2013年6月30日日曜日

瞳を閉じて

 今日は夕方からレッスン。前回のレッスンから2週間あったのだが、「どんな練習をしてきましたか」と言われると口を噤んでしまうしかない。とりあえず、言われたようにボウイングに気を付けて練習をしてはきた。例えば、E線に移弦するときに手首で移弦しないように、意識的に親指の付け根を遠くへ送り出すようにしてみたり、左手の指先を見ないで目線を弦と弓の接するところに持って行ったりといったことだ。子供がよくやるように、弓を逆さまに持って、重たい元弓を先にもって行って敢えて持ちにくい状態で練習するといったこともしてみた。

 結果は・・・・

 弓を逆さまに持つのは練習としてはいいかもしれない。確かにそのあとで普通に持って弾いてみると全然音色が違うのがわかる。移弦の時に意識的に親指の付け根を出して、弓を手前に倒しながら移弦をするというのも、それぐらい意識的にやってちょうどいい加減、という感じだから、それも良かったのかもしれない。そして、弦と弓の接点を見ていれば、それらの効果がどうかということもを確認しながら弾くこともできる。
 しかし、目線というのはどうしても自分がいま一番気になっているところに向いてしまう。パソコンのブラインドタッチが出来るかどうか、といった頃を思い出してみるといい。目線はどうしてもキーボードの上のアルファベットを追いかけてしまう。それと同じで、ちょっとフィンガリングが複雑なフレーズになると、どうしても目は指板の上に向いて、次に押さえるべき場所を確認し、そこを正確に指が捉えるかどうかを目で確認してしまう。

そこで今日出された課題は
目を閉じて弾くこと
けっして、目を閉じた状態で如何にパールマンのような表情を作るかといった課題ではない。もうすでに数ヵ月間も同じ曲ばかりをやっていて、楽譜はすっかり覚えているので(けっして暗譜とは言えないが)、目瞑っていても弾けるはず。指が次にどこをポイントするかは頭の中に入っているはずなのだから、いちいち見なくてもいいはずなのだ。そういう意味では、パソコンのブラインドタッチの練習と同じなのかもしれない。

 ボウイングは頭の中でイメージするしかない。
 音符をひとつずつ追って、というか、音符の上に書かれている数字を追うのではなく、フレーズを脳裏に描いて、そういうイメージで音が出るように弾いていく。

 そうするとどうだろうか。
 いままでは、目で「次はここをポイントする」という場所を追いかけてポイントしていたので、見た感じでそこを押さえていれば、頭の中では
よし、予定していた場所を押さえられた。
と判断していたように思う。しかし、これだと押さえた場所が正しいかどうかは耳で検証するしかない。いままでは、目から入ってきた情報を処理するために、あまり処理能力の高くない頭をフルに動かしていたのだが、その情報がなくなったために、これまで以上に音程や音色に注意が向けられるようになった。
目が見えないからこそいろんなものが見えてくる
そんな感じだ。

 しばらくこれで練習してみよう。

2013年6月23日日曜日

しばらくはボウイング

 いろんなことがあって迎えたレッスン。

 まずテンションはアゲアゲ。なぜなら、つい先日聴いたアンサンブルの演奏が頭の中にあり、ソリストのアマチュアとは思えないボウイングが脳裏に焼き付いているからだ。あんなふうにボウイングしてみたい。このところレッスンのたびにボウイングについてのご指摘をいただくのに、なかなか仰るようにはできない。ヴァイオリンを弾いているのを見るとボウイングが気になる。アンサンブルを見た時に、これだ、これだ、と目に焼き付けてきた。
あんなふうにやってみるぞ
今日は先生にマルをもらって
テンション最高潮だぁぁぁぁぁ
という他愛のない、というか大人げないことでひとり盛り上がっている。朝からカラオケボックスでばっちり練習して準備は万全。自分ではばっちり仕上がっている・・・ はずだった。

 一方で娘は歯の矯正を理由にレッスンはお休み。娘の分の時間も使って、1時間以上のレッスンになる。うん、今日はこのところの積もり積もった課題を片付けて、次のステージに行けそうな気がする。

じゃ、最初から弾いてみましょうか
キターーーーーーーーーーーーーー、と勝手に盛り上がる。途中何箇所か詰まりながらも、バッハのドッペルの第1楽章ファーストを最後まで弾いたぞ~~~。これは快挙だ。ヴァイオリンを始めて10年。ついに自分もこの域に来たのか。先生もいちおう褒めてくださった。

いちおうね。

 ここから真面目なレッスン。
 考えてみたらまだ娘のレッスンの時間だ。いつも娘が受けているようなボウイングのご指導が始まる。何度言われても、移弦の時に手首で移弦してしまう。すっかり癖がついてしまっているのだ。最初のレッスンの時に娘のボウイングを見た先生が
お父さんの癖がついてますねぇ
と仰っていたので、それぐらい深刻な癖なのだろう。
 右脇を締める感じ、下げ弓は親指の付け根を前に出すように、上げ弓は親指の付け根にチュゥするつもりで手首を吊るように、右手の甲は平らに、手首を上下に動かすのではなく左右に柔らかく動くように・・・・ ま、いつも言われているのだが、やっぱりできない。何か根本的に身体の構造が違うのだろうか。違わないようでもあり、違うようでもあり・・・・。
 フィンガリングなしでやると時々「そうそう、いまのやつ」と仰るのだが、そのいまやったことが再現できない。フィンガリングが入ると、目がどうしても左手の指を追ってしまう。先生によると、
弦と弓の接点を常に見るように
とのこと。これは小さい時からずっとやっているからこその慣れなのだろうか。私の場合、曲を弾く時には、楽譜をどんなふうに読んでも、頭の中では指番号に変換され、次はどの指でどの弦のどこを押さえるのかというアクションとしてフィンガリングが行われている。人は情報の8割を目から得ると言われているが、そのアクションが正しく行われているかどうかは、常に目で指先を追って検証している。耳で聞く音の高低は残り2割の情報なのだ。もちろん、情報の重要性は耳の方なのだが、耳で聞いた音が思っていたものと違う時に、その原因を突き止めて動きを補正するためには目から得られる情報が必須なのだ。それで必然的に目は左手の指さきを追うことになる。これがどうもいけないらしい。

 いちおう紛いなりにもドッペルが通せたことだし、しばらくはボウイングの練習に専念するべきか。


2013年6月22日土曜日

アマチュアアンサンブルの演奏会

 先日、バヨ会にいつも来てくださる方が所属されているアンサンブルの定期演奏会を聴いてきた。その町で随分むかしから続く伝統あるアンサンブルらしい。アマオケというのはよく聞くが、20人ほどの小さな編成で、バロックを中心に演奏されているアマチュアのアンサンブルというのは珍しいのではないだろうか。少人数であれば一人ひとりの演奏技術がそのまま全体のクオリティを左右するから、ある程度の技術を持った人ばかりを集めないといけない。そういうのはなかなか難しいのではないかと思う。

 今回ご案内いただいたアンサンブルもそういう制約の中で運営されているものなので、たいへん失礼ながらそんな期待はしていなかった。アマオケか、どっかの大学のオーケストラぐらいのレベルを想像していたのだが、最初の音を聴いた瞬間にその想像は見事に覆された。そうだ、最近こういう音に飢えていたのだ。一つひとつの楽器の音が溶け込み、会場全体が一つの楽器のように響きだす。
これだ、これだ、
知らず知らずのうちに演奏に惹きこまれていく感じ。たぶん私だけでなく、会場の大部分の聴衆がそうだったに違いない。軽い躁状態。テンションが上がり、自分でも興奮しているのがわかる。

 きっとそういう客席の興奮状態というのは弾いている人にも伝わるのだと思う。プログラムが進んで行くに従って、おそらく演奏されている方のテンションもどんどん上がっていっているはずだ。それが客席にも伝わってさらに興奮を煽る。小さな会場は、会場全体がひとつの楽器となって響くとともに、会場全体がひとりの演奏者になっている。
ものすごいライブ感
思わずスタンディングオベーションで拍手したくなる。

 学校のクラブ活動などであれば、そういう演奏会の機会が必ずあるものだが、大人になってそういう機会があるというのは、ほんとうに得難いことだと思う。まず、人に聴かせるだけの技術、同じ分野に興味を持っておられる方とのつながり、「やろう」と声をかけてくれる人、練習場所の確保、演奏会の準備、そういった諸々をやってくれる人、そして聴いてくれる人。そういうことがすべて満たされて、初めてステージに立てるのだと思う。

 それだけでなく、少人数とはいってもこれだけの人が一堂に会して練習するというのは、それぞれ仕事を持っておられることを考えると大変なことだと思う。けれど、その大変さを押して、多くの時間を共にし、どんな演奏をしたいのか、何を目指すのかといういろんな思いをシェアしているからこそ、こんなレベルの演奏が出来るのだと思う。見ていて、ステージの上の人はみんな羨ましかったし、こうしていつまでも続けてほしいと心から思った。

2013年6月18日火曜日

歯の矯正とヴァイオリン

 いつか親子でバイクのツーリングならぬヴァイオリンの二重奏をと思ってレッスンに通わす娘なのだが、先日から歯の矯正を始めた。私自身に経験がないので良く知らなかったのだが、これが相当痛いらしい。しばらくすれば慣れるのかもしれないが、いまは食事もままならない様子だ。

 中学校に入ったら吹奏楽部に入部させようと目論む妻は、口の中に金具を入れていることで笛やラッパの類が吹けないことを気にしているようなのだが、歯医者さんによるとそれは全く問題がないらしい。
でも、ヴァイオリンだけは止めてください
って仰ったそうだ。またまた、ヴァイオリンを習わすことを良く思わない妻の陰謀か、と思いきや、本当にそうらしい。頬で楽器を押さえるので、下顎に横向けの力がかかり、器具がずれたりするらしい。そりゃ、1日何時間も練習すればの話しなんだろうけど・・・

 それはともかく、いまはとにかく痛くて楽器が持てない様子だ。直前までは、
「今日は休んでお父さんのレッスン見学する」
と言っていたのだが、クルマが使えなくて炎天下を15分ほど歩かないといけないのが苦痛に思えたのか、結局は私がひとりで行って二人分のレッスンを受けることになった。
 ま、普段、あっというまに時間になってしまうので、こういうのも偶にはいいのだが。

2013年6月17日月曜日

バイクの免許とヴァイオリン

 全然脈略のないような話だが、ヴァイオリンを習うというのはバイクの免許教習に似ていると思う。
 我が家の娘たちは3歳からピアノを習っているのだが、それはピアノが弾きたいという動機ではない。ピアノを弾かせたいという親の思いもどれほど強かっただろうか。
ピアノぐらい弾けた方がいいんじゃないか
ピアノでも習わせようか
そんな感じだったと思う。

 履歴書の資格欄に「普通自動車運転免許証」と書く人は多いのだが、世の中、そんなクルマを運転しなければいけない仕事ばかりではない。おおかたクルマを運転する必要のない事務の仕事でも、資格欄には必ずと言っていいほど「普通自動車運転免許証」と書かれる。長年ペーパードライバーを続けてきた妻に言わせると、「当たり前のことは普通にできますよ」という証明として書くものらしい。その基準でいうと、私のように、入社式の2日前に慌てて原付免許を取りに行って、会社に入ってから数年後に、夜な夜な教習所に通っていたような者は、当たり前のことが当たり前に出来るようになるのに随分歳を重ねないといけなかったということになるのだろうか。
 話が脇道に入って長くなってしまったが、我が家で子供にピアノを習わせるという動機はこれとよく似ていたように思う。

 それと比べると、いま娘にヴァイオリンを習わせているのは、まさにバイクの免許のよう。
 私の周りでも、クルマの免許は「猫も杓子も」とまでは言わないが、持っていない人の方が珍しい。しかし、バイクの免許を持っている人は稀だ。私の場合、バイクの免許も随分歳をとってから取ったのだが、クルマの免許の教習と違って、教習そのものがホントに楽しかった。明確な目的があるからだ。履歴書の資格欄に「普通自動二輪運転免許証」と書きたいがために教習所に通う人はいるまい。たいていはツーリングがしたい、とか、バイクというメカへの憧れだとか、そういう動機がある。

 ヴァイオリンを習うというのはこれと同じで、履歴書の趣味欄に「ヴァイオリン」って書くためにとか、お見合いのときに趣味を聞かれて答えられないから「ヴァイオリンでも習おうか」などといった動機で習っている人はあまりいないと思う。

 娘にヴァイオリンを習わせているのを妻はあまり快く思っていない。私が自分の趣味に娘を巻き込んでいる、と思っているからだ。それは全く否定しない。その通りなのだ。けれど、ピアノを習わせるのとは動機が違う。履歴書の趣味欄に「ピアノ」と書くためではなく、いつか娘とツーリングが出来れば、いや、それは叶わなくても、きっとヴァイオリンが弾けるということが本当に人生を豊かにしてくれる日が来るはずだからという思いを持って習わせている。
 ま、私がバイクの免許を取りに行くときも随分反対されたし、娘にバイクの免許を取らせるなどといった日には、お小遣いももらえなくなってしまうぐらい反対されるだろうから、快くは思わないまでもちゃんとレッスンに通わせられるだけいいと思わないといけないのだが。

2013年6月8日土曜日

バヨ不足

 ブログをやっていると、やはり誰かに読んでほしい、と思う。読んでもらうためには、偶に記事も更新しないといけないのだが、このブログにはヴァイオリンのこと以外は書くまいと決めているから、バヨ会に行くとか、コンサートを聴きに行くとか、ヴァイオリンに関係する小物を買うとかヴァイオリンを買うとか以外に記事を更新しようと思ったら、ヴァイオリンの練習をするほかない。ところが、このところ、寝不足、練習不足、バヨ不足で、まったく記事が更新できない。そしてほとんど練習しないままレッスンを迎えるというマズいパターンになっている。

 レッスン前の昨日。ちょっと無理してでも練習をしたかったのだが、夕食を終えると倒れるように寝込んでしまった。何時に寝たのかも定かでない。朝起きたら5時半だった。シャワーも浴びていないので、まずはシャワーを浴び、家族が寝ている間に朝食を済ませてカラバヨへ。こういうときに24時間営業のカラオケボックスは有難い。2時間半ほど練習出来た。
 レッスンは朝の10時過ぎから。

 短い練習時間だったけれど、先週ご指摘のあった、楽譜を見ながら弾く、という課題には特に注力してきた。そして、ずっと言われている移弦の時の右肘の動き。ま、でも、今日も同じことを言われるんだろうな、と思いながら、ドッペルを最初から弾いてみる。
 いままでは、弾けないところを弾けるように、弾けないところから弾いていたのだが、今回は弾けるところをちゃんと楽譜を見ながら弾くというのが課題なので、最初から弾く。意外と褒められた。気持ちだけは伝わったのだろうか。

 今日はいつもと違って、スタッカートの弾き方が中心だった。

  •  スッと引いてピタッと止める。
  •  弓はたっぷり使う。
  •  止めた後で右肘を動かして移弦する。

 スッと引くというのがなかなか難しくて、最初に「溜め」を作ってしまう。そうじゃなくてスッと引く。そうそう、スッとね。止めることばっかり考えていると弓が動かない。たっぷり使う。上げ弓のときも下げ弓のときと同じように。
 じゃ、先生の手拍子に合わせて、とりあえず開放弦で・・・ ということになったのだけれど、こんなことがなかなか出来ない。これって、この前、ヴァイオリンを始めたばかりのうちの娘と同じことやってるぢゃん、と思うのだが、

先生、なんかその手拍子、意地わるしてません?

と、冗談でいってみたら、笑い出して

あはは、ごめんなさいね。
なんか途中から上手く拍が取れなくなって・・・

なんて仰る。やっぱり意地悪されていたのか。
 気を取り直してメトロノームでやってみるのだが、これもなんか意地わるされているみたいだ。なんか仕掛けがあるのか? 弓をたっぷり使い過ぎると拍が取れない、ということなのだが、なんだ、それなら早く言ってよ・・・  いや、でも、まてよ。下げ弓は上手い具合に弓を運んでいるのだけれど、上げ弓が良くない。弓を引く前に「溜め」が入るのも上げ弓の時、スッと大きく運ぶことが出来ず、次のタイミングが遅れてしまうのも上げ弓の時。先生が仰るのは、下げ弓の時の右手の動きは、日常生活の中でもよく似たものがあるけれど、上げ弓のときと同じような腕の動きは日常生活にはあり得ないとのこと。なるほど。それなら日常的に
エア上げ弓
の練習でもしないと、バランスが取れないわけだ。

 いままで、音をとるのに必死だったので、フレーズの表現とかをあまり考えてこなかった。移弦が拙いので、いったんそのときに弓が弦から離れて、そこで音が途切れてしまったり、運指の都合で勝手にプツッと切っていたり、ま、とにかく弾くのが精一杯だった。そこを指摘されて、先生にお手本を見せていただく。ちょうど曲の後半のちょっと憂いのあるフレーズだったのだけれど、その時の先生の表情が、どこか憂いのある曲の感じにぴったりの表情だったので、
先生、そこ、顔で弾きます
と言って、先生を真似て弾いてみることにした。
 憂いのあるフレーズを、憂いのある表情で弾いているのに、視界の隅に必死に笑いをこらえている先生が見える。おかしい。この顔じゃ駄目なのか、と思っていたのだが、弾き終わると「顔はとても良かったです」とお褒めいただいた。「気持ちは伝わってきました」ということだったので、いやそれが総てではないのか、とも思ったが、やはりその気持ちに技術がついて行っていないようだ。

 そんなことで、今日もあまり大した進歩はなかったが、楽しいレッスンだった。私がこのところ忙しかったのをスタジオの奥さんから聞いて、先生も心配してくださっていたようだ。元気そうで良かったです、と言ってくださったのが嬉しかった。
 次のレッスンも、めげずに元気に頑張ろ。