2015年10月24日土曜日

Shall we ダンス?

 役所広司の「Shall We ダンス?」を見て、大学の教養科目で聞かされたことを思い出した。

 第一の問題は、われわれが「進歩」と称するもの…それが次々に惹起する変化に世界の人々がひどく混乱し、歩調を合わすことができないのではないか。自分たちがしていることの意味と結果をまだ十分に把握しきれていない…しだいに現実の世界と反目するようになってきている。
 第二の問題は、奇怪で悲惨な運命が「ホモサピエンス」を襲う以前に…ギャップを埋めることができるか…たとえ名もなく貧しく生きようとも平均的な人間は生来…「学習する」能力を有している…これに刺激を与えることによって、現在は比較的低い水準にあるその能力をはるかに高くすることができるのである。
 必要なのは、われわれすべてが自分たちの眠っている潜在的な能力を呼び起こし、今後それを目的に向けて賢明に使っていくことを学習することである。

「ローマクラブ第6レポート『限界なき学習』」
J.W.ボトキン他 著 大来佐武郎 訳 ダイヤモンド社,1980

 学生のころは分かっているようで分かっていなかった。こういうのを授業で聞かされて、「そうだよなぁ、こういう人類的課題を解決するためにオレ勉強しているんだよなぁ」なんて思っていた。そのころは「生涯学習」なんて言われてもイメージが持てなかったし、「学習」といえば先生に何か教えてもらって、試験受けて、点数付けてもらう、ってことしかイメージしていなかった。そして、それがものすごい人類課題の解決につながっているんだと思っていた。
http://www.amazon.co.jp/より

 いままで自分がヴァイオリンを弾いていることを「生涯学習」などと考えたことはなかったのだが、書架の隅っこにある本を見て、もしかして、これ、あのころ自分が「けっ」とか思って、心のどこかでバカにしていた「生涯学習」かもしれないなぁ、などと考えたりした。

 大人になって分かったこと。

勉強って面白い。

 それは人間に備わった本能だから。食欲や性欲と同じように、人間は自分自身が人間であるために勉強しようという意欲を持っている。言葉や文字がなく狩猟や採集で生きる糧を得ていたころから人間は、雨はなぜ降るのか、花はなぜ咲くのか、と考えを巡らせていたに違いない。それは、そのことを理解することが彼らの生活を豊かにすることに結びついていたから。

 学校の勉強が面白くないのは、いい大学に行っていい会社に入っていいお給料をもらうための勉強だから。おカネのためにやることはたいてい面白くないと相場が決まっている。

 人間の知性が科学の進歩に見合っていないから、人類は科学をコントロールできていない。そのことが人類的な悲劇を惹起している、という30年以上前の言は、いま、この時代になってみるとものすごくよく分かる。自分が歳をとったからなのか、世の中がそうなってきたからなのかは分からない。30年前なら、核戦争の脅威だとか、空から恐怖の大魔王が降りてくるという大予言だとか、そういうことが人類的悲劇だと思っていた。
 冒頭に引用したテキストが言いたかったのは、人類の叡智をおカネ儲けのために使うのではなくて、商業主義から人類を解き放つために使うべきではないかということだったのではないかと思う。

 自分のヴァイオリンや役所広司の社交ダンスが、どうやってこんな大きな人類的課題を解決するのかは、映画を見てもよく分からなかったけれど、勉強って面白い、人間は自分自身が人間であるために勉強しようという意欲を持っている、というのは実感できる。それでおカネ儲けになる訳じゃないけれど、ほら、自分の生活を豊かにしているじゃん。

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