会場は、この町では最大級の立派な建物なのだが、何度もいうがホールではなくロビーなので、そんなに大勢の椅子を並べることもできない。見たところ、出演者と客席の椅子の数が同じぐらいか。しかし、空席もなく、立ち見まであるというのは大した集客力だ。どういう手続きをしてどれぐらいの費用を出せばこの場所を押さえられるのか定かではないが、毎年、こうして定期的にコンサートを開くためには、練習以外にいろんな段取りもあって、結構たいへんなはず。出演者の大部分は助っ人なのだが、そういう段取りだとか、客集めのお手伝いにはならないばかりか、むしろそういう助っ人が多ければそれだけ手間はかかってしまうはずなので、よくやっておられるなぁ、と感心する。
それで、ちゃんと助っ人になれたのかというと、いちおう、このアンサンブルにはヴィオラがいないので、その意味ではお力添えできたはず。ガードレールに当たるぐらいの小さな事故はいくつもあったが、道路から飛び出すような大きな事故もなく、いちおう無事に終わった。練習と違って、時間が来ると嫌でも終わる。
弾けないのは、ひとえに練習が足りないからなのだが、今回は、譜読みを丁寧にしないといけないと実感。いや、そもそも「譜読み」ってどこまで出来たら「譜読みした」ことになるのかについて、いままでずいぶん甘々な基準だったように思う。音符の並び方の音楽的な意味だとか、何かそういうところまで読み取って、やっと譜読みなんではないか、などと思ったりする。英語の長文を読むときに、日本語に訳せれば「読んだ」ことになるのかと言えば、そうではなくて、日本語の文章と同じように、説明文なら作者の主張とその論拠を理解して、それに対する自分の意見を持てるようになって、小説なら、描かれている情景を思い浮かべながら、登場人物の気持ちに思いを馳せ、それに対する共感や反発を感じるようになって、はじめて「読んだ」ということになる。譜読みも同じで、たとえば複数のパートが掛け合いをするなら、自分の弾くフレーズがどのパートのどのフレーズから導き出されるのか、自分のパートがどのように他のパートにつながっていくのか、ちゃんと分かっていないとダメだし、ゆっくりしっぽり聞かせる曲なら、和声の構造だとか展開だとか、そういうことも大事なんだと思う。どうもいままでは、英単語の意味を調べるだけで「読んだつもり」になっていたようだ。
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