2015年2月1日日曜日

「できる」と「分かる」

 ピアノである曲を弾くときに、子供の頃から弾いていれば、楽譜なんて読めなくても曲が弾けてしまう。テレビで聴いた曲を耳コピしてスラスラ弾く子供だっているだろう。これはまさに「できる」「できない」の世界だ。楽譜の読み方だとか、弾き方なんてしらなくてもいい。弾けているのだから。

 それと比べて、五線紙のここに丸があればピアノのこのキーを押すとか、#の記号があればその右隣の黒いキーを押すとか、このマークならこの時間キーを押し続けるとか、そういうのは「分かる」「分からない」あるいは「知っている」「知らない」の世界。ピアノが弾けない私でもある程度のことは知っている。知っているからといって弾けるわけではない。

 例えば、ある店舗を経営している会社で、閉店前になると入店客に退出を促す曲をピアノで生演奏するという業務があったとする。その業務には特別なスキルが必要なので、いつも特定の社員に任せていた。
 その社員は、ピアノは弾けるのだが、楽譜は読めない。いちど、もし彼が辞めたらこの業務を誰にも引き継げないじゃないかと気になって、彼に楽譜起こしを頼んだのだが、与えた五線紙なんて無視して、なにやら彼なりの独自の譜記方法でその曲を記録しはじめる。カタカナで「ターラッタタン」って書いてあるので、それはどういう意味だと尋ねると、その場合はこういうリズムで弾くのだと聞かせてはくれるのだが、同じ表記になっているのにリズムが違うところがあったりして、なんとも危うい。
 そしてとうとうその社員が辞めることになった。そこで、その社員と同じぐらいピアノが弾ける人を新入社員として迎えて引継ぎを行う。楽譜があればそれを渡して、「ここはこういう感情を込めて」なんていうような楽譜には表し切れないところの補足を若干行えばいいのだが、彼の場合はそうはいかない。彼が弾くのを横で聴かせて耳コピで業務伝承を行う。
 こうして無事に業務引継ぎが出来たのだが、なんとも危うい状態だ。
 なぜか。
 「できる」ということの裏付けに「分かる」「知っている」というものがないからだ。

 大人になってからヴァイオリンを始めた身としては、この「できる」「できない」の世界は如何ともしがたい。分かっていることと出来ることは違う。自分が目指すべきところは「分かる」ではなく「できる」、つまりヴァイオリンを弾けるようになりたいのだが、そこへのアプローチは「分かる」からアプローチしないとなかなか前に進まないことも多い。例えば、ファとラがハモるのは、ファの5倍音とラの4倍音が共鳴するためで、D線とA線は2:3で共鳴するように弦が張られているから、D線の長さの5/6のところをポイントして、開放弦を弾いたときの1.2倍の音を出すことで、A線の開放弦との比が4:5になって共鳴する、なんてところまで突き詰めていくと、「楽典のことはわからない」なんて魔法の言葉で逃げたくもなるかもしれないが、そこをなんとか理解できるように頑張れば、もしかするとそこから気付くことがあるかもしれない。

 音律論、和声理論、作曲法、音楽史・・・。
 別に知らなくても、弾ける人には弾ける。だけど、弾けない人に弾けるようにするには、案外こういうところから入った方が近道なのかも、なんてことを考えたり、考えなかったり。

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