この1~2年、毎月必ず1本の映画を観ようと思って実践してきた。観たい映画がなくてもとにかく1本は観る。ミニシアターだとかに行けば、ちょっと昔の映画とかだったり、無名の監督さんが作った映画だったり、探せば自分の琴線に触れる映画はあるものだ。そして2本以上は観ない。観たい映画が2本あるときは、レビューなんかを読んで厳選する。「しまった。あっちの方が良かったかも」なんて後悔しても、他の映画は翌月までお預けで、その頃には「あっちの方」の上映は終わっている。そう思うと、結構、慎重に選ぶので、観ていない方の映画もあらすじぐらいは分かっていたりする。
映画館に行けば、今後上映される映画のポスターやら予告編やらが目に入るので、また映画を観たくなる。今回、目に留まった映画はこれだ。
原作が直木賞や本屋大賞をとって、たぶん本屋さんの入口辺りに平積みされていたこともあったので、タイトルは知っていた。けれど、ピアニストが登場する話だとは知らなかった。これは読まないわけにはいかない。早速購入。いまなら「映画化!」の帯にピアノを弾く松岡茉優の写真も付いてくる。文字の割と大きな文庫とはいえ、上下巻で1,000ページ近くある大作だったが、6日間で読了してしまった。
東京から新幹線ですぐに行けそうなところにある芳ヶ江という架空の街。日本を代表する楽器メーカーがあり、おいしいウナギの店があるこの街の駅前にある、2,300人収容の大ホールと、1,000人収容の小ホール、それにホテルなどを備えた複合施設で開催されるピアノコンクールを舞台に、互いの演奏を聴き、その背景にある互いの人格を見つめながら、自分自身の中にある、自分の気付かなかった人格を引き出して成長していく4人のピアニストの物語。
半分以上はピアノを弾いている場面だ。といっても、小説を読んでいる間はもちろん音は鳴らない。ピアノを弾いている人やそれを聴いている人の感情描写から、そこで聞こえているはずの音を表現していく。例えば、コンクールの第二次予選で、このコンクールのために作曲された課題曲「春と修羅」のカデンツァが演奏されている場面は、つぎのように描かれている。
いよいよ「春と修羅」だ。高嶋明石は、固唾を呑んで次の曲を待った。…
ごく静かに、風間塵の「春と修羅」は始まった。まるで、前の曲「ミクロコスモス」の続きのようなさり気ない幕開け。曲も、至ってシンプルに展開される。日常生活。いつもの散歩道。窓を開け、一日が始まる。自然。人々の営みを包む、宇宙の理。当たり前にそこにあり、生活を満たしているもの。…
しかし、そのイメージは、カデンツァに突入したとたん、一瞬にして打ち砕かれた。
客席が凍りついた。
風間塵の紡ぎ出したカデンツァは、すこぶる不条理なまでに残虐で、凶暴性を帯びていたのである。聴いているのがつらい、胸に突き刺さる、おぞましく耳障りなトレモロ。執拗な低音部での和音。甲高い悲鳴、低い地響き、荒れ狂う風。敵意をむき出しにした、抗う術もない脅威。これまでの、楽しげで、ナチュラルで、天衣無縫な演奏とは似ても似つかない、暴力的なカデンツァ。
明石はゾッとしてほとんど息を止めていたことに気付いた。
「修羅」なのだ。
…
ひとりの客が自分のそばに立っている少女に気付いてギョッとした。
グリーンのステージ衣装。ドレスの裾をたくし上げたまま、身じろぎもせずに舞台を見つめている少女。…コンテスタントが、ステージ衣装のままこんなところに。
客は気づかなかったが、そこにいたのは栄伝亜夜だった。
…
これは何?
奏は亜夜の演奏を聴きながらも混乱していた。このカデンツァはいったい。練習で弾いていたのとは、どれとも違う。…
骨太でゆったりした-おおらかでどっしりとした-これまでの亜夜のタッチとは違う。これまでの才気走った、先鋭的なものではなく、すべてを包み込むような、まるで大地のような。…
どこまでも続く地平線。駆けてゆく子供たち。遠くで手を拡げて待っている誰か。生きとし生ける者が歩いて行く大地。…
ああ、これが亜夜の返礼なのだ。…亜夜は、あの凄まじい「修羅」に満ちた風間塵のカデンツァを聴いて、それに応えた。自然が繰り返す殺戮や暴力に対して、それらをも受け止め飲み込んでしまう大地を描いている。
「春と修羅」は、宮沢賢治の世界をモチーフに作られた曲で、曲の途中にカデンツァがあり、「自由に。宇宙を感じて。」と書かれている。けれど、そんな曲がこの世の中にある訳ではない。小説に現れる架空の曲だ。なのに、この小説を読んでいると、まるでその曲がいま目の前で演奏されているような気持ちになれる。「音」という、ピアノの演奏を鑑賞する中でもっとも大切な要素を抜きにして、文字だけでこれだけ巧みに描き出された世界。さて、これを今度はどんな風に映像化するのだろう。じっと舞台を見つめる役者の絵にアフレコを重ねるのだろうか。小説では心の中で思ったことになっているのを、誰かと会話させたりするのだろうか。
栄伝亜夜を演じるのは松岡茉優。風間塵を演じるのは新人の俳優だ。亜夜が塵の演奏を聴く場面が何度かあるが、これはこのストーリーの中でとても重要な場面。
栄伝亜夜は、立ち見の観客に交りながらも、奇妙な感覚に襲われていた。まるで、舞台の上の風間塵と一体化しているように感じるのである。風間塵は遠いステージの上にいるのに、目の前にいるみたいだ。…
彼はあたしを見上げ、ちらっと笑い、話しかけてくる。
『おねえさん、ピアノ好き?』…
『ええ、好きよ』…
『どのくらい?』
『さあね。どのくらいか言えないくらい、好き』
『本当に?』…
『何よ、それ。本当じゃないと思っているの?』…
『さあね。迷っているみたいに見えたから…ステージの上ではそうじゃないのに、ステージから降りるといつも迷っているみたいだった』
小説では、ステージで塵が演奏しているのを客席で聴いている亜夜が自問自答しているのだが、映画の予告編を見ると、もしかすると楽屋のようなところで二人が会話しているように描かれているのかもしれない。相手を見つめる目、表情、仕草。小説ではたくさんの言葉を重ねて表現されている登場人物の感情が、役者の一瞬の演技で表現される。
音楽、小説、映画。
どれも「表現」といわれる。同じものを表現しようとしているのに、表現の方法はそれぞれ違う。今日、読み終えた小説が、映画ではどんなふうに表現されるのだろう。
ロードショウが待ち遠しい。