店を訪ねる。たまたまオールドヴァイオリンの展示会をしていて、試奏をする人も何人かおられるという状況。前回は店のフロアで試奏したのだが、この日は試奏室を宛がわれた。試奏室で弾くとまた感じが変わる。前回よりも発音がはっきりしてくる感じがする。しかし、それは工房の弓も同じ。その条件でもう一度弾き比べてみて、また悩む。前回と同じ、フロアでも弾いてみた。やはり楽器店のものがいい。

 まだ悩む。
 もともとヴィオラ弓なんてそんなにストックされているものではない。予算を言えば、その店の中ではもう他に選択肢はないのだ。

他の店も見てみるか…

 もう、工房の弓は候補ではなくなった。しかし、まだここで迷いが出て、いったん保留のうえ店を後にする。
 商店街でたい焼きを買って小腹を満たす(こんな時になぜたい焼きなのか)。
 近くにある小さなお寺の境内で心を鎮める(たまたま腰掛けるところがあったからなんだが)。
 CDや楽譜を物色する(このときは弓のことばっかり考えていた)。

 きっと他の店に行っても、こんなふうに悩むばかりで結論なんて出ないだろう。今日は工房さんの厚意で弓を借りているが、大手の楽器店ではそうもいかない。モノがない状態で比較するというのは、弾く環境の違いだとか自分の記憶という不確定要素が加わるから、ますます選択が難しくなる。

 そろそろ決め時か

 店に引き返す。
 もう試奏は必要でない。
 購入の旨を伝えてクレジットカードを差し出す。

 こうして新しい弓がヴィオラケースの中に納まった。
 
 そして工房から借りていた弓を返さないといけないのだが、なんだかデートの約束をしていたのに他のカノジョとのデートを理由にそれを断るみたいな感じで申し訳がない。実生活ではそんな経験がないので、そういうときの気持ちをどう表現すればいいのか想像もつかないのだが…。

2015年6月13日土曜日

悩んでいる理由

 弓を折ってしまったのはいい機会だ。こういうことでもなければ弓を買い替えることもないだろう。しかし、妻からお小遣いをもらう「家庭内プロレタリアート」としては、使える予算は自ずと限られている。
 とはいえ、こういう時にあまりおカネの話もしたくないものだ。もともと世俗的な利益のために購入するものではない。現世でこの出費の見返りを期待することは出来ないのだ。お店で値切るなどというのはもってのほか。値段は言い値で、あとは気に入るかどうか、納得するかどうかだけの話だ。

 自分の耳を頼りに選ぶという意味では、前回、喩えに引いたクルマよりも、オーディオの方が近いかもしれない。今回、自分が物色している価格帯もそれぐらいの感覚だ。オーディオの場合は、自分の気に入っているCDだとか、その他の音源をお店に持ち込んで、実際にそのオーディオで聴いて、どれが気に入るかという基準で選ぶ。
 ただし、弓の場合は、同じものがどの店にもあるという訳ではないので、機種を選んでからそれをどこの店で買うか、というところは悩む必要はない。その代わり、他の店にはまた別の商品があるので、物色する店を増やせば増やすほど、選択肢も増え、それに比例して悩みも増す。そして、たいていは価格が少しずつ上がっていく。

 オーディオとのもう一つの違いは、音を聴き分けるのに自分で弾かないといけないことだ。そこには自分の技量というノイズが入る。なんとなく…と思うのは、弓の性質によるものなのか、自分の技量によるものなのか、そこの見極めも難しい。それに、この先何年も使っていくうちに、弓の性質も自分の技量も変わっていく。そこを予想するのはもっと難しいことだ。




 と、
 薀蓄が長くなったが、結局、何が悩ましいかというと、工房で無理を言って借りている弓よりも、楽器屋で試奏した弓の方が、自分にとってはグレードが高かったのだ。値段はそれほど変わらない。

 それで、昨日の記事にも書いたのだが、とりあえず、その日は買わずにいったん検討することにした。もう一度よく考えよう。いや、それよりもう一度弾いてみよう。こっちの方がいいなというのは、そのときのコンディションの所為かもしれないし、自分の感覚も日によって違うかもしれない。

 もともとは、工房で弾いた弓でほぼ決めていたのだが、思っていたより予算が嵩んだので、決断がつかず、楽器店をまわって「やっぱりこの弓しかない」と納得して買うつもりで楽器店に行ったのに、意外な展開になってしまった。当初の予定では、何軒か楽器店をまわって、納得感を高める計画だったのだが、この調子では弾けば弾くほど悩みが増すではないか。

2015年6月12日金曜日

弓の悩み

 弓を折ってしまい、工房で何本かの弓を見繕っていただいて、そのうちの1本に候補を絞った。ところが、予算的には最初に考えていたよりもオーバーしていたので、それよりも安いもので、それよりも良いものがないかと、楽器店も物色することにした。

 たかが弓と思われがちなのだが、これが結構重要だ。同じ楽器でも弓が違えば音は明らかに違う。構造が単純だけに、どこが違うのかよく分からないので、自分で弾いてみて、その感覚で選んでいくしかない。そこそこの値段もするし、一生のうちにそんなに何本も買う訳でもないので、なかなか悩みどころだ。

 これがクルマだったら選び方がはっきりしている。もちろん好みもあるが、いくつか候補を絞り込んで、子供たちといっしょにキャンプに行くから荷物がたくさん積めるものにした、とか、毎日乗るので燃費のいいものにした、とか、遠出するときに疲れないのがいいとか、大勢乗れるのがいいとか、馬力の強いのがいいとか、小回りが利くのがいいとか、などなど、ひとそれぞれに基準があって、その基準で比較をしていけば、だいたい「これだ」というところに落ち着いてくる。

 ところが、弓だとか、もちろん楽器本体だとか、弦だとか、すべてそうなのだが、基準は自分が気に入るかどうかだけ。どういうのがお気に入りかなどということを言語化したり数値化したりすることには限界がある世界だ。

 楽器店でも、ヴィオラ弓をそんなに何本も取り揃えているところはない。もう、気持ち的にはこれに決めているんだということを告げて、これより安くてこれよりいいものはないかとストレートに聞いてみる。相手はプロなので、値段を言わなくてもだいたいこれぐらいのものだということは分かるみたいで、同じぐらいのグレードのものを出してこられる。

 そして、それがまたいいのだ。

 迷う。

 とりあえずその日は保留。
 もう一度、その弓を弾いてみるか、他の店に行っているか…

 あ、悩みが増えている。

2015年6月7日日曜日

大惨事その後

 自分の不注意で弓を折って1ヶ月ほどになる。先日入れていただいたばかりのアンサンブルのメンバーの方の厚意に甘えて、ずっと弓をお借りしたままだ。
 昨日、いつもお世話になっている工房から連絡があり、何本か候補になるような弓をご用意しましたよ、とのことだった。早速見に行って試奏させていただいた。

 まず、外観から。

 弓の材料になる木材は希少なものらしく、廉価版となると、節があったり、年輪が真っ直ぐになっていないような粗悪な材料を使っているものもあるそうだ。ニスが塗られるとわかりにくいが、今回のものはそういったものはない。
 もともと真っ直ぐな木を熱加工で反らしていくのだが、その時に強度を高めるために、断面が丸ではなく、鉛筆のように6角形だとか8角形になっているものがある。以前使っていたのはそうだった。それを買ったときは、比較的程度の良くない材料でそれなりのものを作るための工夫だと聞かされて、納得ずくで買ったものだ。今回は、どれも丸い断面のものだ。
 サムグリップやラッピング、ねじの素材なども、いろいろとあるようだが、今回はラッピングがそこそこのランクのようだ。鍍金されているようなものだと、使っているうちに鍍金が剥げ、錆びてくるものもある。鍍金のものは売られているときに上からビニールか何かで覆って売っているらしいが、今回のものはどれも覆われてはいなかった。音には直接関係ないが、高価なものは毛箱の下の部分にべっ甲が嵌められていたりして、高級感があるのだが、こんかいはそういうのはなかった。

 さて持ってみる。

 ヴィオラ弓はヴァイオリン弓よりも重い。重いなりにどれも同じぐらいの重さなのだが、重心の違いで多く感じたり軽く感じたりする。持った感じで、「あ、重い」とか、「あ、軽い」とか、感覚的に思うのだが、実際に弓のどこかを軽く支えてシーソーのように重心を取って見ると一目瞭然。重心が遠いものは重く感じる。

 いよいよ弾いてみる。

 これが不思議なのだが、同じ楽器を同じように弾いているのに、音も違うし、弾く感覚も違う。深みというか幅というか、そういう音を出してくれる弓もあれば、華やかな音を出してくれる弓もある。弾く感覚は何とも表現できないのだが、いままで使っていた弓と同じようなものもあれば、明らかに違うものもある。明らかに違うもので、明らかに使いやすければ、それを採用してもいいのだが、どっちかというとそういうのは違和感として身体に伝わる。やはりこういう道具は使い慣れたものがいちばんなのだ。

 そんな吟味の上、用意していただいた中から1本に候補を絞った。値段を聞かずに選んだのだが、いちばん高いものだった。ここであまりおカネの話もしたくはないのだが、今回用意していただいたものは全部、思っていた予算より高いものばかり。月賦で・・・などといった話もあったのだが、いま出せないものなら月賦でも払えない。いや、出せない訳ではないのだが、あとは自分をどう納得させるかの問題なので、その日は買わずに弓をお借りすることにした。
 これよりも安くてこれよりもいいものがない、ということを自分で確かめたうえで買おうと思う。

 けっしてこれよりも高い弓は見ない。絶対に見ない。見てはいけないと心に誓いつつ、無理を言ってお借りした。


2015年5月30日土曜日

ヴィオラなんかなくても



 日曜日の朝にある「題名のない音楽会」という番組をご覧になっているだろうか。そのうち先々週の放送がヴィオラ弾きの中でホットな話題になっている。といっても私が知り得る範囲での話だが、知りうる範囲では、全員がたいへん注目してこの回の放送を見たようだ。

 それは5月17日の放送。オーケストラの中でも注目度の低さナンバーワンの楽器、ヴィオラにスポットを当てた企画。クラシックにあまり関心のない人でも知っている超有名曲のヴィオラパートを、世界的に活躍する指揮者、佐渡裕に聴かせて、何の曲かわからないと言わしめ、如何にヴィオラが注目されていないかを証明するというコーナーもある。もちろん、余り知られていないヴィオラの名曲の演奏なんかもあって、ヴィオラ弾きには垂涎の内容だった。

 先日のアンサンブル練習の際にも、ヴィオラパートの中ではこの話題がしばしば出てきて、番組で演奏されたテレマンのヴィオラ4重奏の楽譜も配布された。パートはじゃいけんで決めるということなので、4パート全部練習しておかないといけない。ふつうヴィオラは1パートしかないから、ふつうの曲の4倍楽しめるということなのだが・・。

 さてさて、例のブランデンブルクなのだが、先日は同じパートの方の隣で弾かせていただいた。このアンサンブルは、私が行く前はヴィオラは3人しかおられず、ヴィオラが3パートに分かれるブランデンブルク3番は1パートひとりということになっていた。そこにあとから私が来たので、幸い、どのパートになっても、そのパートでひとりという訳ではない。
 同じパートの人が隣で弾いていると、万一、楽譜を見失ったときに復活しやすい。それで前回は少し弾ける場所が増えた。それでもまだ全部通して弾けてはいないのだが。

 アンサンブルでの練習曲はブランデンブルク以外にもあるのだが、たぶん、ブランデンブルクがいちばん難しい。他の曲はなんとかなると思って、個人的にはしばらくブランデンブルクばっかりを練習しているのだが、それがまた何ともならないのだ。

 そういう中で、また新しい楽譜が配られた。結構有名な曲だ。クラシックに関心のない人でもかなりの方が知っている曲だ。
 前回、楽譜が配られたのだが、ブランデンブルクがニッチもサッチも行かなくて、とても手が回らなかった。アンサンブルの経験が長い方は、ほとんど初見でも弾けてしまう。知っている曲だからというのもあるのかもしれないが、私などがおろおろしている間に、どんどん曲が進んで行く。こうして新しい曲をもらうというのも楽しいものなのだが、いつか自分も、こういうのが普通に弾けるようになるのだろうか。

 ま、右の写真に載っている部分なら、ヴィオラの基本テクニックを押さえていれば初見でも弾けそうではあるが・・・

 さて、この曲、何の曲でしょう。

 
 

2015年5月23日土曜日

ブランデンブルグのその後

 ブランデンブルク協奏曲3番を始めて1ヶ月ほどになった。何回か合わせる練習もしているのだが、いっこうに弾ける気がしない。
記事の本文とは関係ありません

 最初に合わせたときは、いったいどこを弾いているのかさえ分からなかった。2回目は、とりあえずどこを弾いているのかは分かったが弾けなかった。3回目は伸ばす音とか、同じ音で刻む音とかは弾けた。微かに進歩はしている。脳科学者が出てくる番組でやっている「アハ体験」のような進歩だ。あまりに微かにしか変化しないので、こうして説明しないと誰にも分かってもらえない。

 前回のレッスンでは、メトロノームに合わせることと、全体を通せるまではまずは苦手なところを弾けるまで練習するということをアドバイスされた。自分だけで弾いていると、どうしても自分勝手なリズムになりがちだ。それでは合奏できない。メトロノームに合わせて、ゆっくりなところはしっかりとゆっくりに、休符もきっちり拍数だけ休んで弾く練習をする。もっともだ。

 それでメトロノームを120に合わせて、弾けないところ何箇所かを繰り返し練習することにした。伸ばす音とか、同じ音で刻むところとかは、例え弾けなかったとしてもそれほど影響もあるまい。どうせ音量を絞って弾くところだ。それより少し難易度の高いところを練習しておいた方がいい。あまり難易度の高いところに手を付けると、そこばかり練習する羽目になって、どこも弾けなくなってしまう。
当面の目標は

そこそこの難易度のところを
上手く弾けるようになって
ドヤ顔すること

いや、別にこんな大きな字で書くことでもないのだが…

 それでここだというところにマークして、そこを集中的に練習。いざ、合わせの練習へ。
 ところが、練習会場に着くと、合わせる前に撃沈。140以上の速さがある。確かにこれぐらいのテンポの演奏は聴いていて軽快だし心地いいのだが…

 みなさんのこの練習風景を見て方針を変更。何箇所かにマークはしていたのだが、今日はこの1ヵ所に絞って、そこだけは弾いて帰ろう、ということにした。

 しかし、実際にアンサンブルが始まると見事に撃沈。

 今日も悔しいです。

 としょげていると、

その悔しさを少しでも緩和するためには、
最後のところだけ集中的に練習して、
そこだけ弾いてドヤ顔をすることです。

という、非常に現実的なアドバイスをいただいた。
はたしてこの先どうなるのか…

 さっきの「アハ体験」の話だが、あれ、答えを言ってもらうと、最初と最後ではずいぶん違っていたりする。1回1回の変化は微かでも、気が付けばこんなに変わっているということもあるのだ。あまりマイナスイメージばかり持っていても上達はしない。ステージに載っている自分を想像する。さあここからアハ体験の始まりだ。だんだん変化して行って……




最後にはステージから自分が消えている





なんてオチにならないようにしなければ。

2015年5月11日月曜日

大惨事

 ヴィオラの弓を折ってしまった。
先月から始めたアンサンブル練習での惨事。心まで折れてしまう。たまたま2m以内におられた先生が、飛び散った欠片を丁寧に拾い集め、

あ、これなら直りますよ

と仰って、どうやって直すのかを解説してくださる。周りのみなさんは興味津々。なるほど、と聞き入っておられる。いや、実は2年前にヴァイオリン弓を同じように折ったことがあるので、直し方は知っているのだが・・・

 ともあれ、その時もたしか修理代は1万円はしなかったはずだと思い出して、大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせる。おかげで帰りの駅でホームから落ちなくて済んだ。

 ところが工房に持って行くと、折れた場所が前回よりも下の方、つまり弓毛をいれる溝というか、いやとにかく折れた場所がわるくて、もしかすると直らないかも、ということ。
 あぁぁぁ、階段から転げ落ちそうな落ち込み。
 日数も少しかかるということなので、とりあえずは折れた弓を預けてきた。

 あくる日になって、ちょっと気持ちが変わってきた。

 実は、ヴィオラを買うときに、この弓に関しては相当妥協して買ったものだ。衝動買いに近い買い物だったのだが、多少の理性はあって、楽器はこれっと決めたのだが、弓もケースも大盤振る舞いする訳には行かなかった。弓も2種類、ケースも2種類並べて、どちらを取るか考えた挙句、弓はいずれ買い替えることがあるかもしれない。なにせその時はヴィオラ初心者だったし、弓の違いもよく分からなかった。そのうちに弓の違いも分かってきたときに買い替えることも出来ようが、ケースはその時に買ったらあとで買い直すこともあるまい、という、分かったような分からないような理屈でケースにおカネを傾斜配分し、弓は楽器とは不釣り合いなほど安いもので済ましていたのだ。

 幸い、アンサンブルの方がヴィオラ弓を貸してくださった。この借りた弓が確実に折れた弓よりも弾きやすい。次回の練習で、しばらくお借りできないか相談して、ゆっくりいい弓を物色しようと目論んだりしているところ。大阪市の大手弦楽器店に行こうか、工房で相談して見繕ってもらおうか、アンサンブルの先生に相談しようか、弓の選び方をいろいろ思案しているのだが、おカネをどうやって工面するかだけは思案しても答えが出ない。

2015年5月4日月曜日

ブランデンブルグ協奏曲

http://ja.wikipedia.org/wiki/より
事情があって、J.S.バッハのブランデンブルク協奏曲3番に取り組むことになった。3番ト長調の第2ヴィオラだ。

 このブランデンブルク協奏曲3番は、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロがそれぞれ3パートに分かれている。通奏低音まで含めると10パートの堂々とした編成だが、そこはバロック。そんな大人数で演奏するものでもない。特にヴィオラなんて楽器は人口も少ないので、パートひとりでも弾ききらないといけないという覚悟で練習しないといけない感じだ。

 バヨ先生曰く、ヴィオラって音域だとか大きさが中途半端で、ヴァイオリンみたいにひらひらさせて晴れしないし、チェロみたいに深い音も出ないし、でも、オケでは絶対に必要なパートだそうだ。昨年の秋に先生が交代してから初めて、前回のレッスンでヴィオラを見ていただいたところ、
ヴィオラ、向いているかも
と微妙に褒められた。

 褒められて気を良くしたものの、素人にとってこれは結構な難曲。
 これまで何度か合奏をしたヴィヴァルディの場合、ヴィオラのパートには16分音符がほとんどなくて、きっとこれはピエタ修道院の楽団の中で、一生懸命練習してもなかなか上手になれない子供が、行き場がなくて辛い思いをしないように、いまの学校で例えれば、勉強もスポーツも友達付き合いも苦手な子供が教室に居辛くなった時の居場所ともいわれる保健室のような場所としてヴィオラパートを書いたのではないか、と思えるような譜面だったのだが、バッハの場合はヴィオラであっても容赦がない。しかも、他のメンバーは既に半年ほど練習をしていて、テンポもかなり速い。果たして無事に合わせることは出来るのか・・・

 それにしても、バッハの曲はすごい
 どうすごい、って上手く言えないが、何か精密機器のような気がする。自分のパートだけ練習していても気付かないのだが、合わせてみると、いろんなパートの音が、まるで歯車が噛み合うように絡み合っている。予期しないところで急にユニゾンになったり、わずかな休符の間に外のパートの特徴的なフレーズが聞えてきて次に自分が弾くフレーズを導き出していたり。全然弾けてはいないのだが、楽譜を渡されてその席に座らされるだけで、中世の時計台の中にいるような、産業革命の頃の工場の中にいるような、そんな興奮を感じる。

2015年5月3日日曜日

情熱の日

 ラ・フォル・ジュルネに行ってきた。
この街には立派なオペラホールがあるのだが、そのホールを中心とした春の一大イベント。大中小3つのホールが2日間フル稼働になるほか、ロビーコンサートなんかもある。クラシック音楽というと堅苦しいイメージがあるのだが、お祭り気分で1日楽しもうというイベント。今年のテーマはバッハとヘンデルだった。

 ホールでのコンサートは有料。といっても普通のコンサートを思えば安価で、子供OKなのもあって、1時間ほどでどんどん入れ替わっていく。知っている曲が演奏されるものはないかと物色していたら、バッハのヴァイオリンコンチェルト1番とドッペルが演奏されるものがあって、あらかじめチケットを購入。それを中心に、ロビーで催される無料のコンサートや、外で模様される県内の高校生によるマーチング(これにはバッハやヘンデルの曲はなかった)、それと屋台の食べ物で1日過ごす。心配した雨も降らず、楽しい1日だった。

 
 

2015年3月29日日曜日

Vivace

 音楽用語というのはイタリア語が多い。どうやら現在に続く楽典が確立したのがルネサンスの頃のイタリアだったからのようだ。五線紙に音符を並べて表記する楽譜は、もともとは西洋から始まったものとはいえ、いまや世界共通語。読めるかどうかは怪しいが、これを読むのに言葉の違いが障壁になることはない。しかし、その楽譜のところどころに書かれている、おそらくイタリア語と思しきアルファベットの意味はあまりわからず、ほとんど無視していることが多い。

 さてさて、バッハのドッペルの最初に書かれている「Vivace」。速度記号としては、Allegroより速く、Prestよりは遅いぐらいのようだ。これまで八分音符が96ぐらい、つまり四分音符にすると48ぐらいで練習していたのだが、そんなもんではない。
 数ケ月前までのレッスンでは、メトロノームなんて関係なしに、とにかく弾けるところは速く、弾けないところも出来るだけ速く、というような弾き方をしているのを注意され、いちばん弾けないところがちゃんと弾ける速さで練習しましょう、ということになった。それでこの速さで練習していたのだが、それでも弾けない。
 そこでネットに載っていた練習用の動画を1/2の速さで再生して練習するようにした。八分音符が80ぐらいの速さだ。それで前回のレッスンで先生に聴いてもらったのだが、最初の4小節を弾く前に、遅すぎると呆れられた。

 この出来のわるい生徒を前に、先生もお悩みの様子で、ゆっくりでは練習にならないと仰ったり、だけどまずはゆっくりから練習しないといけないと仰ったり、結局、速度に関してはどうしたものか決めあぐねておられるようだった。

 先日、このドッペルを合わせる機会があって、合わせるのだから自分の都合ばかりも言っていられないし、なんとか八分音符で96ぐらいを目途に頑張ってみたのだが、そこで相方が仰るには、「Vivaceでしょ」とのこと。とにかく闘いを挑むような感じで速く弾くという。
 そんなのできるわけないよ
 と思いながらやってみると、これが意外と面白い。出来ないところは頭の中で拍だけ数えたり、とりあえず拍の頭だけを合わせるようにしたりなど、とても「ちゃんと弾けている」感じではないが、とにかく面白い。いままでこの曲を弾いていて、こんなに面白いと思ったことがない。ニ短調だし、バッハだし、重々しい旋律なんだけど、そんなことは関係なくて、ものすごく楽しい曲になる。これは新しい発見だ。

 それ以来、四分音符60、八分音符換算で120ぐらいにいきなりスピードアップした練習が始まった。
 昨日のレッスンでも、この速さでは弾けないところは何箇所かあって、そこはスピードダウンしてしまうところを指摘はされたのだが、四分音符60で練習していることについては、当分、その速さで弾けることを目指して、その速さで練習してきてください、ということになった。

 イタリア語のVivaceというのは、活発に、活気があるように、賑やかに、ということらしい。メロディラインは結構重々しいのだが、案外バッハも、この曲は賑やかに楽しく弾くことを意図していたのかもしれない。

2015年3月15日日曜日

集中力

 ヴァイオリンの練習でもなんでもそうなのだが、長時間、集中力を維持するのはなかなかたいへんなことだ。しかし、その集中力を維持できるかどうかで成果に大きな違いが出てくる。よく、短時間でもいいから集中してやる方が、長時間ダラダラと練習するよりも成果が出る、などということを聞くが、集中もせずにしかも短時間では仕方がない。集中力と時間のどちらも大事なんだ。

 妻がパートに出ていて子供たちがクラブ活動で留守という日は、基本的には家で好きなことが出来る。よく妻から、

あんたはええなぁ。
休みやったら好きなことできるやん。
主婦はたいへんなんやで。
休みでもやることがいっぱいあって
四六時中、休みなんかあらへん。

とよく聞かされるのだが。まさにその好きなことが何でもできる休みだ。この貴重な時間にヴァイオリンを弾かない手はない。窓がペアガラスで、多少、外に漏れる音もちいさいだろうと思われるリビングで、カーテンを閉めてヴァイオリンの練習。メトロノームに合わせてドッペルを弾く練習や、Youtubeの動画をゆっくり聴きながら弾く練習をしてみる。

 ところがこいつがどうも上手くは行かない。メトロノームに関しては、いまだに八分音符=96で最後まで通すことが出来ない。動画の方も、いつの間にかタイミングがずれてくる。

 こうも出来ないことばかりだと、練習がだんだん嫌になってくる。そのうち、そういえば風呂の掃除を頼まれていたな、とか、部屋がちょっと汚かったな、とか、晩飯の用意を何かしておいてやろうか、とかいろいろなことが気になりだす。
 料理も家事も決して嫌いな方ではない。風呂洗いといえば、子供たちに頼めば浴槽だけの掃除だが、私の場合は壁も床も、洗面器や腰掛けも全部洗わないと終わったことにならない。料理の方も、冷蔵庫の中と「簡単おかずのレシピ」を見比べながら、適当にいろいろと仕込みをしだすと、次々と、あれもこれもと考えて、結局3品ぐらい準備してしまう。
 別にそれで感謝されるわけでもないのだが、風呂場やトイレや汚れていた部屋がきれいになったり、それなりの料理が出来たりすると、結構充実感がある。

休みの日に好きなことをするのも結構たいへんだ。
気を抜いていると、いつの間にか、こうして集中力がないのを、家事や料理の所為にしてしまう。
よくないなぁ。

2015年3月8日日曜日

運気が遠退く

前回までのあらすじ
 弦が古くなったので、以前にD線だけ切れたときに全部交換して、E,A,Gはそのまま残していた高級ガット弦OLIVEに交換しようとしたら、A線が伸びてしまって、仕方なくAとGをネット通販で買ったら、円安と消費税8%のなんちゃらミクスの所為で以前より随分高くて、だけど、労働者を安い賃金で雇っていつでも首にできる労働規制の緩和のおかげで注文した弦がすぐに届いたので、さっそく交換した。

 さてさて、弦を交換した翌日の朝。いつものようにスタジオで朝練をする。これで練習にも精が出ると、ケースを開けると信じられない光景がそこに・・・・









 もう、画面中央に貼りつけても、まだ伝わらないぐらい衝撃的な光景だった。何もなくても結構高価な弦なのに、まだほとんど消費もしていないうちに消費税を取られているという事実に怒りが込み上げてくる。もともと社会保障費を確保するための増税たっだのに、相変わらず年金を減らす話ばかり。老後のための蓄えはインフレ政策で目減りするし、そもそも金持ちが儲かれば恩恵は国民みんなに行きわたるなんて、どう考えてもあり得ないじゃないか、と、弦が1本切れたことから持って行き場のない怒りが次々と込み上げてくる。

 この1件から先週は運気が後退しまくりだった。仕事で行き詰ったりとか、練習が思うように出来なかったりとか、乗ろうとしていた電車が目の前で扉を閉めて発車していくとか、そういう詰まらないことが起きるたびに弦が切れたことを思い出し、消費税が8%になったことを思い出し、円安で高かったことを思い出し、弦だけじゃなくて小麦も大豆もみんな高くなっていることを思い出して、込み上げてくる怒りを必死で抑える日々が続いた。

 そして今日はレッスン。

 切れたD線は、手元にあった他の弦で代用しつつ、またネットで注文。すぐ交換しても良かったのだが、レッスンが近いのでレッスン後に交換することにして、しばらく置いておいた。
 レッスンで弦をご覧になった先生から指摘事項が3点。

 まず、G線のつけ方がおかしい。写真を見ていただくとわかるのだが、弦をテールピースの下から通して、ループエンドの結び目のところをテールピースの上に出して止めていたのだが、これは上下逆。上から通して結び目はテールピースの下にするそうだ。
 さっそく先生の手により弦の貼り換えがなされる。
 は、早い。
 あっという間に、ほぼGの音に調弦まで出来てしまう。私がやると、なんか弦が切れそうで、恐る恐る、半音ずつぐらい音を上げていくのだが・・・。

 次の指摘は、写真のA線のコマのところにあるチューブ。不要なので取りましょうとのこと。ビビビ・・・と変な音が出る原因にもなるとのことだ。もともと付いていたものを取るのは、なんとなく勿体なくて、あとで「やっぱり残しておけばよかった」なんてなるのが嫌だから残していたのだが。
 
 3つめは、アジャスターを付けまくるのは素人っぽくて恰好わるいとの指摘。いや先生、恰好なんか構っていられないですよ、と言いたいところだが、若い女性から格好わるいと言われれば何とかしない訳にはいかない。どうせD線は取り換えるのだし、ということで、D線からアジャスターを取ることにした。

 クロイツェルは、最初の頃ほど細かいことを仰らなくなった。
 ドッペルは、いろんなことを一度に仰るので、ちょっと消化不良。言われたことは楽譜に書くようにして、そのうちのひとつだけでも次までに何とかしようと思うのだが、果たして・・・・。

 テールピースのところで弦を上下逆に付け替えたので、これで今週は運気も逆転するのか。



2015年3月1日日曜日

新しい弦でドッペル

 昨日の夕方に注文した弦が、今朝、新聞を取りに行ったらもう配達されていた。すごい世の中だ。週末だから発送は月曜日だろうと思っていたのだが・・・。ネット通販といえども何から何まで自動ではないはず。きっとこれを届けるために、何人もの人がこの週末の夜に仕事をしておられたのに違いない。円安の恩恵は巡ってこないが、雇用規制の緩和については恩恵は確かにある。こっちの方の恩恵を受けるのは何だか複雑な思いだ。
 さて、早く届いたのならその時間を無駄にする訳にはいかない。きのうのE線、G線に続いて、さっそくA線、D線も交換する。弦が新しいということもあるのだろうけれど、さすがガット弦だ。よく響く。特に音程がぴったり合った時の共鳴がすごい。

 しかし、そこに問題がひとつ。ガット弦は安定するのに少し長い期間が必要だ。前回、OLIVEをつけたときは確か2週間ぐらいかかったと思う。その間、E線以外は半音高くしてしまっておく、なんてことをした。
 今回は、弦を張って早速、弾いてみたのだが、弾き始めて10分もすると、もう、私のような素人でも別の音って分かる程度に調弦が狂っている。これもしばらくは仕方がない。

 ともあれ、これで練習にも精が出る。

 よく「バヨ会」でお付き合いいただく方の中にはセミプロレベルの方もおられる。そういうセミプロレベルの方同士が数年前のブログが最盛期の頃にはブログを通して知り合いになって「いちど合奏しましょうか」みたいなノリでオフ会をされておられるのを、ブログで拝読したりしていた。私のような素人の「バヨ会」は、あらかじめ楽譜が回されて、それを必死で練習して何とか合わせるのだけれど、上級者ともなれば「じゃ、ドッペルでも弾きましょうか」となるのに違いない。いつか自分もそんなふうにさりげなくこの曲を弾いてみたいものだと、激しく妄想したものだ。
 その頃の私は、パッヘルベルのカノンでさえ弾けなかったから、まずはカノンから、と思って練習をし始め、なんとか弾けるようになった。カノンが弾けたら次はドッペル、と思っていたのだが、そのドッペルが弾けるようになる前に、カノンが弾けなくなってしまった。ムムム…

 ま、しかし、そのドッペルももう少しというところだ。とりあえず、この動画で練習してみる。速さはこれの半分。右下の歯車のアイコンをクリックすると速度を変えられる。あまり細かくは設定できないみたいで、半分か1/4か、それとも標準より速いかのどれかなのだが、とりあえず半分にすれば、八分音符ひとつが80ぐらいのテンポになる。



 そこそこ出来てきたら、次はこれ。
 相手パートを聴きながら自分のパートを弾く練習。
 いやその前に、歌う練習。歌うぐらいできると思うなかれ。これが結構難しい。



完成するとこうなる。



動画をアップしてくださった方、ありがとうございます。

2015年2月28日土曜日

弦の交換

 相変わらずドッペルとクロイツェルを交互に練習している。音程とテンポが課題なのも相変わらずだ。テンポに関しては、メトロノームを使って、八分音符を96で、ドッペルを最初から最後まで弾けるようになるというのがとりあえずの目標。早くて指がついていかないというよりも、16分音符のところで走るのが問題だ。どうやら音程が怪しいところに限って走る癖がある。出した音が気に入らなくて、早く次の音を出して、その気に入らない音をなかったことにしよう、という心が見え透いているような演奏になっている。とりあえず、メトロノームを使っているときはあまり音程を気にしないで、落ちれも元に戻れればよしとしておいて、音程のときはテンポやリズムは無視して音程を極めるという練習をしているのだが、こうしてみると、どうやら、音程とテンポは不可分のもののようだ。


 さてさて、上手くいかないときはつい楽器の所為にしてしまうのは何時ものことなのだが、最近、どうも弓が弦をうまく掴んでくれないような気がしてきた。なんだか弦の上で弓が滑るような気がする。そういえば、弦も弓毛もしばらく交換していない。
 弓毛はメンテナンスに出さないと交換できないが、弦なら自分でも交換できる。そこで、以前、張っていたOLIVEに交換を試みる。OLIVEは切れるまで使えるって聞いているのだが、D線だけ切れてしまったので、その時に全弦をEvah Pirazziに交換していた。D線以外はOLIVEを残しているので、とりあえずD線以外を交換することにした。
 ところがここでトラブル発生。A線の調弦で、いくらペグをまいてもGisから音程が上がらないなぁ、と思っていたら、ペグに巻きつける手前のところがジュルジュルっと伸びてしまった。あらら、これじゃ使えない。ということで急遽、A線も注文。
 前買った時は円高の恩恵があったのだけど、今回は円安で前よりも3割以上高い。円安で景気が良くなって富裕層が益々儲かれば、その恩恵がいつか国民全体に行き届くらしいのだけど、その恩恵はいったいいつ我が家に巡ってくるのだろう。

 ちなみにG線だけアジャスターがついていないのは、ペグで調弦する練習のため、というつもりなんだが、相変わらずそいつは苦手だ。OLIVEに替えたらしばらく苦労しそうだ。

2015年2月20日金曜日

ドッペルよ永遠に

 もはや、どっかの国のだれか有名な人が設計した教会のように、永遠に完成しないことに意義があるとさえいえるバッハのドッペル。前回のレッスンではこの曲を見てもらって玉砕だった。

 昨年の秋から、クロイツェルをテキストにして、説明したところ以外は練習もさせてもらえないレッスンが続いていたのだが、前回のレッスンでは、いきなり
なんか曲ありますか
と仰って、ずっとドッペルを見てもらうことになった。
 こうして背伸びをさせてもらって難しい曲を見てもらうと、やっぱりちゃんと基礎練習をしなアカンということがよく分かる。こうしてブログを書いていると、このときの45分のレッスンでいったい何を見てもらったのか、よく思い出せない。出来ていないところ満載で、何からどのように手をつければいいのか分からないまま、貴重なレッスンの時間が終わってしまう。

 いちばん最後のところで、音程をしっかり取りましょうということと、速さを一定にというご指導があった。

 それでまず、速さやリズムは度外視して、チューナーでひとつひとつ音を合わせながら弾いてみる。先生から
音がおかしかったらすぐ楽譜に書く
という指示があったのだが、そこはちょっと割り引いて、何度やっても同じようにおかしい時は矢印を書くことにした。そういうことをやっていると、
何度やっても音程が合わないのだけれど、
同じように合わない訳ではない、
というところが出てくる。例えばポジション移動。それでそのフレーズをつかって今度はポジション移動の練習ばかりをする。あるいはサードポジションの音階練習をする。
そんなこんなで2週間ほど練習した。
といっても、週3日ぐらいで朝の30分程度の練習だから、たかが知れているのだが。

 今週になってからは、今度は音程はある程度、目を瞑って、一定の速さで弾く練習を試みる。メトロノームの出番だ。
 ところがこれがなかなか手強い。
 いつも練習しているスタジオにあるのは、写真にあるような格調高いメトロノームなのだが、格調はこのさいどうでもよくて、カチッカチッとなる間に4回に1回
「チン」
と鳴らすことができるようになっている。この「チン」が、ときどき変なところで鳴る。
次の音が「チン」だ
と思っていたら、そこは「カチッ」っとだけ鳴って、なんか空振りしたみたいになって、その次の拍で鳴る。たいがいは16分音符炸裂の、それもサードポジションで弾くフレーズの直後が多い。16分音符のところで遅れるのではなく、そこを誤魔化そうとして走っている。そんな感じだ。
 いつものようにスタジオに行って、練習の最初からメトロノームを鳴らしながら、曲の最初から弾いてみる。つまずいたらその辺りの適当な場所からまた始める。何度やっても上手くいかないフレーズは歌ってみる。そんなことをやっていると、30分で最後まで行きつけない。

 そんな訳で明日はレッスン。
 娘がスタジオで練習したいというので連れてきた。吹奏楽部でオーボエはひとり。周りは経験者も多くて、なんだか自分が足を引っ張っているみたいに思っているようだ。いま隣でオーボエを吹いている。なんか難しそうな曲だ。がんばれ、娘。がんばれ、父ちゃん。

 

2015年2月8日日曜日

踊りと音楽

 大袈裟なタイトルを付けたが、今日は身内の話なので、関心がなければご退室を。

 上の娘は高校の吹奏楽部でオーボエを吹いているのだが、そこの吹奏楽部ではオーボエは屋外では吹かさないようにしているらしい。ネットで見ていると、娘の高校以外でもそういうところが多いようだ。ヤマハのホームページにもそれを示唆するようなことが書かれている。吹奏楽部ではマーチングもあるのだが、その時はフラッグパフォーマンスなどの踊りをするそうで、その指導をしてくださる先生もおられるらしい。私の娘に踊りが出来るのか、と不安になるのだが、先生のご指導の賜物で本人は「大丈夫」といっている。

 最近は体育の内容で創作ダンスが必須になっているらしい。子供向けのダンス教室もあるようだ。ダンスパフォーマンスが売りのアイドルグループが全盛を極めている。私が若い頃はストリートダンスなんてものは不良のやるものと、どこか斜に構えて見ていたものだが、最近ではそういう偏見もないようだ。

 ところで、前から気になっているのだが、ダンスの振り付けというのはどうやって伝えるのだろうか。学校の授業でやるとなれば、創作ダンスの中にこういう動きを取り入れること、とか、この動きが出来れば加点する、などといったことが指導書に書かれていたり、そういう基準に基づいて採点がなされて成績をつけていく必要があるとおもう。子供向けのダンス教室も全国で展開しようとすれば、どこでも均質なサービスを提供しないといけないので、どういうダンスをさせるのかが何らかの形で記録されているように思うのだが、どうもそういうものにお目に掛かったことがない。娘も、先生がやっているのを見て覚えた、とか、「みーぎ、ひだり、くるっとまわって、はいポーズ」みたいな感じで覚えたとか、そんなことを言っている。楽譜のような決まった表記法で記録されるものではないようだ。分からないときは動画を見て覚える、ということなので、あるいはそういった録画や動画再生が手軽にできるようになったのと表裏一体でダンスパフォーマンスが流行っているのかもしれない。

 バロック音楽には、「メヌエット」「シャコンヌ」「ジーク」などの表題が多いが、これは実は踊りの型らしい。以前、何かで、それらの踊りのステップを足の形と矢印で書き表した「指南書」のようなものを見たことがある。詳しくはないのだが、もしかするとこういった踊りは何らかの表記法で踊り方が定められていて、それを会得するのが貴族たちの教養だったのかもしれない。いまのダンスパフォーマンスは音楽が先にあってそれに合わせてダンスをしているのだが、バロックで踊りの名前のある曲は、もしかすると踊りが先にあって、それに合わせて音楽が作られているのか・・・・
 私には敷居の高い世界ではあるが、そんなこともちょっと意識すると、ヴァイオリンも面白いのかもしれない。

 仕事で1週間ほど渡航していたので、久しぶりにヴァイオリンに触れた。出発前にドッペルを思いっきり弾いて出掛けたのだが、帰ってきて再び弾いてみるとなかなか弾けないものだ。いや待てよ、出発前もそんなたいして巧くは弾けなかったから、決して退行はしていない。

 娘曰く、音が出なくてもいいからオーボエの形をした棒があって運指だけでも練習出来ればいいのに。それは同感。指板と顎で挟むところだけの棒に弦が4本張られていれば、いちおう練習は出来る。音楽の教科書の裏表紙にあった鍵盤の絵と同じかもしれないが、そういうものなら出張先でも持って行けるなぁ、なんてことを考えたりした。



2015年2月1日日曜日

「できる」と「分かる」

 ピアノである曲を弾くときに、子供の頃から弾いていれば、楽譜なんて読めなくても曲が弾けてしまう。テレビで聴いた曲を耳コピしてスラスラ弾く子供だっているだろう。これはまさに「できる」「できない」の世界だ。楽譜の読み方だとか、弾き方なんてしらなくてもいい。弾けているのだから。

 それと比べて、五線紙のここに丸があればピアノのこのキーを押すとか、#の記号があればその右隣の黒いキーを押すとか、このマークならこの時間キーを押し続けるとか、そういうのは「分かる」「分からない」あるいは「知っている」「知らない」の世界。ピアノが弾けない私でもある程度のことは知っている。知っているからといって弾けるわけではない。

 例えば、ある店舗を経営している会社で、閉店前になると入店客に退出を促す曲をピアノで生演奏するという業務があったとする。その業務には特別なスキルが必要なので、いつも特定の社員に任せていた。
 その社員は、ピアノは弾けるのだが、楽譜は読めない。いちど、もし彼が辞めたらこの業務を誰にも引き継げないじゃないかと気になって、彼に楽譜起こしを頼んだのだが、与えた五線紙なんて無視して、なにやら彼なりの独自の譜記方法でその曲を記録しはじめる。カタカナで「ターラッタタン」って書いてあるので、それはどういう意味だと尋ねると、その場合はこういうリズムで弾くのだと聞かせてはくれるのだが、同じ表記になっているのにリズムが違うところがあったりして、なんとも危うい。
 そしてとうとうその社員が辞めることになった。そこで、その社員と同じぐらいピアノが弾ける人を新入社員として迎えて引継ぎを行う。楽譜があればそれを渡して、「ここはこういう感情を込めて」なんていうような楽譜には表し切れないところの補足を若干行えばいいのだが、彼の場合はそうはいかない。彼が弾くのを横で聴かせて耳コピで業務伝承を行う。
 こうして無事に業務引継ぎが出来たのだが、なんとも危うい状態だ。
 なぜか。
 「できる」ということの裏付けに「分かる」「知っている」というものがないからだ。

 大人になってからヴァイオリンを始めた身としては、この「できる」「できない」の世界は如何ともしがたい。分かっていることと出来ることは違う。自分が目指すべきところは「分かる」ではなく「できる」、つまりヴァイオリンを弾けるようになりたいのだが、そこへのアプローチは「分かる」からアプローチしないとなかなか前に進まないことも多い。例えば、ファとラがハモるのは、ファの5倍音とラの4倍音が共鳴するためで、D線とA線は2:3で共鳴するように弦が張られているから、D線の長さの5/6のところをポイントして、開放弦を弾いたときの1.2倍の音を出すことで、A線の開放弦との比が4:5になって共鳴する、なんてところまで突き詰めていくと、「楽典のことはわからない」なんて魔法の言葉で逃げたくもなるかもしれないが、そこをなんとか理解できるように頑張れば、もしかするとそこから気付くことがあるかもしれない。

 音律論、和声理論、作曲法、音楽史・・・。
 別に知らなくても、弾ける人には弾ける。だけど、弾けない人に弾けるようにするには、案外こういうところから入った方が近道なのかも、なんてことを考えたり、考えなかったり。

2015年1月25日日曜日

ヴァイオリンを弾くときの立ち方

 いまさらながらこんなタイトルで今日のレッスンをまとめる。

 前回のレッスンで、左手親指の付け根に余計な力が入っていることをさんざん指摘されたので、今回はそこを少しでも改善しようと練習をしてきた。一般的に
余計な力を抜く
というのは本当に難しい。反対に「しっかり力を入れる」というのはそれほぞ難しくはない。その部分を意識して力を入れればいいのだから。ところが、意識もしていないのに力が入るものを、その部分を意識して力を抜こうとすれば、余計に力が入ってしまうのは必須。これを如何にするかが年末からの課題だった。

 そもそも、なぜ弦を押さえることとは全く関係のない親指の根元に力が入るのか。
 まず、どういうときに力が入っているのかを分析してみることから始める。

 まず気が付いたのは3指のアーチの内側で1指を使うようなときだ。クロイツェルの最初の4段では、1指がフラットのときとナチュラルのときの両方があるが、どちらの場合も3指を所定の場所に留めておいたり、1指の音程をキープしながら3指で正しい位置をポイントするのがたいへんだ。そこに加えて3指を押さえながら2指もということになると、全然関係のない親指付け根の筋肉が必死になっているのがわかる。
 もう一つのパターンは2指がフラットの位置にあるパターンで、1指と4指を同時にポイントする場合。ハ長調のA線でシドミをポイントするような場合だ。特に先に2指でポイントしているところの内側から1指を入れてポイントする動作に前後して、4指を遠くまで伸ばすというのが至難の業。

 そもそも手首を捻りながら指先をこんなに不自然に動かす動作は、ヴァイオリンを弾く時以外にはない。だれも雑巾を絞るときにこんなふうに手首を捻らないし、吊皮を持つときもこうはならない。貧しい家で幼少時代を送った身には、成長期にはまったく経験したことのない身体の形を、人生の折り返し点を過ぎて後退期に入ったところで初めて強いられることになる。

 そこで、以前、左肘を内側に入れるために行った練習を思い出して再現してみることにした。
 左肘を内側に入れることによって、手首の捻り方を緩めることが出来る。手のひらが竿に向かい合う感じになるので、手首から先はいままでよりも自然な形になる。

 ただし、左肘だけを内側に入れようとすると、身体全体が右に向いてしまう。これでは楽器もいっしょに右の方に移動するので、当初の目的のように、手にひらを竿に向かい合わせるということが出来ない。
 そこでを使う。左側の骨盤の出ているところを左斜め上で前の方に入れる感じ。これはなかなか会得できなくて、「できた」と思うときと「だめだ」と思うときが半々ぐらい。ある時にできたとしても次のときに出来るとは限らないのだ。
 「できた」と思うときは自然と左足に重心が移って、右足は左足のうしろのところで、ちょうど右足が短針で2時前、左足が長針で55分のところを指しているような足の格好になる。以前にお世話になった先生がステージに立たれるときの格好がこんな感じだった。細身の先生が脚を前後に重ねるように立たれると、スラッとしたスタイルが一層際立って美しく見える。憧れの立ち方だ。

 これで親指の付け根からは少し力が抜ける。うえに示した2パターンはどうしても力が抜けないのだが、全体的には抜ける方向に向いていると思う。そのかわりに左肘や腰には力が入るのだが、それが余計な力なのか必要な力なのかはわからない。

 しかし、この立ち方には大きな欠点もある。身体全体がふらつくのだ。左足にもある程度の重みが掛かっているときはいいのだが、指や腕の動きに気がまわると、つい、左脚が半ば背伸びをするような感じになって、右足が床から浮いてしまうようなことさえある。膝から上に重さがなければ、それでも十分に左脚だけで支えられるのかもしれないが、コレステロールと内臓脂肪を溜めまくっている身体を左脚だけで支えるのはなんとも不安定。

 それで、今日のレッスンでは、
親指のことは取り敢えずいいので
立ち方はちゃんとしましょう
ということになった。「ちゃんと」というのは、肩幅に開いて「ハ」の字に開く、ということのようだ。

 それと、音程が不安定なのだが、サードポジションになるとそれが顕著なので、音階練習を、という指示が出た。クロイツェルと並行してバッハのドッペルを見ていただいているので、ニ短調を中心に練習することになった。
 音を外したところは全部、楽譜に書く
ということなのだが、そんなことをしたら書くところがなくなってしまいますが・・・


2015年1月21日水曜日

初アンサンブルレッスン

 初めてアンサンブルのレッスンを受けてきた。
 ヴァイオリン教室でのレッスンで、メンバーはたぶん、そのヴァイオリン教室で個人レッスンを受けておられる生徒さんばかりだと思う。自分のレッスンのときに前後の方と言葉を交わされたり、発表会があったりで、お互いに知っているというところに、まるで門外漢の私が
はじめまして ヴィオラです
といって混ぜてもらうという体での受講だ。

 それにしても、みんな優しい!
 初めての私に誰一人として「なんやねん、こいつ」という態度を取られることなく、温かく迎えてくださる。音楽は人の心を丸くするのだろうか。先生も、初めての私に気を遣われているようで、
そこ、ヴィオラ音程外している。
そこ、ヴィオラ遅れてる。
ちゃんと弾けよ、アホ、ボケ
みたいなことは言われなかった。

 いつものスタジオでもそうなのだが、男性でもある程度の年齢から楽器を習っておられる方は結構おられる。ここの教室もそうで、男女比率はほぼ半々。中学生の女の子から私ぐらいのおじさんまで、年齢的にもいろんな方がおられた。どの人も何も目的なしに集まっている訳ではなくて、それぞれレッスンを受けに来ているのだから、余計な気を遣ったり「私下手だから」なんてエクスキューズで免責されようとするようなことではなくて、その音楽に自分の人格をのせるようなつもりでちゃんと弾く。そこがコミュニケーションの基本のような気がする。
 素人ばっかりだと、一応弾いたあとで「さて、どうしよう」となるのだけれど、ちゃんと指導してくださる方もおられるので、「次はここをこのように」と次々に課題が出てくる。そこに注意して弾くたびに演奏のレベルが少しずつ上がっていくような気がしないわけでもないような気がする。

(そこ! 声が小さい!)

 3時間の長丁場だったけれど、ちっとも長くは感じなかったし、「えっ、終わり?」ってぐらい短く感じた。参加する人の都合を合わせるのがたいへんらしく、次回は3カ月ぐらいあとのようなのだが、また行ってみたいと思うレッスンだった。

2015年1月12日月曜日

主よ人のなんちゃら

 昨年の11月にあったバヨ会が切っ掛けで、アンサンブルのレッスンを受けることになった。
 これも昨年からなのだが、いろんなアマオケの演奏会を聴きに行って、自分もいつかこの中のどれかに入ってステージに出ることがあるのだろうか、なんてことを考えたりしていたのだが、

  • ここは平日に練習しているから行けない
  • ここは遠くて行けない
  • ここは若い人ばかりでおじさんの出る幕がなさそう
  • ここは上手すぎて素人の出る幕がなさそう

などと、行かない理由ばかりが頭の中をぐるぐる回って、結局一歩も踏み出せていない。
 そこへ、バヨ会の録音を聴いてみて、自分の音がなんか気持ちわるくて、いや、これ、結構まわりに迷惑かけているよな、みたいな感じが沸々としてきて、そこにアンサンブルレッスンの話があったので飛びついてみた。

 言われた連絡先にメールをしてみて、何回かやりとりをしたあと、楽譜が送られてきた。バッハの「主よ人のなんちゃらのなんちゃら」って曲のようだ。楽譜には「主よ」としか書いていないけど、きっとそうだと思う。ヴィオラって主旋律がないから知っている曲でも何の曲か分からない。もうこの辺から
アンサンブル
って感じだ。
 知っている「主よ」は延々と三連符が続く(いや9/8拍子か?)のだけど、もらった楽譜は四分音符ばかり。途中に付点八分音符とか、八分音符がある。
あれ、これどうリズムを取ればいいんだ?
メトロノームを3拍子にセットして、それを上のパートと思って合わせて見るのだけれど、上手くリズムが取れない。もしかして、これ、思っている曲じゃないのかも…。なんてことも考えてみたのだけれど、どうやらやっぱりバッハのやつみたいだ。

見た目、四分音符が多くて簡単そうだけれど、
これ、意外と難しいじゃん。

アンサンブルのレッスンて、ふつう、それまでに各パートをちゃんと弾けるようにしてから行くんだな、きっと。いや、それにしてもあと1週間しかないぞ。ってことで
ちょっと焦り気味。

上手くいけばこうなるはず。



今日はこれを聴きながら自分のパートを弾くという無謀な試みをしているところだ。

2015年1月3日土曜日

ヴァイオリンの弾き初め

 いまさらながら、あけましておめでとうございます。
 今年もまた、役に立たない記事を垂れ流しにしていきますので、お暇な方だけ見てください。

 さて、予報では、元旦の未明から荒れた天候になるとのことだったが、幸い、風は強いものの雪はそれほどでもなく、初日の出も拝めたようだ。大晦日は、紅白を最後まで視てからウダウダして寝たのだが、目覚ましは元旦もいつも通りの時間に鳴った。まだ外は真っ暗。簡単に小腹を満たして、元旦の夜明け前にヴァイオリンの弾き初めに出掛けた。

 年末のレッスンでは、左手親指の力を抜くという宿題が出されたのだが、弾き初めからそんな練習をしていると気分が沈むばかりだ。その練習が大事なのは分かるけれど、正月だけはそれを忘れて、バッハのドッペルを1時間半ほど練習した。いくら練習しても弾けないこの曲は、もはや永遠に完成しないどっかの国の教会みたいになっているが、今年こそはこれが弾けるようになりたいものだ。

 元旦の午後からは、この辺りでは珍しい大雪。20センチほど積もって道路も真っ白になった。2日の昼間には、少なくともクルマが走るところはいったん融けたが、2日夜に再び積雪。いつも練習している朝の時間にクルマを出すのはちょっと危なくて、元旦以来、ヴァイオリンを弾いていないのだが、今年も年末までヴァイオリンを続ける、というささやかな目標にむかって精進していこうと思う。

 ある新聞のコラムでは、正月の雪は吉兆という伝承があるかのような記事があったが、それはあるいは稲作が日常生活や経済活動の中心だった時代の永年の経験の積み上げが背景にある「言い伝え」なのかもしれない。ま、当時の正月はいまの暦だと2月の始めぐらいだったので、それをそのまま昨日、今日の天候に当てはめて、今年は気候が安定するかもしれない、などということも出来まいが、この雪で正月早々幸先がわるい気分になるのではなく、「今年こそは」というぐらいのつもりでやっていきたい。