2019年11月23日土曜日

ヴィオラの美味しいところ-その後

 ドボルザークの新世界と、チャイコ白鳥の湖のワルツを弾くオケ練習の2回目に行ってきた。2回目でやっと様子が分かったきたのだが、どうもこの取り組みは一過性のものではなく、毎月1回4か月続けた後、2ヶ月お休みで、また新しいクールに入るというサイクルで回されているもので、コアメンバーはある程度固定されているものの、メンバーは毎回入れ替わりがあるようだ。ずいぶん前の話になるが、ブログの全盛期に「バヨ会」というのを不定期にやっていたことがあるが、それに指導者の先生をつけて、もっとしっかり運営しているような感じ。
 ちなみに、「バヨ会」はその頃に流行った「オフ会」のバヨ版で、参加者は多いときで十数人程度。費用は割り勘。すっごい上手い人がいて全体をリードしてくれたり、たまにプロの人が遊びで参加してくれたりとかしていたけど、練習して上手になるというより、ネットで知り合った人と実際にあって、いっしょにヴァイオリンを弾くのが目的で、日程とかも、コアメンバーの誰かと誰かがネットで相談して、「じゃ次はいつね」ってきまったら誰かが会場を押さえて、それから曲を決めて、楽譜がネットで回ってきて、個人で練習して、みんなで合わせたら最後に録音して、みんながブログにアップしたり、ツイキャスト(いまでもあるのかな?)でライブしたり、みたいな運営だった。あれをあのまま続けていたら、もしかするとこういうのになったのかもしれない。

 今回は50人以上らいの参加者がいて、ヴィオラも5人。演奏の方も2回目と会って、少し様子がつかめてきて、、、 つまり、手を抜いていいところとそうじゃないところが1回目で分かって、1回目はとにかく全部弾こうと思っていたのが、2回目は「とにかくここだけは弾こう」というように、目標設定の適正化が図られて、1回目よりは
弾けた
という実感があった。

 「バヨ会」のときも、そういえば最初は「パッヘルベルのカノン」が弾けなくて、とにかくバヨ会でカノンをみんなと一緒に弾きたい、というのが練習のモチベーションだったし、それが目標だった。ちゃんと弾けなくても、いちおう弾けたときは、そりゃもう嬉しかったし、それが「本番」だった。曲はそのあとバッハのドッペルになったり、ヴィオラに転向してからはヴィヴァルディの調和の霊感だったり、いろいろ変わったけど、「みんなと一緒に弾きたい」というおもいは常に持ち続けていたように思う。
 やっぱりそこだよね。。。といまさらながら。

2019年11月17日日曜日

映画「蜜蜂と遠雷」鑑賞

 9月にこの小説を読んで長々と記事を書いたあと、映画が公開されて、本当に楽しみにしていた。いつも拝見している方のブログでもこの映画のことが書かれていたので、たまらずにコメントしたのだけれど、コメントでは書ききれないので、あらためて感想を。

いや~、良かった。

 小説は小説で良かったと思う。特にこの小説は言葉の紡ぎ方がとても丁寧できれいだと思うし、言語化しないと伝えられないことがしっかり伝わってくるというだけでなく、言語化できないところにいろんな想像力が働いて、まるで実際に自分がそのピアノコンクールの観客であるかのような錯覚さえ覚える。

 その中でも特に心情描写というのは、言語化されることでイメージがつかめて、さらに行間からそのイメージを膨らましていくもの。いや、そもそも心情というものは言語化されることによってはじめて心情になるものではないだろうか。たとえば、日本語には「切ない気持ち」という言葉がある。Googleで翻訳すると「Sad feeling」という訳になる。でもなんだか違う。「切ない」は「Sad」でも「painful」でも「melancholy」でもなくて、やっぱり「切ない」だと思う。もし「切ない」という言葉を知らなかったら、「切ない」気持ちにはなれないと思う。自分の気持ちを「切ない」と言語化したときにはじめて「切ない気持ち」を体験できる。

 この小説の登場人物の心情は、そんな簡単な言葉で表現できるものではなくて、特に亜夜の心情は複雑で、そしてそれが刻々と変化していく。この小説では、それが言葉と行間の両方からほとばしってくる。最初は深い悩みを抱えていた亜夜が、次第にその悩みから解き放たれ、新しい心情を言葉ではなく音楽で表現していく様が、この小説の大きな文脈のひとつだと思う。

 映画では、その亜夜にほんとうに会ったような、そんな印象を持った。こんな喩えはどうだろうか。いまの人ならLINEとかで互いに言葉を交わしているひとは多いと思うのだけれど、実際にあって話をすることで初めて「リアル」にその気持ちを共有したりできる、なんてことはないだろうか。

 映画の台詞は小説の文字を音声化しただけではなくて、小説よりも「リアル」に近い印象がある。映画を観ながら、まるでいま目の前に亜夜がいるような。もちろんそこに実際にいる訳ではないので、「互いに分かり合える」ということはないのだが、亜夜の心情がより「リアル」にわかる、というだけでなく、亜夜を通して自分を見る、というか、そのことによって、もしかして自分ってこんなふうに思っているんじゃないかな、って初めて気づいたりだとか、どれだけ言葉を紡いでも辿り着けない「リアル」の世界がそこにあったように思う。

 スクリーンの向こうに手を伸ばすことはできないのだけれど。

 いい小説といい映画に感謝。