2019年9月6日金曜日

読了「蜜蜂と遠雷」

 この1~2年、毎月必ず1本の映画を観ようと思って実践してきた。観たい映画がなくてもとにかく1本は観る。ミニシアターだとかに行けば、ちょっと昔の映画とかだったり、無名の監督さんが作った映画だったり、探せば自分の琴線に触れる映画はあるものだ。そして2本以上は観ない。観たい映画が2本あるときは、レビューなんかを読んで厳選する。「しまった。あっちの方が良かったかも」なんて後悔しても、他の映画は翌月までお預けで、その頃には「あっちの方」の上映は終わっている。そう思うと、結構、慎重に選ぶので、観ていない方の映画もあらすじぐらいは分かっていたりする。
 映画館に行けば、今後上映される映画のポスターやら予告編やらが目に入るので、また映画を観たくなる。今回、目に留まった映画はこれだ。



 原作が直木賞や本屋大賞をとって、たぶん本屋さんの入口辺りに平積みされていたこともあったので、タイトルは知っていた。けれど、ピアニストが登場する話だとは知らなかった。これは読まないわけにはいかない。早速購入。いまなら「映画化!」の帯にピアノを弾く松岡茉優の写真も付いてくる。文字の割と大きな文庫とはいえ、上下巻で1,000ページ近くある大作だったが、6日間で読了してしまった。

 東京から新幹線ですぐに行けそうなところにある芳ヶ江という架空の街。日本を代表する楽器メーカーがあり、おいしいウナギの店があるこの街の駅前にある、2,300人収容の大ホールと、1,000人収容の小ホール、それにホテルなどを備えた複合施設で開催されるピアノコンクールを舞台に、互いの演奏を聴き、その背景にある互いの人格を見つめながら、自分自身の中にある、自分の気付かなかった人格を引き出して成長していく4人のピアニストの物語。

 半分以上はピアノを弾いている場面だ。といっても、小説を読んでいる間はもちろん音は鳴らない。ピアノを弾いている人やそれを聴いている人の感情描写から、そこで聞こえているはずの音を表現していく。例えば、コンクールの第二次予選で、このコンクールのために作曲された課題曲「春と修羅」のカデンツァが演奏されている場面は、つぎのように描かれている。

 いよいよ「春と修羅」だ。高嶋明石は、固唾を呑んで次の曲を待った。…
 ごく静かに、風間塵の「春と修羅」は始まった。まるで、前の曲「ミクロコスモス」の続きのようなさり気ない幕開け。曲も、至ってシンプルに展開される。日常生活。いつもの散歩道。窓を開け、一日が始まる。自然。人々の営みを包む、宇宙の理。当たり前にそこにあり、生活を満たしているもの。…
 しかし、そのイメージは、カデンツァに突入したとたん、一瞬にして打ち砕かれた。
 客席が凍りついた。
 風間塵の紡ぎ出したカデンツァは、すこぶる不条理なまでに残虐で、凶暴性を帯びていたのである。聴いているのがつらい、胸に突き刺さる、おぞましく耳障りなトレモロ。執拗な低音部での和音。甲高い悲鳴、低い地響き、荒れ狂う風。敵意をむき出しにした、抗う術もない脅威。これまでの、楽しげで、ナチュラルで、天衣無縫な演奏とは似ても似つかない、暴力的なカデンツァ。
 明石はゾッとしてほとんど息を止めていたことに気付いた。
 「修羅」なのだ。
 …
 ひとりの客が自分のそばに立っている少女に気付いてギョッとした。
 グリーンのステージ衣装。ドレスの裾をたくし上げたまま、身じろぎもせずに舞台を見つめている少女。…コンテスタントが、ステージ衣装のままこんなところに。
 客は気づかなかったが、そこにいたのは栄伝亜夜だった。
 …
 これは何?
 奏は亜夜の演奏を聴きながらも混乱していた。このカデンツァはいったい。練習で弾いていたのとは、どれとも違う。…
 骨太でゆったりした-おおらかでどっしりとした-これまでの亜夜のタッチとは違う。これまでの才気走った、先鋭的なものではなく、すべてを包み込むような、まるで大地のような。…
 どこまでも続く地平線。駆けてゆく子供たち。遠くで手を拡げて待っている誰か。生きとし生ける者が歩いて行く大地。…
 ああ、これが亜夜の返礼なのだ。…亜夜は、あの凄まじい「修羅」に満ちた風間塵のカデンツァを聴いて、それに応えた。自然が繰り返す殺戮や暴力に対して、それらをも受け止め飲み込んでしまう大地を描いている。
「春と修羅」は、宮沢賢治の世界をモチーフに作られた曲で、曲の途中にカデンツァがあり、「自由に。宇宙を感じて。」と書かれている。けれど、そんな曲がこの世の中にある訳ではない。小説に現れる架空の曲だ。なのに、この小説を読んでいると、まるでその曲がいま目の前で演奏されているような気持ちになれる。「音」という、ピアノの演奏を鑑賞する中でもっとも大切な要素を抜きにして、文字だけでこれだけ巧みに描き出された世界。さて、これを今度はどんな風に映像化するのだろう。じっと舞台を見つめる役者の絵にアフレコを重ねるのだろうか。小説では心の中で思ったことになっているのを、誰かと会話させたりするのだろうか。

 栄伝亜夜を演じるのは松岡茉優。風間塵を演じるのは新人の俳優だ。亜夜が塵の演奏を聴く場面が何度かあるが、これはこのストーリーの中でとても重要な場面。
 栄伝亜夜は、立ち見の観客に交りながらも、奇妙な感覚に襲われていた。まるで、舞台の上の風間塵と一体化しているように感じるのである。風間塵は遠いステージの上にいるのに、目の前にいるみたいだ。…
 彼はあたしを見上げ、ちらっと笑い、話しかけてくる。
『おねえさん、ピアノ好き?』…
『ええ、好きよ』…
『どのくらい?』
『さあね。どのくらいか言えないくらい、好き』
『本当に?』…
『何よ、それ。本当じゃないと思っているの?』…
『さあね。迷っているみたいに見えたから…ステージの上ではそうじゃないのに、ステージから降りるといつも迷っているみたいだった』
小説では、ステージで塵が演奏しているのを客席で聴いている亜夜が自問自答しているのだが、映画の予告編を見ると、もしかすると楽屋のようなところで二人が会話しているように描かれているのかもしれない。相手を見つめる目、表情、仕草。小説ではたくさんの言葉を重ねて表現されている登場人物の感情が、役者の一瞬の演技で表現される。

 音楽、小説、映画。

 どれも「表現」といわれる。同じものを表現しようとしているのに、表現の方法はそれぞれ違う。今日、読み終えた小説が、映画ではどんなふうに表現されるのだろう。
ロードショウが待ち遠しい。

2019年8月18日日曜日

「もう少し」からが長い

 毎度のことであるが、曲がいちおう弾けるようになってからが長い。今年はアマオケがないので、練習している曲数が圧倒的に少ない。ひとつの曲をじっくり練習できるのだが、これは「飽き」との闘いでもある。前から練習していてえ、ちょっと躓くところがあると、いっきに練習がつまらなくなる。何度弾いてもできないので、その段階で

あぁダメだ

とその日の練習が終わってしまう。気分転換のほかの曲を、というのがないので、それはそれで練習が身に入らない。
 そんなことを乗り越えて、なんとか、いまレッスンでみていただいている曲が弾けるようになったのだが、ここからの道程がまたながい。フレーズことに練習していれば、繰り返し練習しているうちに弾けるようになるのだが、最初から通して一回も間違えないで最後まで通すとなると、次元が全く違う。

 そんなことで迎えた今日のレッスン。
 前回はアンサンブル中心だったので、ほぼ1か月ぶりにこの曲を診ていただく。

 全体的に音程は怪しいのだが、今日は、特に半音のところを狭くとるように、とのこと。診てもらっている曲はヘンデルの曲のはずなのに、途中でやたらと移調する。半音のところがどんどん変化するのだが、半音は半音でしっかり半音にしないと、移調したということがよく分からない。特にハイポジションになると、ヴィオラでも指を入れ替えないとダメなぐらい小さい差で半音になるので、そこをしっかりと半音にする。
 そして、これもいつも言われるのだが、ゆっくりでいいから、最初から最後までおなじペースで弾けるようにする。速く弾いているときはどこか誤魔化している。ゆっくりなら誤魔化しがきかないので、速いときとは違うとことで躓くはず。まずはどこで躓くのかをしっかり把握して、そこを繰り返し練習。遠回りのようでも、こういう練習が一番の近道だ。
 アマオケのある時と違って、そんなに追われてはいないので、ここはじっくり練習だな。

2019年8月12日月曜日

アンサンブルの発表に向けて~初レッスン~

 フラジオレットの話題で、アンサンブルのことがすっかりフェイドアウトになりかけていたが、今月は重要な局面を迎えた。

初のアンサンブルレッスン

曲が決まって以降、個人レッスンの入れ替わりのときに、前のレッスンの人と後のレッスンの人と先生の3人で合わせてみたり、といったことはやっていたのだが、3人揃ってレッスンを受けるのは、今回が初めてだ。先生が入ると、とりあえず最後まで通すことは出来るのだが、素人3人で果たして最後まで通せるか。

 レッスン当日は、まず私の個人レッスン、次にセカンドヴァイオリンをされる方の個人レッスンがあって、そのあとアンサンブルレッスン。そのあとにファーストヴァイオリンをされる方の個人レッスンという順序。

 個人レッスンは、いつものように、セヴシックで準備運動をして、それから曲のレッスンというパターンなのだが、「今日はどちらの曲をされますか?」と言われて、やや迷ってアンサンブルの曲を見てもらうこととした。
 課題はFisとCisとGis。イ長調なので、C線、G線、D線の3指がことごとく#になる。3ポジに移動した場合は、1指がいつもより半音高い。この音程がことごとく取りにくい。
 もう一つの課題は2ポジ。Andanteなので、ひとつのフレーズの間、音色をできるだけ変えないように同じ弦で弾くようにすると、C線やG線などの低い弦でもポジション移動が生じる。3ポジの1指が半音高くて取りにくいのだが、その取りにくい3ポジから2ポジに移動すると、音程はもうグダグダになっている。レの音を弾いているつもりが、隣のD線の開放弦とは半音も音程が変わっている。
 さらに1ポジ1指、2指までが怪しい、と指摘される。3指が高めだと意識するあまり、1指、2指もつられて高くなっているようだ。
 Andanteなので、ヒラヒラという速いパッセージで誤魔化すことが出来ない分、音程はしっかり合わせないといけないのだが…。

 そんなことで、あっという間に個人のレッスンは終わってしまった。次の方のレッスンの間、どっかで暇をつぶしてもいいのだが、スタジオの近くは田舎でそんなところもないし、暑いし、30分だけだし、というのでレッスンを見学をさせてもらう。私と同じように、セヴシック(といってもページは違うが)で準備運動をした後に曲のレッスンをされていた。ユーモレスクだった。そういえば、誰か見学しているのって、結構、緊張するものだ。ちょっとお邪魔だったかも。

 その個人レッスンの終わりかけに、もう一人の方も来られて、いよいよアンサンブルレッスン開始。準備運動なしで、じゃ、と弾いてみる。

とりあえず最後まで弾けた。

当たり前といえばそうなのだが、これは結構大きな成果だ。3人がそれぞれ積み上げてきたことが結実したといってもいい。音程が合わないところを合わせて、合った状態を感じるとか、リズムが合わないところを、お互いが聞き合って合わせていくとか、最初と最後、それと休符の後で一斉に鳴らし始めるところなんかのタイミングの取り方とか、アンサンブルだからこそのレッスンになっている。この調子なら、3カ月先でも発表会に出られそうだ。

 そんなわけで、もう1曲、アンサンブル曲が増えることになった。バッハのカンタータ「主よ~」。あ、これ何処かでもやったことある。けどアレンジは先生がされるそうなので、何処かでやったのとはまた違うものになると思う。

 たぶん来年のいまぐらいにあると思われる発表会に向けて、滑り出しは順調。さてこのまま順風満帆に進むのか。

2019年7月20日土曜日

そろそろ真面目にフラジオレット

 そうそう。
 そろそろ真面目にフラジオレットのことを書かないと、何を書いても読んでもらえなくなってしまう。なんだかんだ言っても、書くからには誰かに読んでほしいし、誰にも読んでもらえないよりも、アホ、ボケみたいなコメントで炎上する方が、まだ自分の存在が確かめられて嬉しいかもしれない。どっかの大統領が品格のないツイートをする心理も分からなくはない。

 いままでもフラジオレットのイメージは、Andanteとかわりとゆっくりした曲が終盤で盛り上がって、最後にヴァイオリンのソロで消えていくみたいな、か細い音が鳴るというイメージ。しかし、いまやっている曲はallegroでわりとガシガシ弾くイメージの曲なので、なんでこんなところでフラジオレットがでてくるんだろう、という感じだった。
 しかし、言われて見るとなかなか効果的なところにフラジオレットが出てくる。必ずしもフレーズの最後というわけではない。チャラララチャララララッ、と高いラを弾いた後で2オクターブ下がって、ラー、ときたり、そのさらに5度上の、チャラララチャラララミッ、ときて、ラミラ~、と重音になったり
(文書で書くと何のことかわからないけど…)
 適当じゃなくて、ちゃんとそういうところがフラジオレットになるように作曲されている。ヴィオラの場合は「ラ」がフラジオレットの基本で、「ミ」は1/3のところに触れる応用編なのだが、いきなりからどっちも出てくる。

 先生曰く。フラジオレットの場所は決まっているので、音を出した後で探すんじゃなくて、いつもその場所をフィンガリングできるように練習しましょう、とのこと。それで、イケないとは分かっているのだが、その場所にちょっと印をしておく。折込広告でもなんでもいいのだが、紙を指板と弦の間に挟んで、長さをちょうど駒からネックとペグの間の出っ張ったところ(何ていうんだ?)に合わせて折る。これをちょうど半分に折って折り目を付ける。その紙を再び弦の下に敷いて、折り目のところにマジックで印をつける。同じように三つ折りにして、駒から1/3のところにも印をつける。ヴィオラの場合、いちばん細い弦の開放弦がラ。半分のところがその1オクターブ上のラ、さらに1/3のところがその上のミになる。ここを、押さえるとも押さえないとも分からないような微妙な触れ方をすると、微妙な具合にオクターブ上のラとか、その上のミとかが鳴る。最初にイメージしていたみたいに、この微妙な状態でボウイングを続けるのではなくて、チャラララチャララララッ、と鳴らしたらしばらく余韻が続くので、その間にファーストポジションに下がって次の音の準備をする。

 うむ、なかなか理に適っている。

 最初のうちは5ポジもまままらず、当てすっぽうにフィンガリングしていたのだが、折込広告で付けた印のおかげで、成功率が少しずつ上がってくる。そのうち何度もフィンガリングしているので印が消えてしまったのだが、まぁ2回に1回ぐらいは……
 はい。ダメですね。ちゃんと練習します。

 ただフラジオレットそのものは、案ずるよりも生むが易しといった感じだった。

2019年7月13日土曜日

フラジオレットのつづき

 レッスンで5ポジとフラジオレットを教示いただいたので、そのネタで前回の記事を書いていたら、5ポジの話だけで終わってしまった。今回はその続き。

 ブログの記事を書いていると、ついウダウダと長くなってしまう。最近は、ツイッターとかファイスブックとかインスタグラムとか、書くのにも読むのにも時間が掛からないタイプのツールが流行りなんだが、私の場合、ファイスブックにさえ長々と文書を書き込んでしまう。まだ若い頃は写真の趣味があって、よくカメラトランクを担いで旅に出たのだけど、例えばここで夕日を撮りたいと思っても、ちょうどいい時間にバスがなかったりすると、何もないところでただ海を見ながらボーっと2~3時間、待つしかない。そうやって待ちながら自分のテンションを上げていって写真を撮る。そうやって撮った写真のうちの何枚かは、大枚はたいて大伸ばしにした上に額装までしている。そこに自分の少なくとも2~3時間が凝縮されているのだから、インスタグラムなんかでチラッと見るんじゃなくて、じっくり見てほしい、なんて思ったりする。私が死んだら葬儀会場にその写真を飾るように遺言しているので、機会があれば見に来てほしい。
 そうだ、写真じゃなくてブログの話なのだが、いつも拝見しているブログに10周年という記事があったので、自分はいつからブログをやっているんだと思ったら、まだ12年ぐらいだった。このブログの前にも、いまではもうすっかり黒歴史となっているブログがあって、それを始めてから12年。確か、はじめて数年で「四十路テナライストのヴァイオリン練習部屋」という名前に改称しているので、改称してからちょうど10年ぐらいかもしれない。もはや四十路でもないし、ヴァイオリンはヴィオラに替わっているのだけれど、ま、いいか、よく似たものだ。
 ブログが流行りだした頃は、「インターネット日記」なんて乗りで、その日食べたものとか、行ったところとか、手あたり次第に記事を書いていた人もいたけれど、自分はそうではなくて、ヴァイオリンのことしか書かない、と決めて、ブログのネタ作りのために練習したりしたものだ。フェイスブックみたいに「いいね」が付くわけではないので、どれだけ見てもらえているかはよく分からないけれど、誰かが見てくれているかもしれないというのは、練習の励みにもなった。大人になってヴァイオリンをやっている人がこんなにいるのか、ということも、ブログを通して知ることになった。
 そのうち、世間では、オンラインで知り合った人たちが集う「オフ会」というのが流行りだしたのだが、大人になってヴァイオリンをやり始めた人同士の「バヨ会」なってものもやりだして、それがきっかけでヴィオラに転向し、ブログもレッスンも、もう10年以上も続いている。基本的にヴァイオリンのことだけ、最近はヴィオラのことだけしか書かないというスタンスは変えていないつもりで、何年か前の記事を見ると、如何に自分が上達していないかがよくわかる。
 こんなに長い間、レッスンを受けているのに、フラジオレットを教えてもらったのは初めてだった。

 そうだ、フラジオレットの話だった。
 今回も、文章が長くなってしまったので、つづきはまた次回。