2019年12月1日日曜日

「G線上のアリア」書誌学的考察

 テレビドラマで注目の曲。こういう流行りを押さえておけば、例えば、忘年会で「なんか弾け」と言われたときに困らない。ちょっとまとまった練習時間があるときには、「指慣らし」にちょうどいいかも。

 ふつうのヴァイオリンブログなら、ここで「弾いてみた」音源とか動画とかをアップするのだけれど、残念ながらそのご期待にはあまり応えることが出来なので、ここは別の角度から薀蓄を述べることにしたい。

 ドラマでは「バッハのG線上のアリア」と言って憚らないのだが、実はこの言い方は正確ではない。『音楽中辞典』(音楽之友社,1979)によると、「G線上のアリア」は、「バッハの管弦楽組曲第3番の第2曲《アリア》をヴィルヘルミ(1845~1908)がヴァイオリンのG線だけで演奏するように編曲した曲」だそうだ。「編曲」というのは創作の一形態なので、「G線上のアリア」を創作したのは誰か、となると、ドイツのヴァイオリニスト、アウグスト・ヴィルヘルミということになる。バッハが作曲した「管弦楽組曲第3番」とは別の著作物と言える。
 写真の楽譜は、パブリックドメインとなっているバッハの管弦楽組曲第3番第2曲の楽譜をネットからダウンロードしてきて、ハ長調に移調し、1オクターブ下げたうえに、ネット上にあるこの曲の音源から一部を手直しし、さらに自分が弾きやすいようにアレンジをしたオリジナルの楽譜だ。確かに自分で「編曲」らしきことをしているが、この創作のなかのもっとも重要な部分、つまりハ長調に移調して1オクターブ下げるというアイデアは、100年以上も前に既にヴィルヘルミが行っているので、これをヴィルヘルミとは別の新しい著作物ということはできない。ヴィルヘルミの著作である「G線上のアリア」を記譜という形で新たに表現したもののひとつにすぎない。ただし、ヴィオラでの演奏のためにハ音譜で書かれている点は、かなり特異な点と言えるが、それとて世界で初めてのものではあるまい。
 この楽譜を作成するためにダウンロードしてきたバッハの管弦楽組曲第3番の第2曲の楽譜には、英語で「Air from Orchestral Suite No.3/J.S.Bach」と書かれていたので、標題には「from J.S.Bach Orchestral Suite No.3」と英語で副題をつけている。しかし、もともとドイツ人であるヴィルヘルミの著作物なので、標題はドイツ語で「Air auf der G-Saite」とした。しかし、この判断はかなり怪しい。
 ヴィルヘルミのこの著作物は、おそらく最初はヴィルヘルミ自身の「演奏」という「表現」の方法で人々の前に公開されたのに違いない。もちろん、そのころに録音や動画を残せる技術はなかったので、この表現形は現存しない。次にそれをヴィルヘルミ自身かあるいはその演奏を聴いた人が記譜することによって、「楽譜」という表現形で人々に公開された。おそらくこれがこの著作物の原型といえそうだが、果たしてそこに「Air auf der G-Saite」と書かれていたのかどうかは怪しい。「G線上のアリア」は、もっと後になって、誰かが、あるいは特定の誰かではなく人々が、この曲を呼称するのに用いるようになった標題で、最初の楽譜には、たとえば「Air」とか、そんなふうに書かれていたのではないかと思う。そうだとすると、例えばドイツのどこかの図書館の貴重書庫にこの曲の初期の楽譜があったとしても、「Air auf der G-Saite」というキーワードでそれを探し出してくることは難しそうだ。
 仮にそれが探し出せたとして、そこに「バッハの管弦楽組曲第3番の第2曲をもとにアウグスト・ヴィルヘルミが編曲した」ということが書かれてあれば(おそらく書かれていると思うが)、それでやっとこの曲とヨハン・セバスティアン・バッハとを結びつけることが出来る。
 ということで、私の楽譜では、創作者は「August Wilhelmj」として副題に「J.S.Bach」を入れている。

 そこにこだわるよりも、演奏の上手い下手にこだわれよ。

 いや、ごもっとも。

2019年11月23日土曜日

ヴィオラの美味しいところ-その後

 ドボルザークの新世界と、チャイコ白鳥の湖のワルツを弾くオケ練習の2回目に行ってきた。2回目でやっと様子が分かったきたのだが、どうもこの取り組みは一過性のものではなく、毎月1回4か月続けた後、2ヶ月お休みで、また新しいクールに入るというサイクルで回されているもので、コアメンバーはある程度固定されているものの、メンバーは毎回入れ替わりがあるようだ。ずいぶん前の話になるが、ブログの全盛期に「バヨ会」というのを不定期にやっていたことがあるが、それに指導者の先生をつけて、もっとしっかり運営しているような感じ。
 ちなみに、「バヨ会」はその頃に流行った「オフ会」のバヨ版で、参加者は多いときで十数人程度。費用は割り勘。すっごい上手い人がいて全体をリードしてくれたり、たまにプロの人が遊びで参加してくれたりとかしていたけど、練習して上手になるというより、ネットで知り合った人と実際にあって、いっしょにヴァイオリンを弾くのが目的で、日程とかも、コアメンバーの誰かと誰かがネットで相談して、「じゃ次はいつね」ってきまったら誰かが会場を押さえて、それから曲を決めて、楽譜がネットで回ってきて、個人で練習して、みんなで合わせたら最後に録音して、みんながブログにアップしたり、ツイキャスト(いまでもあるのかな?)でライブしたり、みたいな運営だった。あれをあのまま続けていたら、もしかするとこういうのになったのかもしれない。

 今回は50人以上らいの参加者がいて、ヴィオラも5人。演奏の方も2回目と会って、少し様子がつかめてきて、、、 つまり、手を抜いていいところとそうじゃないところが1回目で分かって、1回目はとにかく全部弾こうと思っていたのが、2回目は「とにかくここだけは弾こう」というように、目標設定の適正化が図られて、1回目よりは
弾けた
という実感があった。

 「バヨ会」のときも、そういえば最初は「パッヘルベルのカノン」が弾けなくて、とにかくバヨ会でカノンをみんなと一緒に弾きたい、というのが練習のモチベーションだったし、それが目標だった。ちゃんと弾けなくても、いちおう弾けたときは、そりゃもう嬉しかったし、それが「本番」だった。曲はそのあとバッハのドッペルになったり、ヴィオラに転向してからはヴィヴァルディの調和の霊感だったり、いろいろ変わったけど、「みんなと一緒に弾きたい」というおもいは常に持ち続けていたように思う。
 やっぱりそこだよね。。。といまさらながら。

2019年11月17日日曜日

映画「蜜蜂と遠雷」鑑賞

 9月にこの小説を読んで長々と記事を書いたあと、映画が公開されて、本当に楽しみにしていた。いつも拝見している方のブログでもこの映画のことが書かれていたので、たまらずにコメントしたのだけれど、コメントでは書ききれないので、あらためて感想を。

いや~、良かった。

 小説は小説で良かったと思う。特にこの小説は言葉の紡ぎ方がとても丁寧できれいだと思うし、言語化しないと伝えられないことがしっかり伝わってくるというだけでなく、言語化できないところにいろんな想像力が働いて、まるで実際に自分がそのピアノコンクールの観客であるかのような錯覚さえ覚える。

 その中でも特に心情描写というのは、言語化されることでイメージがつかめて、さらに行間からそのイメージを膨らましていくもの。いや、そもそも心情というものは言語化されることによってはじめて心情になるものではないだろうか。たとえば、日本語には「切ない気持ち」という言葉がある。Googleで翻訳すると「Sad feeling」という訳になる。でもなんだか違う。「切ない」は「Sad」でも「painful」でも「melancholy」でもなくて、やっぱり「切ない」だと思う。もし「切ない」という言葉を知らなかったら、「切ない」気持ちにはなれないと思う。自分の気持ちを「切ない」と言語化したときにはじめて「切ない気持ち」を体験できる。

 この小説の登場人物の心情は、そんな簡単な言葉で表現できるものではなくて、特に亜夜の心情は複雑で、そしてそれが刻々と変化していく。この小説では、それが言葉と行間の両方からほとばしってくる。最初は深い悩みを抱えていた亜夜が、次第にその悩みから解き放たれ、新しい心情を言葉ではなく音楽で表現していく様が、この小説の大きな文脈のひとつだと思う。

 映画では、その亜夜にほんとうに会ったような、そんな印象を持った。こんな喩えはどうだろうか。いまの人ならLINEとかで互いに言葉を交わしているひとは多いと思うのだけれど、実際にあって話をすることで初めて「リアル」にその気持ちを共有したりできる、なんてことはないだろうか。

 映画の台詞は小説の文字を音声化しただけではなくて、小説よりも「リアル」に近い印象がある。映画を観ながら、まるでいま目の前に亜夜がいるような。もちろんそこに実際にいる訳ではないので、「互いに分かり合える」ということはないのだが、亜夜の心情がより「リアル」にわかる、というだけでなく、亜夜を通して自分を見る、というか、そのことによって、もしかして自分ってこんなふうに思っているんじゃないかな、って初めて気づいたりだとか、どれだけ言葉を紡いでも辿り着けない「リアル」の世界がそこにあったように思う。

 スクリーンの向こうに手を伸ばすことはできないのだけれど。

 いい小説といい映画に感謝。

2019年10月22日火曜日

ヴィオラの美味しいところだけでも

 今月になってオケネタばかりなのだが、練習もオケの曲しかしていないので仕方がない。当面、来年の発表会で弾こうかなと思っている曲とか、その時に他の生徒さんとアンサンブルで弾くことになるはずの曲とかは後回し。とにかく、この前いっかい練習に参加してみて、自分がそこのオケのレベルからはかなり遠いところにいることがはっきりした。練習に参加するからには、なんとかそのレベルまでは自分を引き上げていかないと…。
 別に練習をしてどこかでステージに載るわけではないのだが、いちおう各回の練習の最後に「本番」と称して、練習した曲を通して弾いて録音し、内輪で共有する、という趣向のようだ。ここではそれが「本番」なのだが、みんなで合わせるところで自分の音を他の人に聞かせるとなれば、それは即ち「本番」。最後の録音だけでなく、練習の最初から最後まですべて「本番」。そう思うと、俄然、練習にも熱が入る…

はずだ…

けれど…

これがなかなか思うように進まない。
 いっかいみんなで合わせてみて、ヴィオラの美味しいところがだいたいわかった。その美味しいところだけでもちゃんと弾きたい。そんなわけで、通して弾くというより、美味しいフレーズを繰り返し弾く。弾けるまで練習し続ける。1回ちゃんと弾けたら、今度は10回連続でちゃんと弾けるまで…  ところが、これがダメで、2回目は必ず失敗するとか、それでも、この前の練習のときは全然弾けなかったわけだから、1回でもちゃんと弾けたというのは、確かに進歩ではあるのだが、最初は1回だけ奇跡的に弾けたというだけで、しばらく全然、最後まで弾き通せなかった。それがそのうちに、5回やったら1回は成功するようになって、その成功の確率が少しずつ高まってきて、いやそれでも2回続けて成功するところまでいかない。前のヴァイオリンの先生は、通して弾いてみて失敗したところは100回続けて成功するまで弾き直すと仰っておられた。プロじゃないから10回でいい、とおまけしてもらったのだが、通して弾いてみて、ではなくて、美味しそうなところだけ弾いてみて10回続けて成功すればいいわけだから、なんと低い目標だろうか。いやしかし、そこまでも行けない。しかし、成功の基準がなんとなくそれらしく聞こえたら、というレベルなので、
どんだけレベル低い練習やねん
と自分でも突っ込みを入れたくなる。

 めげない。
 めげない。

と、自分で言い聞かせて、少しづつでも前に進むしかないよな。

2019年10月16日水曜日

オケ初体験

 オケの練習に行ってきた。
 弦のアンサンブルはやってきたが、管楽器や打楽器のあるオーケストラは初めて。初心者歓迎のオケだし、ま、後ろの方で弾いているふりをしているだけでもいいか、と思って参加してみた。
 アンサンブルに入っていた頃は、結構、距離の遠いところだったので、年間を通じて練習に参加できず、5月ぐらいで、そろそろみなさん最後まで通せるようになりました、というぐらいのところで練習に合流。いちおう練習はしていくのだけれど、何処を弾いているのかさえ分からないまま終わってしまう、なんてことが1カ月ほど続いて、
あ~ 駄目だ
練習しなきゃ
といいう気持ちにスイッチが入り、それでやっと、まぁなんとか弾いているような感じになる、という感じだったのだが、今回もやはり、あ~練習しなきゃ、という思いだけは強く感じた練習だった。どうもその辺は、弦楽アンサンブルでもオーケストラでも、途中からの参加でも最初から参加でも、変わらないようだ。

 今回は、最後にステージがある訳ではなく、とにかく「オケ遊び」をしましょう、という企画のようだ。曲は2曲あって、そのうちの1曲は結構、練習した。もう1曲は、実はあまり練習していない。その練習していない方から始まった。

 その前にやばいと思ったことがあって、実はヴィオラは2人だけしかいなかった。これじゃ後ろの方でコソコソと弾くわけにはいかない。全体は40人ぐらいだっただろうか。パートを揃えるとか、そういうことよりも、とにかく参加している人が愉しむというのが目的なので、ヴァイオリンはファーストとセカンドあわせて15人ぐらいいるのに、ヴィオラは2人、チェロは4人。フルートは10人ぐらいいるのに、クラリネットやオーボエは1人か2人、トランペットやトロンボーンはなし、という編成。これならヴィオラなしでもやっていけるかもしれない。
 ところが、もうひとつやばいことがあって、2曲とも結構ヴィオラに美味しいところが回ってくるのだ。
え、ここ、ヴィオラの聴かせどころじゃん
なんてところが随所にある。ところが、これが弾けない。弾けない。弾けない。弾けない。弾けない。
わりと練習してきたつもりの曲も含めて、ほとんどまともには弾けていない。幸い、もう一人の人は幼少の頃から弦楽器をされている人で、もしかするとほとんど初見でも弾けてしまうぐらいの人なのかもしれない。おかげでヴィオラが途中でなくなってしまうことはなかった。

 いままで弦楽アンサンブルしか経験がないので、あまり考えたことはなかったのだが、オーケストラなら、ティンパニーのような大型楽器もある。コントラバスもたいがい大きいが、ティンパニーの大きさはただごとではない。それを個人で持っておられる方がいるのだ。考えてみれば、そういう人がいないとオーケストラが成り立たない。
 そのティンパニーやら管楽器やらが入ってくると、こりゃすごい迫力だ。特に「新世界より」第4楽章の最初の有名なフレーズなどは、
ぞくっ
とくる。こりゃたまらんだろうな。パートが揃っていなくてもこれだから、これがちゃんとパートが揃ったときには、そりゃもう凄いに違いない。

 数年前からこういうのをされておられるらしく、加えて、みなさんいろんなところのオケに入っておられて、顔馴染みの方も多いようだ。私のように、このオケは初めてという方も何人かおられたが、そこにいる人を誰も知らない、というのは、もしかすると私だけだったかもしれない。しかし、みなさん優しくて、たくさんの方に声を掛けていただいた。
ヴィオラ、よく聞こえていましたよ。
っていうのは、隣で弾いておられた方のことなのか、あるいは、京都の人が「お子さんピアノ上手にならはりましたねぇ」というのと同じなのか。

 ともあれ、練習だな。練習。