2014年5月31日土曜日

発表会の合奏はジブリ

 今日はレッスンがあった。
 スタジオに着いてまず事務室に行くと、「発表会の曲です」といって楽譜をもらった。ヴィオラ譜だ。このところずっとヴィオラばかり見ていただいているので、発表会のアンサンブルでも当然、ヴィオラ係。それもどうも私一人だけのようなので責任は重大だ。

 そんなことを思いつつ楽譜を見ると、お、なんと、いつも脇役のヴィオラが、いきなりイントロから主旋律じゃないか。同じ レミファーミファーラーミー でも、ヴァイオリンにはないヴィオラの渋みで、しっぽりと始まる・・・。これはなかなかヴィオラ冥利に尽きるアレンジだ。
 そのしっぽりが終わると、ヴィオラの定めともいえる刻み。刻み。刻み。ま、これはしゃあないわね。ヴィオラなんだし。

 そして後半。
これはびっくりだった。
 怒涛の重音攻撃。5度以下の、つまりアーチを作らないといけない重音も炸裂。しかも小指をアーチにして薬指でポイントするなんて無理だし。ヴィオラ一人だから同じパートの人と分担することもできないし。

 むむむ・・・

 これ、本当に弾けるのだろうか。
 

2014年5月20日火曜日

フレーズはストーリーで覚える

 レッスンではバッハ無伴奏チェロ組曲1番プレリュードをヴィオラで弾くところを見ていただいている。前にもこのブログの記事に張り付けたが、ヴィオラで弾くとこんな感じになる。


 この動画でいうと、1分23秒ぐらいのところでフェルマーがかかって、いったん曲が終わった雰囲気になってから、それまでとは異なる展開になっていく。そこのところが、なんとなく音をひとつひとつ拾っていっているようで、フレーズとしてのつながりがない。
 それは自分でもわかっていたのだが、今回のレッスンではヒントをもらえた。

 そこから1分56秒ぐらいまでは、上昇音階と下降音階が交互に繰り返されるのだが、上昇音階は男性によるバリトン、下降音階は女性によるソプラノで、お互いが対話するように弾きなさい、ということだ。 この動画ではちょっとわかりにくい。たぶん、そういうイメージではないのだろう。

 だけど、先生のこのアドバイスはなかなか斬新だった。

 男性と女性が言い争いをしているような感じで、男性の方はあくまでも理を唱え、女性の方は感情に訴えて時には涙も流す。そういうシーンが目に浮かんでくるようではないか。

 前半のところはどこか牧歌的な曲想だが、後半のこの部分はかなり様相が違う。そして、2分目ぐらいからはさらに様相が異なってくる。
 これはたぶん、この曲のあとに始まる本編のプレリュードとして、映画の予告編か、火曜サスペンス劇場の冒頭の、テーマ曲が流れる前の、ドラマのハイライトをちょっとずつ映して「今日は見ようかな、どうしようかな」と思っている視聴者をテレビの前に座らせるあれみたいな効果を狙ているのだと思う。

 前半は、ドラマの主人公二人が出会った田園風景だと思う。あるいは海かもしれない。クレッシェンド、デクレッシェンドを繰り返しながら弾いていると、なんとなく渚に波が寄せては引いていくような感じがする。1分12秒ぐらいから、その牧歌的な風景にやや変調が現れる。それまでの単調で貧しい生活から何か変化を求めるようなフレーズになっている。

 1分23秒からは、さきほども言ったように、男性と女性が言い争うような感じ。「あの貧しい生活は嫌だといったじゃないか」「いま自分たちの生活はこんなに豊かになっている」と男性が主張するのに、「だけど、何か大事なものを失ったようにおもう」と女性がいう。そしてハラハラと涙を流す。

 1分55秒から2分15秒までのフレーズは、ずいぶん都会的だ。なにか工場で次々に製品が作られているような、あるいは石畳の上を忙しなく人々が行きかっているような感じだ。きっと男はそんな都会の生活に夢を描いていたに違いない。

 さあこのドラマ、果たしてどんな展開になるのか。
 2分15秒からの最後のフレーズは、そのあとに続く本編への導入部分。「さあ、これから始まりますよ」という感じだ。

 お、なかなかいい感じのストーリーが出来た。ちょっとそんなふうに聞えるように頑張ってみよ。


2014年5月6日火曜日

ヴィヴァルディの生涯を推理小説風に

 アントニオ・ヴィヴァルディの生涯に、やや斜め方向から光を当てた「ピエタ」という小説を読んだ。著者の大島真寿美さんという方の本は初めて読む。タイトルにも書いた通り、まるで推理小説のような仕立てで、本当に面白かった。1日も掛けずに読み終えてしまった。


 タイトルの「ピエタ」は、ヴィヴァルディが司祭を務めていた修道院の名前で、ピエタ修道院には大勢の孤児たちがいて、ヴィヴァルディはその孤児たちのためにいろんな曲を書いた。この辺りまでは、私も、自分の好きなバロック音楽やヴァイオリンの周辺知識として持っていたのだが、その史実をもとに、孤児やヴィヴァルディにヴァイオリンを習った富豪の娘など、彼を取り巻く様々な人の言葉から、ヴィヴァルディの生涯が語られていく。どこまでが史実でどこからが創作なのかはよく分からないが、本のページからまるでヴィヴァルディの曲が聴こえてくるような臨場感のある文章だった。

 物語は、アントニオ・ヴィヴァルディがウィーンで亡くなったところから始まる。孤児といっても、45年間、ピエタ修道院に仕えるアンナとエミーリアは、富豪の娘(といっても、昔は娘だったという年齢だが)でヴィヴァルディにヴァイオリンを習ったヴェロニカに、1枚の楽譜を探してほしいと頼まれる。その楽譜を見つけるために、生前のヴィヴァルディと親交のあったさまざまな人を訪ね歩く。その人たちの言葉で語られるヴィヴァルディの生涯。司祭という職業が大方似合わない、奔放で、優しく、そして気骨のある人間像が描かれている。そしてそれがヴィヴァルディの音楽と結び付けられている。

 ヴィヴァルディという、すでにこの世にいない人物を通じて結びついていくさまざまな身分、さまざまな立場、さまざまな考えの人たち。果たして、探していた楽譜は見つかるのか。

 終盤に、ヴィヴァルディの妹、ザネータと、ヴィヴァルディが彼女のためにいくつもの歌曲を作った歌姫、パオリーナとの間に、こんな会話がある。

ザネータ :  兄の音楽はもう、人々には求められてはいないんですね。兄の音楽を愉しんだ人が昔はあんなに大勢いたのに。栄光の時代は終わったということですか。
パオリーナ :  何を仰るんですか、ザネータさん。大丈夫ですよ、先生の音楽は、たとえいっとき、そのような扱いを受けたとしても、必ず、蘇ってきますから。いつかまたヴェネツィア中に先生の音楽が響きわたりますよ!・・・また必ず、人々が聴きたくてたまらなくなります。

 もちろん、この会話は史実ではなく創作なのだが、まるでこの二人が250年後の未来を知っていたかのような会話ではないか。

 物語の最初と最後に、L'Estro Armonicoを合奏するシーンがある。「調和の霊感」と邦訳されているヴィヴァルディの初期の作品集だ。私が初めての発表会で弾いた6番。バヨ会で何度も弾いた1番、7番、11番。11番は私がヴィオラを始める切っ掛けにもなった曲だ。ピエタの孤児たちと同じように、私の周りにもいつもこの曲があった、思い出深い曲だ。
 小説を読んで、またこの曲を弾きたくなった。
 

2014年4月29日火曜日

初めてのバロックヴァイオリン

 いつもレッスンを受けているスタジオで、私と同じようにレッスンを受けておられる方がバロックヴァイオリンを物色されているらしく、いつもお世話になっている工房のマイスターに「お取り寄せ」をお願いされたらしい。それを聞きつけて、さっそく工房に行ってみた。

 ちなみに、バロックヴァイオリンとモダンの違いはヤマハのページに書かれている。バロック時代は、貴族なり豪商なり教会なりのお抱え音楽家の時代。あまり広い場所で弾く必要もなかったので、それほど大きな音を出す必要はなかった。それが、時代とともに音楽も大衆化し、音楽を弾く場所も次第に広くて大きな建物が建てられるようになると、楽団が大編成になるだけではなくて、楽器そのものも大きな音が出せるようにする必要がでてくる。弦楽器は弦を強く張ればそれだけ大きな音が出るのだが、ヴァイオリンの場合、弦を強く張るとはコマを高くしていくこと。それに伴って、筐体から竿が出る角度が下向きになったり、その継ぎ目のところが弦の張力に耐えられるように強化されたりというのが、バロックとモダンの大きな違い。

 さて、工房についてさっそく手に取って見る。
 軽い!
 最近、ヴィオラばかり弾いている所為もあるのだが、とにかく軽い。

 そして顎当てがない。それで、つい、テールピースを顎に挟もうとするのだが、それはNG。テールピースの付き方がモダンよりももっと浮いている感じで、顎で挟めば音程が変わってしまう。胸の上あたりに付けて、左手の親指と人差し指の根元で挟んで支える。ポジション移動は基本的にはないという前提で作られている。こんな上から楽器を見下ろして弾くのは、なんだか新鮮だ。

 弦はG線以外は裸弦。エンドポールなどというものはなく、テールピースに穴をあけてそこに結わえられている。もちろん、アジャスターなんてない。
 指ではじくと、なんだか沖縄の三線のような「ペンペン」という響き。バロックの弓はないので、モダンの弓で弾いてみるのだが、なんだか頼りない音しか出ない。あるいは松脂が足りないのかもしれないが。

 調弦は、モダンよりも半音ほど低く調弦されている。不思議なもので、これはあまり苦にならずに弾ける。以前、自分の楽器(もちろんモダン)を半音低く調弦して弾いてみた時は、頭の中にある音と実際に出てくる音が違っていて、まったく弾けなかったのだが、ちゃんとバロックの音律で弾けているから不思議だ。

 見せていただいた楽器は中国製で、もちろん、最近作られたものなので、バロックヴァイオリンというよりも、バロック風ヴァイオリンという感じだ。コマの高さはある程度あって、竿も下向きに出ている。指板は短く、しかも、指板の下にモダンには見られない楓の部材が使われている。竿の取り付け方はオリジナルのバロック楽器と同じになっているが、表板や裏版の形に、ヤマハのホープページに書かれているような特徴はない。

 さて、もしこれを買ったら、とあれこれ考えてみる。
 まず調弦がモダンと違う。強く張ると弦が切れそうだ。と、言うことは、合奏する相手がいないということになってしまう。ピアノと合わせることもできない。ヴァイオリンの無伴奏の曲はないではないが、モダンでも難しいものを、この顎当てもない楽器で弾けるのだろうか。
 しかし、教えてくれる先生はいないわけではないだろう。スタジオでチェロの講師をされている先生は、普段はバロック楽器の演奏をされている。その先生に頼ってヴァイオリンの先生を紹介していただければ、レッスンは受けられるだろう。もしかすると、他にもレッスンを受けておられる生徒さんがいるかもしれない。そうなると、そこにはお互い「合奏するならこの人しかいない」という強いきずなが出来るかもしれない。バロック楽器を弾くような人だから、お互い曲の趣味は似通っているはず。しかも、バロックなら合奏するのにそんなに大勢はいらない。
 あるいは、これはこれで楽しいかもしれない、などということを工房のマイスターも仰っておられる。

 さて、お取り寄せをお願いされた生徒さんは、いったいどうされるのだろうか?

2014年4月27日日曜日

小さなホールでのコンサート

 ピアノコンサートに出掛けてきた。
 娘たちにピアノを教えてくださっている先生お二人によるコンサートだ。

 お一人は、娘たちが3歳のときから教えてくださっていた先生で、3月にご退職されたバヨ先生とも親しく、私の初めての発表会でヴィヴァルディのA-MOLを弾いたときに伴奏もしてくださった。もうお一人はそのピアノ先生の先輩で、数年前にクラス替えのようなものがあってから娘たちのピアノを見てくださっている。2年前の発表会ではコレルリのシャコンヌの伴奏をしてくださった先生だ。娘たちだけでなく私も大変お世話になっている。

 会場は、住宅街の中にある「豪邸」といった趣きの建物で、100席ぐらいの小規模なものだが、なかなか素敵なホールだった。席はかなり埋まっていたが、ステージが本当に近くて、先生の呼吸まで聴こえてきそうな近さだった。先生の息が聞えるということは、客席の様子もそれだけダイレクトにステージに伝わる。しかもステージで弾いておられるのは、自分の伴奏をしてくださったこともある先生。勝手な妄想を許してもらえるなら、まるで自分がステージでピアノを弾いているような気分にさえなれる。本当に贅沢な疑似体験だ。

 客席には、スタジオの奥さんとご主人、それにバヨ先生もお越しになっておられた。バヨ先生もいつかこのホールでコンサートをされたりとかしてくださらないかしら。

http://www.figaro-hall.com/index.html