2015年11月29日日曜日

シャンソン

 10月のアンサンブルの本番までは、レッスンでもアンサンブルの曲を見ていただいていた。本番が終わったのでネタを変えなければいけないのだが、ヴィオラというだけでピンとくる曲が限られてくる。チェロの曲をオクターブ上げるか、ヴァイオリンの曲をオクターブ下げるか・・・・

 うちのスタジオの発表会は2年に1回で、前回は昨年8月。その時はバッハの無伴奏チェロ組曲1番のプレリュードをオクターブ上げて弾いた。もちろん無伴奏。ステージの上は私だけ。いままでは先生にデュオをお願いしたり、ピアノで伴奏をお願いしたり、もっとも豪華だったのは弦楽四重奏にしていただいたり。とにかく先生方にお世話になりっぱなしの発表会で、それはそれでいい思いをしてきたのだが、こうして無伴奏で、たった一人弾くというのもなかなか捨てがたい魅力だった。
 それで今回も無伴奏で何か弾けないかと思案した。

 頭の中に思い浮かんだのは、まだ高校生だった頃にラジオで放送されたピエール・ポルトの演奏だった。当時はリチャード・クレイダーマンだの、フランク・ミルズだの、モール・モーリアだの、イージーリスニング全盛期。そんな中で来日したピエール・ポルトのライブが、1時間ほどに編集されてエフエムで放送された。わずかなお小遣いから奮発して「クロームテープ」というちょっと上等のカセットテープ(たしかTDKのSAというやつだった。ここに写真が。)でエアチェック(ラジオ放送を録音すること)した。そのセットリストに「枯れ葉/愛の讃歌」があった。

 ラジオなので映像はないが、おそらくステージの中央にピエール・ポルトの弾くスタインウェイのピアノがあって、そこにピンスポットが当たり、拍手が鳴りやんだ一瞬の静寂の後に、木枯らしの吹くような旋律があって、シャンソンの名曲「枯れ葉」がピアノソロで奏でられる。まるでステージに美しいアルトを聴かせてくれる歌手が立っているかのようなピアノの旋律。「枯れ葉」のメロディで感情が窮まったところから「愛の讃歌」のサビの部分が始まる。そして再び「枯れ葉」。さっきよりも感情の起伏の大きさを思わせるアレンジ。再び感情が窮まったところで、ストリングスが華々しく「愛の讃歌」を奏でフィナーレを迎える。

 これをヴィオラで弾きたい。

 その時のカセットテープは場所を取って邪魔だという理由で捨てられてしまったが、記憶には鮮明に残っている。楽譜を買ってくれば、ちょっとした挑戦にはなるがなんとか音は取れるだろう。

 そんなことを考えて楽譜を買ってきて、楽譜ソフトでヴィオラ譜を起こして見た。一部ではあるが、ソロで弾いてそれらしく聴こえる楽譜もできた。

だけど何か物足りない

 思うに、こういう曲というのは楽譜では表し切れないメタメッセージが多いのだと思う。
 例えば、1年ほど前なら、小さい子供たちの前でアナ雪を弾いてやれば、みんな興奮して歌いだしたり、手をくるくる回して出ても来ない氷の結晶が出ているのを想像して喜んだりしたものだろう。子どもたちを興奮させるそういったものは楽譜には書かれていない。音として聴こえるものではなく、聞えた音から記憶や経験が呼び出され、心の目や心の耳で視たり聴いたりして興奮しているのだ。
 「枯れ葉/愛の讃歌」も、私にとってはいろいろなメタメッセージの詰まった曲だ。もし、いまそのカセットテープが残っていれば、音を再生して聴くまでもなく、レタリングに似せて書いたタイトルの文字を見ただけで、その頃の淡い思い出が蘇り、そこから自分がピエールポルトのようにピンスポットを浴びてステージでただ一人この曲を弾くところを想像したりして興奮する。しかし、聴いている人とは誰一人そのメタメッセージを共有していない。若い先生は「イージーリスニング」という言葉も御存じではなかった。
 それに自分の思い入れは少々偏っている。たいていの人にとってはこの曲のイメージは越路吹雪だと思う。エディット・ピアフという人もいるかもしれない。それをテレビで見たとか生で見たとか、そういう思い入れがあってこその曲だと思う。ディナーショーを聴きに行って、最後の最後にこの曲を聴いたなどという人のこの曲に対する思い入れなどには、私は思いも至らない。

 そんな訳で、この路線はボツ。
 さて、何を弾こうかしら。

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