2018年3月20日火曜日

今夜、ロマンス劇場で

 今日は映画の話。
 年金生活をするようになったら、毎月映画1本と本3冊という生活をしたい。もちろん、コンサートも聴きに行ければいいが、私の住んでいる田舎町ではそうそう立派なコンサートもない。立派なコンサートホールはあるのだが…。そんなことを思いながら映画を観てきた。
 公開から1ヶ月が過ぎ、レイトショーだけで上映されている映画は観客も少なく、さながら、この映画で坂口健太郎が演じる健司がひとり昔の映画を観ている様子を体験できる。いい映画だった。いちど観てから、印象に残ったひとつひとつのシーンを反芻し、そこに込められた意味を考えてきた。なぜこんなにも私の心を捕らえているのか。理由を知りたかった。それで2日続けてレイトショーに通うことになった。

 ここからはネタバレあり
 ネタバレしても観る価値はあるのだが、知らずに観たい人は観てから読まれたい。



 この映画の大半は、加藤剛が演じる老人が看護師に聞かせるシナリオとして語られる。老人は言う。「いまの若い子が楽しめるようなものじゃないよ」と。そうだ。この映画は、綾瀬はるかが演じるお姫様が美しいから好きになりました、というような、若い人好みのヘボいラブストーリーではない。坂口健太郎が演じる健司は、老人が、自分自身をモデルとしてシナリオの中に描き出した架空の人物で、そこに登場する塔子も龍之介も、やはり実在の人物ではない。私のような若い人以外が観ると、加藤剛が主演に見えてくる。

 美幸のことは、石橋杏奈が演じる看護師(これが「若い人」代表)の話の中に、老人の孫娘として登場する。姿を見ることができ、会話をすることができるという意味で、美幸は実在の人物なのだが、触れると消えてしまうという脆い実在だ。彼女は映画だ。古い映画に出てくるお転婆姫でも、そのお転婆姫を演じる女優でもなく、彼女は映画そのものだ。美幸が健司の家にやってきたシーン。健司が映画の説明をしようとすると、モノクロの美幸は「知っている。私たちのことだろう。」と答える。ロマンス劇場の映写室で古い映画を観る美幸は、年老いた館主にこう言わしめる。「人の記憶に残れる映画なってほんの僅かだ。あとのほとんどは忘れられて捨てられてしまう。誰かを幸せにしたくて生まれてきたのに。」と。それは、映画である美幸の気持ちだ。彼女の望みは、人々の記憶に自分が刻み込まれること。

 老人の病室に現れた美幸は実在なのだが、シナリオの中に登場する美幸は、その実在の美幸をモデルとした架空の人物だ。彼女が銀幕から飛び出してきたのは、シナリオの中に書かれていることであって、実際に飛び出してきたのかどうかはわからない。しかし、老人と映画の出会いはこれぐらい衝撃的だったのだろう。

 飛び出してきた美幸は、老人をモデルにした健司を悪し様に扱い、健司が徹夜して描いた絵を無茶苦茶にし、健司がみんなから殴られたり、爆弾魔にされたりするきっかけを作って、健司を振り回す。私は映画関係者ではないのでこの仕事のことはわからないが、どんな仕事でもこんなことはしばしばある。そして時に仕事は理不尽な命令をする。それで、その仕事が嫌になって、もう関わりたくないと思う。だけどその仕事が巧く運んでいないと気になって、進んで手を貸してしまう。自分が手を貸して無事に仕事が運んでも、仕事は「ありがとう」とは言ってくれない。横柄に「褒めて遣わすぞ」というだけだ。健司はその仕事がどんどん好きになる。あるときはかき氷を分かち合う恋人を演じて、あるときは王子様を演じて、自分の思いを遂げようとする。健司の仕事愛は、ますます深まって、他のどんな思いも入り込む余地がなくなっていく。
 塔子は女性として魅力的な生身の人間であると同時に、社長令嬢という、自分の地位や将来を約束してくれる存在として、このシナリオに描かれている。その塔子さえ入り込む余地がないのだ。そして、それは龍之介のような、誰もが注目する派手な「カッコよさ」とも無縁だった。
 地道に、しかし情熱的に仕事を続ける健司。だけどそのゴールは見えない。自分が作りたい映画がどんな映画なのか。自分のやりたい仕事がどんな仕事なのか。いつも結末の定まらないシナリオを抱えて、美幸と向かい合い、美幸を追いかける。それは、真実の映画を作りたい、人々の記憶に永遠に残る映画を作りたいという健司の、いや、このシナリオの作者である老人の若い頃から抱き続けた仕事への思いなのだ。

 しかし、どれだけ仕事に情熱を注いでも、仕事が自分から離れていく時がある。老人の人生の中では、それはもしかすると、映画の斜陽化だったかもしれない。どれだけいい映画を作っても、映画館に来る人はどんどん減っていく。いっしょに映画を作ってきた人が映画から離れていく。映画以外の「普通の」仕事をするべきだ、そう思うこともあった。自分の思い描く理想の映画を作ることができないのなら、この瞬間に映画なんてこの世から消えてしまえとさえ思ったこともある。そんないろんな考えが逡巡した最後に出した答えは、これからも映画とともに生きていくこと。「貴女でないとダメなんです」という健司の言葉に、映画の仕事を続けていこうという強い決意が込められる。

 老人のシナリオはここで終わっている。しかし、彼はすでに構想を持っていた。そして、それは彼が若かった時から探し続けてきたゴールであり、そのゴールの先に、もうそれを超えるゴールのない、映画とともに歩んできた人生の終着点だった。それは、自分とともに歩んできた美幸との、つまり映画の仕事との別れをも意味していた。

 ふたたび書き始めたシナリオの中で、老人は、健司と美幸のその後の人生、つまり映画とともに歩んできた自分自身の人生を描き、そして健司の最期を描く。映画を観ていると、実在する老人の最期のように思えるかもしれないが、このシーンはシナリオの中に登場する健司の最期と考えた方が、ストーリーがしっくり入ってくる。このシーンで美幸は健司の手を握り消えていく。消えたその先は銀幕の中だ。銀幕の中に消えた美幸に、老人は、美幸がいちばん望んでいるものをプレゼントする。

 大広間の扉が開き、そこに健司が入っていく。この扉は映画の世界の入り口。一足早くそこに戻っていた美幸が正面にいる。シナリオに登場した塔子も龍之介も、自分の出番をいまかいまかと待っている。健司が王子様のように差し出したバラの花を美幸が受け取ると、モノクロだった美幸がみるみる美しい色で染められ、舞台がすべてカラーになる。モノクロ映画がカラーでリメイクされたのだ。モノクロ映画でお城から飛び出していったお転婆姫は、今度は銀幕から飛び出し、生身の人間とのロマンスを賭けた大冒険を演じるだろう。そしてその映画が、観る人の記憶に永遠に刻まれる。これが、老人と美幸がいちばん望んでいたことであり、老人が美幸に贈った最後のプレゼントなのだ。

 銀幕にエンドロールが流れる。キャストが紹介され、スタッフが紹介される。こんなにもたくさんの人がこの映画に関わっていたのだ。その中に、健司に自分を重ね、美幸に自分の仕事を映し出す人もいるに違いない。その人たちの情熱が、映画を観終えた後も私の心を捕らえて離さない。自分にもこんなに打ち込める仕事があったなら…

 あぁそれにしても…

 綾瀬はるかが綺麗だった。 ←結局ここ


 

2018年3月12日月曜日

フレーズ感

前回のレッスンでは、ふわふわと弓が浮いている感じを指摘されて、
フレーズ感がない
ということだった。それで、
それまでの練習の延長上に本番はない
ということがわかった。それ以来、気持ちも練習方法も一新。練習第2章の様相だ。もっとも第何章なんだか正確にはわからない。

多少、音程は合っていなくても、
弓を吸いつけてしっかりと音を出せば
それらしくは聞こえる
というありがたいご指導に甘え、ボウイングに専念するぐらいのつもりで練習する。まずは開放弦でひたすら四分音符を繰り返す。そのとき、出来るだけ弓を返すところが分からないように弾こうとしてみる。返すところが分からないというには無理でも、せめて音が途切れる感じがしないようにと試みる。ところが、アップボウから元弓で返してダウンボウにするところがどうしても巧くいかない。音階をつけてもやはり同じで、実際に曲を弾いていても、アップボウのあとでフレーズが途切れてしまうような感じになる。
あぁ、こういうことを仰っておられるのか
と妙に納得。出来ていないことが分かっただけでも進歩だ。

緩楽章はそんな感じで課題がひとつ見えてきたが、急楽章の八分音符が続くところなんかは課題も見えてこない。レッスンで先生が「いい見本」と「わるい見本」を見せてくださったときはわかったように思ったのだが、自分でやってみるとなんだかよく分からないのだ。確か、弓なんてほとんど動かしていないのに、とんでもない深い音色の音が出てきていたんだけど、それがどんな音だったかも思い出せない。

ともあれ、課題が見えていると練習は面白い。アップボウのあとの弓の返しが問題だと思えば、まず開放弦でそればかり練習する。少し改善したと思ったら気になるフレーズを弾いてみる。良くなったと思ったらとりあえずは良し。あまり良くなっていないときは開放弦でまたいろいろ試してみる。開放弦をひたすら弾き続ける練習でも、少しずつでも本番が近づいているように思えればたのしい。
課題が見えない方は、なかなかこうもいかない。どうしたらいいかわからず、すぐに練習が嫌になる。するとますます課題が見えなくなって、練習が捗らない。
うむ、まずだな。