しばらくバヨ会を意識した練習ばかりをしていたが、レッスンも月に2回程度は受けている。目下、バッハのドッペルを見ていただいているのだが、身の丈に合わない曲なので、牛の歩みのような進捗。もうこの曲を始めて9か月になる。
しかし、さすがに9か月も同じ曲を見ていただいていると、楽譜を見て弾くぐらいの余裕は出てきた。あれっ、と思われるかもしれないが、私の場合、余裕がないと楽譜が見られない。まず暗譜ありき。無意識に指が動くところまで弾き込まないと曲が弾けないのだ。そりゃ、ドッペル9か月続けても卒業できないはずだ。
ご指導いただくことは相変わらずで、とにかく移弦が下手。右肘が使えていなくて、右手首で捏ねるように移弦している。だから移弦の時に余計な音が出るし、アップボウとダウンボウの音色が一定にならない。リズムも軽快さに欠いている。移弦を繰り返しながら、スタッカート気味にリズムを刻むところで、いちいち弓が弦から離れるのだが、それは肘が使えていないから。全ての原因は右肘にあるようだ。
曲を弾く練習をしていると、いちおう弾けるところよりも弾けないところをなんとかすることに傾注しがちなのだが、ちょっと方針を変えて、なんとなく弾けているところをちゃんと弾けるようにすることにもっと傾倒しないといけないように思う。
特に前半はもうすっかり暗譜できているのだが、楽譜を見ないで弾いていたら、レッスンのたびに先生が楽譜に書き込まれる注意が活かされない。いや、そもそも楽譜を見ないで弾けるというのと、暗譜するというのは違うのだろう。いまの状態は、カラオケで歌詞をみなくても歌えるようになったのと同じ。「聞き覚え」ならぬ「弾き覚え」状態ではないのか。
そんなわけで、当面の練習課題は「楽譜を見る」ということかな。
2013年5月26日日曜日
ドビュッシーとブラームス
先週のことだが、久しぶりにコンサートを聴いてきた。本格的なものは何年振りだろうか。子供がいるとなかなか聴きに行けないものなのだが、そろそろこういうのも再開したいところだ。これまでは、バロックが中心だったのだが、今回は、モーツアルト、ドビュッシー、ブラームスというプログラム。半世紀近く続けて活動されてきた弦楽四重奏団の引退公演ということで、いつもバヨ会に来てくださる方からお誘いいただいた。
日本の弦楽四重奏団としては「老舗」ともいえる伝統ある楽団で、お誘いいただいた方も含めて、「追っかけ」みたいなファンも多いようなのだが、恥ずかしながら、私はこれまで存じ上げなかった。お誘いをいただいてから、YouTubeで予習をしたりしていたのだが、普段バロックばかり聴いている私としては聴き慣れない曲目ばかりで、不慣れから肩肘に力が入りそうな感じがしていたのだが。
実際に聴いてみるととても楽しかった。音楽を聴くといつも思うのだけれど、生で聴くと弾いている人の気持ちが伝わってくるように思う。例えば、弾いている人が「どうだ、こんなに難しいんだぞ」という気持ちで弾けば肩肘が力むし、緊張していれば聴く人も緊張する。この日の演奏は、きっと、これまでの演奏活動に悔いなし、という晴れ晴れとした気持ちで、ひとつひとつの音を噛みしめるように、愛おしむように、何かを懐かしむように弾いておられたのではないかと思う。
ヴィオラがとてもいいよ
と訊いていたのだけれど、これもその言葉に違わぬ演奏だった。ヴァイオリンにもチェロにも出せない深い音が、こじんまりとした、けれど響きのいいホールに、染み込んでいくように鳴る。まるで、ホールが鳴っているようだった。
曲目は、最初に申しあげたとおり、普段あまり聴かないジャンルで、まるで現代音楽のような感じさえしたのだけれど、いままでとは違う世界のようで、そういう意味で新鮮だった。いっしょに聴きにいった方の中には、こういうのをよく聴かれる方もおられ、
いかにもドビュッシーって感じですね
と仰っておられたので、たぶん、ドビュッシーはドビュッシーらしく、ブラームスはブラームスらしい曲だったのだろう。
表現されているものが、バロック音楽よりも複雑で、情景を思い浮かべながら聴く、というものではないのだが、聴きなれない私でも、展開の面白さとか、格好良さとか、そういうのは分かったし、最後まで楽しかった。
演奏が終わってロビーに出ると、大勢の人がCDやプログラムへのサインを求めて列を作っていた。ご多分に漏れず、私もCDを購入してその列に加わり、最後はヴィオラを弾いておられた方に握手をしていただいた。
これで、ちょっとヴィオラが上手になった気がするのは気の所為だろうか。
日本の弦楽四重奏団としては「老舗」ともいえる伝統ある楽団で、お誘いいただいた方も含めて、「追っかけ」みたいなファンも多いようなのだが、恥ずかしながら、私はこれまで存じ上げなかった。お誘いをいただいてから、YouTubeで予習をしたりしていたのだが、普段バロックばかり聴いている私としては聴き慣れない曲目ばかりで、不慣れから肩肘に力が入りそうな感じがしていたのだが。
実際に聴いてみるととても楽しかった。音楽を聴くといつも思うのだけれど、生で聴くと弾いている人の気持ちが伝わってくるように思う。例えば、弾いている人が「どうだ、こんなに難しいんだぞ」という気持ちで弾けば肩肘が力むし、緊張していれば聴く人も緊張する。この日の演奏は、きっと、これまでの演奏活動に悔いなし、という晴れ晴れとした気持ちで、ひとつひとつの音を噛みしめるように、愛おしむように、何かを懐かしむように弾いておられたのではないかと思う。
ヴィオラがとてもいいよ
と訊いていたのだけれど、これもその言葉に違わぬ演奏だった。ヴァイオリンにもチェロにも出せない深い音が、こじんまりとした、けれど響きのいいホールに、染み込んでいくように鳴る。まるで、ホールが鳴っているようだった。
曲目は、最初に申しあげたとおり、普段あまり聴かないジャンルで、まるで現代音楽のような感じさえしたのだけれど、いままでとは違う世界のようで、そういう意味で新鮮だった。いっしょに聴きにいった方の中には、こういうのをよく聴かれる方もおられ、
いかにもドビュッシーって感じですね
と仰っておられたので、たぶん、ドビュッシーはドビュッシーらしく、ブラームスはブラームスらしい曲だったのだろう。
表現されているものが、バロック音楽よりも複雑で、情景を思い浮かべながら聴く、というものではないのだが、聴きなれない私でも、展開の面白さとか、格好良さとか、そういうのは分かったし、最後まで楽しかった。
演奏が終わってロビーに出ると、大勢の人がCDやプログラムへのサインを求めて列を作っていた。ご多分に漏れず、私もCDを購入してその列に加わり、最後はヴィオラを弾いておられた方に握手をしていただいた。
これで、ちょっとヴィオラが上手になった気がするのは気の所為だろうか。
2013年5月19日日曜日
アンサンブル
私のように大人になってからヴァイオリンを始めるような者はかなり奇特だろうと思っていたのだが、実は結構大勢いらっしゃるということが、こうしてネットをしていてわかった。数年前からそういう方たちと「バヨ会」と称してはアンサンブルごっこをするようになった。今日は、私の住んでいる街に、九州を除く3大陸7府県から9人の方にお集まりいただき、朝早くから夜まで、途中、食事会や茶話会を交えながらヴァイオリンを弾き続けた。
弦楽器というのは、もちろん無伴奏のソロの曲もあるのだけれど、合奏してこそ楽しい楽器だと思う。いつかどこかのステージで弾くとか、そういう目標は何もないのだけれど(というか、私がいる限りはそのレベルに達するのは大変だと思う)、ヴィオラだけ弾いていたら「なんのこっちゃ」というような奇怪なメロディが、ハモらせてみてきれいに調和したときは
ぞくっ
とくるもの。これを味わって以来、病み付きになってしまっている。
というよりも、これを味わいたいがためにヴィオラを始めたようなものだ。
最初の頃は歌謡曲だとかそういったものを簡単にアレンジしたものばかりだったけれど、最近ではバロック音楽のちょいと難しい曲も合わせられるようになった。こういう会があると、ちゃんと弾けるようにしなきゃ、と練習にも熱が入るし、実際に練習して上手くハモるとまた楽しいから、また練習しようと思う。
今日はホントに楽しかった。
弦楽器というのは、もちろん無伴奏のソロの曲もあるのだけれど、合奏してこそ楽しい楽器だと思う。いつかどこかのステージで弾くとか、そういう目標は何もないのだけれど(というか、私がいる限りはそのレベルに達するのは大変だと思う)、ヴィオラだけ弾いていたら「なんのこっちゃ」というような奇怪なメロディが、ハモらせてみてきれいに調和したときは
ぞくっ
とくるもの。これを味わって以来、病み付きになってしまっている。
というよりも、これを味わいたいがためにヴィオラを始めたようなものだ。
最初の頃は歌謡曲だとかそういったものを簡単にアレンジしたものばかりだったけれど、最近ではバロック音楽のちょいと難しい曲も合わせられるようになった。こういう会があると、ちゃんと弾けるようにしなきゃ、と練習にも熱が入るし、実際に練習して上手くハモるとまた楽しいから、また練習しようと思う。
今日はホントに楽しかった。
2013年5月5日日曜日
J.S.バッハの魅力
クラシック音楽と言っても数百年の歴史があるもので、例えば、モーツアルトとチャイコフスキーがそれぞれ活躍した時代には約100年の違いがある。キャンディーズとAKB48より年代が開いているのだ。チャイコフスキーの時代には、モーツアルトの音楽を「古典」と読んで、そこから普遍的な音楽の価値を学びつつも、それとは違う新しい音楽の世界を創ろうとしてきたのに違いない。そうやって新しい価値が生み出されたからこそ、その人たちの名前が歴史に刻まれ、いまに残っているのだと思う。
さてさて、最初の発表会とその次が続けてヴィヴァルディで、バヨ会でもヴィヴァルディの「調和の霊感」をやったりしているので、ヴィヴァルディさんの気心は随分分かるようになってきた。最初の発表会で弾いた「調和の霊感」6番イ短調第一楽章(ヴァイオリンの教本によく出てくる「ヴィヴァルディのイ短調」ってやつです)を弾き始めるときに、その時の先生から
といわれた意味が何となく分かる。パターンがなんとなく似ているのだ。小室哲也のようなものなのだろうか。
それが最近では、レッスンで見ていただいているのはバッハのドッペル。それが終わったら見ていただこうと思っているのが、ヴィオラで弾くバッハ無伴奏チェロ組曲1番のプレリュード。バヨ会の課題曲にも、バッハの「フーガの技法」が出てきて、なんだかバッハさんと急にご縁が出来てきた。このバッハさんが、肖像画のイメージ通り、また気難しい人なのだ。楽譜だけ見ると簡単そうに見える曲でさえ簡単には弾かせてくれない。
バッハの作品にみられる特徴は
ヴァイオリンの教本にもある曲で、子供が真面目に数年レッスンを受けて弾くぐらいのレベルだから、難易度もかなり高い。楽譜を見てもすぐに弾ける気にはなれないのだが、それに比べると、最近、バヨ会の課題曲になった「フーガの技法」は、楽譜は簡単そう。ところが、弾いてみるとこれが結構、難易度が高い。そもそもフーガというのは、
ということらしいのだが、具体的にいうとこうなる。
二分音符ばかり並んでいて楽そうに見えるのだが、実際この動画に合わせて歌うことすら難しい。
さてさて、最初の発表会とその次が続けてヴィヴァルディで、バヨ会でもヴィヴァルディの「調和の霊感」をやったりしているので、ヴィヴァルディさんの気心は随分分かるようになってきた。最初の発表会で弾いた「調和の霊感」6番イ短調第一楽章(ヴァイオリンの教本によく出てくる「ヴィヴァルディのイ短調」ってやつです)を弾き始めるときに、その時の先生から
この曲が弾けると、ヴィヴァルディが作曲した数百曲のコンチェルトの半分は弾けたも同然です。
といわれた意味が何となく分かる。パターンがなんとなく似ているのだ。小室哲也のようなものなのだろうか。
それが最近では、レッスンで見ていただいているのはバッハのドッペル。それが終わったら見ていただこうと思っているのが、ヴィオラで弾くバッハ無伴奏チェロ組曲1番のプレリュード。バヨ会の課題曲にも、バッハの「フーガの技法」が出てきて、なんだかバッハさんと急にご縁が出来てきた。このバッハさんが、肖像画のイメージ通り、また気難しい人なのだ。楽譜だけ見ると簡単そうに見える曲でさえ簡単には弾かせてくれない。
バッハの作品にみられる特徴は
その様式は、通奏低音による和声の充填を基礎とした対位法的音楽という、バロック音楽に共通して見られるものであるが、特に対位法的要素を重んじる傾向は強く、当時までに存在した音楽語法を集大成し、さらにそれを極限まで洗練進化させたものである。それって、こういうことかしら?
http://ja.wikipedia.org/wiki/ 「ヨハン セバスチャン バッハ」
最初に一つの声部が旋律(フーガでは最初の声部のそれを主唱という)を提示する(そのあと、結句と呼ばれる短い自由な経過句が挿入されるのが普通である)。
主唱が終わったら、別の声部で主唱を繰り返す。これを応唱という。このとき、基本的に全体を5度上げるないし4度下げる(正応)。ただし、その中で、属音は、原則として5度上げずに4度上げて(ないし5度下げて)主音にする(変応(へんのう))。これは、主音と属音を入れ替えることが求められるためである。
バロック初期にはリチェルカーレ、ファンタジアなど様々な対位法的な器楽曲が存在したが、後にそれらは一括してフーガと呼ばれるようになった。また前奏曲やトッカータなど即興的作品の一部として挿入されていた対位法的な部分が次第に拡大され、1つの楽章として確立したものもフーガと呼ばれるようになった。
あれ、あれ、と思っているうちにどこ弾いているのかわからなくなってしまう。肖像画の気難しい顔で、
お前には10年早いと言われているように思えるのだが・・・。
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