こほっ!
いままでよりも美味しいものが食べられて、いままでよりも広い家に住み、いままでよりも着飾って、いままでよりも楽しいことができて、いままでは持っていなかったいろんなものに囲まれて生活する。科学と経済発展が人間を物質的には豊かにしたのだけれど、その科学と経済発展が人間を支配し、その支配のもとで人間は存亡の危機に立たされている。その原因は人間自身が創りだしたものと、人間自身の能力の間のギャップである。
いまや人間は、科学が生み出した大量破壊兵器によって自らを存亡の縁に追いやり、経済発展を求めて環境を破壊し、資源の枯渇を招き、貧困と抑圧をも解決できないでいる。この問題を解決するためには、人間自身が創りだしたものと、人間自身の能力の間のギャップを埋めていかなければならない。これこそが生涯学習社会を創出しなければならない理由なのである。
などと大上段に言われる生涯学習社会の意義と、自分がいまやっているお稽古事というか、くだらないお遊びというか、その間にあるギャップをどう埋めようかしら…
書架の片隅にある埃をかぶった古い本からそんなことを思ったりしていたのだが、この動画を見て、もしかすると、自分がやっていることも人類の大きな問題の解決に役に立つのかもしれない、などと思えたりした。
理屈抜きで楽しそうだ。
人間はだれもがより善く生きようとしている。より善くとは、物質的な豊かさだけをいうのではない。この動画のような生き方もより善い生き方なのではないだろうか。
来月、この曲がお気に入りのアマチュアアンサンブルで演奏される。
2015年10月24日土曜日
Shall we ダンス?
役所広司の「Shall We ダンス?」を見て、大学の教養科目で聞かされたことを思い出した。
学生のころは分かっているようで分かっていなかった。こういうのを授業で聞かされて、「そうだよなぁ、こういう人類的課題を解決するためにオレ勉強しているんだよなぁ」なんて思っていた。そのころは「生涯学習」なんて言われてもイメージが持てなかったし、「学習」といえば先生に何か教えてもらって、試験受けて、点数付けてもらう、ってことしかイメージしていなかった。そして、それがものすごい人類課題の解決につながっているんだと思っていた。
いままで自分がヴァイオリンを弾いていることを「生涯学習」などと考えたことはなかったのだが、書架の隅っこにある本を見て、もしかして、これ、あのころ自分が「けっ」とか思って、心のどこかでバカにしていた「生涯学習」かもしれないなぁ、などと考えたりした。
大人になって分かったこと。
勉強って面白い。
それは人間に備わった本能だから。食欲や性欲と同じように、人間は自分自身が人間であるために勉強しようという意欲を持っている。言葉や文字がなく狩猟や採集で生きる糧を得ていたころから人間は、雨はなぜ降るのか、花はなぜ咲くのか、と考えを巡らせていたに違いない。それは、そのことを理解することが彼らの生活を豊かにすることに結びついていたから。
学校の勉強が面白くないのは、いい大学に行っていい会社に入っていいお給料をもらうための勉強だから。おカネのためにやることはたいてい面白くないと相場が決まっている。
人間の知性が科学の進歩に見合っていないから、人類は科学をコントロールできていない。そのことが人類的な悲劇を惹起している、という30年以上前の言は、いま、この時代になってみるとものすごくよく分かる。自分が歳をとったからなのか、世の中がそうなってきたからなのかは分からない。30年前なら、核戦争の脅威だとか、空から恐怖の大魔王が降りてくるという大予言だとか、そういうことが人類的悲劇だと思っていた。
冒頭に引用したテキストが言いたかったのは、人類の叡智をおカネ儲けのために使うのではなくて、商業主義から人類を解き放つために使うべきではないかということだったのではないかと思う。
自分のヴァイオリンや役所広司の社交ダンスが、どうやってこんな大きな人類的課題を解決するのかは、映画を見てもよく分からなかったけれど、勉強って面白い、人間は自分自身が人間であるために勉強しようという意欲を持っている、というのは実感できる。それでおカネ儲けになる訳じゃないけれど、ほら、自分の生活を豊かにしているじゃん。
第一の問題は、われわれが「進歩」と称するもの…それが次々に惹起する変化に世界の人々がひどく混乱し、歩調を合わすことができないのではないか。自分たちがしていることの意味と結果をまだ十分に把握しきれていない…しだいに現実の世界と反目するようになってきている。
第二の問題は、奇怪で悲惨な運命が「ホモサピエンス」を襲う以前に…ギャップを埋めることができるか…たとえ名もなく貧しく生きようとも平均的な人間は生来…「学習する」能力を有している…これに刺激を与えることによって、現在は比較的低い水準にあるその能力をはるかに高くすることができるのである。
必要なのは、われわれすべてが自分たちの眠っている潜在的な能力を呼び起こし、今後それを目的に向けて賢明に使っていくことを学習することである。
「ローマクラブ第6レポート『限界なき学習』」J.W.ボトキン他 著 大来佐武郎 訳 ダイヤモンド社,1980
学生のころは分かっているようで分かっていなかった。こういうのを授業で聞かされて、「そうだよなぁ、こういう人類的課題を解決するためにオレ勉強しているんだよなぁ」なんて思っていた。そのころは「生涯学習」なんて言われてもイメージが持てなかったし、「学習」といえば先生に何か教えてもらって、試験受けて、点数付けてもらう、ってことしかイメージしていなかった。そして、それがものすごい人類課題の解決につながっているんだと思っていた。
http://www.amazon.co.jp/より |
いままで自分がヴァイオリンを弾いていることを「生涯学習」などと考えたことはなかったのだが、書架の隅っこにある本を見て、もしかして、これ、あのころ自分が「けっ」とか思って、心のどこかでバカにしていた「生涯学習」かもしれないなぁ、などと考えたりした。
大人になって分かったこと。
勉強って面白い。
それは人間に備わった本能だから。食欲や性欲と同じように、人間は自分自身が人間であるために勉強しようという意欲を持っている。言葉や文字がなく狩猟や採集で生きる糧を得ていたころから人間は、雨はなぜ降るのか、花はなぜ咲くのか、と考えを巡らせていたに違いない。それは、そのことを理解することが彼らの生活を豊かにすることに結びついていたから。
学校の勉強が面白くないのは、いい大学に行っていい会社に入っていいお給料をもらうための勉強だから。おカネのためにやることはたいてい面白くないと相場が決まっている。
人間の知性が科学の進歩に見合っていないから、人類は科学をコントロールできていない。そのことが人類的な悲劇を惹起している、という30年以上前の言は、いま、この時代になってみるとものすごくよく分かる。自分が歳をとったからなのか、世の中がそうなってきたからなのかは分からない。30年前なら、核戦争の脅威だとか、空から恐怖の大魔王が降りてくるという大予言だとか、そういうことが人類的悲劇だと思っていた。
冒頭に引用したテキストが言いたかったのは、人類の叡智をおカネ儲けのために使うのではなくて、商業主義から人類を解き放つために使うべきではないかということだったのではないかと思う。
自分のヴァイオリンや役所広司の社交ダンスが、どうやってこんな大きな人類的課題を解決するのかは、映画を見てもよく分からなかったけれど、勉強って面白い、人間は自分自身が人間であるために勉強しようという意欲を持っている、というのは実感できる。それでおカネ儲けになる訳じゃないけれど、ほら、自分の生活を豊かにしているじゃん。
2015年10月12日月曜日
本番終わる
アンサンブルの本番が終わった。
楽しかった。
ソロの発表会とはまったく違う興奮があった。これはハマる。
まずは前日。プロの方や賛助出演の学生オケの方も来られてステージ練習。昔からアンサンブルにおられる方によると、この前日練習がいちばん面白いらしい。本番はいろんなことが起こるので、とても楽しんでいる余裕はないとのこと。おいおい。
ヴィオラパートにも頼れる方が来られてトップの席に座られる。とにかくその人と同じように弾く。いままでの練習で、他のパートは「ここは上げ弓だ」「ここはスラーだ」とパート内で相談して、それぞれ楽譜に書き込んでいるときに、ヴィオラパートはお菓子食べながら楽しくおしゃべり。「いいんですか?」と聞くと、「いま決めておいても、どうせ前日練習で変わるから」とのこと。うーん、新参者の私には、説得力があるのかないのかもわからない。
そして迎えた前日練習。予て言われていた通り、トップに合わせてボウイングしようとするのだけど、楽譜は見ないといけない、指揮は見ないといけない、トップのボウイングは見ないといけない、となると、なんか自分が何しているのか分からなくなってくる。それにボウイングが変わるとフィンガリングまで怪しくなってくる。
今回の本番では、ヴィオラは何と7人の大所帯。こんなマイナーな楽器を7台も同時に見ることは珍しいのだが、その中には賛助出演の方もおられて、いったい誰にボウイング合わせたらいいの? ってことを仰っておられる。少なくとも私ではありません。古株の人は「うちのアンサンブルもとうとうボウイングを気にするところまで来たか」などと感慨深げ。気にしていないのはヴィオラだけだったりするのだけど、その会話を聞きながら、
明日は何も気にしないぞ
と心に決める。
その日、帰ったのも遅かったのだが、本番前の軽い躁状態で眠れず(遠足の前みたいなやつね)、ちょっとふわふわした感じで当日を迎える。このふわふわした感じが、いつもの発表会とは全然違う。発表会のときは、練習でまったく弾けない、というところは基本的にはすべて解消して、とりあえず一度は完璧に弾けた、という状態で本番を迎えるのだが、アンサンブルの場合、メンバーひとり一人が弾けるかどうかにはお構いなしに本番を迎える。今回の私の場合でいうと、弾けないことを前提に本番を迎えているのだ。そして、そういうところはもう弾けないものと悟りきっている。まったく焦っていない。
控室の準備をしたりプログラムの折込を手伝ったりと、これもソロの発表会にはないような準備が進んで行く。そのうちに、ふわふわしていたのが、だんだん足が地面に付いてきて、だけど普段と比べるとはるかに高いところに自分がいる気分になってくる。弾けなかったらどうしよう、じゃなくて
弾けなくても大丈夫
という確信からくる余裕が、調和のとれた興奮状態と緊張状態を作り出してくる。いい感じになってきた。
こんな感じでリハーサルを迎える。ここの先生は普段からあまり細かいことは仰らないのだが、リハーサルでは、
大丈夫 楽しんでください
というようなことを仰っている。こういうのは助かる。弾いている方は、弓がバラバラなのも分かっているし、弾けていないところがあるのも分かっているのだが、そこを本番前にどうこう言われて何とかなるものでもない(なんとかしろよ!ってか?)。私は落ちますからみなさんよろしく、それと弓が気になる人は私に合わせてください、と心の中で呟いて楽しむことに決めた。
略礼服に蝶ネクタイというウェイターのような衣装に着替える。女性は白のブラウスに黒のボトム。なんか美人が多くて緊張してくる。
ここのアンサンブルは年配の人が多くて、お孫さんとかが見に来たりしている。お孫さんの発表会をお爺ちゃん、お婆ちゃんが見に行くのとは反対だ。あとで聞くと150人以上は入ったらしい。普段の発表会だと、数十人のオーディエンスの前で緊張してしまって、練習で出来たはずのことが出来なかったりするのだが、今日はその四・五倍のお客さんの前でも、不思議と緊張していない。 最初はゆったりした曲から始まる。この曲の途中で、ちょっと弓が震えたところがあったのだが、
誰もあんた見てないよ
と自分に言い聞かせると、すぐにその震えは止まった。
難曲、ブランデンブルク協奏曲。油断していると、練習でノーマークだった場所で楽譜を見失ったりもしてしまったし、やっぱりここは弾けなかったよね、というようなところもあったのだが、最後まで気持ちをキープして弾ききることが出来た。客演のあるオーボエコンチェルトは、いままでで一番いい出来栄えだったと思う。
前半が終わると、誰もが「山場は越えた」という感覚になってくる。どの方の表情にも余裕がある。
後半は、個人的には結構気に入っているテレマンから。比較的短い曲が何曲もある組曲なので、変化があって面白い。それと、鍛冶屋のポルカだとか、モーツアルトのドイツ舞曲といった小品が続く。こういうのは笑って弾かなきゃ。
最後はチキチキバンバン。この曲はヴィオラが「ジャカジャカジャンジャン」と弾いて締める。
ドヤ顔 決まった!
終わってみると、新参者の私がいちばん楽しんでいたように思える。いいの、いいの。楽しみは減らない。思えば5月ごろに見学をさせていただいてから、アンサンブルのみなさんには本当にお世話になった。こうして自分が楽しんでいることは何よりの恩返しだと思う。今日、初めて会った賛助出演の大学生も、ずいぶん遠い田舎町で年配の人ばかりのアンサンブルに来て、最初はちょっと不安だったり戸惑いがあったりしたかもしれないけど、いっしょに楽しもう、という気持ちが伝わればステージの上がひとつになってくる。そういうのが客席にも伝わっていくと思う。
アンサンブルの練習に参加するようになった最初のうちはぜんぜん弾けなくて、どうなることかと思ったものだ。こんなに弾けないのに、温かく迎えてくださるみなさんに何とか応えようと、この数ヵ月間、睡眠時間を削って人知れず練習に勤しんだりもした。アンサンブル練習の場所が遠いのはたいへんだったが、行くのが面倒だと思ったことはなかった。こうして終わってみると、本当に来て良かったと思う。
何かを楽しもうと思うと、何かちょっとは無理をしないといけないものだが、片道2時間弱の距離を毎週というのを、この先もずっと続けるのかとなると、ちょっと気が重い。今日の本番まで、と思うからこそ続けることも出来たのだが、いったんは退会して、またやるかどうかは考えてみようと思う。
お世話になったみなさんにお礼を言って、この数ヵ月間、通い続けた街を後にした。
いい街だった。
次は移住かな?
楽しかった。
ソロの発表会とはまったく違う興奮があった。これはハマる。
まずは前日。プロの方や賛助出演の学生オケの方も来られてステージ練習。昔からアンサンブルにおられる方によると、この前日練習がいちばん面白いらしい。本番はいろんなことが起こるので、とても楽しんでいる余裕はないとのこと。おいおい。
ヴィオラパートにも頼れる方が来られてトップの席に座られる。とにかくその人と同じように弾く。いままでの練習で、他のパートは「ここは上げ弓だ」「ここはスラーだ」とパート内で相談して、それぞれ楽譜に書き込んでいるときに、ヴィオラパートはお菓子食べながら楽しくおしゃべり。「いいんですか?」と聞くと、「いま決めておいても、どうせ前日練習で変わるから」とのこと。うーん、新参者の私には、説得力があるのかないのかもわからない。
そして迎えた前日練習。予て言われていた通り、トップに合わせてボウイングしようとするのだけど、楽譜は見ないといけない、指揮は見ないといけない、トップのボウイングは見ないといけない、となると、なんか自分が何しているのか分からなくなってくる。それにボウイングが変わるとフィンガリングまで怪しくなってくる。
今回の本番では、ヴィオラは何と7人の大所帯。こんなマイナーな楽器を7台も同時に見ることは珍しいのだが、その中には賛助出演の方もおられて、いったい誰にボウイング合わせたらいいの? ってことを仰っておられる。少なくとも私ではありません。古株の人は「うちのアンサンブルもとうとうボウイングを気にするところまで来たか」などと感慨深げ。気にしていないのはヴィオラだけだったりするのだけど、その会話を聞きながら、
明日は何も気にしないぞ
と心に決める。
その日、帰ったのも遅かったのだが、本番前の軽い躁状態で眠れず(遠足の前みたいなやつね)、ちょっとふわふわした感じで当日を迎える。このふわふわした感じが、いつもの発表会とは全然違う。発表会のときは、練習でまったく弾けない、というところは基本的にはすべて解消して、とりあえず一度は完璧に弾けた、という状態で本番を迎えるのだが、アンサンブルの場合、メンバーひとり一人が弾けるかどうかにはお構いなしに本番を迎える。今回の私の場合でいうと、弾けないことを前提に本番を迎えているのだ。そして、そういうところはもう弾けないものと悟りきっている。まったく焦っていない。
控室の準備をしたりプログラムの折込を手伝ったりと、これもソロの発表会にはないような準備が進んで行く。そのうちに、ふわふわしていたのが、だんだん足が地面に付いてきて、だけど普段と比べるとはるかに高いところに自分がいる気分になってくる。弾けなかったらどうしよう、じゃなくて
弾けなくても大丈夫
という確信からくる余裕が、調和のとれた興奮状態と緊張状態を作り出してくる。いい感じになってきた。
こんな感じでリハーサルを迎える。ここの先生は普段からあまり細かいことは仰らないのだが、リハーサルでは、
大丈夫 楽しんでください
というようなことを仰っている。こういうのは助かる。弾いている方は、弓がバラバラなのも分かっているし、弾けていないところがあるのも分かっているのだが、そこを本番前にどうこう言われて何とかなるものでもない(なんとかしろよ!ってか?)。私は落ちますからみなさんよろしく、それと弓が気になる人は私に合わせてください、と心の中で呟いて楽しむことに決めた。
略礼服に蝶ネクタイというウェイターのような衣装に着替える。女性は白のブラウスに黒のボトム。なんか美人が多くて緊張してくる。
ここのアンサンブルは年配の人が多くて、お孫さんとかが見に来たりしている。お孫さんの発表会をお爺ちゃん、お婆ちゃんが見に行くのとは反対だ。あとで聞くと150人以上は入ったらしい。普段の発表会だと、数十人のオーディエンスの前で緊張してしまって、練習で出来たはずのことが出来なかったりするのだが、今日はその四・五倍のお客さんの前でも、不思議と緊張していない。 最初はゆったりした曲から始まる。この曲の途中で、ちょっと弓が震えたところがあったのだが、
誰もあんた見てないよ
と自分に言い聞かせると、すぐにその震えは止まった。
難曲、ブランデンブルク協奏曲。油断していると、練習でノーマークだった場所で楽譜を見失ったりもしてしまったし、やっぱりここは弾けなかったよね、というようなところもあったのだが、最後まで気持ちをキープして弾ききることが出来た。客演のあるオーボエコンチェルトは、いままでで一番いい出来栄えだったと思う。
前半が終わると、誰もが「山場は越えた」という感覚になってくる。どの方の表情にも余裕がある。
後半は、個人的には結構気に入っているテレマンから。比較的短い曲が何曲もある組曲なので、変化があって面白い。それと、鍛冶屋のポルカだとか、モーツアルトのドイツ舞曲といった小品が続く。こういうのは笑って弾かなきゃ。
最後はチキチキバンバン。この曲はヴィオラが「ジャカジャカジャンジャン」と弾いて締める。
ドヤ顔 決まった!
終わってみると、新参者の私がいちばん楽しんでいたように思える。いいの、いいの。楽しみは減らない。思えば5月ごろに見学をさせていただいてから、アンサンブルのみなさんには本当にお世話になった。こうして自分が楽しんでいることは何よりの恩返しだと思う。今日、初めて会った賛助出演の大学生も、ずいぶん遠い田舎町で年配の人ばかりのアンサンブルに来て、最初はちょっと不安だったり戸惑いがあったりしたかもしれないけど、いっしょに楽しもう、という気持ちが伝わればステージの上がひとつになってくる。そういうのが客席にも伝わっていくと思う。
アンサンブルの練習に参加するようになった最初のうちはぜんぜん弾けなくて、どうなることかと思ったものだ。こんなに弾けないのに、温かく迎えてくださるみなさんに何とか応えようと、この数ヵ月間、睡眠時間を削って人知れず練習に勤しんだりもした。アンサンブル練習の場所が遠いのはたいへんだったが、行くのが面倒だと思ったことはなかった。こうして終わってみると、本当に来て良かったと思う。
何かを楽しもうと思うと、何かちょっとは無理をしないといけないものだが、片道2時間弱の距離を毎週というのを、この先もずっと続けるのかとなると、ちょっと気が重い。今日の本番まで、と思うからこそ続けることも出来たのだが、いったんは退会して、またやるかどうかは考えてみようと思う。
お世話になったみなさんにお礼を言って、この数ヵ月間、通い続けた街を後にした。
いい街だった。
次は移住かな?
登録:
投稿 (Atom)