2024年10月27日日曜日

舞曲のように

 テレマンのヴィオラコンチェルト(TWV51)第2楽章。

  ヴィオラを習っている人にとっては、数少ない発表会用の曲だと思う。そもそもヴィオラを習っているという人口が、他の楽器と比べて極めて少ないので、どれだけ有名な曲かと言えば、たかが知れているのかも知れないが、琴といえば六段、尺八と言えば春の海、ぐらい有名でもおかしくない曲のはず。

 来年の発表会に向けて地道な練習が続く。

 さて、まだちゃんと弾けないフレーズもあるのだが、レッスンは次第に「曲想」みたいなところに進んでいく。弾けないところは、弾けるまで練習するしかないので、レッスンで弾けないところを弾けるまで見ていただくのは、あるいは時間の無駄かも知れない。

 それで、この出だしのわずか2小節なのだが、このフレーズは、この楽章の主題なので、このあとも何度も出てくる。なので、これを歌い上げるように

ラッ タン タン タァアア タラタラタラ タラタラタッタァアア タラタン

と弾いていたのだが、昨日のレッスンでは、拍またぎになっているスラーのところを「タァアア」と伸ばすのはやめて、「タァー」と軽く弾くようにとのご指導があった。バロック時代の曲なので、バロック楽器で弾くように。バロック楽器のヴィオラの弓は、モダン楽器のように反っていなくて、矢を射る弓のように弓形になっている。先弓や元弓では巧く音が出せないのか、「抜く」感じの演奏が多い。そういう感じなのだと思う。

 そして最後も、「タラタン」と強く終始させるのではなく、伴奏に主役を「どうぞ」と譲るような感じで。

ラッ タン タン タァーン タラタラタラ タラタラタッタァー タラタ

 を、これはなかなか深い。

 でもこうして弾いてみると、いままでカンタータのような感じだったものが、どこか舞曲のような感じになるから不思議。練習で弾いていてもちょっと楽しくなってくる。

 調子に乗って、you tubeの動画に合わせて、再生速度を0.75倍ぐらいにして弾いてみるのだが、やっぱり指が回らないところがあって、最後まではちゃんと弾けない。

 やっぱり、全部通してちゃんと弾けるようになるのが先だな。

2024年10月13日日曜日

自己顕示欲

 人前で演奏するときに、弾いている自分が何を考えているかは、結構ストレートに聴いている人に伝わる、というようなことは、前から思っていた。それで、「上手な」演奏よりも「楽しい」演奏を心掛ける。ステージの上で自分が楽しんでいれば、聴いている人もきっと楽しくなるはずだ、というようなことを思っているのだけれど、それとよく似たことをプロの演奏家が仰っている動画を見つけた。

 音楽が素晴らしいのは、演奏家の演奏が素晴らしいからではなくて、第一に残された作品が素晴らしいから。バッハの作品を聴いて素晴らしいと感じるのは、バッハが素晴らしいからなのであって、演奏家はその素晴らしさを聴衆に伝えようとしなければいけない。ところが、演奏家という人は少なからず自己顕示欲を持っていて、それがステージでの緊張をポジティブな力に変えていくことにもつながるのだけれど、それが余りに強すぎて、音楽の素晴らしさを伝えたいという気持ちを上回ってしまうと、それが演奏に載って聴いている人に届いてしまう。作品の素晴らしさを伝えたいという気持ちよりも、自分の素晴らしさを認めさせたいという気持ちが演奏に出てしまって、聴いている人の心に響かない演奏になってしまう。

 音楽を続けていくモチベーションは、本来は音楽の素晴らしさの中にあるべきだ。素晴らしい作品を聴衆に伝えたいという気持ちがまずあるべきなのだが、いつしか、自分が他人から承認されたいという欲求が音楽を続けるモチベーションになってしまうことがある。小さい子供が、熱心に練習をしていたら親から褒められる。そういう経験を積み重ねると、人から褒められたいがために練習をするとか、人から認められたいがために演奏するというようになってしまう。インターネット上に動画をアップする人の動機が、その音楽の素晴らしさを伝えるというよりも、それを演奏している人あるいはそれをアップしている人に注目してほしいというところに重点が置かれがちなことに対しても、警鐘が鳴らされている。

 もちろん、上手に演奏しないことには、その作品の良さも伝わらないし、上手に弾けてこその楽しさなんだけれど、プロの演奏家が言うことだけに説得力があると思う。

 この方、他にもいろんな動画をアップされていて、いちいちなるほどと思う。また機会があれば紹介するかもしれません。