2018年8月28日火曜日

発表会 余興編

 いつもお世話になっているスタジオは、ヴァイオリン・ヴィオラ以外にも、いろんな楽器のレッスンが受けられる。個人営業の音楽教室で、しかも新幹線は素通りするし在来線の特急も止まってくれない田舎町で、こんな教室は珍しいんじゃないかと思う。
 それで、2年前に、そういう素晴らしさを最大限に活かして楽しもうというので、いつも発表会に出てくるおじさんに声を掛けて、ヴァイオラとクラリネットとマリンバという、楽器的には何の脈略もないアンサンブルを作って、余興的に1曲、発表会で弾かせてもらった。それがウケて、今回は楽器も増え、ヴォーカルも入ることになった。

 人数が増えると、メンバー間の調整がたいへんなのだが、それでも全体練習を2回することができた。うち1回は先生にも来ていただいてレッスンも受けられた。曲もプロのアレンジャーの方に編曲していただいたものだ。

 本番の方は、最初のところでリズムをカウントしている途中からいきなりピアノが始まってしまうというハプニングから始まったが、それを引きずることもなく、楽しげな雰囲気の中で終了。先生曰く、
レッスンのときはどうなるかと思ったけれど、どこで練習されたんですか?
とのことだった。本番にはいろんな魔物が棲んでいるのか。時には練習で出来たはずのことができなくなったりするのだが、たまには練習で酷かったものがそこそこに弾けることもあるのかもしれない。

 アンサンブルとはいっても、各パートはひとりだから、フレーズによってはほかのパートに伴奏させてソロをやっているようなところもある。そういうところも含めて楽しく演奏できた。正直言うと多少の事故はあったのだが…。
最初は駄目でも終わりよければ良し。
というところか。

2018年8月27日月曜日

発表会 無事終了編

 発表会が終わった。
 6月から9月まで、毎月、演奏会やら発表会やらがあるのだが、この発表会は比較的ウェイトの大きい発表会と言っていい。先月のアンサンブルの発表会の前は、もちろん、発表会で弾くアンサンブルの曲の練習もするのだけれど、何回か弾いて、間違えやすいところを繰り返したりした後は、違う曲の練習もしていたい。けれど、今回の発表会は、この2週間ほどの間、ほとんど発表会の曲ばかりの練習をしている。来月の定期演奏会の練習が、本当なら毎週木曜日にあるのだが、お盆や台風で2週続けて休みになったこともあって、弾いて、録音して、聴いて、また弾く、みたいなことをとにかく繰り返してきた。

 録音してみると、自分で思っている以上に酷い音だった。しかし、これをいまからどうすることもできないので、とにかく最初だけでも「おっ!」と思わせるような音を出そうと、最初ばかり繰り返し弾いて、録音して、聴いて、反省して、また弾く、ということを繰り返した。ポジションを変えたりとか、そういう細かいこともやってみた。何度も聴いているうちに自分の音に対する免疫ができた所為もあるのだが、最初だけはだいぶ良くなってきたように思わないわけでもないような気がする。ま、とにかく最初は大事だ。話芸でいえば「つかみ」ってやつだ。どんな長い演奏でも最初のフレーズでだいだい印象が決まってしまう。

 これは本番でも意外な効果があって、最初が弾けてしまうと
よし、弾けた
という心の余裕が出てくる。それがわるいはずはない。比較的長いピアノの前奏の間も、考えているのは最初のフレーズだけ。その音が思ったように出ると、もうあとはその音に自然とくっついてくるようなものだ。これまでいろんな曲を弾いてきたが、これは不思議なもので、最初の音が出た瞬間から、「最後はこう終わらなければいけない」という必然を感じる。あとは、その必然の流れに逆らわず弾いていけばいい、はず。
 今回は、出来ないところを何度も練習して、誤魔化しではなく、全部のフレーズをちゃんと弾けるように準備してきたし、「あ、この先がいつも間違うところなのよね」なんてところもなかった。それも落ち着いて弾けた理由だと思う。

 あとは、もっとアグレッシブな演奏をしたかった。
 途中まで、大きな事故もなく演奏できると、中盤以降、どうしてもこのまま間違えずに最後まで弾きたいという気持ちが強くなってくる。それが演奏をこじんまりとしたものにしてしまったのではないか。音色はあいかわらずあまりヴィオラらしくないし、付点音符のリズムは最後まで直せなかったし、音程も結構ひどい。多分、録音を聴いたら「まだ練習中ですか」という感じで、全然仕上がっていないのだと思う。

 ま、それでも最後までしっかり弾けたし、何か悔いの残る演奏ではなかった。音色もリズムも音程も、練習で出来なかったことは本番でもできない。だけど、練習してきたことはきちんと発表できた。途中で間違えてオロオロするような無様な人格を晒すこともなかった。出来なかったことは2年先までに練習を重ねて、次はもっと堂々と演奏できたらいいと思う。

2018年8月18日土曜日

ピアノ合わせ

 発表会を前にしてピアノ合わせがあった。
 ピアノでもなんでもそうなんだが、ひとりで弾いているときは弾けても、何か他のパートと合わせるとなると突如、難易度が上がってしまう。ピアノの先生によると、聞こえてくる音の量が増えるので、頭の中でそれが処理しきれず、咄嗟に「速い」と感じてしまうのだそうだ。アンサンブルでも、本番になるとどんどん速くなってしまうのはそのためかもしれない。録音をさせてもらったのだが、聴き返していてもなんとなく必死感が伝わってくる。実際、だいぶ必死だった。余裕を持って弾いていると、伴奏のおかげで
自分が巧くなった
ように錯覚するところもあるのだが、録音を聴いても、どこでそんなふうに思ったのか、記憶の断片すら蘇ってこない。

 いつも聴いている音源は弦楽アンサンブルの中からソロのヴィオラが浮き出してくるのだが、ピアノ伴奏となると、ソロが伴奏に溶けるところがない。アレンジの仕方にもよるのかもしれないが、アンサンブルとソロの掛け合いみたいな部分はなくて、ピアノはあくまでも伴奏といった感じになる。ところが、そこはさすがに楽器の王様。いざピアノが鳴り出せば存在感はハンパない。しかも弾いているのはプロ。こっちは素人でかなり背伸びした選曲でもあるので、
伴奏に圧倒されてしまう
感じだ。

 本番までしばらくあるので、録音したのを聴きながら演奏する練習をしておきたい。それと速くならないようにだな。そうだ、」カラオケを録音させてもらったらよかった。

2018年8月15日水曜日

VIVALDI「Alla Rustica」Op.51-4

 アマオケの定期演奏会で思い出深い曲を演奏することになった。
 Antonio VIVALDIによる弦楽のための協奏曲 「Alla Rustica」 ト長調 作品51-4。
 この曲の直筆譜は、イタリア・トリノの国立図書館にあるそうだ。そこには「Alla Rustica」(田舎風、農民風、田園風)という標題が付けられているのだが、それが具体的に何を意味しているのかは想像するしかない。個人的には、収穫を祝う秋の祭り、村の広場に集う人々、「年頃になったあの娘は誰と踊るんだい」、そんな会話まで聞こえてきそうだ。時代はまったく違うが、ルノアールの「ブージヴァルの踊り」のような情景が目に浮かぶ。ワルツを踊っているような絵なのに、なんて突っ込みが入りそうだが。

 これは2回目の発表会のときに弾いた曲だ。ファーストポジションだけで弾ける曲なのでなんとかなるだろう、なんて思って選んだのだが、思うようにはいかないものだ。
 ちょうどその頃、世間では、ネットで知り合った人と実際に会う「オフ会」というのが社会現象になっていたのだが、ヴァイオリンを担いだ人たちによるオフ会には、のちに「バヨ会」という名前が付けられるようになる。最初のバヨ会で、それまでネットでしか知らなかった人といっしょに弾いた曲がこの曲だ。

 そのバヨ会の会場は、私が住む町の中心街。彼はクルマを1時間ほど駆ってきてくれた。ヴァイオリンだけでなく、なにやら放送局でしか見たことのないようなマイクだとか、録音機器だとか、いろんなものを持ってきていた。上手く弾けたら録音してネットにアップしようという計画だった。会場は確か3時間ほど押さえていたと思う。延々この曲ばかりを弾くのだが、第1楽章が最後まで通らない。まあ無理もないことだ。計画は縮小。最初の4小節だけでも録音して残しておこう、ぐらいの目標になって、まあとにかく録音はできた。

(ここから追記)
 その後、1ヶ月の間に3回の練習をして、最後に録音したのがこの動画。
 だいぶ成長している。たぶん、いまもこのレベルと変わらないと思う。

(追記ここまで)

 この1件や、ほかのこれと同じようなことがきっかけになって、その後、あちらこちらでこういう「バヨ会」が開かれるようになり、参加者も増えてきた。カノンやドッペル、それにこの「Alla Rustica」もバヨ会の重要なレパートリーになっていた。普段の練習も、こんどのバヨ会でカノンが弾けるように、だとか、いつかドッペルが弾けるように、などバヨ会を意識したものになった。

 マイクを持ってきてくれた彼も、よくバヨ会に来ていた。レパートリーが増えてきて、ヴァイオリンだけでは弾けなくなってきたので、ネットでチェロを弾いている人を探して誘い出したりもした。ヴィオラはさすがに探し出せなかったのだが、マイクのその彼が通販で安いヴィオラを買っていたので、彼をヴィオラ係にした。
 ところが、その彼がヴィオラではなくやっぱりヴァイオリンをしたい、というので、私が彼からヴィオラを借りることになった。目論見としては、このヴィオラを順番に回して「ヴィオラ当番」にするつもりだったのだが、だれもその役を引き受けてくれない。「返すのはいつでもいいですよ」なんて言っている彼に、「半額で売れ」というと、意外なほど安い値段を提示してきたので、即決で購入。そこから私のヴィオラ人生が始まった。

 最盛期は2ヵ月に1度ぐらいの割合で、どこかでバヨ会をしていたのだが、そのうち、結婚、出産、引っ越し、親の介護など、いろんなことでヴァイオリンから離れたり、ヴァイオリンはやっていてもバヨ会からは離れたりする人も少なくなかった。インターネットの世界も、一時は隆盛を極めたブログが廃れ、ツイッターやフェイスブック、インスタグラムとメディアが変わっていく。こういうのには「好み」というか「向き不向き」というか「適正」というか、そういうものがあって、ブログで自分を表現してきた人がSNS系のメディアでうまく情報発信できるとは限らない。私の場合がまさにそれで、ブログから他のメディアへの乗り換えはけっして上手くはいかなかった。
 そんな事情があって、バヨ会そのものも私の周りでは廃れてしまったのだが、クルマで1時間かけてマイクを持ってきた彼と、そしてこの「Alla Rustica」との出会いは、確実に私の人生を豊かなものにしてくれたと思う。

 彼は若くしてこの世を去ったので、定期演奏会を聴きに来てくれるように誘うこともできないが、きっと彼に届くように弾こうと思う。

2018年8月13日月曜日

録音してみる

 発表会が近づいてきた。
 ひとつ前の記事に書いた通り、これまでお世話になってきた先生は退職され、新しい先生に交代になることになっている。その先生の最初のレッスンが発表会の前日。その前に、ピアノの先生との合わせがあるのだが、そのピアノの先生も、昨年までは娘たちがレッスンを受けていた先生だったりしたのだが、今年は違う先生に交代になっているので、ピアノ合わせで「初めまして」ということになる。そういう時にヴァイオリンの先生がいてくださると心強いのだけれど、その先生はご退職。

うむ。ちょっと気が重いぞ。

 一足早く本番を迎えるような気分だ。
 それで、自分がどれぐらい仕上がっているのか、録音して確かめることにした。う~ドキドキ。「さあ、いまから録音するぞ」というだけでてんぱってしまっている。これで本番は大丈夫なのか?
 ともあれ、録音してみたのだが、耳のすぐ近くで楽器が鳴っているのと、録音して聴いてみるのではこんなに音が違うのかと愕然。たぶん、発表会ではこの録音した音に近い音になるのだろうと思うと、聴いている人に申し訳ない。演奏時間は5分ほどになるのだが、その間、長々と練習に付き合わしているみたいだ。

 先月は、いつもお世話になっているスタジオの「こどもの発表会」と、数ヶ月に1度の割合でアンサンブルレッスンを受けてきたスタジオの発表会があった。いつも思うことなのだが、発表会というのは、それぞれその人の人柄が見えて興味深い。いつかこのブログにも書いたが、小さい子供が小さいなりに、易しい曲でもその曲なりに、「聴かせてやろう」というアグレッシブな演奏をしてくるのには驚く。その点、大人の方は「間違えないように」などといったことを考えて、演奏が小さくまとまりがちだったりする。その辺をどのように考えて舞台に立っているかは、最初の音を聴けばわかってしまう。この分だと、私の未熟な人格を晒してしまうことになる。

よく先生が
最初がダメなら全てダメ
と仰っておられたことがよくわかる。そりゃ無理もない。ステージに立ってライトを浴びれば、誰だって少なからず緊張する。「いつもどおり」「いつもどおり」と呪文のように唱えて弾き始めれば、そんなアグレッシブな演奏もできない。どうすればこの呪縛から解かれるのか。結局は発表会のたびにぶち当たって永遠に乗り越えることができない壁が目の前に立ちはだかることになる。

 いつものスタジオの子供の発表会を見ていると、ヴァイオリンの生徒たちは、どことなく先生の思いを背負ってステージに立っているような雰囲気がある。子供たち自身は、「先生に、最後はいいとこ見てもらおう」なんてことは考えていないと思うのだが、先生に「グッ」と背中を押されるような感じで、「大丈夫」という確信をもってステージに立っている。だから、あんなに自信をもってアグレッシブな演奏ができるのだろう。

 アンサンブルの発表会は、そこのスタジオの生徒のソロの発表があって、最後にアンサンブルクラスの発表なのだが、演奏の前に生徒自身が曲の紹介をしたり、なぜその曲を選んだのかだとか、どういうきっかけで、あるいはどういう思いでヴァイオリンをしているのかといったことを話してから演奏が始まる。演奏だけでなく、このMCからも人柄が見えてくる。

 とにかく、ステージに立てば、少なからず自分の人格を晒すことになるのだ。
 つまり、録音を聴いて改めるべきは技法ではなく、心掛けということか。