2015年2月28日土曜日

弦の交換

 相変わらずドッペルとクロイツェルを交互に練習している。音程とテンポが課題なのも相変わらずだ。テンポに関しては、メトロノームを使って、八分音符を96で、ドッペルを最初から最後まで弾けるようになるというのがとりあえずの目標。早くて指がついていかないというよりも、16分音符のところで走るのが問題だ。どうやら音程が怪しいところに限って走る癖がある。出した音が気に入らなくて、早く次の音を出して、その気に入らない音をなかったことにしよう、という心が見え透いているような演奏になっている。とりあえず、メトロノームを使っているときはあまり音程を気にしないで、落ちれも元に戻れればよしとしておいて、音程のときはテンポやリズムは無視して音程を極めるという練習をしているのだが、こうしてみると、どうやら、音程とテンポは不可分のもののようだ。


 さてさて、上手くいかないときはつい楽器の所為にしてしまうのは何時ものことなのだが、最近、どうも弓が弦をうまく掴んでくれないような気がしてきた。なんだか弦の上で弓が滑るような気がする。そういえば、弦も弓毛もしばらく交換していない。
 弓毛はメンテナンスに出さないと交換できないが、弦なら自分でも交換できる。そこで、以前、張っていたOLIVEに交換を試みる。OLIVEは切れるまで使えるって聞いているのだが、D線だけ切れてしまったので、その時に全弦をEvah Pirazziに交換していた。D線以外はOLIVEを残しているので、とりあえずD線以外を交換することにした。
 ところがここでトラブル発生。A線の調弦で、いくらペグをまいてもGisから音程が上がらないなぁ、と思っていたら、ペグに巻きつける手前のところがジュルジュルっと伸びてしまった。あらら、これじゃ使えない。ということで急遽、A線も注文。
 前買った時は円高の恩恵があったのだけど、今回は円安で前よりも3割以上高い。円安で景気が良くなって富裕層が益々儲かれば、その恩恵がいつか国民全体に行き届くらしいのだけど、その恩恵はいったいいつ我が家に巡ってくるのだろう。

 ちなみにG線だけアジャスターがついていないのは、ペグで調弦する練習のため、というつもりなんだが、相変わらずそいつは苦手だ。OLIVEに替えたらしばらく苦労しそうだ。

2015年2月20日金曜日

ドッペルよ永遠に

 もはや、どっかの国のだれか有名な人が設計した教会のように、永遠に完成しないことに意義があるとさえいえるバッハのドッペル。前回のレッスンではこの曲を見てもらって玉砕だった。

 昨年の秋から、クロイツェルをテキストにして、説明したところ以外は練習もさせてもらえないレッスンが続いていたのだが、前回のレッスンでは、いきなり
なんか曲ありますか
と仰って、ずっとドッペルを見てもらうことになった。
 こうして背伸びをさせてもらって難しい曲を見てもらうと、やっぱりちゃんと基礎練習をしなアカンということがよく分かる。こうしてブログを書いていると、このときの45分のレッスンでいったい何を見てもらったのか、よく思い出せない。出来ていないところ満載で、何からどのように手をつければいいのか分からないまま、貴重なレッスンの時間が終わってしまう。

 いちばん最後のところで、音程をしっかり取りましょうということと、速さを一定にというご指導があった。

 それでまず、速さやリズムは度外視して、チューナーでひとつひとつ音を合わせながら弾いてみる。先生から
音がおかしかったらすぐ楽譜に書く
という指示があったのだが、そこはちょっと割り引いて、何度やっても同じようにおかしい時は矢印を書くことにした。そういうことをやっていると、
何度やっても音程が合わないのだけれど、
同じように合わない訳ではない、
というところが出てくる。例えばポジション移動。それでそのフレーズをつかって今度はポジション移動の練習ばかりをする。あるいはサードポジションの音階練習をする。
そんなこんなで2週間ほど練習した。
といっても、週3日ぐらいで朝の30分程度の練習だから、たかが知れているのだが。

 今週になってからは、今度は音程はある程度、目を瞑って、一定の速さで弾く練習を試みる。メトロノームの出番だ。
 ところがこれがなかなか手強い。
 いつも練習しているスタジオにあるのは、写真にあるような格調高いメトロノームなのだが、格調はこのさいどうでもよくて、カチッカチッとなる間に4回に1回
「チン」
と鳴らすことができるようになっている。この「チン」が、ときどき変なところで鳴る。
次の音が「チン」だ
と思っていたら、そこは「カチッ」っとだけ鳴って、なんか空振りしたみたいになって、その次の拍で鳴る。たいがいは16分音符炸裂の、それもサードポジションで弾くフレーズの直後が多い。16分音符のところで遅れるのではなく、そこを誤魔化そうとして走っている。そんな感じだ。
 いつものようにスタジオに行って、練習の最初からメトロノームを鳴らしながら、曲の最初から弾いてみる。つまずいたらその辺りの適当な場所からまた始める。何度やっても上手くいかないフレーズは歌ってみる。そんなことをやっていると、30分で最後まで行きつけない。

 そんな訳で明日はレッスン。
 娘がスタジオで練習したいというので連れてきた。吹奏楽部でオーボエはひとり。周りは経験者も多くて、なんだか自分が足を引っ張っているみたいに思っているようだ。いま隣でオーボエを吹いている。なんか難しそうな曲だ。がんばれ、娘。がんばれ、父ちゃん。

 

2015年2月8日日曜日

踊りと音楽

 大袈裟なタイトルを付けたが、今日は身内の話なので、関心がなければご退室を。

 上の娘は高校の吹奏楽部でオーボエを吹いているのだが、そこの吹奏楽部ではオーボエは屋外では吹かさないようにしているらしい。ネットで見ていると、娘の高校以外でもそういうところが多いようだ。ヤマハのホームページにもそれを示唆するようなことが書かれている。吹奏楽部ではマーチングもあるのだが、その時はフラッグパフォーマンスなどの踊りをするそうで、その指導をしてくださる先生もおられるらしい。私の娘に踊りが出来るのか、と不安になるのだが、先生のご指導の賜物で本人は「大丈夫」といっている。

 最近は体育の内容で創作ダンスが必須になっているらしい。子供向けのダンス教室もあるようだ。ダンスパフォーマンスが売りのアイドルグループが全盛を極めている。私が若い頃はストリートダンスなんてものは不良のやるものと、どこか斜に構えて見ていたものだが、最近ではそういう偏見もないようだ。

 ところで、前から気になっているのだが、ダンスの振り付けというのはどうやって伝えるのだろうか。学校の授業でやるとなれば、創作ダンスの中にこういう動きを取り入れること、とか、この動きが出来れば加点する、などといったことが指導書に書かれていたり、そういう基準に基づいて採点がなされて成績をつけていく必要があるとおもう。子供向けのダンス教室も全国で展開しようとすれば、どこでも均質なサービスを提供しないといけないので、どういうダンスをさせるのかが何らかの形で記録されているように思うのだが、どうもそういうものにお目に掛かったことがない。娘も、先生がやっているのを見て覚えた、とか、「みーぎ、ひだり、くるっとまわって、はいポーズ」みたいな感じで覚えたとか、そんなことを言っている。楽譜のような決まった表記法で記録されるものではないようだ。分からないときは動画を見て覚える、ということなので、あるいはそういった録画や動画再生が手軽にできるようになったのと表裏一体でダンスパフォーマンスが流行っているのかもしれない。

 バロック音楽には、「メヌエット」「シャコンヌ」「ジーク」などの表題が多いが、これは実は踊りの型らしい。以前、何かで、それらの踊りのステップを足の形と矢印で書き表した「指南書」のようなものを見たことがある。詳しくはないのだが、もしかするとこういった踊りは何らかの表記法で踊り方が定められていて、それを会得するのが貴族たちの教養だったのかもしれない。いまのダンスパフォーマンスは音楽が先にあってそれに合わせてダンスをしているのだが、バロックで踊りの名前のある曲は、もしかすると踊りが先にあって、それに合わせて音楽が作られているのか・・・・
 私には敷居の高い世界ではあるが、そんなこともちょっと意識すると、ヴァイオリンも面白いのかもしれない。

 仕事で1週間ほど渡航していたので、久しぶりにヴァイオリンに触れた。出発前にドッペルを思いっきり弾いて出掛けたのだが、帰ってきて再び弾いてみるとなかなか弾けないものだ。いや待てよ、出発前もそんなたいして巧くは弾けなかったから、決して退行はしていない。

 娘曰く、音が出なくてもいいからオーボエの形をした棒があって運指だけでも練習出来ればいいのに。それは同感。指板と顎で挟むところだけの棒に弦が4本張られていれば、いちおう練習は出来る。音楽の教科書の裏表紙にあった鍵盤の絵と同じかもしれないが、そういうものなら出張先でも持って行けるなぁ、なんてことを考えたりした。



2015年2月1日日曜日

「できる」と「分かる」

 ピアノである曲を弾くときに、子供の頃から弾いていれば、楽譜なんて読めなくても曲が弾けてしまう。テレビで聴いた曲を耳コピしてスラスラ弾く子供だっているだろう。これはまさに「できる」「できない」の世界だ。楽譜の読み方だとか、弾き方なんてしらなくてもいい。弾けているのだから。

 それと比べて、五線紙のここに丸があればピアノのこのキーを押すとか、#の記号があればその右隣の黒いキーを押すとか、このマークならこの時間キーを押し続けるとか、そういうのは「分かる」「分からない」あるいは「知っている」「知らない」の世界。ピアノが弾けない私でもある程度のことは知っている。知っているからといって弾けるわけではない。

 例えば、ある店舗を経営している会社で、閉店前になると入店客に退出を促す曲をピアノで生演奏するという業務があったとする。その業務には特別なスキルが必要なので、いつも特定の社員に任せていた。
 その社員は、ピアノは弾けるのだが、楽譜は読めない。いちど、もし彼が辞めたらこの業務を誰にも引き継げないじゃないかと気になって、彼に楽譜起こしを頼んだのだが、与えた五線紙なんて無視して、なにやら彼なりの独自の譜記方法でその曲を記録しはじめる。カタカナで「ターラッタタン」って書いてあるので、それはどういう意味だと尋ねると、その場合はこういうリズムで弾くのだと聞かせてはくれるのだが、同じ表記になっているのにリズムが違うところがあったりして、なんとも危うい。
 そしてとうとうその社員が辞めることになった。そこで、その社員と同じぐらいピアノが弾ける人を新入社員として迎えて引継ぎを行う。楽譜があればそれを渡して、「ここはこういう感情を込めて」なんていうような楽譜には表し切れないところの補足を若干行えばいいのだが、彼の場合はそうはいかない。彼が弾くのを横で聴かせて耳コピで業務伝承を行う。
 こうして無事に業務引継ぎが出来たのだが、なんとも危うい状態だ。
 なぜか。
 「できる」ということの裏付けに「分かる」「知っている」というものがないからだ。

 大人になってからヴァイオリンを始めた身としては、この「できる」「できない」の世界は如何ともしがたい。分かっていることと出来ることは違う。自分が目指すべきところは「分かる」ではなく「できる」、つまりヴァイオリンを弾けるようになりたいのだが、そこへのアプローチは「分かる」からアプローチしないとなかなか前に進まないことも多い。例えば、ファとラがハモるのは、ファの5倍音とラの4倍音が共鳴するためで、D線とA線は2:3で共鳴するように弦が張られているから、D線の長さの5/6のところをポイントして、開放弦を弾いたときの1.2倍の音を出すことで、A線の開放弦との比が4:5になって共鳴する、なんてところまで突き詰めていくと、「楽典のことはわからない」なんて魔法の言葉で逃げたくもなるかもしれないが、そこをなんとか理解できるように頑張れば、もしかするとそこから気付くことがあるかもしれない。

 音律論、和声理論、作曲法、音楽史・・・。
 別に知らなくても、弾ける人には弾ける。だけど、弾けない人に弾けるようにするには、案外こういうところから入った方が近道なのかも、なんてことを考えたり、考えなかったり。