2018年4月29日日曜日

左手が追い付かない

 先生のコンサートを聴いてから初めてのレッスン。コンサート前は誰でも気が立つものでレッスンも厳しくなりがちだったけれど、コンサートが終わっても相変わらずレッスンは厳しい。厳しい理由は他にありそうだ。
 コンサートで感じた先生のストイックなところは、昨年、子供たちの発表会を聴いて感じた「攻めてくる」演奏につながっているのかもしてない。「間違えないように弾く」というような「守りの演奏」ではなくて、「聴かせる」というような演奏だ。今日のレッスンでのお話を聞いていても、先生が発表会に求められているのはそこなんじゃないかと思った。いままでもきっと仰っていたのだと思うが、子供たちの発表会と先生のコンサートとレッスンで仰ることがつながったときに、
そういうことか
と心に落ちるものがあった。それにしてもそこまでの道程は厳しい。

 毎度のことだが、レッスンで仰ることはとても基本的なことで、それも毎回それほど変わらない。しかし、基本的なことほど理解するのには時間がかかる。今日も言われることは、速く弾くのではなくて、ゆっくりちゃんと弾く練習をしましょう、ということだった。これ、太字にしているけど、前にも言われているよな。ただ「ちゃんと」と意味が分からないまま、ちゃんとしようとしても、ちゃんとはならない。先生が仰るには、左手が遅い、ということだったので、何度も練習をして、次は何の音か迷わずに指が動くようにしてきたのだが、それは半分合っていて半分間違っていた。

 まず暗譜しようという姿勢は褒められた。暗譜がしっかりしているところはそれなりにしっかり弾けている。とくに緩楽章の最初と最後は、聴いていても「暗譜してきたんだな」ということが分かるということだった。ただ、最初のあとから最後の手前までは、まだしっかり暗譜ができていない。これはしっかり暗譜すれば良くなるように思ってもらえたようだ。
 これに気をよくして急楽章の方を弾いてみる。
 嗚呼、弾けない。
 いろいろ不本意な演奏。だいたいこういう場面では、練習10回やっていちばん下手っぴだったときの音になっているものだ、しかし、頭の中には、練習10回やっていちばん上手く弾けたところがあるもの。先生によれば、
それはまぐれです
とのこと。はい仰る通り。あまりにも的確なご指摘だったので、瞬時に理解できた。疑問の余地はまったくない。

 それはさておき、今日わかったことは、左手が遅いというのは、テンポではなくて、右手の動きに比べて遅いということだ。そこを注意しないでいくらゆっくり練習してもだめだ。そうだ、音を止めて練習しなさい、ということも仰っておられた。そういうことか。
 つまり、右手が弓を返したり、弓を動かし始めたり、音の出初めのところのインパクトを掛け始めているときに、左手がまだその音のフィンガリングを完了していないということだ。だから、レーーミーーファーー、となるべきところが、レーーレミーミファーとなったり、ッレーーェミーーィファーーとなったりする。ただそれも素人には聞き取れたり聞き取れなかったりするので、ほら、いまのところ、と先生に言われて、なるほどホントだ、と思うときと、えぇそうですかぁ、と思うときがある。これが良くない。自分の音を聞くときはちょっと厳しめに、どこがダメか、もとい、どこを直せばもっと良くなるか、小さなところまで耳を澄ませて聴くようにしないとダメだ、と仰る。やはりなかなかストイックだ。

 発表会は8月の終わりなんだが、そういう時は7月の終わりぐらいに思っていていい加減。それじゃ6月の終わりまでにはテンポ通り弾けるようにしないと、どう弾きたいかというような味付けはできない。6月の終わりまでにテンポ通りということは、5月の終わりまでにゆっくりでいいからちゃんと弾けるようになっていないといけない。
 そう、ちゃんと弾く
 ちゃんと、というのは、右手と左手のタイミングがちゃんと合っていて、次の音の準備もしっかりできるようになり、そのためには暗譜がちゃんとできている。そういう状態にあと1ヶ月でもっていく。

 うむ。とにかく練習だな。

 

2018年4月15日日曜日

先生のコンサート

画像に含まれている可能性があるもの:雲、空、屋外
会場正面
 先生のコンサートを聴いてきた。
 隣町の郊外だったので、家に帰ってくるのに2時間近くかかる。そう、もう2時間前のことなのに、なんだか、いまでも、ものすごく興奮している。

嗚呼、よかった。
素晴らしかった。

 それ以上に言いようがないのだが、本当に良かった。
 客席200の小さなホールは満席。当日券を当てにしていった私は、ロビーでキャンセル待ちをすることになった。たまたまスタジオのご主人が来られ、奥様が急に来られなくなったとのことだったので、入場できた。これは有難いことだ。先生のコンサートが満席になるというのは、それはそれで嬉しいが、自分が入れないのは悲しい。そこに空席ができてしまうのも残念なのだが、その空席を自分が埋めることができた。
 ステージに登場した先生はとても綺麗だった。
 曲はちょっと難しい。前半はそんなことに気を取られていたりしたが、そうだ、曲を聴きに来たのではなくて、先生を見に来たんだと、気を取り直し、先生の呼吸を感じながら聴き入る。こういうのは小さな会場ならではなんだが、それも、レッスンでいつも「ちゃんと息をしましょう」といわれている私以外にこんな聴き方をする人もいないだろう。
 そんな聴き方をしていると、先生がますます綺麗に思えてくる。
 演奏はもう異次元だ。こんな先生に、なんど言っても同じことばかり注意されて、ちっとも上達しないおっさんのために45分も時間を使うのは浪費のようにも思える。きっとその45分があれば、相当ストイックな練習をされるのだろう。いや私も、その45分が浪費にならないようにストイックに練習をしなければいけないのだが、いやいやそれこそ次元が違う
 演奏だけではなく表情からも、ストイックな練習をされてきたことが伝わってくる。いまの演奏に満足していないのか、自分の演奏を冷静に批判的に振り返っているのか、演奏が終わったときもツンとした感じで、笑顔はない。それが急に変化したのは、プログラムが全部終わってアンコールがかかった時だった。舞台から挨拶をされる先生の声が震えていて、いまにも泣き出しそうなのを必死にこらえて話しておられる。いちど表情を崩すと、もう、ちょうどいい感じの笑顔なんて作れなかったのかもしれない。

 ホールの大きさに関係なく、ライブというのは、必ず聴衆の思っていることが演奏者に伝わり、演奏者の考えていることも聴衆に伝わる。それが互いに共鳴し、そこにいる全員が演奏者のように、そしてホール全体が楽器のように鳴り響く。これがライブの醍醐味だと思う。YouTubeで聴くのとは全く違うし、どんな高価なステレオセットを使ってもこれには敵わない。

 なんども言うが、良かった、素晴らしかった。そして先生は綺麗だった。写真に撮って「ほら綺麗でしょ」というものではなく、そこに見えるもの、聞こえるもの、空気の感触、そのほかすべてのものが先生の美しさのためにあるようなステージだった。

Bravo!

2018年4月9日月曜日

コンサートにお花を

 来週は、いつもお世話になっている先生がコンサートをされる。オーケストラのひとりとかじゃなくて、チラシに先生の写真がドンと載るようなコンサートだ。これは嬉しい。なんで、って特に理由はないが、すごいことだと思う。
 先週、たまたまコンサート会場の近くに用事があったので、帰りに会場近くのお花屋さんを探して、差し入れをお願いしてきた。もちろん、電話でも頼めるのだが、やはり実際にお花屋さんを見て、店主の顔を見て注文したい。こういう花をこんなふうに、とこと細かくお願いするほど花の知識もないので、細かいことはお花屋さん任せになってしまう。それで、コンサートのチラシを持って行って、
この先生に贈るんです
と言えば、写真のイメージで良いようにしてくれるのではないか、などと考えて、実際にそうした。先生はまだ若く、歳だけでいえば親子ほども離れている。きっと色目の良いカーネーションなんかを使って、可愛らしく華やかにアレンジしてくれることだろう。なんて思いながら注文票に電話番号とかいろいろ書いていたのだが、どうやら店主は二人の関係が気になるようだ。父親なのか、父親の友人なのか、パトロンなのか、いやあるいは所謂パパなのか。それによって花の感じも変わるのだが、どうもそこを測りかねたように
ヴァイオリンですか・・・
といってこちらの反応を覗っている様子。いや、その前に写真を指差して「この先生」って言っているのだから先生と生徒でしょ、と言いたいところだか、そこはあまり考えずに、「習っているんですよ。四十の手習いで。」と言うと、うしろで作業をしていた、奥さんだか、娘さんだか、アルバイトをしている娘だか、どうもそのへんの関係の定かでない女性もいっしょに破顔一笑。どうやらお花のイメージも決まったようだった。
気に入ってもらえると嬉しいのだが。

2018年4月1日日曜日

フレーズ感と呼吸

 レッスンにいく道の途中、まるでアニメ映画の背景のような景色に遭遇。今日は上手くいきそうだ。

 毎度のことだが、アンサンブルで大量に渡される楽譜を除けば、いつものレッスンは、とにかく1点主義。この曲を、と決めればその曲ばかりを練習する。その曲は弾けるようになるのだが、ほかの曲は弾けない。その分、その曲に好きなだけストーリー作りができる。いま弾いている曲にはまだストーリーが付いていないのだが、何かこの景色を背景に、二次元の若者が演じる物語は想像できないものだろうか。

そんな都合のいい話、あるわけねっし。

いや紙兎のロペじゃなくて…。
 今回のレッスンで明らかになった課題は呼吸
 弦楽器は息を止めていても音は出るが、呼吸が曲にあっていないとフレーズ感が出てこないというのだ。合奏で合わせたりするときもとても合わせにくいらしい。特に緩楽章を聴いていると、ずっと息を止めているみたいに見えるようだ。そうなると聴いている方も息が止まる。
 さぁいまから息を吸って、ここまできたらこれぐらい吐いて、などと考えながら呼吸することは、普段はない。だけど、それを意識してやりましょう、ということだ。特にここで吸ってここで吐いてというご指導はなかったが、それぐらい自分で考えろということなのだろう。

 急楽章の方はもっと技術的な課題が明らかになる。
 右手と左手が合っていないというのは前回のレッスンでも指摘があった。ちゃんと準備ができてから右手を動かすようにというのも、以前から言われていることなのだが、これが出来てない。
 まず、下降音階のときは次の音の分も先に押さえておく。いままでは、これから出す音だけを押さえていたので、例えば、弓を止める、3指を離す、1指を押さえる、弓を返す、弓を動かす、という一連の動作が冗長で、バタバタとしている感じがあるし、それでいて弓の動きと指の押さえのタイミングが合わず、鳴り出しがはっきりしないフレーズになってしまっていた。まずは、弓の動きをいったん止めてこの一連の動作が出来るようにする練習をしないといけないのだが、そのときに、新しく押さえる指は前の音を出している間に先に押さえておいて、音の変わり目の瞬間は指を離すだけでいいようにしておく。
 理屈は分かるのだが、音を出している間に次の音のことを考えると、自然と体が次の音にシフトして、間違ったタイミングで次の音を出してしまう。これの克服は結構大変そうだ。しかし、これが克服できれば音のつながりはより良くなってフレーズ感が出てくるのか?

 レッスンの帰り。またあの桜の道の前を通る。ここで展開される物語を考えてみた。

 桜のトンネルをヴィオラを抱えた女の子が走ってくる。思いを寄せるオケ部の先輩は3歳からヴァイオリンをしている。いっしょに練習しているときの先輩の呼吸なんて、いままで考えたこともなかったけど、あの呼吸のおかげで弾けていたんだ。今日から自分も同じように呼吸してみようと、先輩の呼吸を読み取る。少し先輩に近づけたような気がした。