2021年12月25日土曜日

レッスン納め

  今年も年末までヴィオラを続けられそうだ。

 結構いい歳で、いくら練習しても上達しないのに、よくぞ続けられているものだ。それだけでも絶賛に値する。上手に弾ける人や上達の著しい人が続けられるのは当たり前だ。そりゃ練習した成果が目に見えて音に聞こえりゃ楽しいだろうし、人から褒められれば嬉しいだろうし、練習しようかという気にも、弾いてみようかという気にもなるだろう。いくら練習しても上達しない人の場合は、他人から、何が楽しくてギコギコやってんだ、うるさいんだ、ええかげんにしてくれ、と冷たい目で見られながら続けるのだから、相当な忍耐力が必要だ。

 ともあれ、毎年、年末まで続けられることを目標にしているので、今年も達成できてよかった。このブログも、いちおう毎月更新できた。1回だけという月も多かったけど。

 今日はスタジオの最後のレッスンだった。あしたは公民館を借りてアンサンブルのレッスンがある。それで今年のレッスンは終わり。

 ソロのレッスンもアンサンブルも、来年の発表会に向けて練習しているのだが、先生曰く
だいぶカタチはできてきましたね
ようやく何をしたいのかわかるようになってきました

という段階。「あ~この人、モーツアルト弾きたいんだ~」ということがわかるようになってきた、ということだった。あとは聞く人の想像力さえ秀でていれば素晴らしい演奏に聞こえるはずだ。

 パッヘルベルのカノンもようやく大過なく最後まで弾けるようになってきた。スタジオのレッスンでは人数が揃わないので、ちゃんとしたハーモニーにはならないけれど、いちおうパッヘルベルのカノンには聞こえる。

 明日ははじめてパートが揃ってカノンの練習。

 なんか、この曲をやっているとバヨ会をしていたころを思い出す。バヨ会のたんびにこれを弾くんだけど上手く弾けなくて、次のバヨ会まで弾けるようになろうとレッスンでも見ていただいたりして、なんとかかんとか弾けるようになって、そうなるとバヨ会が待ち遠しくて、なんて感じだった。

 いまもこうやっていちおう弾けるようになると、明日のレッスンが楽しみだったり、発表会が待ち遠しかったりする。

 あとは音色だな。

 って、これはかなり本質的で、これまでずっと何とかしたいと思ってきて何ともできなかったことなんだけど。


2021年11月14日日曜日

発表会の選曲

  レッスンの方は、目下、『ヴィオラ名曲31選』にあるモーツアルトの二重奏のアンダンテを見ていただいている。31曲のうちの3曲目。前から順番に見ていただいて、最初に躓いた曲だ。今年の1月に一度見ていただいたのだが、いちど見ていただいただけで「これはちょっと後回しにしましょう」と却下されてしまった曲だ。詳しくはずいぶん前の記事に書いている。私もそれを見ながら、いま「そうだったなぁ」と遠い目で昔を思い出していたところだ。

 もういちど動画を張り付けておくと、こんな曲。

 前回の記事にも書いているが、コロナでしばらくできなかった発表会を来年4月にすることになり、曲を選ぶことになった。これまでの発表会は、わりとテンポのある曲で、音色とか表現とかはそっちのけで、とりあえずこんな難しい曲を弾けるようになりました、という選曲が多かったのだが、最近のレッスンはわりとゆっくり目の曲をきれいに弾くことに主眼を置いている。ちょっと冒険かもしれないが、こういう曲をゆっくりと艶っぽく弾くというのもわるくはないと、この曲で挑戦することにした。

いちおう弾けている

というつもりだったのだ。

 しかし、実は弾けている状態までは程遠かった。レッスンのたびに毎回、リズムがおかしいと指摘される。アンダンテでゆっくりなのだけど、ところどころに装飾音符やら、横線が数えきれないぐらいついている音符が密集しているところやらがある。そういうところに来ると気が焦るばかりで、先生曰く、「6/8拍子に聞こえない」「伴奏する人に、どこを弾いているのかが伝わらない」などなど、とにかく致命的な状態になっている。レッスンの時は「タラタラタン、ターーーーン」とか先生に歌ってもらって何とかリズムをとるのだが、ひとりで弾いていてもそれがうまく再現できない。それで何とかしようと変なリズムを付けて、それで何度も繰り返し練習するから、次のレッスンでまた同じことを指摘される。

 選曲した時は、少しずつ完成に近づけていけば、発表会までにはそれなりに艶っぽくなるだろうと思っていたのだが、遅々として進まない。「ここのフレーズだけは弾けてるぞ~」みたいな実感もなく、どこから練習したものやら、という状態。やはり、1月の段階で後回しにしたのは正しい判断だったのか。きのうのレッスンでも

この選曲はちょっとしっぱいかもしれませんね

と、内角に鋭く剛速球が入ってきた。

 最近、仕事の帰りも遅く、練習量は圧倒的に不足気味。自宅の近くは田舎で、遅い時間になると人通りもないので、アンダンテのリズムでトボトボと歩きながら「タラタラタン、ターーーーン」と歌いながら帰る。これも練習のうち、のつもりなのだけど、あまりにリズムが取れなくて躓きそうになってしまう。まともに歌うこともできない。歌えない曲が弾けるわけはないので、やはり冒険が過ぎたというべきか。

2021年10月28日木曜日

20周年

  時が経つのは早いもので、いま通っているスタジオが、来年、創立20周年になるそうだ。そういえば、長女が3歳になったら何か楽器を習わせようと思っていたところに、新しいスタジオができるというポストインがあって、それで見学に行ったのがご縁の始まり。その娘がもうすぐ23歳になるのだから、なるほど20周年だ。

 ちなみに私がレッスンを始めたのは、その2年ほど後なのだが、いま残っておられる生徒さんの中ではすっかり古株になってしまった。年齢は相変わらず四十路なのだが。

 それで、話はスタジオの話に戻るが、しばらく中断していた発表会を、20周年の来年こそは開催したいと、4月の開催が決まったらしい。いやホントに目出度い。コロナでいろいろ苦労されていることを知るだけに、ホントに嬉しいし、20周年に花を添えるつもりでしっかり練習して臨みたいところだ。

2021年9月23日木曜日

家庭内引っ越し

 

 いろいろ事情があって、家の中で部屋を替わることにした。人生の中で何度か引っ越し(家の中での引っ越しじゃなくて、トラックで荷物を運ばないといけないような本当の引っ越し)を経験しているのだが、年齢とともに荷物も増えて、だんだんと引っ越しが面倒くさくなってくる。私の場合、読み終わった本だとか、町内会の役をやったときの資料だとか、そういうものを捨てない性分で、とにかく荷物がたまる。いやだって、町内会の役は輪番でまた回ってくるし、そのとき前やったときの資料があったら楽じゃん、なんて思ってしまう。大学生のころ、友人とちょっとカッコつけて夜遅くまで飲んだあと、そいつの家に泊めてもらったのだが、そいつの部屋には文庫本が2~3百冊もあった。そのとき太宰治を勧められて初めて読んだ。なんかこいつカッケーぞ、と思った。それ以来、実用書の類だとかマニュアル本だとか雑誌とかは別にして、とにかく買って読んだ本は残している。本も随分たまって本棚からも溢れていた。

 今回の家庭内引っ越しに備えてかなりの整理はした。まず、ノートの類をすべて捨てた。大学の講義ノートだとか、ちょっと難しい本を読んだ時の読書ノートだとか、そういうものって、将来、私がノーベル賞でも取ったら大都学記念館の貴重書庫に収蔵されたかもしれないのだが、もうこの先そんな賞を取ることもなさそうなので捨てることにした。本棚に入りきらなかった本は、廊下の壁をくりぬいて本棚を作り、図書館みたいに分野別に並べて収めた。文庫本も廊下の壁に、作者の五十音順に並べている。1年間、着ることのなかった服を捨て、何かの役に立つかもしれないと思っていたもの(町内会の資料を含む)を捨て、とりあえず荷物3割減ぐらいのダイエットをした。

 さてさて、捨てられないものの中に楽譜がある。以前に「バヨ会」と称して素人(だいぶハイレベルな方もおられたが)ばっかりが集まり合奏した曲だとか、発表会や演奏会で弾いた曲の楽譜だ。最近のものは蛇腹式のホルダーに入れて整理している。演奏会で弾くものは、予め、プログラム順に製本しているので「確かあの時に弾いたな~」という曖昧な記憶から「ほら、これやろ!」と、何度練習しても弾けなかったところに赤ペンで丸印をしていたり、音名やら指番号やらをやたら書きまくっている状態で出てくる。

 そういえば、3年ぐらい前にパッヘルベルのカノンを弾いたことがあったなぁ、という記憶から楽譜を手繰り寄せる。普通の弦楽アンサンブル(1st,2nd,vla,vc)の構成で弾けるように、ヴィオラを3バヨにアレンジしているやつだ。なんでこれを探したかというと、いつものアンサンブルレッスンの3人(ヴァイオリン×2+ヴィオラ)のうち、ヴァイオリンの1人がチェロに転向されて、いつか弦楽四重奏曲を弾こうという遠大な計画があって、とりあえずその第1歩としてパッヘルベルのカノンが課題曲になっているからだ。私がもらった楽譜は初心者用で、16分音符が一切ない。そうすると、1stヴァイオリンと3度でハモる山場のところがなくて輪奏にもならない。初心者用とはいってもヴァイオリンの初心者用なので、ヴァイオリンならファーストポジションだけで弾けるのだが、ヴィオラは5ポジまで出てくる。そんなところで苦労するぐらいなら、ポジションの上がるところはオクターブ下げてでも、16分音符の山場のところを弾きたい。

 そんなわけで、4年前に演奏会で弾いた楽譜を引っ張り出してきて練習することにした。

 ほら、こうやって役に立つことがあるからなかなか荷物が捨てられないのよ。

2021年8月22日日曜日

ワクチン1回目接種

  この病気が騒がれだしたときから、これは相当気を付けていても感染を防ぐことはできなのだから、みんな順番に罹るもので、自分もそのうちに順番が回ってくるものと観念していた。とはいっても、こんな大騒ぎしているときに大勢の人が病院に行けばお医者さんも大変だろうし、そのうちお医者さんの体制も整って、罹っても大丈夫なようになるだろうから、それまでの我慢と、いろいろなものを我慢してきた。ところが医療体制は一向に整わず、もちろん努力はされているのだろうけれど、それが全然追い付かず、本来ならかかっても大丈夫なようにいろんな施策を講じるべきお偉方は、相変わらず「罹らないようにしましょう」というばかりで、病気の蔓延にかこつけて一部の人が儲けていたり、自分の立場だとか利権だとか、そんなものを守るために我慢を強いるような様子が見え隠れして、だんだんと我慢が馬鹿らしくなってきた。

 そうなってくると、この病気に関しては誰の言うことも信用できなくなってきて、ワクチンを2回打てば大丈夫といわれていたことも、最近はどうも怪しくて、3回目の接種をしないといけないなどといったことが言われているし、副作用は軽微というのもどうも怪しい。金持ちも権力者も大衆も同じようにリスクがあるのだから同じように気を付けないといけないというのは、かなり初期の段階から破綻していたように思う。

 ワクチンが効果があるとして、果たして自分は積極的に摂取するべきなのだろうか。何か大きな災害があって、その災害現場から、たとえ助かったとしても余命いくばくもない年寄りと、家族を養う働き盛りの中年と、成績も優秀で将来を嘱望されている青年の3人が重篤な状態で助け出されて、放っておいたら命はないのだけれど、そのうちの一人だけ治療して救うことができるとすれば、誰を助けるだろうか。もともとワクチンをあまり信用していないうえに、数も十分には確保できていないなどといったことを聞くと、自分のようなどうでもいい人間よりも、若人たちにさきにワクチンを打ってあげて、学校の授業も、運動会も、修学旅行も、受験も、クラブ活動もきちんとできるようにしてあげたい、などという思いに至る。いま、ワクチンや治療薬を開発している人も、治療の最前線にいる人も、かつて生徒や学生だった時があって、学校で友達とうまくいったりいかなかったり、先生に褒められたり叱られたりといった経験がその人の人格を作っていって、そうして作られてきた人格があるからこそ、この苦しい状況の中で自分の使命を全うしようとしているのだと思う。リモート授業とやらでそういう人格形成ができるのだろうか。これからこの世の中がどんな問題に直面するのか想像もできないけれど、それを解決するのはいまの子供たちで、その子供たちがいま経験していることが、未来の社会を作っていくのだと思うと、昨年から今年にかけて学校や子供たちに課せられている、一部理不尽と思えるような措置も含む過酷な状況は、将来の社会を劣化させているように思えて、まことに心苦しい。できることならそういう若い人から接種して、青春を謳歌してもらえば経済も回る。

 そんなことを考えながらワクチンの接種を躊躇していたのだが、夏の長期の休みのうちに予定していた旅行をキャンセルし、各地で起きている水害の復旧作業にボランティアで参加することもコロナのせいで躊躇したりしている自分を顧みて、もし打ってもらえるのなら打ってもらおうかという気分になって、昨日、1回目の接種をしてきた。

 すでに接種を終えた人の話を聞くと、総じて高齢者は何事もなく接種が終わっていて、若者たちは、ひどい腫れがでたり、腕が上がらなくなったり、発熱したりといった副作用に苦しんでいるように思える。4人のうち3人が発熱したなどといった報道もあった。いまどき原因は何であっても発熱なんてしたら、スーパーにも映画館にも入れない。こういう状況もまた接種を躊躇させたのだが、いまのところ、左腕に少しの腫れがあるぐらいで、あまりおおきな副反応は出ていない。私も高齢者の方に分類されるのだろう。ヴィオラを弾いていて、左手の音程がうまく取れないとか、ポジション移動が雑になるとか、フラジオレットの場所にうまくポイントできないといった症状は出ているのだが、ワクチン接種との関連性は明らかではない。