2018年2月25日日曜日

オリンピックに思う

 いつもお世話になっているスタジオの発表会は2年に1度。前回はリオデジャネイロ五輪の年、その前はソチ五輪の年というように、毎回、オリンピックの年と重なる。「がんばれニッポン」なんてCMもさかんに放送されるから、つい日本選ー手がメダルを獲ったかどうかばかりに関心が向いてしまうが、どの選手もその国を代表するアスリート。たとえこけようがビリになろうが、私のような素人がああだこうだと言うこともない。それよりも、選手たちの表情だとかインタビューだとかを通じて、まるで自分もオリンピックに出場しているかのような疑似体験が出来ることは、テレビという文明の利器の賜物。最近はどの局でも、かつてオリンピックに名前を刻んだ元選手が、素人にもわかりやすく解説をしてくれるので、選手の心にまで手が届くのではないかと錯覚してしまう。もしかすると、遠い異国でも同じようなことを思っている人がいるのかもしれないと思うと、少し世界が小さくなったように思える。

 さて、もうそのオリンピックも終わろうとしているのだが、今年のオリンピックでは相反する二つのことを感じた。

 ひとつは、オリンピックに出たいと思っているだけではオリンピックには出られないんだということ。オリンピックに出てメダルを獲りたいといういう人だけがオリンピックに出場し、金メダルを獲りたいという人だけがメダルを獲得し、金メダルを獲ってどうしたいのかを知っている人だけが金メダルを獲れるということだ。かつてマラソンの高橋尚子選手が、オリンピックの前に「見ていてください。見終わった後でなんだか走りたくなるような走りをします」といった趣旨のことを言っていた。羽生結弦選手の演技を見ていると金メダルだけでは語れないドラマを感じる。キムヨナの滑りもそうだった。みんな金メダルのその先を見ているように思う。
 そう思うと、発表会でなんとか無難にそつなく弾こうなどと思っている自分が恥ずかしくなる。そんなことでは、「上手ね」とさえ言ってもらまい。「どや」と言わんばかりの演奏をするつもりで、やっと「上手ね」って言ってもらえ、何か感動のひとつでも与えられるかというような演奏を目指して、やっと「楽しそうだ」と思ってもらえるのかもしれない。

 その一方で、メダルなんてまったく考えずに、だた目の前にあることに無欲に取り組んで活躍する選手もいる。浅田真央選手やミキティばかりが注目されていた時の鈴木明子選手の演技などは、メダルとは何も関係なしに感動を覚えた。今回、銀メダルを獲った宇野昌磨選手なんかを見ていると、無欲を絵に描いたようだ。カーリングで銅メダルを獲った選手たちもそうだ。銅メダルを獲った3位決定戦もハラハラして見ていたが、個人的にはその前の準決勝で、最後、同点にまで追い上げたところなんかは感動ものだったと思う。
 発表会でも、こんなふうに、ただ無欲に演奏したいと思っていた時期もあった。しかし、いざステージに立つとつい「上手く弾いてやろう」なんて欲が出てしまうのだ。そういうところはアスリートたちとは違って心が出来ていない。

 共通して言えることは、金メダルは獲りに行くものではないということかな、と思う。金メダルを狙うのではなく、その先の目標を見据えて、目の前のことに無欲に取り組む。そういうことなんじゃないかと思う。
 発表会でいうとどういうことなんだ?

 なんだかとりとめのない話になってしまったので、韓国のソプラノ歌手、ホアン・スミさんのオリンピック賛歌を貼り付けておく。開会式でものすごく感動した。そうそう、開会式でオリンピック委員会の委員長だか誰かが言っていた。選手たちはここにいるだけですでに勝者なのだ、と。
 だから発表会も、うん~と…。

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