2022年11月20日日曜日

『オルケゾグラフィ』について


  『オルケゾグラフィ』は16世紀にフランスで著された音楽と舞踏の指南書。作者のトワノ・アルボーと堅物で処世術に劣るカプリオルとの対話形式で書かれています。表紙には「トワノ・アルボー著」と記されているのですが、これはこの本の中で講師役としてカプリオルにダンスを指南する人の名前。今日でいうところの「中の人」がいて、それがジャン・タブロ(1520~1595)。2020年にこの著者の生誕500年を記念して、道和書院から邦訳版が刊行されました。


アルボー

古代の踊りについては、たいした説明はできません。というのは、年月の経過でわからなくなったり、人々が伝えることをなおざりにしたり、記述することが難しかったりしたために、知識として残っていないのです。…われわれの父の時代の踊りでさえ今とは違っていたのですし、いまの踊りについても同じことが起こるでしょう。…

カプリオル

そうすると、先人たちの踊りが知識として残っていないのと同じように、今おっしゃった新しい踊りが、後世の人々にはまったくわからなくなってしまうことも考えられますね。…そうならないようにお力を貸していただけませんか。そういったことについて書き記してくだされば…先生がいらっしゃらない時でも、その理論と規範にのっとって生徒が自分の部屋で独習できるのは確かなのですから。

pp.4v-5r

 ここにこの本が著された動機が端的に示されています。

 やや毛色の異なる私事をもちこんで恐縮ですが、私の勤める会社はそこそこの人数の従業員がいて、数年に一度は人事異動があります。実にいろいろな部署があって、その部署によってやっていることは全く違うので、齢四十を過ぎていても、異動先の部署ではまったくの新人のようなもの。引継資料などはほとんどなく、OJTという名の場当たり的口述伝授によって業務が引き継がれます。新しいことに対応する力は身につきますが、これでは人が変わるたびに同じ苦労をすることになり、前任者と同じ失敗を重ねたり、前任者の事例を引き継げずに業務が劣化していったりしてしまいます。異動のたびに「これはいかん」と思って、時には百ページを超えるような引継書類を用意するのですが、これがまったく読んでもらえない。業務内容はA4用紙2ページほどに簡潔にまとめなければならず、くどくどと長い文章を書くのは能力のない社員のやることだと思われているのです。なにも百頁をすべて暗唱せよといっているわけではなく、業務を進める中で何かがあったときに「あ、そういえば前任者が何か書いていてくれていたな」と思い出して読んでくれればいいのですが、そうなると「前任者から引き継がれていません」という言い訳ができないので「簡潔に」などというのだろう、と穿って見てしまいます。引き継ぐ側にしてみれば、それまでこの百頁分ぐらいの仕事をやってきたのだし、それを遂行できるぐらいの能力のある人に対して、必要な知見を伝授するつもりで書いているのですが。

 いや、何が言いたいかと言えば、著者ジャン・タブロは、おそらく社交界でいろいろな経験を積み、『オルケゾグラフィ』が刊行された時には推定69歳。もう社交の第一線から退くほかない年齢になって、自分が積み上げてきたノウハウを人に伝え、後世に残すことを考えたのではないだろうか、と思うのです。私のように、自分のもっている知見を書き記すことによって人に伝えようとした人が500年前にもいたのだと思うと、愛おしく思えます。

 『オルケゾグラフィ』のもうひとつの魅力は、聞き手となるカプリオルの純真さです。

アルボー

まず、踊りの会場に入ったら、あなたが良いと思うしとやかなご婦人を誰か選びます。そして左手で帽子をとり、踊りに誘うために右手をそのご婦人に差しのべます。賢明で育ちの良いご婦人なら、左手をあなたに差し出し、あなたの誘いに応えて立ち上がるでしょう。…

カプリオル

もしそのご婦人に断られたら、私はたいへんな恥をかくことになりますが。

アルボー

育ちがよいご婦人なら、光栄にも踊りに誘ってくれる人を拒むことは、決してありません。そんなことをしたら、愚かな人だと思われます。踊るつもりがなければ、皆の中にいるべきではないからです。

カプリオル

そうは思いますが、それでも断られたら恥ずかしさにおそわれるでしょう。

pp.25r-25v

 舞踏の指南書なのか恋愛の指南書なのかよくわかりませんが、この本が著された時代は、音楽、舞踏、恋愛、社交といったものが渾然一体となっていたのでしょう。ただ恋愛指南のような記述はここだけで、あとは音楽と舞踏に関する記述が続きます。音楽については楽譜によって、舞踏については、解説と図示によって、そして楽譜の中に舞踏の型を書き込むような図によって、恋愛や社交に必要な音楽と舞踏の伝授がなされていきます。

 邦訳されているとはいえ、簡単にすらすら読める本ではありません。じっくりと読んで、また思うところをこのブログに書いていこうと思います。もしご関心があれば、「簡潔に書け」などとおっしゃらず、気長に読んでください。

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